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2008年8月 7日 (木)

石垣島編・part2


和坊放浪記・石垣島編part2



 項目

■南夢(みなみのゆめ)楽園キャンプ場
  3日目:5月24日(火) 晴のち雨   (白保探索)
  4日目:5月25日(水) 雨のち曇   (夏用テントに張替)
  5日目:5月26日(木) 晴      (御神崎:うがんざき散策)
  6日目:5月27日(金) 晴一時小雨  (夕日は最高)
  7日目:5月28日(土) 晴一時小雨  (公園散策)
  8日目:5月29日(日) 雨のち晴   (星空観察)
  星空
  北極星の見つけ方
  9日目:5月30日(月) 晴      (読書三昧)
 10日目:5月31日(火) 晴      (テント移動)
 11日目:6月 1日(水) 晴のち雨   (読書三昧)
 12日目:6月 2日(木) 晴のち時々小雨(原因不明のパンク)
 13日目:6月 3日(金) 曇のち大雨  (犯人は石垣島空港ガードマン?)
※本文中赤字は写真あり
写真

________________________________________


■南夢(みなみのゆめ)楽園キャンプ場


 3日目:5月24日(火) 晴のち雨  (白保散策)

 昨夜は、夜中に雨が降って外は涼しいが、テントの中は暑くて最悪。今日こそ、両面メッシュのテントを購入しなければ・・・

 6時に起床して、パンとコーヒーで朝食を済ませてから、観音崎公園東屋まで散歩に行き、ストレッチをする。

 8時にキャンプ場を出て直のバス停に、女性2人が居たので、何かトラブルでもと思い声を掛けるが、市街地に行く為のバス待ちと判ったので、挨拶をして市街地に向かう。

 空港近くのメイクマン(ホームセンター)に行くが、時間が早いので、国道390号(注1)を走り、大浜小学校隣に在る「オヤケアカハチの碑(注2)」と大浜公園に在る明和の大津波(注3)により打ち上げられた「津波石」と慰霊碑を見て、国の天然記念物に指定されている、宮良川のマングローブ(ヒルギ林)を宮良橋から見学してから、白保の集落へ。

 白保は、サンゴ礁(注4)で有名だが、国道390号左手に在る小学校や集落の佇まいが気に入り、白保バス亭前から集落内に入ると、手前に嘉手苅御嶽、突き当たりの浜側に真謝御嶽があり、その間に神の道(カンヌミチ)と呼ばれる道が交差している。

 その、神の道(カンヌミチ)の先集落の外れに、波照間御嶽(アスクオン注5)。さらに、その奥に、多原御嶽(タバルオン)があった。

 特に、集落の1番外れに在る、多原御嶽(タバルオン)は、一種独特な雰囲気を醸(かも)し出し、異様な霊気さえ感じる幻想的な拝所で、大変気に入った。

 御嶽を参拝して、海岸沿いを散策していると、林の中に柳田国男歌碑(注6)の案内板があったので見学してから帰途に着く。

 朝立ち寄ったメイクマンで、2か所がメッシュになっているテント(西表島ミトレアキャンプ場の“おたく”こと夏目氏が使用していたのと同一)を¥4,980で購入する。

 メイクマンの外に出ると、雨が降っている。小降りになるまで雨宿りをしてから、楽園キャンプ場に帰る。

 キャンプ場に帰り、夕食の支度中に突然の大雨。雷を伴う滝のような雨。ワクワクしてくる。何を隠そう雷や台風は強烈なほど心がうきうきしてくる癖がある。

 楽園キャンプ場炊事場兼休憩所はビニールの囲いがあり、雨は大丈夫であるが、足元は川の様な状態になっている。でも、雨が止めば直ぐに水が引く。今日は、大雨が降っては、止んで、お日さんが出ると云った塩梅。

 夕方に、天気が安定したので、何時もの様に、観音崎岬東屋に泡盛持参で夕涼み。東屋には、中年女性2人がいた。今朝、白保に出発時バス停で挨拶をした女性達だった。女性は北海道出身で、大阪、神戸で生活した後、現在は名古屋と名張に住んでおり、3日間の旅行を楽しんでいるとの事。3人で宴会をする。
 
※1:国道390号
この国道390号は石垣島から海を隔てて、宮古島へと続き、さらに沖縄本島の那覇まで通じている。
注2:オヤケアカハチ
琉球王朝の最盛期「尚真王」の時代、琉球王朝に抵抗して八重山地方で立ち上がった英雄として語り継がれている「オヤケアカハチ」は、波照間島の出身で、石垣島南東部の案司(地方豪族)となり、大浜のフルスト原遺跡(城=グスク)を拠点としていた。
注3:明和の大津波
1771年〔明和8〕年4月24日午前8時頃、八重山・宮古両諸島を襲った津波。低平な珊瑚礁の島々は三回も繰り返した大波に蹂躪され、未曾有の惨害を被った。
地震の規模はM7.4〔参考までに関東大震災はM7.8〕、震源地は石垣島の南南東40キロといわれている。災害は石垣島の東面と南面で激甚を極め、宮良村で海抜85.4メートル、白保村で60メートル、大浜村で44.2メートル、伊原間で32.7メートル、平得村で26メートル、登野城村で12.2メートル、新川村で8.2メートルの波高を記録し、島の四か所で波が横断した。
石垣島では真栄里・大浜・宮良・白保を含む八村が全壊し、石垣島の人口は、津波前で17,394名、津波後は8,910名と48%の人が死亡または行方不明となった。大浜では、当時の大浜の人口は、津波前で男670名、女732名の計1,402名、津波後での死亡行方不明者を差し引いた生存者数は、男98名、女17名の計115名で、実に91.8%の人口を失い、人口が12分の1に減少する壊滅的な被害をうけ、その後、波照間島や黒島等からの移住書が入り、現在に至っている。((石垣商工会ホームページより)
注4:白保サンゴ礁
沖縄県石垣島東部にある石垣市白保地区の海岸に沿って続いている、南北約10kmで、最大幅約1kmにわたって広がる裾礁です。
この白保サンゴ礁には、世界有数の規模を誇るとともに、北半球全体をみても最大といわれる、アオサンゴの大群落が広がっている。それ以外でも、ハマサンゴの巨大な群落、マイクロアトール、ユビエダハマサンゴの群落が分布し、30属70種以上の造礁サンゴの生息地である。
注5:波照間御嶽(アスクオン)
白保村では、1713年に波照間島から300人余の強制移住があったが、1771年の「明和の大津波」で白保村は壊滅状態(1,574人の内28人が生き残る)になり、白保村再建の為に、又も波照間島から418人が強制移住した。その時の波照間島民が、郷土の「阿底御嶽」の神を分神して祀り、守護神として崇拝してきた御嶽を云う。
注6:柳田国男歌碑
日本民俗学の創始者柳田国男が日本文化解明の旅で石垣島を訪れてから80年になる節目を記念して石垣市白保に歌碑を建立、2001年12月16日、歌碑の除幕式と記念式典が開かれた。柳田家親族の柳田富美子さんや民俗学者の谷川健一さんのほか、地域住民らが参加して歌碑建立を祝った。
東京朝日新聞社客員として1922年、石垣島を訪れた柳田は「あらはまの まさごにまじるたから貝 むなしき名さへ なほうもれつつ」と詠み、地元で創刊した八重山新報に掲載された。この旅は、日本民族は南方からの渡来と説く柳田晩年の大作「海上の道」(柳田はヤシの実が南方から漂着するのをヒントにして、日本人の祖先たちもまた南方より渡り住むようになったと考察した)につながっていった。歌碑にはこの和歌が刻まれている。

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 4日目:5月25日(水) 雨のち曇  (夏用テントに張替)

 昨夜は、中年女性2人組と9時過ぎまで話をしてから、テントサイトに帰り就寝。暫くしてから大雨になった。

 今朝も、パラパラ雨が降っていたが、朝食時には止んでいた。今日は、昨日買ったテントに張替予定。

 ホームセンターで、アンダーシート用のマットを買ってから、石垣島離島桟橋に行く。

 受付で、一昨日訪問した竹富島のゆぶら館で来客者帳に記帳した時、ゆぶら館のボールペンを持って来てしまっていたので、ボールペンを竹富島のゆぶら館への返却依頼をして外に出ると、自転車で日本一周中の青年から、「西表島や与那国島で評判を聞いた」と話し掛けられ、しばらく旅行談義をする。
 また、楽園キャンプ場の隣組の「神戸の人」にも会い、写真を撮ってもらう。

 一旦、楽園キャンプ場に帰り、テントの張替をしてする。

 夕方観音崎岬東屋に行き、名古屋からの工作機械関係の商社マンと話をしながら、夕陽を見ていたが、雲が厚く、早めにテントサイトに引き上げる。

 テントサイトの隣組を交え、中年3人組で酒盛りをする。

 昼間離島桟橋で写真を撮ってくれた人は、神戸市垂水区の人で、“野々爺”と名乗る。“野々爺”は、50ccの単車の前後左右に荷物を満載し、毎年南西諸島を訪れている、 自作の横笛で“野々爺”のテーマソングを吹く、不思議な老人。

 もう1人は、楽園キャンプ場で“野々爺”と知り合い、毎年楽園キャンプ場で落ち合っている所沢から来た中年男性だった。

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 5日目:5月26日(木) 晴  (御神崎:うがんざき散策)

 昨夜も暑かった。これまでは高価な山岳用テントで、風通しが悪く、テント内は酷暑状態だったが、両面メッシュのテントに張り替えた昨夜は、何と、寒いぐらい。少し大袈裟だが、広くて風通しが良く、最高の状態で熟睡できた。テントの値段は10分の1なのに。もっと早く張替えていればと後悔する。南の島は両面メッシュのテントに限る。

 今朝は、6時に起床、朝食後、御神崎(うがんざき)に向け出発。楽園キャンプ場を出て、富崎観音堂(注7)唐人墓(注8)を経由し、県道79号に入り、名蔵大橋を通って名蔵湾沿いから隠れた素潜りのポイント屋良部崎周り(崎枝半島を時計回り)で行く。

 御神崎(うがんざき)は、石垣島最北端の平久保灯台と並ぶ海の景勝地で、夕日の名所でもある。現場の説明板には(おがんざき)と表記されているが、道路標識は(uganzaki:うがんざき)となっている。離島情報も(うがんざき)どちらが正解か?まぁどちらでもよいが・・・

 展望台に登る道の右手は断崖絶壁になっており、荒々しい岩礁地帯とサンゴ礁が作り出す雄大な景色とコバルトブルーの美しい海面が現れ、沖の彼方には西表島が見えた。

 展望台を降りて左手の芝生の道の緑地には、八重山丸遭難事故の慰霊碑(昭和27年に遭難死した八重山丸の乗組員35名の供養碑)と観音像が建てられている。この緑地には、テッポウユリがたくさん咲き(4~5月開花)、とてもきれいな所でもあった。

 帰りは、崎枝湾経由で、県道79号に出て、来た道を引き返す。

 楽園キャンプ場に帰って、洗濯をしてから、古本屋で神仏関連の本3冊を購入。夕方恒例になってきた、観音崎岬東屋に夕日を見に行く。

 今日行った御神崎は、観光パンフレット等で、夕日を見る絶好のポイントとして紹介されているが、個人的には、ここの東屋で酒を飲みながら、ゆったりとした気分で夕日を見るのが気に入っている。

 今日も、若い女の子が1人東屋のコンクリート製の椅子に座っていた。大阪弁の女の子で、大正区(大阪市)の沖縄料理店で働いていたが、1か月前から、近くのペンション「KATU」でヘルパーとして稼働。今日は休みで、市街地に遊びに行ったが面白くないので、夕日を見に来たらしい。

 女の子と話をしているところに、大型犬を連れた男性が来た。男性は堺市(大阪府)出身で、南の島に住みたくて、住宅を探していたところ、犬と居住できるマンションが石垣島にあったので、当地に来た・・・。

 3人で、酒を飲みながら夕日を見る。9時過ぎにテントサイトに帰り就寝。

注7:富崎観音堂
1701年に役人西表直香が航海の安全を祈願して建立された。沢山の石灯篭が目につく,初詣には多くの参拝客で賑わうが,普段はひっそりしている。
注8:唐人墓
青空に映えるカラフルな唐人の墓。1852年に、アメリカに渡航中の中国人労働者が、船員からの虐待に耐えかね石垣島に下船した。その後、派遣された英国軍により処刑された128人を祀る。悲惨な過去の出来事ですが、墓は龍や船、神様?などカラフルで明るい印象の墓です。

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 6日目:5月27日(金) 晴一時小雨  (夕日は最高)

 朝からタオルケット等の洗濯をしてから、KMAX(Kマックス:ホームセンター)で、老眼鏡を買ってから、サザンゲートブリッジを渡って、八島公園に行く。

 サザンゲートブリッジは、石垣港離島桟橋の対岸にある、現在開発中の人工島にかかる大きな橋で、橋上から市街地が一望でき、夕日も素晴らしいと聞く。

 人口島に在る八島公園は広大で、トイレや東屋も設置されており、穴場的存在なのではないかと感じた。公園で弁当とビールで昼食をしてから、楽園キャンプ場に帰る。

 キャンプ場で早めの夕食を摂っている途中、雨がパラパラ降ってきたが、暫くして止んだので、観音崎岬東屋に行って夕日観賞。

 水平線の彼方に沈みゆく夕日の素晴らしさは云うに及ばず、時々刻々と変化してゆく雲のまにまに沈みゆく夕日を見ていると、心が晴れ渡ると同時に、大地(地球)がすごい速度で動いているのを実感する。

 夕日観賞は止められない!!

夕日1 夕日2 夕日3

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 7日目:5月28日(土) 晴一時小雨  (公園散策)

 4時に起床。朝食後、観音崎公園の東屋で読書と思い訪れるが、灯台の工事が始まっており、コンクリートを粉砕する機械音が煩く早々に退散。

 テントサイトは暑いので、楽園キャンプ場から、市街地方面に走ると、右側に在る新川児童公園に行く。

 新川児童公園は、遊具施設や、数か所の東屋以外に、駐車場やトイレの設備のある、海に面した前面芝生の広い公園である。

 隣には、ホテル・サンセットビュー(フサキ・リゾートの別館)。道路を隔てた向かいには、真喜良(まきら)小学校や郵便局、小さなスーパーも在る何かと便利の良い所である。

 今日は土曜日の精か、地元の児童、先生に引率された児童、親子連れ等多数遊んでいた。地元の小学2年の男子2人と3年の女子が、ぶんぶん虫を捕まえては羽の一部を千切って放すと云った遊び(?)をしていた。学校で流行っているらしい。

 暫く子供達や先生、親御さんと話をしてから、石垣図書館前の新栄公園に移動して、弁当、ビールで昼食。

 この公園も、広くて整備が行き届いている。公園に居た大坂で20年間働いていたと云う老人と話をしたり、公園内にある、「憲法9条の碑(戦争の放棄)」、「ほほえみの鐘」、「世界平和の鐘(鐘つき堂)」を見学してから、キャンプサイトに帰る。

 夕方、日課の夕日観賞。今日の東屋には、地元の女性と結婚し、石垣島に住んで20年と云う62歳の男性が居た。

 この男性は、「石垣空港はYS11時代の短い滑走路を使用して居る為、ジェット機も特別仕様で、パイロットもベテラン揃い・・・」「地元の人間はよそ者に冷たい・・・」等々一方的にまくし立てて帰って行った。

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 8日目:5月29日(日) 雨のち晴  (星空観察)

 朝方、雨が降っていたが、6時過ぎには止んだので、朝食後、新川児童公園の東屋で読書。

 新川児童公園から堤防沿いに道が通っているのを発見。その道は、新川川に架かる橋の手前で、県道に合流していた。

 橋の近くに在る24時間営業のマックスバリューで、弁当とビール。古本屋で本を買ってから、楽園キャンプ場に帰る。

 2時過ぎから夕方まで小雨が続くが、夕方には晴れてきたので、夕日観賞に行く。東屋には、数日前にあった、大型犬を連れている、大阪は堺出身の男性が来ていた。

 今夜は、雨上がりで空気中の埃が洗い流されたのか、素晴らしい星空が現れた。外にシートを敷いて星空観察をする。

 まず、大きなひしゃくの形をした7つの星の連なる北斗七星がすぐに見つかった。ひしゃくの受けのはじめの2つの星を結び、その長さの約5倍先に北極星(注9)が。

 そして、北斗七星とほぼ同じ距離の反対側に5個の星がW字形に並んでいる、大きく明るい星座のカシオペア座を見つける。

 また、南の地平線から立ち上るように淡い星の集まりが、ミルクを流した流れのようにも驚くほどくっきりと見えるが、これが天の川で、その中と左右に3個の明るい一等星が確認できた。

 一番低い位置、南の方にある星がわし座のアルタイル(彦星)。アルタイルの右上にあるのがこと座のベガ(織姫星)。アルタイルの左上、ベガの左にあるのがはくちょう座のデネブで、この三つの星を結ぶ三角形が「夏の大三角形」で、簡単に見つけられた。

 その他、 南の地平線近くに見える赤っぽい明るい星、さそり座のアンタレスやアンドロメ座、ベガサスの四角形等を観察した。

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 星空(夏の星座)
夏の星座

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 北極星の見つけ方

北斗七星orカシオペア座北斗七星からたどる。
ひしゃく形をした北斗七星(北斗七星は星座ではなく、おおぐま座の一部の明るい星7つを指して北斗七星と呼んでいいる)のひしゃくの部分の先端にある2星を使って、その長さ(ab)の約5倍(ab×5)先に北極星がある。
カシオペア座(アルファベットのWの字の形の星座)からたどる。
大きく明るい星座で、5個の星がW字形に並んでいるのがこの星座で、北極星を中心にして北斗七星とほぼ同じ距離の反対側に位置し、Wの字の端の2辺(ab、a”b”)を延長した直線の交点(c)から、カシオペア座の中心の星(d)を結び、その長さ(cd)の約5倍先(cd×5)に北極星があ。

夏の大三角形夏の大三角形をもとに北極星を探す。
夏の大三角形を確認し、デネブとベガを軸として夏の大三角形をひっくり返すとほぼ反対側に北極星がある。








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注9:北極星(ポラリス)
北極星は、地球の自転軸を北極側に延長した線上(天の北極)に位置している。そのため地球上から見ると、北極星はほとんど動かず、北の空の星は北極星の周りを回転しているように見える。そのような理由から、北極星は天測航行をする際に正確な測定をするための固定点となり得る。この事実は古くから知られており、後期バビロニア時代の星座絵図にはポラリスが描かれていた。※フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)より
位置
北極星といえばその名のとおり、いつも真北の方角で2等星として輝いて見え、高度は観測地の緯度とほぼ同じになる(沖縄で25度、鹿児島で30度、大阪や東京で35度、青森で40度くらいを目安)。北極星はこぐま座の一部ですが、こぐま座にはもうひとつコカブという別の2等星があるので、注意すること。
移動する北極星
地球の自転軸の方向が一定ならば北極星も半永久的に北極星であり続けるが、地球の自転軸は一定しておらず、2万6千年という長い周期で方向を変えており、今はたまたま北極星の方向を向いているだけである。そのため、紀元前千8百年にはツバーンが北極星でしたし、8千3百年後にはデネブが、1万3千年後にはベガが北極星になる。
なお、ツバーンはりゅう座の中にあり、紀元前3000年頃にできたエジプトのあるピラミッドでは、遺体を安置した部屋から外部へ通じる通路の方向は、ツバーンの方向に向けた通路ではないかという説もある。
天の目印の北極星
夜空の星座は、季節や時間が違えば見える位置や方向が違ってくるので、特定の星座を使って方向を知ることは難しくなるが、北極星は地球の自転軸の延長方向にあるため、季節や時間によらず、いつも真北の方角に見えている。だから、北極星を目印にすれば、いつでも方角を知ることができる。

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 9日目:5月30日(月) 晴  (読書三昧)

 今日は、午前中は観音崎公園で、昼からは新川児童公園で読書三昧。夕方からは夕日観賞。

 観音崎東屋で、昨年は西表島のダイビングショップでヘルパーとして、今年は、石垣の塩工場で、自給620円でアルバイトをする為石垣島にやってきたと云う沖縄中毒の京都の女性と最近よく来る大型犬を連れた堺の男性と話をしてから、キャンプサイトに帰る。

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 10日目:5月31日(火) 晴  (テント移動)

 キャンプ場の隣人、所沢の男性が今日出発する。隣のサイトが空くのでそこに引越すことにした。

 今までのサイトは、元々あったビニールハウスの骨組みにシートを被せ屋根にして、その下にテントを張っていたので、上からの雨対策は万全だったが、強い雨が降ると地面が川状態になってしまう為、テント下に雨水が溜まって、結果テント内に水が入ると云ったアクシデントが発生していた。

 今回これらの問題点を解消する為、空いたサイトに、パレット(輸送や物流などに使う、荷物を載せる台になるすのこ)4個を並べ、その上にテントを設営することにした。

 テントの移設が終わってから、全国的な人気を誇るブランドにまで成長した、手作り館の海人(うみんちゅう)Tシャツのキズ物品の販売ショップに行く。

 ショップは、730交差点から、桟橋通りを北進、石垣島の中継地としてお世話になった、民宿・旅の宿から、100m程北に在る小さな店で、ワゴンに入れられ売っており、定価¥3,000の海人Tシャツを、¥980で購入する。

 海人Tシャツを買ってから、近くに在る、コンビニ・ホットスパー石垣大川店前で、塩石鹸を製造している中年の女性から話しかけられ、困ったことがあれば力になると、名前と電話番号を教えられ、アイスクリームを御馳走になる。

 この女性から石垣島の情報を聞いたり、世間話をしてからキャンプ場に帰る。

 今日は、夕日は見られなかったが、楽園キャンプ場見学の際話をした「カワサキW650」の単車に乗る大分の青年(西表島ミトレアキャンプ場でも一緒だった)が来て話をする。

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 11日目:6月1日(水) 晴のち雨  (読書三昧)

 朝食後、観音崎岬東屋で読書。雨が強くなってきたので、公園の大きな東屋に移動して雨宿り。

 雨が上がってから、石垣島図書館に行って、沖縄地方の宗教に就いて調べる。

 外に出ると、雨が降っている。自転車は、雨ざらし。しばらく待ったが雨が止む気配はないので、合羽を着てテントサイトに帰る。

 夕方雨が止んだので、夕日を見に行くが、雲が厚くて、夕日の出る気配は全くなし。

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 12日目:6月2日(木) 晴のち時々小雨  (原因不明のパンク)

 朝の日課である、観音崎公園でストレッチをしてから、石垣空港(注10)に行く。

 石垣空港に着陸する飛行機は、逆噴射による急ブレーキがかかる為、初めての利用者はパイロットの操縦未熟と判断するらしいが、実は、石垣便のパイロットはベテラン揃いとの評判を聞いたので、着陸状態を確認する為にやって来た。

 自転車置場が無かったので、玄関に通じる道の脇に自転車を置き、展望デッキで、着陸を見学する。
 事前の評判通り、着陸とほぼ同時に逆噴射がかかり、機体はググゥと今にも折れ曲がるのではないかの迫力で急停止した。評判通りに納得して空港を後にする。

 空港玄関で手に太い棍棒のようなスタンガンを振り回しているガードマンとすれ違った。何か嫌な予感がした。

 帰途、自転車の空気がほんの少しづつ抜けていく。自転車屋が見つからないので、中古車センターでエアーを借りて入れるが、走行していると空気が抜けていく。タイヤの外観に異物は見られない。なのに空気が抜けていく。キャンプ場まで、2回自動車店で空気を入れつつ何とかキャンプ場に着いた。

 キャンプサイトで、点検すると、タイヤの内外に釘や異物は認められなかったが、チューブに2センチ程の間隔で小さな小さな穴が平行に2か所開いていた。

 普通のパンクの場合、1か所に穴が開くが、今回は、ホッチキスの針がチューブに刺さった感じ。でも、それにしては、タイヤに異物はなく、パンク穴も小さすぎる。

 取敢えずパンク修理をする。

 雨が止んだので、夕日観賞に行くが、空模様が不順なので早めに引き揚げる。

注10:石垣空港
石垣空港は、昭和18年6月旧日本軍により海軍飛行場として建設された。
昭和31年6月から民間航空による運航が開始され、その後、滑走路、エプロン等の設備がなされ、昭和43年6月YS-11型機が就航した。昭和47年度から航空法に基づき拡張整備が行われ、昭和50年5月に滑走路1,500mで供用開始された。その後、利用客の増大、機材の大型化に対応するため、滑走路、航空保安施設等を設備し、昭和54年5月には暫定ジェット空港として供用開始した。
しかし、石垣空港の滑走路は規定より短く1500m(規定では1800m以上)しか無い為、ジェット機はボーイング737しか、離着陸できない。しかも離陸時は燃料を満タンにして飛べないため東京行き等は給油のため那覇空港を経由する。また、着陸時に逆噴射による急ブレーキをかけるので物を飛ばされないよう注意しなければならない。

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 13日目:6月3日(金) 曇のち大雨  (犯人は石垣島空港ガードマン?)

 運動不足の精か体の調子が悪い。今日は運動不足解消の意味もあって、歩いて新川児童公園に行く。

 公園で読書をしてから、市街地手前の新川小学校近くの洋品店で、半ズボンをかってから、楽園キャンプ場に帰る。

 昼食後、自転車を見ると、昨日パンク修理をしたのに、空気が抜けている。穴が平行に2か所開いていたので、無理があったのかと再修理をする。

 しかし、昨日のパンク箇所に空気漏れは無いものの、他の場所に、昨日修理した時と全く同じ状態のパンク箇所(小さな穴が2か所)が見つかった。

 再度、タイヤを精査するが、異物は無い。念のため、タイヤとチューブを新品に取り換える。

 作業が終わると同時位に、雨が降ってきた。それも滝のような雨。ビールも買いに出られない。夕食は泡盛で済ます。

 改めてパンクの原因を考えるに、石垣空港の帰りに、自転車の空気が減ってきたことと、パンク穴がホッチキスの針を踏んだ時の様だが、穴そのものは小さすぎる。

 ここで、はたっと閃いた。もしかして、石垣空港玄関前で、棒状のスタンガン(護身用具・暴漢などの相手に電気ショックを与える器具)を持ったガードマンとすれ違ったが、ガードマンがスタンガンをタイヤにあてると、今回のパンク穴と同じ様な穴が開くのでは・・・

 旅先なので、確認の仕様が無いが、まず間違いないと信じている。

 通行の邪魔にならないように通路の脇に置いたつもりだが、見方によれば、違法駐輪と判断され、意地悪をされたのかもしれない。どちらにしても置いた自分が悪いと納得。自分の中で原因が分かったのでスッキリした。

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写真

写真はhttp://www.justmystage.com/home/kazubo/ 和坊流宇宙の和坊放浪記(石垣島編・part1)でご覧ください。


続く・石垣島編part3


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