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2009年4月22日 (水)

口永良部島編:part16


和坊放浪記:口永良部島編part16


平成18(2006)年・備忘録

 項目

寝待・湯治小屋
 221日目:2月5日(日) 晴      (野池散策)  禁酒8日目
 地図:寝待~野池周辺
 222日目:2月 6日(月) 曇のち雨  (フェリー太陽欠航) 禁酒9日目
 223日目:2月 7日(火) 雨のち曇  (フェリー太陽欠航・温泉掃除・しゃぶしゃぶ)
 224日目:2月 8日(水) 曇強風   (フェリー太陽含め屋久島航路欠航) 禁酒
 225日目:2月 9日(木) 曇時々晴  (温泉前工事開始) 禁酒
 226日目:2月10日(金) 雨のち曇  (買出し・禁酒解禁)
 227日目:2月11日(土) 晴のち曇  (野池登山道・千両採取)
 228日目:2月12日(日) 晴     (水汲み)
 229日目:2月13日(月) 晴     (自転車整備)
 230日目:2月14日(火) 晴     (二の瀬・貝採り)
※本文中赤字は写真あり
■今日は何の日
 2月7日:北方領土の日 地図:北方領土(千島列島)国境線・北方四島
 2月11日:建国記念日 神武天皇即位日・神武東征・建国の詔・八紘一宇、神武天皇祭
 神武東征経路図 河内湖地図・高倉山周辺地図
■注(一部写真付き)
 一等三角点、択捉島(えとろふ)、国後島(くなしり)、色丹島(しこたん)、歯舞群島(はぼまい)、得撫島(うるっぷ)、新知島(しむしる/しんしる)、占守島(しゅむしゅ)、四大節(しだいせつ)、四大節、推古天皇、瓊々杵命(ににぎのみこと)、速吸之門(はやすいのと)、崗之水門(おかのみなと)、高島宮、河内湖、青雲の白肩津(しらかたのつ)草香津(くさかつ)、茅渟(ちぬ)、名草戸畔(なぐさとべ)、荒坂津(あらさかのつ)、丹敷戸畔(にしきのとべ)、布都御魂(ふつのみたま)、八咫烏(やたがらす、やたのからす)、高倉山、国見丘(くにみのおか)、磐余邑(いわれのむら)、丹生の川上、磯城邑(しきのむら)、畝傍山(うねびやま)、橿原宮(かしはらのみや)
写真
 野池、一等三角点、三角点山、亀の手、神武天皇、神武天皇陵、橿原神宮

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寝待・湯治小屋


221日目:2月5日(日) 晴  (野池散策)  禁酒8日目

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経2返(朝・夕)、写経2巻(朝・夕)、座禅瞑想20分×2回(朝・夕)

地図 寝待~野池周辺地図
寝待~野池周辺地図
地図検索サイト;マピオン(http://www.mapion.co.jp/)を加工

 ここ口永良部島に入ってから、八段錦やチューブトレーニングは行っているが、有酸素運動不足なので、おにぎりを作って旧火山跡の野池散策に出掛ける。

 野池散策は2度目。湯治小屋から、10m程先の前原さん宅から、左手の上り坂・旧寝待線に入り、二の瀬(寝待の西の釣場)、平板(湯向の東の釣場)の各入口を通過し一周道路に出て、湯向方面に200m程行くと、谷筋のヘアピンカーブの先に、右に入る砂利道があるので、その緩やかな上りの坂道に入る。

 鹿が走り周る照葉樹林帯を過ぎ、コンクリート舗装が剥がれ、下部の砂利が表面に現われているデコボコ道を通り、釣り竿用・コサン竹の採取場の竹林を通過し、針葉樹林に変化した林道の先(一周道路から約1km)の木々に赤いテープが沢山付いている。

 その、右手に手書きで野池方面と小さな道標が架かっており、ここから、針葉樹林帯の山に入る。

 急な山肌を直線的に登るように登山道の目印の赤いテープが付いている。この周辺は千両(常緑小灌木・正月用の切花に用いられる)の自生地である。

 赤いテープを頼りに、急な坂を登り切ると、竹林に入る。緩やかな登りの竹林を過ぎると、針葉樹林に変わる。

 暫く歩くと、前方に明るい光が見えたと思うと急に展望が開け、林の中の円形ハゲの様な丸い広場に入ると、何十頭とたむろしていた鹿が一斉に逃げ去った。

 ここが、大昔の野池火山の火口底で、昔は魚が住む火口湖があったと伝えられているが、現在、水は無く天然芝生が茂っている。その広場を横断して、口永良部島の一等三角点(注1)のある三角点山に出て、持参のおにぎりを食べてから下山。寝待には14時に帰り着いた。

注1:一等三角点
三角点(さんかくてん)とは、三角測量に用いる際に経度、緯度、標高の基準になる点のことである(標高については、別途、基準となる水準点も存在する)。通常、見晴らしの良い場所に設置されるため、高山の山頂付近に設置されている場合が多い。場所によっては、公立学校などの公的建造物の屋上に設置されている場合もある。三角点には、基準となる柱石が設置され、石の頂部には十字の切り込みが刻まれ、その中心が三角点の位置であり、高さである。
柱石の破壊など機能を損ねる行為をする者は、測量法の規定により2年以下の懲役又は100万円以下の罰金に処せられる。
地図に・や△の中に・の記号で表記されているのが三角点であって、1等から4等までの種類がある。
一等三角点:設置間隔は約40km、必要に応じて補点(約25km間隔)が設置される。全国に約1千点。柱石の一辺は18cm、破壊や破損に備えて、柱石の直下には2枚の盤石も埋設されている。
二等三角点:設置間隔は約8km、全国に約5千点。柱石の一辺は15cm、破壊や破損に備えて、石の直下には盤石も埋設されている
三等三角点:設置間隔は約4km、全国に約3万2千点。柱石の一辺は15cm、破壊や破損に備えて、柱石の直下には盤石も埋設されている
現在の技術水準においては、2万5千分1地形図を作成するための位置の基準としては、以上の等級の三角点で充足される。
四等三角点:設置間隔は約2km、全国に約6万9千点。柱石の一辺は12cm、破壊や破損に備えて、柱石の直下には盤石も埋設されている
地籍調査又はこれに相当する調査の測量の基準点として、国土交通省土地・水資源局国土調査課の委任を受け、国土地理院が設置するもの。

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222日目:2月6日(月) 曇のち雨  (フェリー太陽欠航) 禁酒9日目

【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経6返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×6回(朝・昼・夕)

 今日の降水確率は午前50・午後80%で、フェリー太陽は欠航。午後からは雨で、座禅瞑想に専念する。

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223日目:2月7日(火) 雨のち曇  (フェリー太陽欠航・温泉掃除・しゃぶしゃぶ) 

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経2返(朝・昼)、写経2巻(朝・昼)、座禅瞑想20分×2回(朝・昼)

 今日は、北方領土の日(今日は何の日参照)。朝から雨が降り続いており、フェリー太陽も昨日に続き欠航。

 夕方、寝待集落の住人で、温泉清掃担当の前原さんが、温泉清掃を手伝ってほしいと訪ねて来たので、一緒に作業をする。

 清掃作業終了後、前原さん宅でしゃぶしゃぶを御馳走になり、久しぶりにビールと焼酎を飲み、8時に湯治小屋に帰る。

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224日目:2月8日(水) 曇・強風  (フェリー太陽を含む屋久島航路欠航) 禁酒

【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経6返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×6回(朝・昼・夕)

 ここ寝待温泉は、10日に1度の割合で温泉清掃があるが、清掃直後の湯船の湯は透明で、人が入るに従って乳白色に変化する。

 今朝の温泉は透きとおっており、1番風呂だった。

 温泉から上がると、早々と防災無線で、5mの高波と強風の為、フェリー太陽、フェリー屋久島2を含む全航路の欠航情報が流れた。

 今日は、座禅瞑想に専念する。

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225日目:2月9日(木) 曇時々晴  (温泉前工事開始) 禁酒

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 朝の入浴時は何ともなかった温泉だが、昼のお勤めを終えて入浴する際、温泉前は通行不可になっていたので、防波堤の外側の岩場を通り入浴する。

 いよいよ温泉横防波堤の嵩上げ工事が始まる様子。

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226日目:2月10日(金) 雨のち曇  (買出し)

【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経2返(朝・夕)、写経2巻(朝・夕)、座禅瞑想20分×2回(朝・夕)

 朝のお勤めを終え、入浴時にパラパラ降っていた雨が一時本降りになったが、短時間で止んだので、本村に買出しに出掛ける。

 郵便局でお金を引出し、Aコープで食料品を、羽生商店でビールと焼酎・三岳を買って帰る。

 禁酒10日目に、温泉清掃を手伝ったお礼に、清掃担当の前原さんのお宅でしゃぶしゃぶを御馳走になった際飲酒、その後2日間は禁酒をしたが、本日本村の買出しで酒類を買ったので、今日から禁酒の解禁をする。

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227日目:2月11日(土) 晴のち曇  (野池登山道・千両採取)

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経2返(朝・夕)、写経2巻(朝・夕)、座禅瞑想20分×2回(朝・夕)

 今日は建国記念日(今日は何の日参照)。朝のお勤めを終えてから、バッチャン連中の要望と運動不足解消を兼ねて、野池登山道入口に縁起物の千両の採取に出掛ける。

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228日目:2月12日(日) 晴  (水汲み)

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 寝待集落の簡易水道水源の状態(ゴミと泥)を見てから、飲み水は島の湧水を汲む様になっている。沸かしてから飲めば問題はないのだが、運動を兼ねているので、朝のお勤めを終えてから、大きなリュクサックに空のペットボトル(2?)6本を入れ、徒歩で田代の湧水を汲みに出掛ける。

 片道2km程の道程だが、帰りはリュクサックに水が入り負荷がかかるので、多少は運動不足に役立つのではないかと思い続けている。

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229日目:2月13日(月) 晴  (自転車整備)

【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経2返(朝・夕)、写経2巻(朝・夕)、座禅瞑想20分×2回(朝・夕)

  朝から快晴。波も無く、風も弱く、気温も高い。ここ数か月間で最高の気候。そろそろ島から脱出しなければと思う。

 取敢えず自転車の手入れをする。自転車は待避壕の中にシートで覆っているが、海の傍なので錆びだらけになっている。

 朝のお勤め後、作業を開始。終わったのは夕方。思ったより錆びの浸食が激しく時間がかかってしまった。

 昼過ぎに、神戸の姉から米を送ったとの電話があったので、出発を延期する。

 整備を終えた自転車は、待避壕から部屋の中に移す。

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230日目:2月14日(火) 晴  (二の瀬・貝採り)

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経2返(朝・夕)、写経2巻(朝・夕)、座禅瞑想20分×2回(朝・夕)

 朝のお勤めを終えてから、温泉奥の崖から、二の瀬(寝待の東側の釣場)に行き、貝(亀の手)を獲って帰り、寝待集落住人・矢野のバッチャン達に渡す。

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■今日は何の日


2月7日:北方領土の日(ほっぽうりょうどのひ)

 1980(昭和55)年に、国会の衆参両院において「北方領土の日」の設定を含む「北方領土問題の解決促進に関する決議」が全会一致で決議され、1855年(安政元年)に日本とロシア(当時は帝政ロシア)との間で最初に国境の取り決めが行われた日露和親条約が結ばれた2月7日を「北方領土の日」とすることが閣議了解によって決められた。

 北方領土とは、北海道根室半島の沖合にある、択捉島(えとろふとう注2)、国後島(くなしりとう注3)、色丹島(しこたんとう注4)、歯舞群島(はぼまいぐんとう注5)の北方四島のことで、1945(昭和20)年8月14日に日本がポツダム宣言の受諾を決定した後、同年8月28日から9月5日にかけてソ連軍は北方領土に上陸し占領。その後、現在に至るまでソ連およびそれを継承したロシアが実効支配を継続している為、日本政府が領有権を主張しているものの、一切の施政権は及んでいない。

【歴史的経緯】
■1855(安政元)年2月7日(旧暦12月21日)、伊豆・下田で帝政ロシアとの間で日露和親条約(下田条約)を締結。条約の第二条には「・・・今より後日本国と魯西亜国との境エトロプ島とウルップ島との間に在るへし、エトロプ全島は日本に属しウルップ全島夫(それ)より北の方クリル諸島は魯西亜に属すカラフト島に至りては日本国と魯西亜国との間に於いて堺を分たす是迄仕来の通たるへし・・・」つまり、両国の国境は択捉海峡(択捉島とウルップ島との間)にあり、樺太はこれまで通り「両国民の混在の地」と定義されている。
■1869(明治2)年、蝦夷地を北海道と改称。このとき国後島・択捉島の行政区分をあわせて「千島国」とし、国後郡(くなしりぐん:国後島)、択捉郡(えとろふぐん:択捉島)、振別郡(ふれべつぐん:択捉島)、紗那郡(しゃなぐん:択捉島)、蘂取郡(しべとろぐん:択捉島)の五郡を置いた。
■1875(明治8)年、日本は千島列島(得撫島:うるっぷ~占守島:しゅむしゅ迄の18の島々)をロシアから譲り受けるかわりに、樺太全島をロシアに渡す「樺太千島交換条約」を締結。
当時の行政区分で千島国と定められていた国後島・択捉島に、得撫島(うるっぷとう)から占守島(しゅむしゅとう)迄の18の島々が編入され、これまでの五郡に、得撫郡(うるっぷぐん:得撫島注6)、新知郡(しむしるぐん/しんしるぐん:新知島注7)、占守郡(しゅむしゅぐん:占守島注8)の三郡が新設・追加された。
■1941(昭和16)年12月8日:大東亜戦争(第二次世界大戦)開戦。
■1943(昭和18)年10月、モスクワにおいて米・英・ソ三国外相会談が開かれ、米国はソ連に対して、南樺太と千島列島をソ連に与える見返りに、対日参戦することを求めた。(モスクワ会談)
■同年11月、イランにおいて、米・英・ソ首脳会談が開かれ、戦勝権益の連合国間での分割、連合国の覇権におかれる戦後世界の戦略に関して幅広い協議が行われた。このなかで、米国はソ連に対して、南樺太・千島を与える見返りに、ドイツ降伏後の対日参戦を求めた。(テヘラン会談)
テヘラン会談の直前、カイロで米・英・中三国による首脳会談が開催され、日本の無条件降伏を求める宣言が採択された。(カイロ宣言)
■1945(昭和20)年2月、ソ連のヤルタで米・英・ソ首脳による「ヤルタ会談」が開かれ、日本を早期に敗北に追い込むため、ドイツ降伏の2ないし3か月後にソ連が対日参戦する見返りとして、日本の敗北後、南樺太をソ連に返還し、千島列島をソ連に引き渡すべきとした。(ヤルタ協定)
■1945(昭和20)年8月6日・9日、広島・長崎に原爆投下
■同年8月8日、ソ連は日ソ中立条約(1941・昭和16年4月締結)を破棄し対日宣戦布告。
■同年8月14日、御前会議にて、米・英・中・ソの共同宣言(ポツダム宣言)の受諾を決定、連合国にポツダム宣言受諾を通告。
■同年8月11日~8月25日、ソ連軍、南樺太に侵攻、占領。
■同年8月18日~8月31日、ソ連軍、カムチャツカ半島方面より千島列島に侵入、得撫島以北の北千島を占領。
■同年8月28日~9月1日、ソ連軍、北方領土の択捉・国後・色丹島を占領。
■同年9月2日、東京湾上の米艦ミズーリにおいて、日本側を代表して重光葵外相、梅津美治郎参謀総長、連合国を代表して連合国最高司令官のマッカーサーが「降伏文書」に署名を行い、これによって日本の降伏が確定した。この時、南樺太・千島の日本軍は極東ソ連軍に降伏することが命令され、南樺太・千島はソ連の占領地区となった。
■同年9月3日~9月5日、ソ連軍、歯舞群島を占領。
■1946(昭和21)年1月29日、GHQ指令第677号により、沖縄や小笠原・竹島・南樺太・千島列島・歯舞・色丹などの地域に対する日本の行政権が中止された。国後、択捉両島は千島の中に含まれるものとして、日本政府の政治上、行政上の権力行使の外におかれることになった。
■同年2月2日、ソ連は南樺太・千島を自国領に編入した。
※北方領土には約1万7千人の日本国民は住んでいたが、本国帰還は認められず、1946(昭和21)年12月、GHQとソ連との間で日本国民全員の引き上げが合意されてから、1949(昭和24)年7月迄にほぼ全員の日本国民が帰国した。
■1951(昭和26)年9月8日、サンフランシスコ講和条約締結。同条約第二条(C)項で「千島列島・南樺太」を放棄はしたが、歯舞、色丹は北海道の一部。国後、択捉は千島列島とは違って一度も外国の領土になったことはない。放棄した千島列島にしたところで、その帰属先を特定していない。この条約にソ連は調印していない為、ソ連との国交は回復しなかった。
■1956(昭和31)年10月19日、日ソ共同宣言(昭和31年12月12日発行・条約第20号)で日ソ間の外交関係が回復。しかし、領土については、南樺太・全千島の返還を要求したが、認められなかった為、日ソ平和条約は締結されず、締結後に歯舞群島・色丹島をソ連が日本に引き渡すと記載された条文を盛り込んだ共同宣言で決着した。その後、日ソ・日ロ間には、幾つかの共同声明や共同コミュニケがあるが、平和条約締結や領土問題での合意に至っていない。
出典: フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)

地図1:北方四島・千島列島・樺太
北方四島・千島列島・樺太地図

地図2:北方領土(歯舞群島・色丹島・国後島)
北方領土(歯舞群島・色丹島・国後島)地図

地図3:北方領土(択捉島)
北方領土(択捉島)地図
地図検索サイト;マピオン(http://www.mapion.co.jp/)を加工

注2:択捉島(えとろふとう)
全長204kmで、沖縄本島の約2.6倍あり、鳥取県に近い広さで、北方領土ではもちろん、日本でも一番大きな島。終戦までは、留別(るべつ)村、紗那(しゃな)村、蘂取(しべとろ)村の三つの村があり、739世帯、3,608人の日本人が住んでいた。現在は、紗那(しゃな)を中心に約6,400人のロシア人が住んでいる。
【島内案内】
内岡(なよか):ビザなし交流で訪問する際、この港から上陸する。
紗那(しゃな): 島で一番大きい街で、学校、病院、ホテルのほか、日本の緊急人道支援で設置した診療所等がある。
単冠湾(ひとかっぷわん):大東亜(太平洋)戦争開戦時、ハワイの真珠湾を攻撃するため、日本海軍連合艦隊が、出撃した港。
天寧(てんねい):現在ある全長2,200mの滑走路を持つ民間用の飛行場は、戦前、日本軍によって建設されたもの。
写真:紗那(しゃな)市街地地図、紗那(しゃな)
注3:国後島(くなしりとう)
北海道の野付半島から16km沖合、全長122kmの島で、沖縄本島より広く、奄美大島の約2倍の広さ。終戦までは、島に泊(とまり)村と留夜別(るやべつ)村の2つの村があり、1,327世帯、7,364人の日本人が住んでいた。現在は、約7,000人のロシア人が古釜布(ふるかまっぷ)と泊(とまり)を中心に住んでいる。
【島内案内】
古釜布(ふるかまっぷ):島で一番大きな港街で、市内中心部、北海道国後郡泊村古釜布グネチコ通りに衆議院議員鈴木宗男の尽力により設置した友好の家(通称・ムネオハウス)という宿泊施設がある。※電話番号7(ロシアの国番号)-42455(市外局番)-22155
(とまり):島で二番目に大きい村。
メンデレーエフ空港:古釜布から南西約20kmの山あいにある2,000m級の滑走路を持つ空港。
爺爺岳(ちゃちゃだけ):北方四島で最高峰(標高1,822m)の火山。
材木岩:ビザなし交流で訪れる定番の海岸。対岸には、知床半島や、羅臼町の街の明かりも見える。
写真:市街地地図、古釜布(ふるかまっぷ)、ムネオハウス、材木岩、羅臼山
注4:色丹島(しこたんとう)
徳之島とほぼ同じ広さで、終戦時までに206世帯、1,038人の日本人が住んでいた。 現在は、約3,100人のロシア人が住んでいる。
【島内案内】
穴澗(あなま):ビザなし交流の訪問団は、ここの港から上陸する。街には、日本の緊急人道支援で設置した発電施設等がある。
斜古丹(しゃこたん):穴澗から車で20分くらいのところにある街(色丹村)。国境警備隊の基地や島で一番大きな商店、カフェ等がある。
イネモシリ:太平洋側にある美しい海水浴場。
マタコタン:穴澗から斜古丹へ向かう途中にある入り江で、ビザなし交流では、ここでピクニックやバーベキューなどをする。
写真:穴澗(あなま)市街地地図、穴澗(あなま)湾・桟橋
注5:歯舞群島(はぼまいぐんとう)
貝殻島(かいがらじま)をはじめ、水晶島(すいしょうじま)、秋勇留島(あきゆりとう)、勇留島(ゆりとう)、志発島(しぼつとう)、多楽島(たらくとう)、春苅島(はるかるとう)からなっている。歯舞群島全島の面積は、小笠原諸島とほぼ同じ広さで、終戦時までは、852世帯、5,281人の日本人が住んでいた。現在、ロシア人居住者はいない。
貝殻島(かいがらじま)は、根室半島・納沙布岬から3.7km沖合いにある小さな無人島。島というよりは岩礁に近く、1937(昭和12)年に日本により建設された貝殻島灯台があるが劣化が進み、傾いた姿が納沙布岬から目視で確認できる。
写真:貝殻島・灯台、水晶島(すいしょうじま)、秋勇留島(あきゆりとう)、志発島(しぼつとう)

以上北方四島全体は、福岡県や千葉県とほぼ同じ広さで、終戦まで3,124世帯、17,291人の日本人が住んでいた。現在、ロシア側は国後島、色丹島、歯舞群島を「南クリル地区」と呼んでおり、その地区の「行政府」を国後島の古釜布に置き、択捉島と、さらに北東にある得撫(うるっぷ)島から新知(しむしる)島までを「クリル地区」と呼んでおり、「クリル地区行政府」を択捉島の紗那に置いている。

注6:得撫島(うるっぷとう)
長さは約120km、幅は約20kmで、択捉水道を隔てて択捉島と相対し、北側には新知島がある。千島列島では4番目に大きな面積を有する島であるが平地が少なく、ほとんどが山岳地帯である。
島の名前の由来は、アイヌ語で「紅鱒:べにます」を意味する「ウルプ」
注7:新知島(しむしるとう、しんしるとう)
千島列島の中部にある長さは59km、幅は約13kmの火山島。島の中部に位置する新知岳(しむしるだけ、別名は新知富士、海抜1360m)は1825年から25年前後に一度噴火している最も活発な火山。島のほとんどは針葉樹林に覆われている。現在、島には国境警備隊の建物があり、付近を往来する船を監視している。
注8:占守島(しゅむしゅとう)
千島列島北東端の長さ約30km、幅は最大で20kmの島。北のカムチャツカ半島とは千島海峡で、南の幌筵島(ほろむしろとう/ぱらむしるとう)別名・波羅茂知島(ぱらもしるとう)とは幌筵海峡(波羅茂知海峡)で隔てられている。
島の北側の一部は砂浜であるが、それ以外はほとんど崖で、多くの岩礁がある。海抜200メートルくらいの緩やかな丘陵が続き、沼地と草原で覆われている。その中にある四嶺山(しれいさん、標高171m)には、戦時中に旧日本軍の守備隊の本部が置かれていた。現在では、戦車、砲台、戦闘機、飛行場、格納庫、トーチカなどの残骸や廃墟が残る。
北洋漁業の基地で、1940(昭和15)年の国勢調査によれば人口は1,805人でそのうち1,729人が男性であった。
※日本国のポツダム宣言受諾後の1945年8月下旬、ソビエト連邦軍により日ソ不可侵条約に反して占領された。このため、現在も札幌国税局管内根室税務署の管轄となっており、法制上3島は存続している。

※北方四島写真は、内閣府北方対策本部・ビザなしネット
出典: フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)、ビザなしネット

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2月11日:建国記念日

 正確には建国記念の日で、日本の国民の祝日の一つであるが、他の祝日が祝日法に日付を定めているのに対し、建国記念の日は「政令で定める日」と定め、1967年(昭和42年)2月11日から適用された。
 
 日付の2月11日は、昔の祝祭日の中の四大節(注9)の一つである紀元節で、日本書紀にある神武天皇が即位(※)したとされる日(辛酉年春正月、庚辰朔)に由来している。この日付を現在の暦に当てはめると紀元前660年(B.C.660年)2月11日となる。

 紀元節は、紀元の始まりを祝う祝日として、1872年(明治5年)に制定。1948年(昭和23年)一旦廃止されが、1957年(昭和32年)2月13日には、自由民主党の衆議院議員らによる議員立法として「建国記念日」制定に関する法案が提出された。しかし、当時野党第一党の日本社会党が「建国記念日」の制定を「戦前回帰、保守反動の最たるもの」として非難・反対したため、成立しなかった。

 その後、9回の法案提出と廃案を経る。結局、名称に「の」を挿入した「建国記念の日」とすることで、“建国されたという事象そのものを記念する日”であるとも解釈できるように修正し、社会党も妥協。1966年(昭和41年)6月25日、「建国記念の日」を定める祝日法改正案は成立した。

神武天皇即位日

 720(養老4)年に編まれた日本書紀・卷第三、神武紀によれば、神武東征(下記参照)後、天皇に即位した年月日は「辛酉年春正月、庚辰朔、天皇即帝位於橿原宮是歳爲天皇元年」とある。

 現在文に訳すと、「辛酉(しんゆう)の年の春正月の庚辰(こうしん)の朔(さく)日に、天皇、橿原宮に於いて即位。この年を天皇の元年とする」となる。

 即位年の辛酉(しんゆう)年は、日本書紀の歴代天皇在位年数を元に計算すると紀元前660年に相当。即位月は春正月であることから立春の前後。即位日の干支は庚辰(こうしん)の(さく注10)日。

 そこで西暦紀元前660年の立春に最も近い庚辰(こうしん)の朔(さく:新月)日を探すと、現在の暦では2月11日と特定される。その前後では前年12月20日と同年4月19日も庚辰(こうしん)の日であるが、これらは「春正月」になり得ない。したがって「辛酉年春正月庚辰、庚辰朔」は紀元前660年2月11日となる。

 その他、明治時代の歴史学者・那珂通世(なかみちよ)説によると、日本書紀はその紀年を立てるにあたって、讖緯説(しんいせつ:予言書)の書を採用しており、その書では、1260年に一度(干支が一周する60年を1元(げん)×21元=1蔀(ぼう)=1260年)の辛酉(しんゆう)年には、天命が改まる年とされ、王朝が交代する革命の年(辛酉革命)という事になり、推古天皇(注11)が斑鳩(いかるが)に都を置いた西暦601年(辛酉年)がその年に当たる。そのため神武天皇の即位年は、西暦601年(辛酉年)から1260年遡った紀元前660年の辛酉(しんゆう)年に相当する事になる。

注9:四大節(しだいせつ)
旧制度の4つの祭日で、①紀元節(2月11日)、②四方節(新年1月1日)、③天長節(今上天皇の誕生日で、明治時代・11月3日、大正時代・10月31日、昭和時代・4月29日。大正天皇の誕生日は8月31日であるが、盛暑期を避けて2ヶ月後を天長節とした)。この3つの祭日に、④明治節(昭和2年、明治天皇祭が先帝祭として祭日になる)が加わり、四つの祝日を四大節(しだいせつ)と呼んだ。
注10:(さく)
月を望むことが出来ない新月(しんげつ)のこと。太陰暦では月の第一日。
参考:月名は次の通り。
1日:朔(さく)、新月(しんげつ)
2日:既朔(きさく)
3日:三日月(みかづき)
7・8日:上弦(じょうげん)
13日:十三夜(じゅうさんや)
14日:小望月(こもちづき)
15日:満月(まんげつ)、望月(もちづき)
16日:十六夜(いざよい)、既望(きぼう)
17日:立待月(たちまちづき)
18日:居待月(いまちづき)
19日:寝待月(ねまちづき)、臥待月(ふしまちづき)
20日:更待月(ふけまちづき)
22・23日:下弦(かげん)
29・30日:晦(つごもり)
注11:推古天皇(すいこてんのう)
甥の厩戸皇子(うまやどのおうじ:聖徳太子)を皇太子に立てた第33代天皇で、初の女帝である。名は、額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)。邪馬台国の卑弥呼ではないかとの説がある



神武東征

 皇祖・天照大神(あまてらすおおみかみ)は孫の瓊々杵命(ににぎのみこと注12)を、豊葦原の水穂の国(とよあしはらのみずほのくに:日本国)に降臨させた(天孫降臨)。

 日向(ひむか)の高千穂の峰に降臨した瓊々杵命は、吾田国(南さつま市)は長屋の笠狭碕(かささのみさき:野間岬)に到達する。

 そこで大山祇神(おおやまつみのかみ)の娘である木花之開耶姫(このはなのさくやひめ)を娶り、火照命(ほでりのみこと:海幸彦・ホデリ)・火遠理命(ほおでりのみこと:山幸彦・ホオリ)を儲ける。

 そして、ホオリ(山幸彦)と海神(わたつみ)の娘・豊玉姫(とよたまひめ)の子である、鵜葺屋葺不合命(うがやふきあえずのみこと)と豊玉姫の妹・玉依姫(たまよりひめ)の間に出来た子が神日本磐余彦命(かんやまといわれひこのみこと=神武天皇)である。

注12:瓊々杵命(ににぎのみこと)
天照大神の子である天忍穂耳命(あめのおしほのみこと)と、高御産巣日神(たかみむすひのかみ=高木神)の娘である萬幡豊秋津師比売命(よろずはたとよあきつしひめのみこと)の子。
ニニギ(瓊瓊杵尊)、ホオリ(山幸彦)、ウガヤフキアエズ(鵜葺屋葺不合命)の三代は日向三代(ひむかさんだい/ひゅうがさんだい)と呼ばれる。

 神武天皇(神日本磐余彦命・かんやまといわれひこのみこと=磐余彦)は、15歳のときに皇太子となり、長じて吾平津姫(あひらつひめ)を妃とし、息子の手研耳命(たぎしみみのみこと)を儲け、甲寅(こういん)の年(紀元前667年、神武天皇・45歳)、兄弟や皇子を集めて、「天孫降臨以来長い年月が経ったが、未だに西辺にあり、全土を王化していない。東の方角に国の中心に相応しい地があると聞くので、かの地に赴いて都を造ろう」と宣言し、その年の10月5日、兄の五瀬命(いつせのみこと)ら、皇子、軍団を自ら率い船で東征に向かった。

 一行が、水路の難所、速吸之門(はやすいのと注13)に至った時、国津神(くにつかみ:土着の神)の椎根津彦(しいねつひこ)を道案内とし、筑紫国(ちくしのくに:大分県)の菟狭(うさ:宇佐)に立ち寄り、宇佐津彦、宇佐津姫の宮に招かれて歓待をうける。

 11月9日、筑紫国(つくしのくに:福岡県)の崗之水門(おかのみなと注14)に寄り道をしてから、12月27日に安芸国(あきのくに:広島県)の埃宮(えのみや注15)に至る。

 翌年の3月6日、吉備国(きびのくに:岡山県)に入り、高島宮(たかしまのみや注16)の行宮をつくって3年滞在して船と兵糧を蓄えた。

注13:速吸之門(はやすいのと)
愛媛県佐田岬と大分県関崎の幅13Kmの速吸瀬戸(豊予海峡)で、潮流は最大5.5ノット(時速10km)と云われており、この潮流にもまれて育った関アジ、関サバは有名である。
注14:崗之水門(おかのみなと)
福岡県遠賀郡芦屋の古い呼称で、現在の岡湊。
注15:埃宮(えのみや)
広島県安芸郡府中町に、埃宮(えのみや)の跡に創建された、多家神社(たけじんじゃ)がある。
注16:高島宮(たかしまのみや)
高島の伝承地は各地にあるが、皇紀2600(昭和15)年、文部省により児島郡甲浦村大字宮浦字高島・現在の岡山市宮浦が指定されている。

 戊午(ぼご)の年(紀元前663年、神武天皇・49歳)の春、高島宮を出て、難波碕(なにわのみさき)に至り。3月10日に、河内湖(かわちこ注17)に入った船団は、河内湖の最奥部にある浪速国青雲の白肩津(しらかたのつ=草香津(くさかつ注18)に上陸。

注17:河内湖(かわちこ)
かつて河内平野に存在していた湖。紀元前約6000年~約5000年ごろには海水が河内平野へ進入し、現在の枚方市付近を最奥部として、上町台地の東部に河内湾と呼ばれる湾が形成された。上町台地から北方へ次第に砂州が伸びていき、河内湾口はほぼ塞がれる形となった。河内湾に流入する淀川と大和川の両河川によって河内湾の淡水化が進み、河内湾は淡水湖である河内湖へとその姿を変えた。紀元後も河内湖は残存しており、4世紀 - 5世紀ごろには草香江(くさかえ)と呼ばれていた。仁徳天皇は上町台地上の難波に宮殿を置いたが、草香江の水害を解消するため難波の堀江という排水路を築いた。その後、河内湖の干拓・開発が急速に進んでいき、湖から湿地へと変わったが、完全に陸域化したのは、江戸時代の大和川付け替え工事以降のことである。
注18:青雲の白肩津(しらかたのつ)草香津(くさかつ)
青雲は白の枕詞で、白肩津(しらかたのつ)草香津(くさかつ)は、旧中河内郡盾津(たてつ)町、現鴻池周辺)

 4月9日、に龍田(たつた:奈良県北葛城郡王寺町)へ進軍するが地勢が険しく先へ進めず、引き返さざるを得ず、改めて生駒山を越えて、ヤマトを目指したが、この地を支配する長髄彦(ながすねひこ)の軍に阻まれ、孔舎衛坂(くさえのさか:近鉄奈良線孔舎衛坂駅跡付近)で戦いになった。

 戦いに利なく、神武天皇の長兄・五瀬命(いつせのみこと)が流れ矢を受けて負傷した。
神武天皇は「日の神の子孫の自分が日に向かって(東を向いて)戦うことは天の意思に逆らうことだ。廻り込んで日を背にして(西を向いて)戦おう」と云い、草香津(くさかつ)まで退いた。

 5月、孔舎衛坂(くさえのさか)の戦いで苦戦した神武天皇は、日を背にして(西を向いて)戦う為、紀伊半島を迂回し、熊野からヤマト入りを目指し出航した。

 その途中、茅渟(ちぬ注19)の山城水門(やまきのみなと:大阪府泉南市樽井)で神武天皇の長兄・五瀬命(いつせのみこと)の矢傷が重くなり、五瀬命(いつせのみこと)は、紀伊国(きいのくに:和歌山県)竃山(かまやま:和歌山市和田)で死去した。(竈山神社に五瀬命(いつせのみこと)の墓がある)

注19:茅渟(ちぬ)
現在の大阪府南部が和泉国(いずみのくに)と云われた古代、淡路島との間の海を茅渟の海(後に和泉灘)と呼んでいた。

 6月、この地域を支配していた名草戸畔(なぐさとべ注20)と云う女賊を誅してから、狭野(和歌山県新宮市佐野)から、熊野の神邑(みわむら:新宮市新宮)に着き、天磐盾(あめのいわたて:和歌山県新宮市神倉・神倉神社)に登った後、再び船を出すが暴風雨に遭った。

 陸でも海でも進軍が阻まれることを憤慨した次兄の稲飯命(いないのみこと)と三兄・三毛入野命(みけいりのみこと)が入水、人身御供となった。

 長兄を含め、3人の兄を失った神武天皇は、息子の手研耳命(たぎしみみのみこと)とともに熊野の荒坂津(あらさかのつ注21)に辿り着き、辺りを支配していた丹敷戸畔(にしきのとべ注22)という者を討伐したが、土地の神の毒気を受け一行は倒れた。

注20:名草戸畔(なぐさとべ)
現在の和歌山市紀三井寺名草山周辺では名草姫(なぐさひめ)と云われているが、人物の名ではなく、名草の長・首領という地位を表す言葉であるという説もある。近くに竃山(かまやま)神社がある。
注21:荒坂津(あらさかのつ)
紀伊續風土記・巻之九十・牟婁郡第二十二によると、「曽根荘より以東の諸荘は上世丹敷戸畔の領せし地にして所謂荒坂の津といふ、荒坂は當荘二木島より曽根浦に越ゆる今の曽根次郎曽根太郎といふ峻坂をいふらむ、丹敷は今長島郷錦浦あり、丹敷はその邊(辺)の大名にして丹敷戸畔、神武帝の御軍を防んとて此地に來りて此あら坂の邊(辺)にて帝の為に誅せられし處(処)成るへし」とある。二木島とは、三重県熊野市甫母町二木島湾のこと。
その他、新宮市三輪崎の熊野荒坂津神社は明治百年を記念して建立された新しい神社であるが、神武天皇上陸の伝説がある。また、三重県度会郡大紀町の錦地区が上陸地とも云われている。
注22:丹敷戸畔(にしきのとべ)
剽悍無類(ひょうかんむるい:比べようのないほど荒々しく強い)の女首領。大昔、紀伊半島は、熊野と紀伊の二つの国に分かれており、熊野の国の首領(女王)が、丹敷戸畔(にしきのとべ)で、紀伊の国の首領(女王)が名草戸畔であったのではないか。
参考:和歌山県東牟婁郡那智勝浦町(那智駅東へ200m)の熊野三所大神社(くまのさんしょおおみわしゃ)は、「往古神武天皇丹敷戸畔を誅し給う地なり」と云われ、境内の一隅に「丹敷戸畔命」と彫られた小祠がある。同社は、九十九王子のひとつである浜の宮王子の社跡に建つため、浜の宮大神社(はまのみやおおみわしろ)とも呼ばれる。また、JR紀勢本線那智駅横の那智駅交流センターに、那智大社を模した町営浴場「丹敷の湯・入湯料¥600」がある。

 そこに、高倉下(たかくらじ)と名乗る人物が現れた。その男曰く、夢の中で、天照大神(あまてらすおおみかみ)と高御産巣日神(たかみむすひのかみ=高木神)が出現し、葦原中国が騒がしいので建御雷神(たけみかずちのかみ)を遣わそうとしたところ、建御雷神は「自分がいかなくとも、国を平定した剣があるのでそれを降せばよい」と述べ、私に「霊剣・布都御魂(ふつのみたま)をお前の倉に落とし入れるので、天つ神の御子に献上しなさい」と命じられ、翌朝目覚めたら蔵の中に剣が刺さっていたので持参したと云う。

 その霊剣・布都御魂(ふつのみたま注23)を神武天皇が手にすると、憔悴して眠りこけていた一行は、精気を取り戻し、進軍を再開したものの、山路険絶の道なき道を進んでいるうちに、道に迷ってしまった。

 そこに、天照大神(あまてらすおおみかみ)から遣わされた八咫烏(やたがらす注24)が現れ、一行の先鋒を務める、日臣命(ひのおみのみこと=道臣命)が八咫烏を追っていくと、莵田下県(うだのしものこおり)に辿り着き、この地を莵田穿邑(うだのうがちのむら::奈良県宇陀郡莵田野町宇賀志)と名付けた。日臣命はこの功績により、道臣(みちのおみ)の名が与えられた。

注23:布都御魂(ふつのみたま)
この霊剣で、建御雷神(たけみかずちのかみ)は葦原中国(あしはらのなかつくに)を平定した。建御雷神(たけみかずちのかみ)または、鹿島神(かしまのかみ:建御雷神が鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)に祀られていることからそう呼ばれる)とは、古事記の、イザナギ・イザナミが島々を生んだ(国産みの)後、神々を生み出していった神産み(かみうみ)に於いて、イザナギがカグツチの首を切り落とした際、十束剣(とつかのつるぎ:10束(束は長さの単位で、拳
1つ分の幅)の長さの剣)天之尾羽張(あめのおはばり:剣であり神の名前でもある)の根元についた血が岩に飛び散って生まれた三神の一柱で、戦国の時代から剣の神、戦いの神として信仰を集め、鹿島神宮、春日大社および全国の鹿島神社・春日神社で祀られ、今日の武道場にも、建御雷神(鹿島神)が必ず祀られている。
注24:八咫烏(やたがらす、やたのからす)
太陽神を意味する神聖の象徴の3本足の烏である。熊野三山において烏はミサキ神(死霊が鎮められたもの。神使)として信仰されており、近世以前によく起請文(きしょうもん:約束や契約を交わす際、それを破らないことを神仏に誓う文書)として使われていた熊野の牛玉宝印(ごおうほういん)には烏が描かれている。また、日本サッカー協会のシンボルマークにも用いられている。これは、日本で最初に東京高等師範学校、現:筑波大学で蹴球(しゅうきゅう)部を創設した中村覚之助に敬意を表し、出身地である那智勝浦町にある熊野那智大社の八咫烏をデザインしたものである。

 8月2日、神武天皇は、莵田(うだ)の地を支配する兄猾(えうかし)と弟猾(おとうかし)を呼んだところ、兄猾は来なかったが、弟猾は参上し、兄が神武天皇を暗殺しようとする姦計を告げた。そこで道臣命(みちのおみのみこと=日臣命)を送ってこれを討たせた。

 神武天皇は、軽兵を率いて吉野の地を巡ったところ、国神・贄持之子(にえもつのこ)、国神・氷鹿(ひい)、国神・石押分之子(いしおしわくのこ)と名乗る地元の豪族が従った。

 9月5日、神武天皇は高倉山(注25)に登り、辺りを見渡すと国見丘(くにみのおか注26)周辺の女坂、男坂、墨坂には、八十梟帥(やそたける:人名ではあるが、数多くの勇者の意もある)の軍団が待ち構え、ヤマトに入る要所の磐余邑(いわれのむら注27)では、兄磯城(えしき)の軍が充満しているのが見えた。

 この夜、神武天皇の夢枕に、高御産巣日神(たかみむすひのかみ=高木神)が現れ、天香山(あまのかぐやま=天香山神社(あまのかぐやまじんじゃ)奈良県橿原市南浦町)の社の中の土を取って、天平瓮(あまのひらか:平らな土器)八十枚と厳瓮(いつへ:御神酒の器・かめ)を作り、天神地祇(てんじん:天の神・天津神、ちぎ:地の神・国津神)を敬い祀れ、さらに、亦厳呪詛(いつのかしり:呪いをかける)を行え、そうすれば、敵はおのずと平伏するであろう」と告げた。

 その言葉に従って天平瓮(あまのひらか)と厳瓮(いつへ)を作って、丹生の川上(注28)に登り、天神地祗を祀り、敵に呪いをかけた。 

注25:高倉山
標高440mの高倉山の頂上に鎭座する、高角神社(たかつのじんじゃ:奈良県宇陀郡大宇陀町守道)には、「日本書紀・巻三・神武天皇即位前紀戊午年九月の条、天皇陟彼菟田高倉山之巓。瞻望域中。時國見丘上則有八十梟帥」の故事により、山頂に顕彰碑が建てられている。また、本殿横には寛政十一年(1799)に「神武天皇望軍之旧跡」の石碑が残っている。
注26:国見丘(くにみのおか)
宇陀郡大宇陀町と桜井市の境にある、経ヶ塚山(きょうがずかやま)のこと。経ヶ塚山の南に女坂)、北東に男坂(半坂)があり、男坂の北側に墨坂(宇陀市榛原)がある。
注27:磐余邑(いわれのむら)
奈良県旧十市郡内、旧安倍村大字池之内および旧香久山村大字池尻付近。奈良県桜井市吉備にある春日神社の横に磐余邑の顕彰碑が建てられている。このあたりは神武天皇と長髄彦(ながすねひこ)が決戦した故地でもある。
注28:丹生の川上
丹生の川上には、丹生川上神社(にうかわかみじんじゃ)上社・中社・下社の三つの神社があるが、奈良県吉野郡東吉野村大字小(おむら)・丹生川上神社(にうかわかみじんじゃ)中社・旧蟻通神社(ありとおしじんじゃ)が天神地祗を祀った神社と思われる。

 10月、神武天皇は、軍を発して、国見丘(くにみのおか=経ヶ塚山・きょうがずかやま)周辺の女坂(経ヶ塚山の南)、男坂(経ヶ塚山の北東)、墨坂(宇陀市榛原)で戦闘 八十梟帥(やそたける)を討つ。

 11月、磯城邑(しきのむら注29)の兄磯城(えしき)、弟磯城(おとしき)の元に、使いを送ったところ、弟磯城は降参したが、兄磯城は逆らった為、椎根津彦(しいねつひこ:神武天皇が東征において速吸門(はやすいのと:大分県関崎の豊予海峡)で出会った国津神)が奇策を用いると同時に、皇軍が墨坂(宇陀市榛原)と、半坂(男坂)の後方から兄磯城軍を挟み撃ちにして打ち破った。

注29:磯城邑(しきのむら)
奈良県桜井市、三輪山の南麓の初瀬川付近

 12月、磐余邑(いわれのむら注30)で、長髄彦(ながすねひこ:生駒山越えでヤマトを目指す途中、孔舎衛坂(くさえのさか:近鉄奈良線孔舎衛坂駅跡付近)の戦いで敗れた相手)と対峙することとなった。

 両軍共に死力を尽くして戦ったが勝負がつかず、神武天皇が最後の突撃の覚悟を決めたそのとき。天が曇り、雹(ひょう)が降り、遙か天空から金色の鵄(とび)が飛来し、神武天皇の弓の先にとまった。そして、金色の鵄(とび)は光り輝きだした。これを見た長髄彦の軍は眼がくらみ、戦意を喪失した。

 そこで、長髄彦(ながすねひこ)は神武天皇に「昔、天津神の子が天の磐船(あまのいわぶね)に乗って降臨した。名を櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと)という。私の妹の三炊屋媛(みかしきやひめ)を娶わせて、可美真手(うましまで)という子も生まれた。ゆえに私は饒速日命を君として仕えている。天津神の子がどうして二人いようか。どうして天津神の子であると称して人の土地を奪おうとしているのか」とその疑いを述べた。神武天皇は天津神の子である証拠として、天の羽羽矢(あまのははや:天から授かった聖なる矢)と歩靱(かちゆき:弓を入れる筒状の道具)を見せると、長髄彦は恐れ畏まったが、改心することはなかった。その為、ヤマトの支配者・饒速日命(ニギハヤヒノミコト)は長髄彦を殺して降伏した。

 翌、巳未(きび)の年の2月20日(紀元前662年・神武天皇50歳)、神武天皇に従わない、層富県(そほのあがた:奈良県生駒郡)の波多の丘岬(はたのおかさき:奈良市赤膚)の新城戸畔(にいきとべ)、和珥(わに:奈良県天理市和珥)の坂下の居勢祝(こせのはふり)、臍見(ほそみ)の長柄(奈良県御所市長柄)の山崎の猪祝(いのはふり)と云う3名の土蜘蛛(つちぐも:辺境の民)と、高尾張邑(たかおはりのむら:奈良県北葛城郡當麻町)の身体が小さく手足の長い土蜘蛛を打ち滅ぼす。

 3月、畝傍山(うねびやま注31)の東南の橿原(かしはら)の地を都と定める。

 庚申(こうしん)の年(紀元前661年・神武天皇51歳)、大物主の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)を正妃とした。

 辛酉(しんゆう)の年(神武天皇元年・紀元前660年・神武天皇52歳)の正月、神武天皇は橿原宮(かしはらのみや注32)で践祚(せんそ:天皇の位に就く)され、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称した。

注30:磐余邑(いわれのむら)
奈良県旧十市郡内、旧安倍村大字池之内および旧香久山村大字池尻付近。奈良県桜井市吉備にある吉備池の横に磐余邑の顕彰碑が建てられている。このあたりは神武天皇と長髄彦(ながすねひこ)が決戦した故地でもある。
注31:畝傍山(うねびやま)
奈良盆地南部に位置する山。「畝火山」あるいは「慈明寺山」とも云う。耳成山、天香具山とともに「大和三山」と呼ばれている。
注32:橿原宮(かしはらのみや)
1890(明治23)年、橿原宮があった地である、奈良県橿原市の畝傍山の麓、久米町に橿原神宮(かしはらじんぐう)が創建された。

参考1:建国の詔(みことのり)、八紘一宇(はっこういちう)
日本書紀巻三の詔の中にある神武天皇の建国の詔(みことのり)の後段に「六合(りくごう)を兼ねて、以って都を開き、八紘(あめがした)を掩(おお)ひて宇(いえ)と為(せ)すこと亦可(またし)からずや」とあり、「六合を兼ねて」とは上下四方、十方世界。「八紘一宇」とは、四海一家、世界は道義の世界ではひとつ。のことで、その意味は、「四方の国々を束ねて都を造り、ひとつの家族のように仲良く暮らしていける国にしようではないか」と云うことであるが、この八紘一宇(はっこういちう)が大東亜戦争(第二次世界大戦)中、国是ともいえるスローガンになった。

参考2:神武天皇祭(じんむてんのうさい)
毎年4月3日、宮中の皇霊殿や橿原神宮・宮崎神宮などの神武天皇を祀る神社で神武天皇祭が行なわれる。祭典の行われる4月3日は、神武天皇の崩御の日(太歳己卯=紀元前586年・3月11日)を新暦に換算した日。
太歳己卯(たいさいきぼう)の太歳(たいさい)とは、木星の周期に基づく紀年法で、干支紀年法では、丁卯(ちょうぼ)に該当する。

出典: フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)

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神武東征経路図
神武東征経路図

日向(ひむか)の高千穂の峰に降臨した瓊々杵命は、吾田国(南さつま市)は長屋の笠狭碕(かささのみさき:野間岬)に到着。紀元前667年(神武天皇・45歳)10月5日、日向(ひむか)から東征出発。
周辺地図・野間岬
周辺地図・日向

①速吸之門(はやすいのと)愛媛県佐田岬と大分県関崎の幅13Kmの速吸瀬戸(豊予海峡)
周辺地図:速吸瀬戸・豊予海峡

②国津神(くにつかみ:土着の神)の椎根津彦(しいねつひこ)を道案内とし、筑紫国(ちくしのくに:大分県)のの菟狭(うさ:宇佐)に立ち寄り、宇佐津彦、宇佐津姫の宮に招かれて歓待をうける。
周辺地図:菟狭・大分県宇佐市

③11月9日、筑紫国(つくしのくに:福岡県)の崗之水門(おかのみなと:福岡県遠賀郡芦屋の古い呼称。)に寄り道をする。
周辺地図:崗之水門・福岡県遠賀郡芦屋

④12月27日に安芸国・埃宮(えのみや:広島県安芸郡府中町に、埃宮(えのみや)跡に創建された、多家神社(たけじんじゃ)がある)に至る。
周辺地図:埃宮・多家神社

⑤翌年の3月6日、吉備国(きびのくに:岡山県)に入り、高島宮(たかしまのみや:児島郡甲浦村大字宮浦字高島・現在の岡山市宮浦)で3年滞在。
周辺地図:高島宮・岡山市宮浦

⑥紀元前663年、神武天皇・49歳)の春、高島宮を出て、難波碕(なにわのみさき)に至り。3月10日に、河内湖に入った船団は、河内湖の最奥部にある浪速国青雲の白肩津(しらかたのつ=草香津(くさかつ)に上陸。(旧中河内郡盾津(たてつ)町、現鴻池周辺)
周辺地図:草香津・盾津中学校

河内湖周辺地図

⑦4月9日、龍田(たつた:奈良県北葛城郡王寺町)へ進軍するが地勢が険しく先へ進めず、引き返さざるを得ず、改めて生駒山を越えて、ヤマトを目指したが、この地を支配する長髄彦(ながすねひこ)の軍に阻まれ、孔舎衛坂(くさえのさか:近鉄奈良線孔舎衛坂駅跡付近)で戦いになった 草香津(くさかつ:中河内郡盾津(たてつ)町地域)まで退いた。
周辺地図:孔舎衛坂(近鉄奈良線孔舎衛坂駅跡)

⑧茅渟(ちぬ)の山城水門(やまきのみなと:大阪府泉南市樽井)で神武天皇の長兄・五瀬命(いつせのみこと)の矢傷が重くなる。
周辺地図:山城水門・大阪府泉南市樽井

⑨五瀬命(いつせのみこと)は、紀伊国(きいのくに:和歌山県)竃山(かまやま:和歌山市和田)で死去した。埋葬する。6月、この地域を支配していた名草戸畔(なぐさとべ※9)と云う女賊を誅す。竈山神社に五瀬命(いつせのみこと)の墓あり
周辺地図:竈山神社・五瀬命の墓

⑩狭野(和歌山県新宮市佐野)を経て、
周辺地図:狭野・新宮市佐野

⑪熊野の神邑(みわむら:新宮市新宮)に着き、天磐盾(あめのいわたて:和歌山県新宮市神倉・神倉神社)に登った後、再び船を出すが暴風雨に遭った。
周辺地図:天磐盾・神倉神社

⑫熊野の荒坂津(あらさかのつ:三重県熊野市甫母町二木島湾)に辿り着き、辺りを支配していた丹敷戸畔(にしきのとべ)という者を討伐したが、土地の神の毒気を受け一行は倒れた。
荒坂津(あらさかのつ)の伝承地は、新宮市三輪崎の熊野荒坂津神社、三重県度会郡大紀町の錦がある。また、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町(那智駅東へ200m)の熊野三所大神社(くまのさんしょおおみわしゃ)は、「往古神武天皇丹敷戸畔を誅し給う地なり」と云われ、境内の一隅に「丹敷戸畔命」と彫られた小祠がある。
周辺地図:荒坂津・二木島湾

⑬莵田下県(うだのしものこおり)に辿り着き、この地を莵田穿邑(うだのうがちのむら)・宇陀の窟(うだのうがち)奈良県宇陀郡莵田野町宇賀志付近)と名付けた。
周辺地図:莵田穿邑

⑭9月5日、神武天皇は高倉山に登る。高倉山の頂上に、高角神社(たかつのじんじゃ:奈良県宇陀郡大宇陀町守道)あり。
周辺地図:高倉山・高角神社

⑮丹生の川上に登り、天神地祗を祀り、敵に呪いをかけた。
丹生の川上には、丹生川上神社(にうかわかみじんじゃ)上社・中社・下社の三つの神社があるが、奈良県吉野郡東吉野村大字小(おむら)の丹生川上神社(にうかわかみじんじゃ)中社・旧蟻通神社(ありとおしじんじゃ)だったと云われる。
周辺地図:丹生川上中神社

⑯10月、神武天皇は、軍を発して国見丘(くにみのおか=経ヶ塚山・きょうがずかやま:宇陀郡大宇陀町と桜井市の境の山)周辺の女坂、男坂、墨坂で戦闘 八十梟帥(やそたける)を討つ
周辺地図:経ヶ塚山

⑰11月、磯城邑(しきのむら:三輪山の南麓の初瀬川付近・奈良県桜井市)兄磯城(えしき)討つ
周辺地図:初瀬川付近

⑱12月、磐余邑(いわれのむら)で、神武天皇と長髄彦(ながすねひこ)が戦う。
奈良県旧十市郡内、旧安倍村大字池之内および旧香久山村大字池尻付近。奈良県桜井市吉備にある吉備池の横に磐余邑の顕彰碑が建てられている。このあたりは神武天皇と長髄彦(ながすねひこ)が決戦した故地でもある。
周辺地図:吉備池・磐余邑の顕彰碑

⑲畝傍山(うねびやま)山麓の橿原宮(かしはらのみや)で践祚(せんそ)する。畝傍山(うねびやま)は、奈良盆地南部に位置する山。「畝火山」あるいは「慈明寺山」とも云う。耳成山、天香具山とともに「大和三山」と呼ばれている。橿原宮の跡地に橿原神宮(かしはらじんぐう)が創建されている。
周辺地図:畝傍山・橿原神宮

地図:高倉山周辺地図
高倉山周辺地図

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写真

写真は和坊流宇宙(http://www.justmystage.com/home/kazubo/)の和坊放浪記:口永良部島編:part16でご覧ください。


続く・口永良部島編:part17


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