カテゴリー「備忘録」の64件の記事

2009年6月24日 (水)

和坊放浪記・part20


和坊放浪記・口永良部島編part20

平成18(2006)年・備忘録


 項目

■寝待・湯治小屋
 3月後半:181日目~195日目  
 4月前半:196日目~210日目
 4月後半:211日目~225日目
※口永良部島の日常は、座禅瞑想が中心となってきており、part20から各月別にプチリニューアル。
※本文中赤字は写真あり。

 番屋ヶ峰、神武天皇祭、1日断食、干支(十干十二支の組み合わせと呼び方・干支の調べ方・還暦、干支表)、般若心経
写真
 番屋ヶ峰(注)、電波塔、神武天皇(注)、玄奘三蔵(注)、寝待温泉防波堤嵩上げ前後、寝待西海岸(後境手前)、二の瀬崖越え、湯向温泉1、2、3、記念撮影(双子の姉妹)

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■寝待・湯治小屋


3月後半:181日目~195日日

181日目:3月17日(金) 晴  
【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経2返(朝・夕)、写経2巻(朝・夕)、座禅瞑想20分×2回(朝・夕)

 番屋ヶ峰(注1)までウオーキング。本村で買い出し。


注1:番屋ヶ峰(ばんやがみね)
口永良部島は、新旧二つの火山群が結合したひょうたん型をした火山島で、その旧火山群(島の西側)の最高点(290.9m)に位置しているのが番屋ヶ峰で、眺望の優れた場所である。
番屋ヶ峰の名称に関しては、隣の島である屋久島の一湊と安房の港を見下ろす小高い丘が「番屋峰」で、ここは、船の出入りを監視していた番所のあった所であることから、口永良部島の番屋ヶ峰も港を見渡せる丘にある事から見て関連があると思われる。
と云うのは、鹿児島図書館所蔵の「密貿易所たりし熊毛郡上屋久村口永良部島全図」(屋久島奉行・川島久良の調査地図)に、屋久島一湊と口永良部本村が密輸の根拠地だったとの指摘があり、それ以外にも、川島元次郎(元長崎高商・現長崎大学経済学部教授)著・南国史話(平凡社)や、樋口弘著・本邦糖業史(ダイヤモンド社)によると、江戸時代の口永良部島・本村は、薩摩藩による、密貿易基地で、紀州の紀国屋文左衛門や薩摩の浜崎太平次と並ぶ幕末の豪商であった、加賀藩御用達の銭屋五兵衛との間で、幕府禁制の抜け荷を、また、製糖工場の西洋館(別名・白糖方)に住むイギリス人を介して、香港(英国領)と密貿易を繰り返し、それで得た財力を以て強藩を維持していたが、銭屋五兵衛の密貿易が露顕し厳刑に処せられた情報が入った為,西洋館は取り壊され口之永良部島の密貿易の証拠隠滅を完遂したと述べられている。


182日目:3月18日(土) 大雨  
【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経6返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×6回(朝・昼・夕)

 大雨で外出ままならず。座禅瞑想に専念する。

183日目:3月19日(日) 晴  
【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経2返(朝・夕)、写経2巻(朝・夕)、座禅瞑想20分×2回(朝・夕)

 新寝待道(1.7km急坂登り)~一周道路(3.6km殆ど平坦路)に出て~旧寝待道(1.6km緩やかな下りだが、駐車場スペースから400mは滑り落ちそうな下り坂)を散歩。

184日目:3月20日(月) 晴  
【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経2返(朝・夕)、写経2巻(朝・夕)、座禅瞑想20分×2回(朝・夕)

 午前中、本村集落買出し。午後から、寝待温泉の清掃。寝待集落・住人のバッチャン達が本村から帰って来て、野菜とミカンの差し入れがある。

185日目:3月21日(火) 晴一時雨
【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 寝待湯治小屋2号室に男性客。静岡の水口さん。

186日目:3月22日(水) 雨
【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経6返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×6回(朝・昼・夕)

 座禅瞑想に専念。

187日:3月23日(木) 晴  (禁酒)
【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 温泉の防波堤嵩上げ工事完了し、重機類は自走で引き揚げる。

 温泉を高波から守る防波堤工事は、波打ち際の岩を積み上げ、その隙間をコンクリートで固めると云った形の工事法で本日完成した。

 利用された岩は、寝待集落の波消しブロックの役目をしており、工事前に比べ湯治小屋からの見通しは可成り良くなった。その分、集落が波にのまれる危険性が高まったと思うが、集落住民は、「岩は町の所有物なので問題ない」と気にもしていないので、外部の人間がとやかく云う問題ではないが。

 キャタピラの付いた重機もナンバープレートがないまま、道路面がガリガリ擦りながら自走で本村集落に向け引き揚げてしまった。「道路を走るのは違反」ではと思うのは都会人。島では、最近まで車を運転するのに免許は必要なかったらしいので、小さな事にはいちいち気にしない、気にしない。

188日目:3月24日(金) 晴  
【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経2返(朝・夕)、写経2巻(朝・夕)、座禅瞑想20分×2回(朝・夕)

 自転車で本村集落へ買出しに行く。Aコープは大勢の人集り。今日は偶数日なのに、奇数日の商品入荷日の3時頃の状態。聞くと本日特売日との事。早々に引き揚げる。

 寝待に帰ると、ここにも、大勢の人がいた。中年の男性陣。この大学の先生達を引率してきたのは、屋久島の通称関東村の住人で、その人から「半年前に屋久島で自転車に乗った貴方を何度か見かけた」とミカンの差し入れがあった。

 湯治小屋使用料3月分¥21,700支払(¥700×31日)

189日目:3月25日(土) 晴
【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 田代湧水地で飲料水汲み。

190日目:3月26日(日) 雨
【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経6返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×6回(朝・昼・夕)

 座禅瞑想に専念。

191日目:3月27日(月) 晴

【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 田代湧水地で飲料水汲み。

192日目:3月28日(火) 雨のち晴
【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 早朝の雨は上がり、晴れ間が広がる。新寝待道頂上(一周道路手前)まで散歩。

193日目:3月29日(水) 晴
【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 温泉内に海水が逆流。洗面器がプカプカ浮いている入浴不可。嵩上げ工事の後遺症か。午前中海岸沿(後境手前)を散策。

194日目:3月30日(木) 晴  (禁酒)
【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 昨日の海水逆流の後始末で、温泉清掃。

195日目:3月31日(金) 晴
【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経2返(朝・夕)、写経2巻(朝・夕)、座禅瞑想20分×2回(朝・夕)

 午前中、本村へ買出し。往復で、寝待集落・住人の前原さんに遭遇する。島内で人は勿論、自動車と遭遇するのはまれな出来事なのに、往復で遭遇した。

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4月前半:196日目~210日目

196日目:4月1日(土) 曇
【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経2返(朝・夕)、写経2巻(朝・夕)、座禅瞑想20分×2回(朝・夕)

 午前中、温泉裏手の崖越えで、二の瀬(寝待の西にある釣場兼貝採り場)に行き貝の採取。

197日目:4月2日(日) 雨のち曇
【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経6返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×6回(朝・昼・夕)

 座禅瞑想に専念。

198日目:4月3日(月) 晴
【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経9返(朝・昼・夕)、写経6巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×9回(朝・昼・夕)

 今日は神武天皇が崩御した日の神武天皇祭(注2)で、自分の誕生日。満60歳になった。昭和21(1946)年の丙戌(ひのえいぬ)の年に生まれ、平成18年(2006)年の今年の干支は同じ丙戌(ひのえいぬ)。干支(注3)が一周した。まだ生きている。もう少し般若心経の世界を学んでみたいと思っている。

 1日断食(注4)とともに座禅瞑想を何時もより多めに行う。


注2:神武天皇祭(じんむてんのうさい)
毎年4月3日、宮中の皇霊殿や橿原神宮・宮崎神宮などの神武天皇を祀る神社で神武天皇祭が行なわれる。祭典の行われる4月3日は、神武天皇の崩御の日(太歳己卯=紀元前586年・3月11日)を新暦に換算した日。太歳己卯(たいさいきぼう)の太歳(たいさい)とは、木星の周期に基づく紀年法で、干支紀年法では、丁卯(ちょうぼ)に該当する。

注3:干支(えと)
干支とは、兄(え)弟(と)の意味で、陰陽道の五行(木・火・土・金・水)と十干(じっかん:甲乙丙・・・)を組み合わせ、更に陽をあらわす兄(え)、陰をあらわす弟(と)を配したもの。即ち、甲(きのえ)・乙(きのと)・丙(ひのえ)・丁(ひのと)・戊(つちのえ)・己(つちのと)・庚(かのえ)・辛(かのと)・壬(みずのえ)・癸(みずのと)。
これに十二支(じゅうにし:子丑寅・・・)を組み合わせ、甲子・乙丑・丙寅・・・などを60組として年・月・日に当てて用いるので干支と称するようになった。時刻・方位にも使われている。
▽十干十二支の組み合わせと呼び方(呼び方は音と訓の二つある)
1番・甲子(コウシ:きのえ・ね)、2番・乙丑(オツチュウ:きのと・うし)、3番・丙寅(ヘイイン:ひのえ・とら)、4番・丁卯(テイボウ:ひのと・う)、5番・戊辰(ボシン:つちのえ・たつ)、6番・己巳(キ(コ):シ つちのと・み)、7番・庚午(コウゴ:かのえ・うま)、8番・辛未(シンビ:かのと・ひつじ)、9番・壬申(ジンシン:みずのえ・さる)、10番・癸酉(キユウ:みずのと・とり)12番から十干は甲に戻り、11番・甲戌(コウジュツ:きのえ・いぬ)、12番・乙亥(オツガイ:きのと・い)13番から十二支が子に戻り、13番・丙子(ヘイシ:ひのえ・ね)、14番・丁丑(テイチュウ:ひのと・うし)、15番・戊寅(ボイン:つちのえ・とら)、16番・己卯(キボウ:つちのと・う)・・・と進み60番で一周する。
▽還暦
満六十歳の誕生日に還暦を迎える、と思っている人が多いが、還暦は満年齢や誕生日とは関係ない。
昭和21(1946)年を例にとると、昭和21年は丙戌(音読み・ヘイジュツ、訓読み・ひのえいぬ)の年である。翌22年は丁亥(テイガイ、ひのとい)、23年は戊子(ボシ、つちのね)・・・と進んで行って、平成17年乙酉(オツユウ、きのととり)で一回りし六十年が終わり、平成18年(2006)は、また昭和21年と同じ丙戌に還(かえ)る。つまり、暦が還(かえ)るから「還暦」で、昭和21年丙戌の生まれの人は、平成17年乙酉の年が明ければめでたく還暦なのである。
▽干支の調べ方 
十干(じっかん)、十二支(じゅうにし)を組み合わせた、六十干支(ろくじゅうえと)(次表参照)と数学の余剰類(nをある数aで割ったとき、同じ余りをもつ集まり)を求める公式を使って、西暦年表の干支を知ることが出来る。
▽西暦から干支を求める計算式
西暦年数から3を引いて60で割った余りの数字を六十干支表の番号にあてはめるとその年の干支がわかる。
例1:1946(昭和21年)の干支は、1946-3=1943、1943÷60=32余り23。六十干支表の番号の23を見ると、丙戌(ヘイジュツ、ひのえ・いぬ)となる。
例2:高校野球で有名な甲子園は、1924(大正13)年・甲(きのえ)子(ね)の年に建築されたので「甲子(コウシ)園」と名付けられたと云われるが、それを確認すると1924-3=1921、1921÷60=32余り1。六十干支表の番号1は「甲子」で間違いが無い。
※干支に関しての詳細は →和坊流宇宙(http://www.justmystage.com/home/kazubo/)の宇宙の姿(Ⅶ:干支)でご覧ください。
六十干支(ろくじゅうえと)
1甲子  2乙丑  3丙寅  4丁卯  5戊辰  6己巳  7庚午  8辛未  9壬申  10癸酉
11甲戌 12乙亥 13丙子 14丁丑 15戊寅 16己卯 17庚辰 18辛巳 19壬午 20癸未
21甲申 22乙酉 23丙戌 24丁亥 25戊子 26己丑 27庚寅 28辛卯 29壬辰 30癸巳
31甲午 32乙未 33丙申 34丁酉 35戊戌 36己亥 37庚子 38辛丑 39壬寅 40癸卯
41甲辰 42乙巳 43丙午 44丁未 45戊申 46己酉 47庚戌 48辛亥 49壬子 50癸丑
51甲寅 52乙卯 53丙辰 54丁巳 55戊午 56己未 57庚申 58辛酉 59壬戌 60癸亥

注4:1日断食の方法
【摂取物】朝・昼・夕(野菜ジュース:各1杯・200cc程度)、水:無制限
【復食】翌朝お粥、昼食以降は通常食


199日目:4月4日(火) 曇
【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経2返(朝・夕)、写経2巻(朝・夕)、座禅瞑想20分×2回(朝・夕)

 本村集落へ買出し。Aコープは何時同様なにも無いが白菜があったので購入、羽生商店でビールと焼酎・三岳購入を買う。

200日目:4月5日(水) 風雨のち晴
【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経6返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×6回(朝・昼・夕)

 朝から強い風を伴う豪雨だったが、昼過ぎから徐々に晴れてきた。座禅瞑想に専念。
 ガス代¥3,800支払。

201日目:4月6日(木) 晴のち雨
【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 午前中、田代湧水へ飲料水汲み。

202日目:4月7日(金) 晴
【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経2返(朝・夕)、写経2巻(朝・夕)、座禅瞑想20分×2回(朝・夕)

 何時でも口永良部島から脱出することが出来る様に自転車整備をし、溜まった空き缶・瓶を本村集落公民館横の集積所に持参。

203日目:4月8日(土) 晴
【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経2返(朝・夕)、写経2巻(朝・夕)、座禅瞑想20分×2回(朝・夕)

 明日から天候不順予報。当分脱出は困難。本村集落に買出しに出掛けるが、Aコープが閉まっており、羽生商店で食糧品を購入。

 寝待湯治小屋・3号室に女性客。

204日目:4月9日(日) 曇
【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 昨日3号室に入った岡山の女性は、古岳登山へ。20日前に2号室に入った、静岡の水口さんは、車検と免許更新の為屋久島に向かった。

205日目:4月10日(月) 曇のち雨
【トレーニング】ストレッチのみ
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 体が重いので、八段錦とチューブトレーニングは中止。

 フェリー太陽、フェリー屋久島2、ロケット、トッピー欠航。

206日目:4月11日(火) 雨のち曇
【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経2返(朝・夕)、写経2巻(朝・夕)、座禅瞑想20分×2回(朝・夕)

 寝待温泉は、再度海水の逆流で入浴不可なので、徒歩で湯向温泉に行く。

 湯向集落手前の牧場で、畑仕事をしている人から、「自転車で寝待に来ている人ですか」と声を掛けられる。声の主は広島出身の松本さん。数週間前に口永良部島に入って、当地でアルバイトをしているとの事。少し話をして別れたが、温泉入浴中に松本さんが入って来て、入浴後、車で寝待迄送ってもらう。

207日目:4月12日(水) 曇
【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経2返(朝・夕)、写経2巻(朝・夕)、座禅瞑想20分×2回(朝・夕)

 チューブトレーニング再開。トレーニング後、後境(寝待東側の釣場兼貝採り場)で貝採り。

 寝待湯治小屋・5号室に、子供3人を連れた若い夫婦者が入った。本村から徒歩でやってきたらいい、毛布を差し入れる。

208日目:4月13日(木) 雨のち曇
【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 5号室の子供3人連れの夫婦者は、先日、来島後西の湯横でテントを張り、3月8日(part19参照)に2号室に入った、赤ちゃんを連れた若い夫婦者の知り合いであった。絵本作家で、来月には、フランス経由でモロッコに行くとの事。子供に、12色のクレパスとスケッチブックをプレゼントする。

 夫婦は川上一帆・まあ。子供達は双子の緑音(よね・3歳)、葉音(りおん・3歳)ちゃんと赤子の天芙音(てふの・0歳)ちゃん。

209日目:4月13日(金) 曇
【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 5号室の絵本作家達は出発。

210日目:4月15日(土) 曇
【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経6返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×6回(朝・昼・夕)

 座禅瞑想に専念。

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4月後半:211日目~225日目

211日目:4月16日(日) 晴・強風  (禁酒)
【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経6返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×6回(朝・昼・夕)

 座禅瞑想に専念。

212日目:4月17日(月) 晴  (禁酒)
【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経2返(朝・夕)、写経2巻(朝・夕)、座禅瞑想20分×2回(朝・夕)

 二の瀬(寝待東側の釣場兼貝採り場)に貝採り。波が高く、2度波を被る。

213日目:4月18日(火) 晴
【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経2返(朝・夕)、写経2巻(朝・夕)、座禅瞑想20分×2回(朝・夕)

 本村集落へ買出し。

 寝待集落に屋久島から制服の警察官2人が訪ねて来て、住民調査。

214日目:4月19日(水) 雨のち晴
【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経6返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×6回(朝・昼・夕)

 座禅瞑想に専念。

215日目:4月20日(木) 晴・強風
【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 昼から、温泉清掃。

216日目:4月21日(金) 晴
【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経6返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×6回(朝・昼・夕)

 与那国島・石垣島・沖縄で一緒だった東京のゲロミキから手紙が届いた。座禅瞑想に専念。

217日目:4月22日(土) 雨
【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経6返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×6回(朝・昼・夕)

 ここ3日間、湯向集落でアルバイトをしている広島出身の松本さんが寝待集落を訪ねてきており、今日は般若心経の本(2冊)を持って来てくれた。
 座禅瞑想に専念。

218日目:4月23日(日) 曇
【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 旅に出る前に、般若心経(注4)の勉強をし、四国巡礼遍路で実体験。ここ口永良部島では、般若心経を唱え、写経をする毎日を過ごしているが、持参の解説本では、今一納得出来ない箇所があるので、今日からは、昨日松本さんから差し入れがあった般若心経本も参考にしつつ、般若心経が云わんとすることを、自分なりの解釈が出来るものか、挑戦する事にする。


注4:般若心経
般若心経は、釈迦の死後、弟子たちが集まって、釈迦の説法を書き残した経典の中の1つであり、西遊記の三蔵法師で名高い玄奘三蔵(げんじょう さんぞう)が漢訳した、大般若波羅蜜多経六百巻(60億40万字)を、本文262文字に要約したもので、非常に短い経典だが、大般若波羅蜜多経六百巻の濃縮されたエキスそのものである。


219日目:4月24日(月) 晴
【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 90歳の田代のジッチャン宅(田代集落住人)にエラブツツジを貰いに行く。

220日目:4月25日(火) 晴
【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経2返(朝・夕)、写経2巻(朝・夕)、座禅瞑想20分×2回(朝・夕)

 本村集落の郵便局から、冬物の寝袋、衣服を神戸の姉宅に郵送。帰りにAコープで買い物。

221日目:4月26日(水) 曇のち晴  (禁酒)
【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 般若心経本熟読。

222日目:4月27日(木) 雨のち晴  (禁酒)
【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 般若心経本熟読と写仏。

223日目:4月28日(金) 曇  (禁酒)
【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 温泉清掃。写仏。

224日目:4月29日(土) 曇  (禁酒)
【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 般若心経本熟読と写仏色塗り。

225日目:4月30日(日) 晴  (禁酒)
【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経2返(朝・夕)、写経2巻(朝・夕)、座禅瞑想20分×2回(朝・夕)

 二の瀬(寝待東側の釣場兼貝採り場)貝採り。

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写真

写真は和坊流宇宙(http://www.justmystage.com/home/kazubo/)の和坊放浪記:口永良部島編part20でご覧ください。


続く・第13章:口永良部島編part21

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2009年6月12日 (金)

目次と索引


和坊流放浪記・目次:索引



 項目

目次
 第13章:口永良部島編
 第12章:屋久島編
 第11章:ヨロン島編 
 第10章:宮古島編 
 第9章:石垣島(竹富島・与那国島)編
 第8章:波照間島編 
 第7章:与那国島編 
 第6章:西表編
 第5章:久米島編(那覇・とまりん~久米島) 
 第4章:九州編(宮崎・志布志・与論島)
 第3章:和歌山編(高野山・熊野古道、串本ぶらぶら) 
 第2章:四国編
 第1章:淡路島編(出発進行)
 序章:用具と携帯品
 序章:ホームレスの経緯
 序章:旅のアルバム

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■登山・探検 
■キャンプ場 
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■民宿・旅館・ホテル 
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■神社・仏閣 
■星 
■仏教・座禅 
■今日は何の日 
■北方領土 
■古事記・日本書紀・神武東征



目次

第13章:口永良部島編
(平成17年9月9日~平成18年7月23日)

Part1
■口永良部島
 概要
 地図1、2(口永良部島位置地図、口永良部島全島地図)
■寝待温泉・湯治小屋
1日目:9月 9日(金) 曇のち雨    (屋久島発口永良部島)
 地図3:中央部(寝待~本村)
2日目:9月10日(土) 曇一時雨    (島内商店状況)
 地図4:本村集落略図
3日目:9月11日(日) 晴       (湯向集落散策)
 地図5:口永良部島東北部(寝待~湯向)
4日目:9月12日(月) 晴       (寝待集落詳細)
 地図6:寝待集落略図
5日目:9月13日(火) 晴       (口永良部島西部散策)
 地図7:口永良部島西部
6日目:9月14日(水) 晴一時雨    (大掃除)
■注(写真付き)
 寝待温泉、西の湯、湯向温泉
■写真
フェリー太陽・宮之浦港、一周道路1、2、3、ヘリポート道、ヘリポート、待避壕・ヘリポート横、岩屋泊、番屋ヶ峰・電波塔、、本村港、役場兼切符売場、Aコープ、郵便局1、郵便局2、羽生商店、金岳中・小学校校門、給水塔、診療所、寝待分岐、寝待集落と立神岩、集落入口(駐車場)、湯治小屋1、湯治小屋2、集落道、公衆電話BOX、温泉(工事前)、温泉入口・台風直後、湯船

Part2
■寝待温泉・湯治小屋
7日目:9月15日(木) 晴       (寝待集落周辺散策)
8日目:9月16日(金) 晴      (古岳登山)
 地図1:古岳周辺地図
9日目:9月17日(土) 晴      (口永良部島・初シュノーケリング)
10日目:9月18日(日) 晴      (旧道・寝待線整備)
11日目:9月19日(月) 晴      (ウミガメと遊泳)
 地図:美浦海岸・西の浜周辺地図
12日目:9月20日(火) 晴      (西の浜散策)       禁酒
13日目:9月21日(水) 晴      (徒歩でAコープ買出し)
■注
古岳、前田集落、向江浜(むかいはま)集落、七釜集落跡、照葉樹林、エラブウミヘビ(エラブー・イラブー)
■写真
☆古岳(七釜集落跡説明板、登山口、登山道・スダジイ林、登山道・ヒサカキ群落、登山道・石積の道、火口縁、火口底、噴出孔、頂上からの景色、新岳方面の稜線)、寝待給水塔、寝待防波堤、寝待先端の崖越え、立神岩の割れ目、立神岩手前海中温泉、美浦海岸・西の浜、美浦漁港、美浦海岸、西の湯・倒壊、西の浜

Part3
■寝待温泉・湯治小屋
14日目:9月22日(木) 晴      (野池散策)
 地図:野池周辺
15日目:9月23日(金) 晴      (寝待・温泉情報)     禁酒
■寝待温泉・湯治小屋
16日目:9月24日(土) 晴      (ゆうパック到着)     禁酒
17日目:9月25日(日) 晴      (金岳小・中学校運動会)  禁酒
18日目:9月26日(月) 晴      (後境・進入路探索1回目) 禁酒
19日目:9月27日(火) 晴      (星空観察)
 星空:冬の星座
20日目:9月28日(水) 雨のち晴   (寝待住民勢揃い)
21日目:9月29日(木) 雨      (湯治小屋・漏電?)
22日目:9月30日(金) 曇のち晴   (欠航丸・面目躍如)
23日目:10月1日(土) 晴      (後境・進入路探索2回目・引越しパーティー)
■注
野池、背負い籠、金岳小・中学校(エラブオオコウモリ・オキチモズク)、シツ(イスズミ)、島歌、しゃしゃんぼ(ブルーベリーの原種)、へきんこ
■写真
寝待温泉(旧温泉1、2、旧浴槽1、2、現在の温泉1、2、3、現在の浴槽1、2、現在の浴槽・パイプからの湧出、説明板、台風被害、待避壕、崖越地点)

Part4
■寝待温泉・湯治小屋
24日目:10月2日(日) 曇のち晴   (後境・進入路完成)
25日目:10月3日(月) 雨のち晴   (寝待集落清掃)
26日目:10月4日(火) 曇のち晴   (新岳登山)
27日目:10月5日(水) 雨のち晴   (部屋内でテント生活開始)
28日目:10月6日(木) 晴一時小雨  (後境・貝採り)
29日目:10月7日(金) 晴      (寝待集落清掃)
30日目:10月8日(土) 雨のち曇   (屋久島出発準備)
31日目:10月9日(日) 曇のち晴   (水源整備)
■注
新岳火山、ツワブキ、
■写真
☆新岳登山(新岳登山(砂防ダム前一周道路、登山道入口、砂防ダムから見る火口、登山道1、2、3、4、火口縁、火口、南東から見る新岳、割れ目・奥三角点山、三角点山から見る割れ目、三角点山、三角点山から見る野池全景、景色・中央本村港、右上岩屋泊、本村港から見る山並み)、、ニシンゴ(渦巻貝)、アナゴ、ナガラメ・トコブシ、亀の手

Part5】 屋久島出張編
■海楽園キャンプ場
屋久島1日目:10月10日(月) 曇    (屋久島出張)
 地図1、2,3:屋久島位置・屋久島北東部・海楽園キャンプ場略図
屋久島2日目:10月11日(火) 曇一時雨 (宮之浦散策)
屋久島3日目:10月12日(水) 曇のち雨 (神社・仏閣巡り)
 地図4,5:屋久島中央部・安房周辺
屋久島4日目:10月13日(木) 晴    (神社・仏閣巡り)
 (鑑真和上上陸之地、椋鳩十文学碑散策)
 地図6:屋久島南西部
屋久島5日目:10月14日(金) 雨    (炊事棟兼避難小屋でテント泊1日目)
屋久島6日目:10月15日(土) 雨一時曇 (炊事棟兼避難小屋でテント泊2日目)
屋久島7日目:10月16日(日) 曇一時雨 (テント防水完了)
屋久島8日目:10月17日(月) 晴    (飲み会は?)
屋久島9日目:10月18日(火) 晴    (屋久島出張・最終日)
■注(一部写真付き)
フェリー太陽、屋久島の雨、なごりの松原公園、屋久島空港、林芙美子、法華宗本仏寺(本興寺)、延喜式神名帳、鑑真和上、ポンカン老木、屋久島おおぞら高等学校、椋鳩十(むく・はとじゅう)
■写真
屋久島大社、椨川(たぶかわ)神社、小瀬田神社、長峯神社、石の区標、船行神社、粟穂神社、若宮神社、大山祗(おおやまづみ)神社、弓矢八幡神社、法華宗永昌寺、原益救(はるおやく)神社、原益救神社・2の鳥居、山河(やまんこ)公園、保食(うけもち)神社、小島神社、平内八幡神社、平内・まごころ市、平内・カンノンチク自生地、湯泊神社

Part6
■寝待温泉・湯治小屋
32日目:10月19日(水) 晴     (屋久島から口永良部島に帰島)
33日目:10月20日(木) 晴     (道路整備)
34日目:10月21日(金) 晴     (星空観察・火星)
 星空1、2、3:秋・冬・おひつじ座
35日目:10月22日(土) 雨のち晴  (メガ崎灯台散策)
 地図:口永良部島東部
36日目:10月23日(日) 晴     (釣り場・野イ瀬散策)
37日目:10月24日(月) 曇     (道路整備)
38日目:10月25日(火) 晴     (水源整備)
39日目:10月26日(水) 雨     (休養日)
40日目:10月27日(木) 晴     (本村買出し)
 地図:口永良部島中央北部(寝待~本村)
41日目:10月28日(金) 雨一時晴  (泉源に異常?)
■注
すばる(プレアデス星団)、おひつじ座、火星、道順(寝待~本村)
■写真
海楽園キャンプ場、宮之浦港堤防、フェリー太陽切符売場、口永良部島・本村港、本村港2、切符売場兼役場、寝待待避壕、町営・永迫牧場1、町営・永迫牧場2、メガ崎灯台、メガ崎灯台遠景・赤矢印、Aコープ、羽生商店、寝待温泉、湯船、道1、道2、道3、道4

Part7
■寝待・湯治小屋
42日目:10月29日(土) 曇一時雨  (簡易水道断水)
43日目:10月30日(日) 曇時々晴  (湯治小屋・1号室に移動)
 図:湯治小屋・見取り図
44日目:10月31日(月) 曇一時雨  (空缶・空瓶出し)
45日目:11月 1日(火) 晴     (布団で寝る)
46日目:11月 2日(水) 晴     (湯治小屋・1号室改装準備)
47日目:11月 3日(木) 雨     (文化の日、1号室改装完了)
48日目:11月 4日(金) 晴     (火山噴火避難訓練)
49日目:11月 5日(土) 曇     (写経・般若心経)
50日目:11月 6日(日) 雨     (座禅三昧)
51日目:11月 7日(月) 曇     (アマメ・ガジャブ・蜘蛛)
■注(一部写真付き)
文化の日(明治節)、畳の敷き方、避難発令基準
■写真
アマメ(船虫)1、アマメ(船虫)2、蜘蛛

Part8
■寝待・湯治小屋
52日目:11月8日(火) 晴      (アマメの捕獲法)
53日目:11月9日(水) 晴のち曇   (テレビは有害)
 テレビ有害論
54~58日目              (座禅瞑想・断食)
 座禅瞑想
59日目:11月15日(火) 晴     (紀宮清子内親王殿下ご結婚・七五三)
60日目:11月16日(水) 晴     (簡易水道修理)
61日目:11月17日(木) 晴一時雨  (選挙違反捜査)
62日目:11月18日(金) 曇のち晴  (温泉清掃)
■注
太陽暦採用記念日・歴、般若心経、七五三・二十八宿(にじゅうはっしゅく)
■写真
プラスチック製ブイ、田代湧水、立神1、立神2、結跏趺坐(けっかふざ)、半跏趺坐(はんかふざ)、寝待コンクリート製貯水塔、寝待温泉1、寝待温泉2

Part9
■寝待・湯治小屋
63日目:11月19日(土) 晴     (しし座流星群)
 星空:冬の星座・しし座流星群・おうし座流星群
 八段錦型:第一段錦~第八段錦(写真付き)
64日目:11月20日(日) 雨のち晴  (ヨダレカケ?)
65日目:11月21日(月) 晴     (2つの瀬・陸路進入路開通)
66日目:11月22日(火) 晴     (久しぶりの卵と唐芋掘り)
67日目:11月23日(水) 晴     (ボウフウの天ぷらは絶品)
68日目:11月24日(木) 曇     (ボウフウ収穫と鹿罠の仕掛け)
69日目:11月25日(金) 曇     (湯治客到着)
70日目:11月26日(土) ?     (食中毒)   禁酒
71日目:11月27日(日) ?     (安静日)   禁酒
72日目:11月28日(月) ?     (回復・散歩) 禁酒
■注(一部写真付き)
八段錦、ヨダレカケ、ボウフウ・長命草
■写真
寝待温泉入口(台風被害)、くくり罠(ワイヤー)、背負い籠

Part10
■寝待・湯治小屋
73日目~76日目   (建築手伝い)
 寝待集落略図
77日目~89日目   (お勤め専念期間)
■一口メモ:今日は何の日
11月23日:勤労感謝の日・旧新嘗祭
11月25日:憂国忌・三島由紀夫の忌日
12月 1日:映画の日
12月 8日:大東亜(太平洋)戦争開戦記念日
12月14日:忠臣蔵・四十七士討ち入りの日
■注(写真付き)
 沓石(くついし)、曲尺(かねじゃく)、柄(ほぞ)、コサン竹・布袋竹(ホテイチク)

Part11
■寝待・湯治小屋
90日目~99日目            (座禅瞑想・断食2回目)
 断食法
100日目:12月26日(月) 曇    (買出し)
101日目:12月27日(火) 曇    (竹竿作り)
102日目:12月28日(水) 晴    (門松作り)
103日目:12月29日(木) 晴    (竹花器製作)
104日目:12月30日(金) 晴    (自作竹竿試し釣り)
105日目:12月31日(土) 雨    (花器と竹竿作り)
■一口メモ:今日は何の日
12月23日:天皇誕生日
12月25日:クリスマス:大正天皇祭
12月31日:大晦日(おおみそか)
■注
国旗・日の丸・自衛隊旗、門松・注連(しめ)飾り・注連(しめ)縄・紙垂(しで)の作り方・とんと焼き、センリョウ(千両)、松
■写真
竹竿、竹花器

Part12
■寝待・湯治小屋
106日目:1月1日(日) 雨のち曇   (初詣)
107日目:1月2日(月) 曇一時雨   (竹竿用の竹の採取)
108日目:1月3日(火) 曇のち晴   (うなぎ仕掛け)
109日目:1月4日(水) 曇      (しぶんぎ座流星群)
 星空:2006年1月中旬
110日目:1月5日(木) 曇一時小雨  (平板到達)
 地図:寝待~湯向周辺地図
111日目:1月6日(金) 雨      (1日断食)
112日目:1月7日(土) 雨時々曇り  (七種粥・昭和天皇の崩御した日)
■一口メモ
正月行事(鏡餅、おせち料理、お屠蘇、雑煮、初詣)
■今日は何の日
1月1日:正月(日本と世界の正月)
1月7日:七種粥、昭和天皇崩御(安岡正篤)
■注
初詣、サカキ(榊)・シキミ(変毒為薬:へんどくいやく・毒を変えて薬と為す)、神社拝礼作法
■写真
金峰神社・長尾神社、竹竿用の竹、うなぎ獲りの仕掛け、鏡餅、三方、春の七草

Part13
■寝待・湯治小屋
113日目~200日目  (座禅瞑想専念)
■一口メモ
 ヒンドゥー教
 四天王
 道教(道・タオ、神仙思想、煉丹術、陰陽道、大極図)
■今日は何の日
1月10日:十日戎(七福神)
1月11日:鏡開き
1月15日:小正月(元服、ハッピーマンデー制度)
■仏教の世界観
三千大千世界・九山八海の構造(仏教の宇宙像、三界表、天の概要、須弥山、図:人間界・冥界・地獄界)→PDFファイル
■注
聖天、大極図・韓国国旗
■写真
福笹、猩猩、万福寺・布袋像、丸髷、七福神、四天王、十二天

Part14
■寝待・湯治小屋
201日目:1月16日(月) 曇のち雨  (湯治客来訪)
202日目:1月17日(火) 晴    (阪神淡路大震災記念日)
203日目:1月18日(水) 雨    (仔牛誕生)
204日目:1月19日(木) 雨    (地球観測衛星・だいち、打上げ延期)
205日目:1月20日(金) 雨    (座禅瞑想専念)
206日目:1月21日(土) 雨    (運動不足解消法)
207日目:1月22日(日) 雨のち晴 (寝待湯治小屋貸切状態)
208日目:1月23日(月) 晴 (地球観測衛星・だいち打上げ再延期、温泉清掃)
209日目:1月24日(火) 晴    (地球観測衛星・だいち打上げ)
210日目:1月25日(水) 晴    (1日断食)
■今日は何の日
1月17日:阪神淡路大震災記念日
■注
肉牛飼育・ガジュツ(紫ウコン)、地球観測衛星・だいち・H2Aロケット
■写真
仔牛競り場、ガジュツ(紫ウコン)、阪神淡路大震災(高速道路倒壊・ルミナリエ)、地球観測衛星だいち・H2Aロケット(H2A2022型)

Part15
■寝待・湯治小屋
211日目:1月26日(木) 晴    (トレーニング再開)
212日目:1月27日(金) 曇    (鹿の解体・角収集)
213日目:1月28日(土) 晴    (鹿肉料理)
214日目:1月29日(日) 雨    (ヤシの実で器作り) 禁酒1日目
215日目:1月30日(月) 曇のち晴 (ヤシの実の器完成) 禁酒2日目
216日目:1月31日(火) 雨のち晴 (1日断食) 禁酒3日目
217日目:2月 1日(水) 雨のち曇 強風(般若心経の表作成) 禁酒4日目
218日目:2月 2日(木) 晴    (般若心経の表作成・買出し) 禁酒5日目
219日目:2月 3日(金) 曇    (節分・道路工事開始) 禁酒6日目
220日目:2月 4日(土) 曇    (座禅瞑想専念) 禁酒7日目
■今日は何の日
2月3日:節分(秦山府君、冥土の旅・十王・十三仏)・天球座標図
■注
立春・立夏・立秋・立冬・二十四節気、追儺(大内裏)、泰山
■写真
雄鹿、鹿の角とヤシの実の器、節分行事・追儺祭(三木市・蓮華寺)、十王

Part16
■寝待・湯治小屋
221日目:2月5日(日) 晴     (野池散策)  禁酒8日目
 地図:寝待~野池周辺
222日目:2月 6日(月) 曇のち雨 (フェリー太陽欠航) 禁酒9日目
223日目:2月 7日(火) 雨のち曇(フェリー太陽欠航・温泉掃除・しゃぶしゃぶ) 
224日目:2月 8日(水) 曇強風  (フェリー太陽含め屋久島航路欠航) 禁酒
225日目:2月 9日(木) 曇時々晴 (温泉前工事開始) 禁酒
226日目:2月10日(金) 雨のち曇 (買出し・禁酒解禁)
227日目:2月11日(土) 晴のち曇 (野池登山道・千両採取)
228日目:2月12日(日) 晴    (水汲み)
229日目:2月13日(月) 晴    (自転車整備)
230日目:2月14日(火) 晴    (二の瀬・貝採り)
■今日は何の日
2月7日:北方領土の日(地図:北方領土(千島列島)国境線・北方四島)
2月11日:建国記念日(神武天皇即位日、建国の詔、八紘一宇、神武天皇祭)
 神武東征経路図:河内湖地図・高倉山周辺地図
■注(写真付き)
一等三角点、択捉島(えとろふ)、国後島(くなしり)、色丹島(しこたん)、歯舞群島(はぼまい)、得撫島(うるっぷ)、新知島(しむしる/しんしる)、占守島(しゅむしゅ)、四大節(しだいせつ)、四大節、推古天皇、瓊々杵命(ににぎのみこと)、速吸之門(はやすいのと)、崗之水門(おかのみなと)、高島宮、河内湖、青雲の白肩津(しらかたのつ)草香津(くさかつ)、茅渟(ちぬ)、名草戸畔(なぐさとべ)、荒坂津(あらさかのつ)、丹敷戸畔(にしきのとべ)、布都御魂(ふつのみたま)、八咫烏(やたがらす、やたのからす)、高倉山、国見丘(くにみのおか)、磐余邑(いわれのむら)、丹生の川上、磯城邑(しきのむら)、畝傍山(うねびやま)、橿原宮(かしはらのみや)
■写真
野池、一等三角点、三角点山、神武天皇、神武天皇陵、橿原神宮、北方領土

Part17
■寝待・湯治小屋
231日目:2月15日(水) 雨一時曇 (トイレ掃除)
232日目:2月16日(木) 雨    (1日断食) 禁酒
233日目:2月17日(金) 晴    (温泉清掃) 禁酒
234日目:2月18日(土) 曇    (ロケット打上げ・ひまわり7号) 禁酒
235日目:2月19日(日) 雨    (座禅瞑想専念) 禁酒
236日目:2月20日(月) 雨    (座禅瞑想専念) 禁酒
237日目:2月21日(火) 雨のち晴 (平板散策) 禁酒
238日目:2月22日(水) 晴    (ロケット打上げ・あかり)
 地図:ロケット発射場位置図
239日目:2月23日(木) 雨のち晴 (買出し・皇太子誕生日)
240日目:2月24日(金) 小雨のち曇(ツワブキ採取)
■一口メモ
 H-2Aロケット9号機「ひまわり7号」
 M-Vロケット8号機「あかり」、写真:宇宙の姿
■注(一部写真付き)
皇太子(立太子・壺切御剣・赤坂御用地・東宮御所)、ツワブキ
■写真
湯治小屋、温泉、トイレ、立神岩前露天風呂(海中温泉)、種子島ロケット発射場、H2A-9号機(H2A-2024型)、M-Vロケット8号機、M-Vロケット発射台、M-Vロケット発射、ロケットと金星、宇宙の「あかり」、ロケット軌跡

Part18
■寝待・湯治小屋
241日目:2月25日(土) 曇強風  (水汲み中止)
242日目:2月26日(日) 雨のち曇り(二・二六事件の日)
243日目:2月27日(月) 曇    (地滑り発生・寝待集落孤立)
244日目:2月28日(火) 曇一時晴 (水汲み)
245日目:3月 1日(水) 雨のち曇 (地滑り現場復旧) 
246日目:3月 2日(木) 曇    (体調異常・完全休養日) 禁酒
247日目:3月 3日(金) 雨のち曇 (雛祭り) 禁酒
248日目:3月 4日(土) 晴    (買出し) 禁酒
249日目:3月 5日(日) 晴    (お勤め再開) 禁酒
250日目:3月 6日(月) 雨    (イルカの大群)
■今日は何の日
2月26日:二・二六事件の日
3月3日:雛祭り(五節句、内裏、内裏雛の左右、雛飾り、内裏雛の左右、童謡・うれしいひなまつり、左近の桜・右近の橘、田道間守、神功皇后、非時香菓=橘)、
 図:大内裏の位置図、大内裏と内裏図、内裏図
 雛飾り並べ方説明図
■注(一部写真付き)
皇道派(君側の奸、北一輝)、宣伝ビラ、血盟団事件(井上日召、佐郷屋嘉昭、小島玄之・頭山満、田中清玄)、11月事件、五・一五事件(大川周明、三上卓・青年日本の歌(別名・昭和維新の歌)、三無事件、橘孝三郎)
■写真
Aコープ、羽生商店、蒲田商店、二十二士の墓、二・二六事件慰霊像、垂仁天皇陵・橘と桜、京都御所・橘と桜、田道間守の墓、神宮皇后朝鮮遠征画、タチバナ(橘)、文化勲章

Part19
■寝待・湯治小屋
251日目:3月 7日(火) 曇のち晴 (空き缶・空瓶処分) 禁酒
252日目:3月 8日(水) 晴    (トレーニング再開・2号室来客) 禁酒
253日目:3月 9日(木) 雨    (出発準備) 禁酒
254日目:3月10日(金) 曇のち晴 (出発延期・温泉清掃)
255日目:3月11日(土) 晴    (見送り・2号室来客) 
256日目:3月12日(日) 大雨   (お水取り・出発再延期)
257日目:3月13日(月) 曇    (フェリー太陽欠航・出発不可)
258日目:3月14日(火) 雨のち曇 (フェリー太陽欠航・出発不可)
259日目:3月15日(水) 晴    (後境案内)
260日目:3月16日(木) 雨のち曇 (座禅瞑想専念) 禁酒
■今日は何の日
3月12日:東大寺・お水とり
(試別火入り、社参、試みの湯、花拵え・燈心揃え、壇供つき、総別火入り、衣の祝儀、香薫、声明大懺悔、参籠宿所入り、大中臣祓、食作法、十一面観音悔過法要、六時の行法、大導師作法(神名帳)、咒師作法、授戒、開白上堂・法要、一徳火、松明作り、大導師作法(過去帳)、数取懺悔、走りの行法、小観音出御と後入、法華懺法、牛玉日、達陀の行法、籠松明、お水取り、達陀帽戴き、お集会、開山堂参拝、解散)
■注(一部写真付き)
東大寺、法会(ほうえ)、十一面観音(観音菩薩・六観音)、練行衆、兜率天、戒壇院、豊島茣蓙(てしまござ)、御幣、神仏習合、賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)、八斎戒(六斎日)
■写真
西の湯、西の湯倒壊、西の湯再建、戒壇院、御幣、賓頭盧尊者、釈迦、真竹、松明、籠松明、牛玉札、蓮松明、二月堂、閼伽井屋、お水取り現場、神宮寺本殿、神宮寺・閼伽水、鵜の瀬、達陀帽、東大寺大仏殿、大仏、南大門、阿形像、吽形像、聖観音、准胝観音、十一面観音、千手観音、馬頭観音、如意輪観音・如意宝珠、不空羂索観音

Part20~
■寝待・湯治小屋
 3月後半:181日目~195日目  
 4月前半:196日目~210日目
 4月後半:211日目~225日目
※口永良部島の日常は、座禅瞑想が中心となってきており、part20から各月別にプチリニューアル。
■注
 番屋ヶ峰、神武天皇祭、1日断食、干支(十干十二支の組み合わせと呼び方・干支の調べ方・還暦、干支表)、般若心経
■写真
 番屋ヶ峰(注)、電波塔、神武天皇(注)、玄奘三蔵(注)、寝待温泉防波堤嵩上げ前後、寝待西海岸(後境手前)、二の瀬崖越え、湯向温泉1、2、3、記念撮影(双子の姉妹)

Part21~】作成中

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第12章屋久島編
(平成17年7月7日~9月9日)

Part1
■屋久島
 概要
 地図1:屋久島位置地図
 地図2:鹿児島港・南埠頭周辺地図
 地図3:屋久島全島6分割地図(北東部・北西部・中央東部・中央西部・南東部・南西部)
■中継地・鹿児島
7月7日(木) 曇のち雨       (沖縄青少年会館泊)
■屋久島・海楽園キャンプ場
1日目:7月 8日(金) くもり   (屋久島・海楽園キャンプ場到着)
2日目:7月 9日(土) 曇     (周辺散策・安房~楠川温泉)
3日目:7月10日(日) 晴     (周辺散策・一湊~永田浜)
4日目:7月11日(月) 晴     (焼酎・三岳購入)
■注
鹿児島新港(第2待合所)、谷山港、、沖縄青少年鹿児島会館、アミュプラザ鹿児島、大久保利通像、天文館、屋久島大社、ふれあいパーク屋久島、楠川温泉、屋久鹿・屋久猿、矢筈(やはず)キャンプ場、いなか浜キャンプ場、ウミガメの産卵、うみがめ館、一湊(いっそう)、屋久島環境文化村センター
■写真
鹿児島港・南埠頭旅客ターミナル、鹿児島中央駅、アミュプラザ鹿児島、観覧車からの眺望・桜島、大久保利通像、大久保利通像足元・馬車夫と馬の像、天文館跡記念碑、いづろ交差点燈籠、いづろ交差点・石燈籠と大国主神社、ドルフィンポート、バスセンター、阪急バス・さつま号、南埠頭・フェリー屋久島2、宮之浦港、徳州会病院、わいわいらんど、屋久島大社・鳥居、ふれあいパーク屋久島1、ふれあいパーク屋久島2、ドラックストアー・イレブン、サムズ、楠川温泉、ヤクデン、矢筈キャンプ場、矢筈キャンプ場・炊事棟、矢筈嶽神社・鳥居、矢筈嶽神社・遠景、、矢筈嶽神社鳥居・社務所、矢筈嶽神社・拝殿、ウミガメ上陸日本一・看板、いなか浜・ビーチ、ウミガメ館、一湊ビーチ、一湊海水浴場・休憩所、環境文化村センター、町民憩いの森

Part2
■地図
 屋久島中央東部地図
 白谷雲水峡地図
 荒川登山口~縄文杉コース地図
 行程図
■屋久杉とは
■海楽園キャンプ場
5日目:7月12日(火) 晴     (楠川歩道~白谷雲水峡散策)
6日目:7月13日(水) 晴     (周辺散策・田代海岸)
7日目:7月14日(木) 曇     (周辺散策・宮之浦川~屋久島自然公園)
■登山・縄文杉
8日目:7月15日(金) 晴     (縄文杉登山・高塚小屋泊)
■海楽園キャンプ場
9日目:7月16日(土) 晴     (縄文杉~白谷雲水峡~海楽園キャンプ場)
10日目:7月17日(日) 晴    (誕生パーティー1)
11日目:7月18日(日) 曇のち晴 (誕生パーティー2)
■注(写真付き)
屋久杉(三本杉、くぐり杉、三代杉、仁王杉、翁杉、ウイルソン株、大王杉、夫婦杉、奉行杉、三本檜杉、びびんこ杉、三本足杉、二代大杉、弥生杉、縄文杉・デッキからの縄文杉縄文杉展望デッキ)、気根杉枕状熔岩、屋久島総合自然公園、トロッコ道、小杉谷集落、高塚小屋、高塚小屋先休憩舎、
■写真
ドラえもん置物、楠川登山道入口看板、楠川登山道看板、楠川歩道、白谷山荘、さつき吊橋1、さつき吊橋2、憩いの大岩、田代川、平地川の滝壺、宮之浦川上流、荒川登山口、トロッコ道・トンネル、トロッコ道・手摺の無い橋、小杉谷橋1、小杉谷橋2、小杉谷・休憩舎、トロッコ道沿いのエメラルドグリーン川、翁岳の岩峰、大株歩道入口、大株歩道入口・WC棟、大株歩道入口WC棟・内部、辻の岩屋、辻峠、太鼓岩、管理棟前広場、海楽園キャンプ場にて、海楽園キャンプ場にて、焼酎・三岳

Part3
■地図
 地図1:北東部・北西部地図
 地図2:中央東部・中央西部地図
 地図3:南東部・南西部地図
■屋久島一周
12日目:7月19日(火) 晴     (屋久島一周・青少年旅行村泊)
■海楽園キャンプ場
13日目:7月20日(水) 晴     (西部林道でヤクザルに襲われる?)
14日目:7月21日(木) 晴     (休養日)
15日目:7月22日(金) 晴     (キャンプサイトは1人ぽっち)
■登山・宮之浦岳
16日目:7月23日(土) 晴     (淀川小屋・泊)
■海楽園キャンプ場
17日目:7月24日(日) 晴のち雨  (台風接近大雨・強行軍)
■注(写真付き)
屋久杉(紀元杉、川上杉)、如竹神社、原(はるお)、ポンタン館、トローキの滝、ショバンニ・シドッチ上陸地記念碑、屋久島ユースホステルキャンプ場、平内海中温泉、湯泊温泉・入口防波堤・入口前湯船・奥の湯船、青少年旅行村、塚崎浜、大川(おおこ)湧水、大川(おおこ)の滝、西部林道、屋久島灯台、大浦温泉、小花之江河、花之江河・矢印は祠、淀川小屋、淀川橋、淀川
■写真
安房川展望台、平内公園、大川橋、大川浜、瀬切大橋、世界遺産看板、ヤクザルの群れ、永田橋から見る永田岳、愛ちゃんと宮之浦港で、紀元名水、高盤岳・トーフ岩、トーフ岩

Part4
■海楽園キャンプ場
18日目:7月25日(月) 曇     (台風7号上陸か?)
■登山:益救参道(竜神・風神・雷神杉)
 地図:屋久島北東部地図・益救参道コース地図・所要時間
19日目:7月26日(火) 晴     (高塚小屋前テント泊)
■海楽園キャンプ場
20日目:7月27日(水) 晴     (益救参道下山)
21日目:7月28日(木) 晴     (休養日)
22日目:7月29日(金) 晴のち雨・雷(カミナリの花火?)
23日目:7月30日(土) 曇のち雨・雷(大雨洪水警報・停電)
24日目:7月31日(日) 曇のち晴、夕方雷(“博多の2人組”見送り)
25日目:8月 1日(月) 晴     (安房散策)
26日目:8月 2日(火) 晴     (太忠岳登山)
 地図:太忠岳・ヤクスギランドコース地図・所要時間
■注(写真付き)
屋久杉(竜神杉、風神杉、雷神杉、通り杉、太古杉、千年杉、ひげ長老、蛇紋杉、釈迦杉、天柱杉、母子杉、三根杉、仏陀杉、双子杉、くぐり杉)、オーシャンビューキャンプ場、屋久島観光センター、松峰大橋、ヤクスギランド、一品法壽(宝珠)大権現(いっぽんほうじゅだいごんげん)
■写真
屋久島大社本殿、第2鳥居、☆益救参道(神之川分岐、注意勧告看板、登山口、石畳、祠と竜神水、渡渉点・小屋の残骸、トロッコ道跡、トロッコ道跡2)、安房展望台、展望台から見た安房大橋、盛久神社、松峰大橋、松峰大橋からの景色、荒川分れ、☆ヤクスギランド(管理棟・入口、荒川橋、花之江河登山口、清涼橋1、清涼橋2、ヤクスギランドから見る太忠岳・天柱石)、☆太忠岳登山(登山口前東屋、登山口、苔の水場、天文の森、登山道・ロープ、登山道・梯子、山頂道標、天柱石、テラスに登るロープ、テラス、テラスからの花折岳、一品法壽大権現・祠)

Part5
■海楽園キャンプ場
27日目:8月 3日(水) 晴    (キャンプサイトに中学生集団)
28日目:8月 4日(木) 晴一時雨 (台風接近・中学生集団屋久島脱出)
29日目:8月 5日(金) 晴一時雨 (宮之浦・神社仏閣詣)
30日目:8月 6日(土) 晴一時雨 (愛子岳登山・屋久島ご神山祭り初日)
 地図:屋久島北東部地図・愛子岳コース地図・所要時間
31日目:8月 7日(日) 晴一時雨 (屋久島ご神山祭り2日目・花火大会)
32日目:8月 8日(月) 晴    (屋久島ご神山祭り3日目・青森ねぶた)
33日目:8月 9日(火) 晴    (テントサイト整備)
34日目:8月10日(水) 晴    (矢筈灯台散策)
35日目:8月11日(木) 晴    (横河渓谷散策)
 地図:横河渓谷コース地図
36日目:8月12日(金) 晴    (千尋の滝散策)
 地図:屋久島南東部地図
■注
山口神社、久本寺(くほんじ)、檀那墓(だんなばか)、川向(かわむかへ)神社、焼酎・愛子、屋久島ご神山祭り、千尋(せんびろ)の滝、益救(やく)神社(拝殿前鳥居、拝殿、仁王像)、青森ねぶた
■写真
☆屋久島ご神山祭り(ご神山祭り・会場、みそぎ神事、ご神火おこし装置、かがり火点火矢、屋久島太鼓、花火1、花火2、花火3、ねぶた1、ねぶた2)、☆愛子岳登山(登山道入口、小瀬田集落から見る愛子岳、登山口案内板、愛子岳入口、登山道1、登山道2、登山道3、登山道4、しるべの木、とまりの木、頂上部遠景、頂上直下岩場1、頂上直下岩場2、頂上、祠)、楠川歩道登山口入口、楠川天満宮、矢筈灯台1、矢筈灯台2、遊歩道・階段、矢筈嶽神社前、☆横河渓谷(駐車場、遊歩道、自然の滑り台、淀みプール1、淀みプール2)、☆千尋の滝(竜神の滝、千尋の滝・原集落と太平洋、げじべえの里、第2展望台、通行止め看板、吊橋1、吊橋、千尋の滝1、千尋の滝2)

Part6
■黒味岳登山(花之江河歩道)
 地図1:花之江河歩道・黒味岳・湯泊歩道地図・所要時間
 37日目:8月13日(土) 晴     (黒味岳山頂にてベルセウス座流星群観察)
■湯泊歩道
 地図2:湯泊歩道コース地図・所要時間
38日目:8月14日(日) 晴     (湯泊温泉三昧)
■海楽園キャンプ場
39日目:8月15日(月) 晴     (宮之浦散歩・城ケ平城跡)
40日目:8月16日(火) 雨     (楠川温泉)
■青少年旅行村
 地図3:屋久島南西部・蛇之口ハイキングコース地図・所要時間
41日目:8月17日(水) 晴     (蛇之口の滝散策)
■海楽園キャンプ場
42日目:8月18日(木) 晴     (栗生・塚崎の浜でシュノーケリング)
 地図4:屋久島南西部・青少年旅行村周辺地図
43日目:8月19日(金) 雨のち晴  (休養日)
■注(写真付き)
大和杉、石塚小屋、九州工業大の看板内容、ワレノ岩屋、湯川(ゆーご)の滝、城ケ平城跡(じょうがひらじょうあと)、蛇之口滝、尾之間温泉、ベルセウス座流星群、塚崎の浜
湯泊歩道コース地図・所要時間
蛇之口ハイキングコース地図・所要時間
■写真
☆花之江河歩道(荒川別れ三叉路、ヤクスギランド入口、花之江河歩道登山口、ビャクシン沢渡渉点、奥岳の景色、登山道1、登山道2、登山道3、水場、旧花之江河小屋跡、花之江河、黒味岳登山(花之江河から見る黒味岳、黒味岳分岐、岩場のロープ、登山道1、登山道2、登山道3、山頂直下、山頂1、山頂2)、☆湯泊歩道(花之江河、花之江河・祠、栗生歩道分岐、高盤岳・トーフ岩、デー太郎岩屋看板、登山道1・倒木、登山道2、三能山舎跡、七五岳分岐、林道、林道の終点ゲート、ゲート前広場から見る七五岳、林道・舗装道、湯川の滝)、食事処・浜湯、湯泊温泉1、湯泊温泉2、湯泊温泉入口、湯泊温泉入口湯船、湯泊温泉・海沿い湯船、☆蛇之口ハイキングコース(尾之間歩道入口、ハイキングコース1、ハイキングコース2、尾之間歩道分岐、尾之間歩道分岐東屋、鈴川の右俣渡渉点、鈴川大岩から見るハイキングコース終点)

Part7
■海楽園キャンプ場
44日目:8月20日(土) 雨    (宮之浦ぶらぶら)
45日目:8月21日(日) 雨のち晴 (屋久島地方・大雨洪水注意報)
■宮之浦岳縦走
 地図1:屋久島南東部地図 
 地図2:尾之間歩道地図 
 地図3:尾之間歩道~花之江河地図
 地図4:宮之浦岳周辺地図
 地図5:縄文杉周辺地図
 地図6:トロッコ道~荒川口地図
 地図7:屋久島中央部地図
 所要時間:尾之間歩道・宮之浦岳登山・トロッコ道
46日目:8月22日(月) 晴    (尾之間歩道から淀川小屋泊)
47日目:8月23日(火) 晴のち雨 (新高塚小屋泊)
■海楽園キャンプ場
48日目:8月24日(水) 雨のち晴 (路線バス・バックで爆走)
49日目:8月25日(木) 雨のち晴 (大雨・洪水・雷・高波注意報発令中)
 地図8:宮之浦川(羽神の滝・牛床詣所)周辺地図
50日目:8月26日(金) 晴     休養日)
■注(写真付き)
上屋久町歴史民俗資料館、宮之浦岳、淀川小屋、小花之江河・花之江河、宮之浦岳西峰、新高塚小屋、高塚小屋、、羽神(はがみ)の滝、牛床詣所(うしとこもいしょ)
■写真
☆尾之間歩道(温泉神社、尾之間歩道入口、分岐:右斜め上尾之間歩道、左蛇之口滝、分岐東屋、登山道、登山道・橋、乗越、鯛之川・渡渉点、登山道・巨木、淀川側入口)、☆宮之浦岳縦走(淀川入口、淀川鉄橋、高盤岳・トーフ岩、登山道・岩場1、登山道・岩場2、投石平手前、投石平・後方黒味岳、投石岩屋、高倉氏の遭難碑、登山道・水場、栗生岳、くりお岳看板、栗生岳・祠、平石岩屋、登山道・稜線、第二展望台、登山道・ヒメシャラ、新高塚小屋、高塚小屋、縄文杉手前・休憩舎、縄文杉テラス下、縄文杉、大株歩道入口、トロッコ道・休憩舎、荒川口)

Part8
■モッチョム岳登山
 地図1:モッチョム・千尋滝ルート地図・所要時間
51日目:8月27日(土) 晴     (千尋の滝展望台下でテント泊)
■海楽園キャンプ場
52日目:8月28日(日) 曇一時雨  (トンゴの滝散策)
 地図2:トンゴの滝・安房周辺地図
53日目:8月29日(月) 晴一時雨  (台風13号発生)
54日目:8月30日(火) 曇一時雨  (白川山集落散策)
 地図3:屋久島北西部地図
55日目:8月31日(水) 晴一時雨  (楠川城散策)
 地図4:屋久島北東部地図
56日目:9月 1日(木) 晴一時雨  (屋久島脱出準備完了)
57日目:9月 2日(金) 晴一時雨  (琴岳周辺散歩・口永良部島出発延期)
 地図5:海楽園キャンプ場~琴岳周辺地図
58日目:9月 3日(土) 曇一時雨  (台風14号・屋久島直撃コース)
59日目:9月 4日(日) 雨     (台風14号上陸に備え避難)
60日目:9月 5日(日) (台風14号通過・1日目)
61日目:9月 6日(月) (台風14号通過・2日目)
62日目:9月 7日(火) 晴     (台風一過)
63日目:9月 8日(木) 曇のち晴  (屋久島脱出準備)
最終日:9月 9日(金) 曇のち雨  (屋久島から口永良部島へ)
■注(写真付き)
モッチョム岳(本富岳)、人面岩遠景、人面岩・アップ、万代杉、モッチョム太郎、モッチョム花子、トンゴの滝、山尾三省(やまお さんせい)、民宿・平和小館白河、平和道場、禅寺・芙蓉寺、白川橋下看板内容、楠川城、楠川城売店、釈迦堂
モッチョム・千尋滝ルート地図・所要時間
■写真
☆モッチョム岳登山(屋久島大社、ふれあいパーク屋久島、安房川見晴らし台、ポンタン館、トローキの滝、モッチョム岳・尾之間から、モッチョム岳・原(はるお)の山河公園から、げじべえの里、祈願所・奥が登山口、登山道入口、登山道・沢手前、登山道・沢、登山道・木の根っこ道、登山道・苔むし道、神山展望台、神山展望台眺望・モッチョム山頂、登山道・鞍部大岩1、登山道・鞍部大岩2、登山道・急坂、登山道・尾根、登山道・花崗岩の一枚岩、頂上・ロープ、山頂、祠)、☆白川山集落(白川橋、集落略図・看板、愚角庵)


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第11章ヨロン島編
(平成17年6月29日~7月7日)
■ヨロン島
 概要
 地図1、2、3
■中継地沖縄
6月29日(水) 晴  (那覇市樋川1丁目・ドミトリー)
■ヨロン島・大金久(おおかねく)キャンプ場
1日目:6月30日(木) 晴  (ヨロン島再訪問)
2日目:7月1日(金) 晴  (島内1周ポタリング)
3日目:7月2日(土) 晴  (“むぎ”奄美大島に出発)
4日目:7月3日(日) 晴  (洞窟探検)
5日目:7月4日(月) 晴強風  (プロ写真家来訪)
6日目:7月5日(火) 晴  (ヨロン島歴史探訪)
7日目:7月6日(水) 晴  (子犬との悲しい別れ)


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第10章宮古島編
(平成17年6月23日~6月28日)
■宮古島
 概要
 地図1,2,3
■与那覇前浜キャンプ場
1日目:6月23日(木) 晴のち雨  (石垣島から宮古島へ)
2日目:6月24日(金) 小雨    (宮古島一周ドライブ)
3日目:6月25日(土) 晴     (与那覇前浜ビーチコンサート)
4日目:6月26日(日) 晴     (石垣島ポタリング)
5日目:6月27日(月) 晴     (伊良部島・下地島散策)
6日目:6月28日(火) 晴     (オトーリ体験)


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第9章石垣島(竹富島・与那国島)
(平成17年5月19日~6月22日 )

【Part1】(石垣島or竹富島)
■石垣島
 概要
 地図1:石垣島全島地図
 地図2:離島桟橋(民宿・旅の宿)周辺地図
 地図3:楽園キャンプ場地図
■民宿・旅の宿
1日目:5月19日(木) 晴      (波照間から石垣へ)
2日目:5月20日(金) 雨のち曇  (石垣ぶらぶら1日目)
3日目:5月21日(土) 雨のち晴  (石垣ぶらぶら2日目)
■南夢(みなみのゆめ)楽園キャンプ場
4日目:5月22日(日) 晴      (楽園キャンプ場に移動)
5日目:5月23日(月) 晴      (竹富島日帰り)
 記:御嶽:おん・六山:むーやま・村御嶽:むらおん
 地図4:竹富島全島地図
■注
石垣市立図書館、八重山平和祈念館、宮良殿内(みやらどぅんち)、桃林寺(とうりんじ)・権現堂、長崎御嶽(うたき)、てーどぅんかりゆし館、安里屋クヤマの墓、ゆがふ館
■写真
石垣図書館、730交差点、楽園キャンプ場入口、宮良殿内、桃林寺、権現堂、富崎観音堂、竹富港、中筋井戸、カイジ浜、安里屋クヤマの墓、なごみの塔、水牛車観光、竹富島の町並み、観音崎灯台、観音崎公園東屋、観音崎岬東屋、観音崎夕日、①玻座間御嶽、②仲筋御嶽、③幸本御嶽、④久間原御嶽、⑤花城御嶽、⑥波利若御嶽、⑦国仲御嶽、⑧清明御嶽、⑨西塘御嶽、⑩世持御嶽、ミルク神

Part2
■南夢(みなみのゆめ)楽園キャンプ場
6日目:5月24日(火) 晴のち雨     (白保探索)
7日目:5月25日(水) 雨のち曇     (夏用テントに張替)
8日目:5月26日(木) 晴         (御神崎:うがんざき散策)
9日目:5月27日(金) 晴一時小雨   (夕日は最高)
10日目:5月28日(土) 晴一時小雨  (公園散策)
11日目:5月29日(日) 雨のち晴    (星空観察)
 星空:夏の星座
 北極星の見つけ方
12日目:5月30日(月) 晴        (読書三昧)
13日目:5月31日(火) 晴        (テント移動)
14日目:6月 1日(水) 晴のち雨    (読書三昧)
15日目:6月 2日(木) 晴一時小雨  (原因不明のパンク)
16日目:6月 3日(金) 曇のち大雨  (犯人は石垣島空港ガードマン?)
■注
 国道390号、オヤケアカハチ、明和の大津波、白保サンゴ礁、波照間御嶽、柳田国男歌碑、富崎観音堂、唐人墓、北極星、石垣空港
■写真
オヤケアカハチの碑、明和の津波石、明和の慰霊碑、宮良川のヒルギ林、嘉手苅御嶽、真謝御嶽、神の道、波照間御嶽、多原御嶽、柳田国男歌碑、富崎観音堂、唐人墓、名蔵湾・端は屋良部崎、屋良部崎、御神崎灯台、御神崎緑地・中央左端慰霊碑、その右観音像、サザンゲートブリッジ、八島公園東屋、新川児童公園、憲法9条の碑、ほほえみの鐘、世界平和の鐘、石垣空港

Part3
■地図
 石垣島全島地図
■南夢(みなみのゆめ)楽園キャンプ場
17日目:6月 4日(土) 晴      (川平:かびら散策)
18日目:6月 5日(日) 晴      (米原キャンプ場下見)
19日目:6月 6日(月) 晴      (バンナ岳・前勢岳:まえせだけ散策)
■米原キャンプ場
20日目:6月7日(火) 曇       (米原キャンプ場に移動)
21日目:6月8日(水) 晴       (平久保半島散策・自転車のワイヤー切断)
■南夢(みなみのゆめ)楽園キャンプ場
22日目:6月 9日(木) 晴       (米原から楽園へ・コウノトリ再会)
23日目:6月10日(金) 晴       (石垣島ハーリー)
24日目:6月11日(土) 晴一時雨  (キャンプ場の青年の就職祝い)
25日目:6月12日(日) 曇のち大雨 (小浜島“ちゅらさん祭り”行き中止)
26日目:6月13日(月) 曇のち雨  (CDプレヤー購入)
■注
 電信屋、サッカーパークあかんま、底原ダム、ハーリー
■写真
 電信屋1、電信屋2、電信屋前海岸、川平(かびら)湾、底地(すくじ)ビーチ入口、底地(すくじ)ビーチ、吉原展望台、吉原・山原(やまばれ)間景色1、吉原・山原(やまばれ)間景色2、ポーザーおばさんの食卓、トミーのパン、八重山ヤシ林群落入口、八重山ヤシ林群落、サッカーパークあかんま・左は底原ダム、底原ダム、ウコン、バンナ岳入口、バンナ岳展望台、前勢岳展望台、前勢岳展望台から見た市街地、米原キャンプ場、米原キャンプ場炊事棟、米原海岸、吹通川(ふきどうがわ)ヒルギ群落、野底岳(野底マーべー)、野底岳登山口、野底岳山頂、野底岳・東側景色、野底岳・南西側景色、平久保崎灯台、平久保崎景色、喫茶トムル、明石食堂、トムル崎海岸、トムル層、玉取崎展望台、玉取崎展望台景色・右太平洋、左東シナ海、とんかつ「力」、コウノトリ1、コウノトリ2 (本文中写真:ハーリー、楽園キャンプ場)

Part4】(石垣島or与那国島)
■南夢(みなみのゆめ)楽園キャンプ場
 27日目:6月14日(火) 曇のち雨  (ヨット訪問)
■与那国島(民宿・どなん地球遊人)
 地図:与那国島全島
28日目:6月15日(水) 曇のち雨  (与那国島再訪問)
29日目:6月16日(木) 曇      (与那国島の見送り方)
30日目:6月17日(金) 曇時々晴  (新川鼻踏破ルート探検)
 地図:海底遺跡の岬・新川鼻徒歩ルート地図
31日目:6月18日(土) 晴      (八重山古典音楽大会観賞)
32日目:6月19日(日) 晴      (ヨナグニサン昼夜探索)
 記:ヨナグニサンについて
■南夢(みなみのゆめ)楽園キャンプ場
33日目:6月20日(月) 晴      (与那国島から石垣島へ)
34日目:6月21日(火) 晴      (白保サンゴ礁でシュノーケリング)
 地図:白保サンゴ分布地図
35日目:6月22日(水) 晴      (スクーター組サンゴ毒感染)
■注
 海底遺跡、アンガイミドゥチ、海触崖(かいしょくがい)、六畳ビーチ、ヨナグニサン生息地、白保サンゴ礁
■写真
与那国島・波照間島フェリー乗場、フェリー・よなくに、民宿・どなん地球遊人、民宿のお母さん、どなん地球遊人テントサイト、お見送り、ダンヌ浜、どんぐりと山猫入口、どんぐりと山猫店内、海底遺跡、新川鼻自然遊歩道、人面岩、新川鼻徒歩ルート1、新川鼻徒歩ルート2、新川鼻(右端)遠景とルート(赤線)、海触崖(かいしょくがい)、新川鼻、記念撮影(右端むぎ、中央後部健ちゃん、左列前・中スクーター組、後神戸の女、ティンダハナタ、6畳ビーチ入口、6畳ビーチ崖上、崖上からの6畳ビーチ、6畳ビーチ洞窟、与那国空港、最後の夕日が見える丘、与那国島フェリー乗場、与那覇医院、ヨナグニサン:卵、孵化(ふか)1齢成虫、2齢成虫、3齢成虫、4~5齢成虫、繭(まゆ)、羽化、交尾、白保サンゴ礁:白保海岸1、白保海岸2、白保海岸3、白保海岸船着場、白保サンゴ礁、アオサンゴ、アオサンゴ群落、ユビエダサンゴ、エダサンゴ、エダサンゴのマイクロアトール


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第8章波照間島編
(平成17年5月16日~5月19日)
■中継地・石垣島
5月16日(月) 晴一時雨     (石垣島・民宿「旅の宿」)
■日本最南端の地:波照間島
 概要
 地図
1日目:5月17日(火) 晴    (日本最南端の地・高那崎or南十字星観測)
 星空1、2、3
 南十字星
2日目:5月18日(水) 晴        (島内探索)
3日目:5月19日(木) 晴一時小雨  (波照間島から石垣島へ)


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第7章与那国島編
(平成17年5月10日~5月16日)
■日本最西端・与那国島
 概要
 地図
■中継地石垣島
 月10日(火) 曇          (民宿・旅の宿)
■与那国島:民宿「ふくやま」
1日目:5月11日(水) 曇時々晴   (ゲロ船航路で与那国島へ)
2日目:5月12日(木) 曇のち雨   (与那国一周)
3日目:5月13日(金) 晴のち一時雨 (与那国探索1)
4日目:5月14日(土) 曇のち雨   (与那国探索2)
5日目:5月15日(日) 雨      (休息日)
6日目:5月16日(月) 晴一時雨   (与那国島から石垣島へ)


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第6章西表編
(平成17年4月9日~5月10日)

Part1
■イリオモテヤマネコのすむ西表島
 1、概要
 2、ヤマネコは普通のネコとどう違う?
 3、形態
■「星の砂・キャンプ場」 評価★
4月 9日(土) 晴     (星砂の浜・キャンプ場到着)
 地図:星の砂・キャンプ場
4月10日(日) 晴のち曇  (ゆしどうふ?)
4月11日(月) 曇     (浦内川観光)
■ミトレアキャンプ場 評価★★★
4月12日(火) 曇のち雨  (星の砂・キャンプ場からミトレアキャンプ場へ)
■写真
石垣島・離島桟橋、上原港、星砂の浜、星の砂キャンプ場、スーパー川満、月ヶ浜、子午線モニュメント、西表トンネル、浦内川遊覧船乗場、浦内川自然研究路、マリュドゥの滝、カンピレーの滝、セマルハコガメ、セマルハコガメ・裏、ミトレアキャンプ場1、ミトレアキャンプ場2、ヤエヤマオオコウモリ、シロハラクイナ

Part2
■地図:西表島
■ミトレアキャンプ場 評価★★★ 
4月13日(水) 雨のち曇  (日本最南端の温泉、西表島温泉入浴)
4月14日(木) 晴     (カンムリワシとコウノトリ?)
4月15日(金) 晴     (山ちゃんと再会)
4月16日(土) 晴     (バラス島でシュノーケリング)
4月17日(日) 曇のち雨  (休養日)
■注
ピナイサーラ、大見謝(おおみじゃ)ロードパーク、カンムリワシ、西表野生生物保護センター、忘勿石、南風見田の浜、バラス島
■写真
 ピナイサーラの滝、大見謝(おおみじゃ)ロードパーク、由布島、西表島温泉入口、カンムリワシ1、カンムリワシ2、忘勿石(わすれないし)、南風見田(はいみだ)の浜、南風見田(はいみだ)キャンプ場、アカショウビン、バラス島

Part3
■ミトレアキャンプ場 評価★★★
4月18日(月) 雨のち曇  (釣りに挑戦)
4月19日(火) 雨のち晴  (ルアーフイッシング実践)
4月20日(水) 曇のち雨  (フライシートのジッパー破損)
4月21日(木) 晴     (夜間のガザミ捕り)
4月22日(金) 曇一時大雨 (長期滞在準備)
4月23日(土) 曇     (西表島縦走)
 地図:西表島縦走(大富~軍艦岩)・道程
4月24日(日) 晴一時雨  (初めての喫茶店とケーキ)
■写真
セマルハコガメ1、、セマルハコガメ2、コノハズク、ヤエヤマオオコウモリ、ヤモリ、ズアカアオバト、アカショウビン、キシノウエトカゲ、オオゴマダラ、カンムリワシ、ガザミ、海中道路(右山・左海側)、山側からの海中道路
■縦走路写真
 仲間川展望台、着登山道入り口、古見・大富分岐、第1山小屋跡、イタジキ川出会い、第2山小屋跡(カンナバラ小屋)、カンピレーの滝、マリュドゥの滝、軍艦岩船着場

Part4
■地図:西表島
■ミトレアキャンプ場 評価★★★
4月25日(月) 雨のち曇  (星砂の浜での貝採り延期)
4月26日(火) 晴のち雨  (初釣果)
4月27日(水) 晴     (星砂の浜でも大漁)
4月28日(木) 晴     (ピナイサーラの滝トレッキング)
 地図:ピナイサーラの滝トレッキング ※道程は右欄
4月29日(金) 晴     (潮干狩り)
4月30日(土) 晴     (ゴールデンウイークは人・人・人)
5月 1日(日) 晴     (宇多良:ウタラ炭坑跡探索)
■注
 リーフ、宇多良炭鉱
■写真
高瀬貝、アオブダイ、シオマネキ、ミナミコメツキガニ、うたら橋、レールの支柱、アコウ
■道程(ピナイサーラの滝路)写真
テドウ山登山口道標(取水口分岐)、赤いリボンの目印、テドウ分岐、ピナイサーラの滝上、ピナイサーラの滝下、ピナイ川渡渉地点、ヒナイ川沿いの湿地帯、マングローブ林、海中道路山側の出入口、出入口からの海中道路

Part5
■地図:西表島(南部海岸踏破路)
■ミトレアキャンプ場 評価★★★
5月 2日(月) 晴     (南部海岸日帰り踏破)
 砂川小屋~鹿川間道程地図:PDFファイル
5月 3日(火) 曇のち晴  (西表島温泉)
5月 4日(水) 晴     (ナナフシ発見)
5月 5日(木) 晴のち曇  (西表島温泉)
5月 6日(金) 曇一時雨  (読書三昧)
5月 7日(土) 晴     (上原山と脇道散策)
5月 8日(日) 曇のち晴  (西表島最後の日?)
5月 9日(月) 雨のち曇  (出発延期)
5月10日(火) 曇     (西表島脱出)
■写真
イリオモテヤマネコ発見捕獲の碑、網取港・奥右手廃村記念碑、網取村廃村記念碑、船浮・旧日本軍壕、アマミナナフシ、船浦港、大原港、上原山、上原港
■道程(南部海岸踏破路)写真
白浜港、船浮港、イダの浜(キャンプ可、サバ崎道登山口、網取湾(対岸に東海大学研究所)、砂川小屋跡(ケイユウオジイとシロの浜の碑)、白いブイを目印、鹿川の浜、クイラ浜の山越(崖越)、南風見田の浜


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第5章久米島編
(平成17年4月4日~4月8日)
ヨロン島から沖縄・那覇へ
■こんな偶然ってあり!不思議体験(民宿での出来事)
4月4日(月) 晴  「民宿・安らぎ」・泊(素泊り¥2,000)
 ぶらり久米島
■「シンリ浜キャンプ場」・テント泊
1日目:4月5日(火) 晴   (長旅の男性と遭遇)
2日目:4月6日(水) 曇   (シンリ浜海開き神事)
3日目:4月7日(木) 曇一時雨  (希少種・ヤツガシラと対面)
久米島出発
■那覇新港~石垣へ
4月8日(金) 晴 


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第4章九州編(宮崎・志布志・与論島)
(平成17年3月24日~4月4日)
■九州本土・通り掛り(宮崎~志布志)
3月24日:(木) 晴  24時間営業「ファミリーレストラン・ジョイフル」・休憩泊
3月25日:(金) 晴・強風  フェリー・船中泊
■古の日本最南端・ヨロン島で休養中
1日目:3月26日(土) 晴  「大金久(おおかねく)キャンプ場」・バンガロー・泊
2日目:3月27日(日) 雨         (連泊)
3日目:3月28日(月) 雨         (連泊)
4日目:3月29日(火) 晴のち一時雨  (連泊)
5日目:3月30日(水) 晴・強風     (連泊)
6日目:3月31日(木) 曇     (連泊)
7日目:4月 1日(金) 晴・強風 (連泊)
 ヨロンの墓
8日目:4月 2日(土) 雨・強風 (連泊)
9日目:4月 3日(日) 晴・強風 (連泊)
10日目:4月 4日(月) 晴・強風  ヨロン島から沖縄本島へ
 ヨロン島案内
 ヨロン島地図
■青島写真
■ヨロン島写真
■与論島方言


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第3章和歌山編(高野山・熊野古道、串本ぶらぶら)
(平成17年3月13日~3月23日)
■高野山参拝
3月13日:南海フェリー乗り場」・ベンチ泊
3月14日:サウナ泊(\2600)
 備考:高野山、奥の院、檀上伽藍、金剛峯寺、大門、高野山リンク
■熊野古道散策
 備考欄:「熊野古道」と「熊野九十九王子」、熊野古道リンク
3月15日:「湯浅旅館」・泊(素泊\4000) 
 注:藤代皇子、鈴木屋敷跡
3月16日:「ビジネスホテル・ホワイト」・泊(素泊\5000)
 注:南方熊楠、闘鶏神社
3月17日:「国民宿舎・みなべ」・泊(\8445)
3月18日:「川湯野営場木魂(こだま)の里キャンプ場」・テント泊(1泊\600)
3月19日:「川湯野営場木魂(こだま)の里キャンプ場」・テント泊(連泊)
 注:熊野本宮大社、大斎原(おおゆのはら)、大鳥居、熊野三山リンク
3月20日:「民宿・紀の国」・1泊目(素泊\3000)
■串本~那智勝浦温泉ぶらぶら
3月21日:「ホテル・中ノ島」泊
3月22日:「民宿・紀の国」・2泊目
3月23日:「民宿・紀の国」・3泊目
■串本ぶらぶら・おまけ
 串本・姫方言
■写真
 藤代王子、切目王子、芳養王子、出立王子、稲葉根王子、滝尻王子、発心門王子、牛馬童子像、高野山(奥の院・御廟、金剛峯寺、根本大塔、御影堂、大門)、熊野本宮大社1,2,3、大鳥居、、串本海中公園、串本:橋杭岩、弘法の湯、串本大橋、潮岬灯台、本州最南端の碑、潮岬観光タワー、望楼の芝、望楼の芝キャンプ場1、2、、望楼の芝崖下海岸入口、散骨場所1、23


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第2章四国編
(平成16年12月27日~平成17年3月13日)

Part1
■四国108ヶ寺(四国88ヶ所・四国別格20霊場)巡礼遍路(40日間)
1日目:12月27日(月) 曇り一時晴れ風強し (上坂町ファミリースポーツ公園東屋・テント泊) 
 88-1番札所・霊山寺(りょうぜんじ)
 88-2番札所・極楽寺(ごくらくじ)
 88-3番札所・金泉寺(こんせんじ)
 88-4番札所・大日寺(だいにちじ)
 88-5番札所・地蔵寺(じぞうじ)
2日目:12月28日(火) 晴 (道の駅・どなり前宮内川公園キャンプ場・テント泊)
 別格-1番札所・大山寺(たいさんじ)
 88-6番札所・安楽寺(あんらくじ)
 88-7番札所・十楽寺(じゅうらくじ)
3日目:12月29日(水) 雨 (道の駅どなり東屋・テント泊) 
4日目:12月30日(木) 曇のち晴一時みぞれ (道の駅どなり東屋・テント連泊)
 88-8番札所・熊谷寺(くまたにじ)
 88-9番札所・法輪寺(ほうりんじ)
 88-10番札所・切畑寺(きりはたじ)
5日目:12月31日(金) 雨と雪 (道の駅どなり出入口・テント泊)
6日目:平成17年1月1日(土) 晴 (鴨の湯無料宿泊所・泊)
 88-11番札所・藤井寺(ふじいでら)
■写真(放浪記・アルバムにて掲載 ※2回目巡礼遍路分を含む horoki-1-sikoku)
板東駅、1番・霊山寺、ドイツ村入口(野営候補地)、2番札所・極楽寺、阿波川端駅(野営候補地)、3番札所・金泉寺、4番札所・大日寺、5番札所・地蔵寺、上坂町ファミリースポーツ公園1(野営候補地)、上坂町ファミリースポーツ公園2、別格1番・大山寺、6番札所・安楽寺、7番札所・十楽寺、8番札所・熊谷寺、9番札所・法輪寺、天然温泉御所の郷(土成町健康センター)
道の駅どなり(野営候補地)、道の駅どなり東屋 (野営候補地)、宮内川公園キャンプ場、10番札所・切幡寺、金清(かねきよ)温泉「白鳥荘」、上桜(うえざくら)公園(2回目分)、保養センター・上桜温泉(2回目分)、江川湧水休憩所・いやしの舎(2回目分)、鴨島温泉・鴨の湯、鴨島温泉・善根宿1、鴨島温泉・善根宿2、11番札所・藤井寺

Part2
■四国108ヶ寺巡礼遍路(40日間)
7日目:1月2日(日) 晴  (かどや旅館・泊)
 別格-2番札所・童学寺(どうがくじ)
 88-12番札所・焼山寺(しょうざんじ)
8日目:1月3日(月) 晴 (川の駅かつうら・星谷運動公園東屋・テント泊)
 88-13番札所・大日寺(だいにちじ)
 88-14番札所・常楽寺(じょうらくじ)
 88-15番札所・国分寺(こくぶんじ)
 88-16番札所・観音寺(かんおんじ)
 88-17番札所・井戸寺(いどじ)
 88-18番札所・恩山寺(おんざんじ)
 88-19番札所・立江寺(たつえじ)
9日目:1月4日(火) 晴のち曇 (川の駅かつうら・星谷運動公園東屋テント連泊)
 別格-3番札所・慈眼寺(じげんじ)
10日目:1月5日(水) 曇一時雪 (民宿・みゆき荘 泊)
 88-20番札所・鶴林寺(かくりんじ)
 88-21番札所・太龍寺(たいりゅうじ)
 88-22番札所・平等寺(びょうどうじ)
11日目:1月6日(木) 曇のち雨 (旅館・みなみ泊)
 88-23番札所・薬王寺(やくおうじ)
 別格-4番札所・鯖大師本坊(さばたいしほんぼう)
■写真(放浪記・アルバムにて掲載 ※2回目巡礼遍路分を含む horoki-1-sikoku)
別格2番札所・童学寺、道の駅・温泉の里神山、神山温泉(2回目分)、神山町農村ふれあい公園(2回目分)、鍋岩・おへんろ駅バス停、鍋岩・田中食堂、杖杉庵 四国遍路元祖・衛門三郎終焉の地、12番札所・焼山寺、焼山寺・竜王窟、鮎喰川・入田町梅先植木市ステージ(2回目分)、13番札所・大日寺、14番札所・常楽寺、15番札所・国分寺、16番札所・観音寺、17番札所・井戸寺、18番札所・恩山寺、19番札所・立江寺、星谷運動公園(川の駅・かつうら)東屋、別格3番札所・慈眼寺、前川キャンプ場、民宿・みゆき荘、20番札所・鶴林寺、民宿・坂口屋、民宿・龍山荘、21番札所・太龍寺、天井画、舎心ヶ嶽大師像1,2、道の駅・わじき、22番札所・平等寺、喫茶・民宿山茶花、福井ダム、旅館・みなみ、海部町東屋休憩所、23番札所・薬王寺、別格4番札所・鯖大師本坊

Part3
■四国108ヶ寺巡礼遍路(40日間)
12日目:1月7日(金) 晴 (夫婦岩休憩所東屋・テント泊)禁酒
13日目:1月8日(土) 晴 (道の駅・キャラメッセ室戸、鯨館・鯨の郷・テント泊) 禁酒
 88-24番札所・最御崎寺(ほつみさきじ)
 88-25番札所・津照寺(しんしょうじ)
 88-26番札所・金剛頂寺(こんごうちょうじ)
14日目:1月9日(日) 晴 (道の駅大山・テント泊) 禁酒
 88-27番札所・神峯寺(こうみねじ)
15日目:1月10日(月) 晴 (桜づつみ公園 屋外劇場・テント泊) 禁酒
 88-28番札所・大日寺(だいにちじ)
16日目:1月11日(火) 晴 (民宿・英光 泊)
 88-29番札所・国分寺(こくぶんじ)
 88-30番札所・善楽寺(ぜんらくじ)
 88-31番札所・竹林寺(ちくりんじ)
 88-32番札所・禅師峯寺(ぜんじぶじ)
 88-33番札所・雪蹊寺(せっけいじ)
■写真(準備中)
夫婦岩休憩所、道の駅キャラメッセ室戸・鯨館・鯨の郷、24番札所・最御崎寺、25番札所・津照寺、26番札所・金剛頂寺、道の駅大山、二十三志温泉、27番札所・神峯寺、道の駅やす・ヤ・シーパーク、28番札所・大日寺、桜づつみ公園、29番札所・国分寺、30番札所・善楽寺、サンピア高知、31番札所・竹林寺、32番札所・禅師峯寺、33番札所・雪蹊寺(せっけいじ)、民宿・英光 

Part4
■四国108ヶ寺巡礼遍路(40日間)
17日目:1月12日(水) 晴  (柳屋旅館 泊)
 88-34番札所・種間寺(たねまじ)
 88-35番札所・清滝寺(きおたきじ)
 88-36番札所・青龍寺(せいりゅうじ)
 別格-5番札所・大善寺(だいぜんじ)
18日目:1月13日(木) 晴のち曇 (佐賀公園東屋・テント泊)
 88-37番札所・岩本寺(いわもとじ)
19日目:1月14日(金) 曇のち雨  (民宿・はっと泊)
 88-38番札所・金剛福寺(こんごうふくじ)
20日目:1月15日(土) 晴  (道の駅・すくも テント泊)
21日目:1月16日(日) 晴のち雨  (須ノ川キャンプ場・テント泊)
 88-39番札所・延光寺(えんこうじ)
 88-40番札所・観自在寺(かんじざいじ)
■写真(準備中)
34番札所・種間寺、35番札所・清滝寺、36番札所・青龍寺、別格20-5番札所・大善寺、柳屋旅館、道の駅・あぐり窪川、予土線・窪川駅、37番札所・岩本寺、くろしお鉄道・土佐佐賀駅、佐賀公園、38番札所・金剛福寺、民宿・はっと、道の駅・めじかの里、道の駅・大月、道の駅・すくも、39番札所・延光寺、、一本町温泉・あけぼの荘、40番札所・観自在寺、須ノ川キャンプ場

Part5
■四国108ヶ寺巡礼遍路(40日間)
22日目:1月17日(月) 曇  (民宿・とうべや泊)
 別格-6番札所・福寿寺(ふくじゅじ)龍光院(りゅうこういん)
 88-41番札所・龍光寺(りゅうこうじ)
 88-42番札所・仏木寺(ぶつもくじ)
23日目:1月18日 (火) 晴 (ビジネスホテル・ウエストリバー泊)
 88-43番札所・明石寺(めいせきじ)
 別格-7番札所・出石寺(しゅっせきじ)
24日目:1月19日(水) 雨のち晴 (道の駅・内子キャンプ地東屋・テント泊)
 別格-8番札所・永徳寺(えいとくじ)通称十夜ヶ橋(とよがはし)
25日目:1月20日(木) 雪混じりの雨 (道の駅・内子キャンプ地東屋・テント連泊)
26日目:1月21日(金) 晴  (国民宿舎・古岩屋荘 泊)
■写真(準備中)
6番札所・龍光院福寿寺、41番札所・龍光寺、42番札所・仏木寺、道の駅・むでん、民宿・とうべや、43番札所・明石寺、別格7番札所・出石寺、ビジネスホテル・ウエストリバー、別格8番札所・永徳寺通称十夜ヶ橋、道の駅・内子フレッシュパークからり、内子キャンプ場、久万高原、国民宿舎・古岩屋荘と東屋

Part6
■四国108ヶ寺巡礼遍路(40日間)
27日目:1月22日(土) 晴 (杖が淵公園東屋・テント泊)
 88-45番札所・岩屋寺(いわやじ)
 88-44番札所・大宝寺(だいほうじ)
 88-46番札所・浄瑠璃寺(じょうるりじ)
 88-47番札所・八坂寺(やさかじ)
 別格-9番札所・徳盛寺(とくじょうじ)文殊院(もんじゅいん)
 88-48番札所・西林寺(さいりんじ)
28日目:1月23日(日) 雨 (鹿島キャンプ場・テント泊)
 88-49番札所・浄土寺(じょうどじ)
 88-50番札所・繁多寺(はんたじ)
 88-51番札所・石手寺(いしてじ)
 88-52番札所・太山寺(たいさんじ)
 88-53番札所・円明寺(えんみょうじ)
29日目:1月24日(月) 曇 (市民の森公園東屋・テント泊)
 88-54番札所・延命寺(えんめいじ)
 88-55番札所・南光坊(なんこうぼう9
 88-56番札所・泰山寺(たいさんじ)
30日目:1月25日(火) 雨のち曇のち雨 (道の駅・今治湯の浦温泉東屋・テント泊)
 88-57番札所・栄福寺(えいふくじ)
 88-58番札所・仙遊寺(せんゆうじ)
 88-59番札所・国分寺(こくぶんじ)
■写真(準備中)
45番札所・岩屋寺、44番札所・大宝寺、46番札所・浄瑠璃寺、47番札所・八坂寺、別格9番札所・文殊院徳盛寺、48番札所・西林寺、杖が淵公園の東屋、49番札所・浄土寺、鷹の子温泉、伊予鉄健康ランド、50番札所・繁多寺、51番札所・石手寺、52番札所・太山寺、53番札所・円明寺、鹿島・キャンプ場、鹿島神社、54番札所・延命寺、55番札所・南光坊、56番札所・泰山寺、清正の湯、市民の森公園、57番札所・栄福寺、58番札所・仙遊寺、59番札所・国分寺、道の駅・今治湯の浦温泉

Part7
■四国108ヶ寺巡礼遍路(40日間)
31日目:1月26日(水) 曇のち晴 (JR予讃線・石鎚山駅 野宿泊)
 88-61番札所・香園寺(こうおんじ)
 別格-10番札所・興隆寺(こうりゅうじ)
 別格-11番札所・正善寺(しょうぜんじ)生木地蔵(いききじぞう)
 88-62番札所・宝寿寺(ほうじゅじ)
 88-63番札所・吉祥寺(きちじょうじ)
 88-64番札所・前神寺(まえかみじ)
32日目:1月27日(木) 晴 (三島公園東屋・テント泊)
 88-60番札所・横峯寺(よこみねじ)別院
 別格-12番札所・延命寺(えんめいじ)
33日目:1月28日(金) 晴 (旅館・喜多 泊)
 88-65番札所・三角寺(さんかくじ)
 別格-13番札所・仙龍寺(せんりゅうじ)
 別格-14番札所・常福寺(じょうふくじ)椿堂(つばきどう)
 別格-15番札所・箸蔵寺(はしくらじ)
34日目:1月29日(土) 晴のち雨 (琴弾公園東屋・テント泊)
 88-66番札所・雲辺寺(うんぺんじ)
 別格-16番札所・萩原寺(はぎわらじ)
 88-67番札所・大興寺(だいこうじ)別名・小松尾寺
 88-68番札所・神恵寺(じんねいん)
 88-69番札所・観音寺(かんのんじ)
■写真(準備中)
61番札所・香園寺、別格10番札所・興隆寺、別格11番札所・正善寺生木地蔵、福美食堂、62番札所・宝寿寺、63番札所・吉祥寺、石鎚温泉、64番札所・前神寺、JR予讃線・石鎚山駅、黒瀬峠、60番札所・横峯寺別院、60番札所・横峯寺(2回目)、黒瀬ダム、別格12番札所・延命寺、伊予土井駅、三島公園、65番札所・三角寺、堀切トンネル、新宮ダム、別格13番札所・仙龍寺、仙龍寺・大師堂、別格14番札所・常福寺椿堂、別格15番札所・箸蔵寺、ロープウエー、旅館喜多、66番札所・雲辺寺、別格16番札所・萩原寺、67番札所・大興寺、68番札所・神恵寺、69番札所・観音寺、道の駅・ことひき、琴弾公園東屋

Part8
■四国108ヶ寺巡礼遍路(40日間)
35日目:1月30日(日) 晴一時雨 (善通寺グランドホテル・泊)
 88-70番札所・本山寺(もとやまじ)
 88-71番札所・弥谷寺(いやだにじ)
 88-72番札所・曼荼羅寺(まんだらじ)
 88-73番札所・出釈迦寺(しゅっしゃかじ)
 88-74番札所・甲山寺(こうやまじ)
 88-75番札所・総本山:善通寺(ぜんつうじ)
36日目:1月31日(月) 曇 (橘ヶ丘総合運動公園東屋・キャンプ泊)
 別格-17番札所・神野寺(かんのじ)
 88-76番札所・金蔵寺(こんぞうじ)
 別格-18番札所・海岸寺(かいがんじ)
 88-76番札所・金蔵寺(こんぞうじ)
 88-77番札所・道隆寺(どうりゅうじ)
 88-78番札所・郷照寺(ごうしょうじ)
 88-79番札所・高照院(こうしょういん)天皇寺(てんのうじ)
37日目:2月1日(火) 曇一時雨 (かんぽの宿・坂出泊)
 88-80番札所・国分寺(こくぶんじ)
 88-81番札所・白峯寺(しろみねじ)
38日目:2月2日(水) 晴 (御山公園・バーベキュー棟テント泊)
 88-82番札所・根香寺(ねごろじ)
 別格-19番札所・香西寺(こうざいじ)
 88-83番札所・一宮寺(いちのみやじ)
 88-84番札所・屋島寺(やしまじ)
 88-85番札所・八栗寺(やくりじ)
■写真(準備中)
70番札所・本山寺、71番札所・弥谷寺、72番札所・曼荼羅寺、73番札所・出釈迦寺、74番札所・甲山寺、75番札所・総本山:善通寺、善通寺グランドホテル、金毘羅宮、満濃池、別格17番札所・神野寺、76番札所・金蔵寺、別格18番札所・海岸寺、76番札所・金蔵寺、77番札所・道隆寺、JR予讃線・丸亀駅、丸亀城、78番札所・郷照寺、79番札所・高照院天皇寺、橘ヶ丘総合運動公園、白鳥温泉、80番札所・国分寺、81番札所・白峯寺、かんぽの宿・坂出、82番札所・根香寺、別格19番札所・香西寺、83番札所・一宮寺、84番札所・屋島寺、ロープウェイ、85番札所・八栗寺、ケーブル、石の民俗資料館、御山公園

Part9
■四国108ヶ寺巡礼遍路(40日間)
39日目:2月3日(木) 晴のち雪 (夏子ダム休憩所東屋・テント泊)
 88-86番札所・志渡寺(しどじ)
 88-87番札所・長尾寺(ながおじ)
 88-88番札所・大窪寺(おおくぼじ)
40日目:2月4日(金) 曇のち晴 (鴨の湯 無料宿泊所(善根宿)・泊)
 別格-20番札所・大瀧寺(おおたきじ)
■四国108ヶ寺巡礼・遍路経費清算書(40日間)→PDFファイルへのリンク
■写真(準備中)
86番札所・志渡寺、RAKU・BOKU、87番札所・長尾寺、鶴亀公園、道の駅ながお、88番札所・大窪寺、夏子ダムの休憩所、別格20番札所・大瀧寺、鴨の湯・無料宿泊所

Part10
■徳島ぶらぶら
2月5日(土) 晴 (上坂町スポーツ公園東屋・テント泊)
 第11番札所・藤井寺
 第6番札所・安楽寺
2月6日(日) 晴 (道の駅・どなり東屋・テント泊)
 天然温泉御所の郷(土成町健康センター)
2月7日(月) 曇 (ビジネスホテル・鴨島・泊)
 第8番札所・熊谷寺
 第9番札所・法輪寺
 第10番札所・切播寺
 江川湧水休憩所・いやしの舎
2月8日(火) 雨のち曇 (かんぽの宿・徳島泊)
■写真(準備中)
ビジネスホテル鴨島、かんぽの宿・徳島、眉山公園

Part11
■四国88ヶ所巡礼遍路(2回目)
1日目:2月9日(水) 晴 (鴨の湯・無料宿泊所(善根宿)泊)
 第1番札所・霊山寺(りょうぜんじ・徳島県鳴門市)
 第2番札所・極楽寺(ごくらくじ・徳島県鳴門市)
 第3番札所・金泉寺(こんせんじ・徳島県板野郡板野町)
 第4番札所・大日寺(だいにちじ・徳島県板野郡板野町)
 第5番札所・地蔵寺(じぞうじ・徳島県板野郡板野町)
 第6番札所・安楽寺(あんらくじ・徳島県板野郡上板町)
 第7番札所・十楽寺(じゅうらくじ・徳島県阿波市)
 第8番札所・熊谷寺(くまたにじ・徳島県阿波市)
 第9番札所・法輪寺(ほうりんじ・徳島県阿波市)
 第10番札所・切幡寺(きりはたじ・徳島県阿波市)
2日目:2月10日(木) 曇のち雨のち晴 (鮎喰川・植木市小屋・テント泊)
 第11番札所・藤井寺(ふじいでら・徳島県吉野川市)
 第12番札所・焼山寺(しょうざんじ・徳島県名西郡神山町)
3日目:2月11日(金) 晴 (川の駅かつうら・星谷運動公園テント泊)
 第13番札所・大日寺(だいにちじ・徳島県徳島市)
 第14番札所・常楽寺(じょうらくじ・徳島県徳島市)
 第15番札所・国分寺(こくぶんじ・徳島県徳島市)
 第16番札所・観音寺(かんおんじ・徳島県徳島市)
 第17番札所・井戸寺(いどじ・徳島県徳島市)
 第18番札所・恩山寺(おんざんじ・徳島県小松島市)
 第19番札所・立江寺(たつえじ・徳島県小松島市)
4日目:2月12日(土) 晴 (ビジネスホテル・ケアンズ泊)
 第20番札所・鶴林寺(かくりんじ・徳島県勝浦郡勝浦町) 。
 第21番札所・太龍寺(たいりゅうじ・徳島県阿南市)。
 第22番札所・平等寺(びょうどうじ・徳島県阿南市)
 第23番札所・薬王寺(やくおうじ・徳島県海部郡美波町)
5日目:2月13日(日) 曇 (白浜公園・テント泊)
6日目:2月14日(月) 晴 (道の駅・田野駅屋テント泊)
 第24番札所・最御崎寺(ほつみさきじ・高知県室戸市 別名東寺)
 第25番札所・津照寺(しんしょうじ・高知県室戸市 別名津寺)
 第26番札所・金剛頂寺(こんごうちょうじ・高知県室戸市 別名西寺)
7日目:2月15日(火) 雨 (道の駅・田野駅屋テント連泊)
 第27番札所・神峯寺(こうのみねじ・高知県安芸郡安田町)
■写真(準備中)
福井ダム、弥谷観音の東屋、JR日和佐駅前・ビジネスホテル・ケアンズ、白浜公園 、道の駅・宍喰温泉、白浜公園、道の駅・キラメッセ室戸、二十三士温泉、道の駅・田野駅屋、土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線田野駅、同唐浜駅

Part12
■四国88ヶ所巡礼遍路(2回目)
8日目:2月16日(水) 雨 (国民宿舎・南風荘泊)
9日目:2月17日(木) 晴 (種崎千松公園・テント泊)
 第28番札所・大日寺(だいにちじ・高知県香南市)
 第29番札所・国分寺(こくぶんじ・高知県南国市)
 第30番札所・善楽寺(ぜんらくじ・高知県高知市)
 第31番札所・竹林寺(ちくりんじ・高知県高知市)
 第32番札所・禅師峰寺(ぜんじぶじ・高知県南国市)
10日目:2月18日(金) 晴のち雨(ビジネスホテル・マルトミ泊)
 第33番札所・雪蹊寺(せっけいじ・高知県高知市)
 第34番札所・種間寺(たねまじ・高知県高知市)
 第35番札所・清瀧寺(きよたきじ・高知県土佐市)
 第36番札所・青龍寺(しょうりゅうじ・高知県土佐市)
11日目:2月19日(土) 雨 (ビジネスホテル・マルトミ連泊)
12日目:2月20日(日) 晴一時雪 (ファミリーレストラン・ジョイフル休憩泊)
 第37番札所・岩本寺(いわもとじ・高知県高岡郡四万十町)
13日目:2月21日(月) 晴時々雪 (爪白(つましろ)キャンプ場・テント泊)
 第38番札所・金剛福寺(こんごうふくじ・高知県土佐清水市)
■写真(準備中)
道の駅・大山、道の駅・夜須:ヤ・シィパーク、国民宿舎・南風荘、種崎千松公園、ゆ~ゆ~ランド、塚知休憩所、宇佐大橋、ビジネスホテル・マルトミ、総合スーパー・フジ、道の駅・あぐり窪川、ニュー佐賀温泉、入野松原・土佐西南大規模公園キャンプ場、中村駅、爪白(つましろ)キャンプ場、四万十大橋の東側に東屋、土佐西南大規模公園・四万十地区にキャンプ場

Part13
■四国88ヶ所巡礼遍路(2回目)
14日目:2月22日(火) 晴 (アサヒ健康ランド・サウナ泊)
 第39番札所・延光寺(えんこうじ・高知県宿毛市)
15日目:2月23日(水) 雨のち晴(須ノ川キャンプ場・テント泊)
 第40番札所・観自在寺(かんじざいじ・愛媛県南宇和郡愛南町)
16日目:2月24日(木) 大雨強風 (須ノ川キャンプ場・テント連泊)
17日目:2月25日(金) 曇 (ビジネスホテル・松尾泊)
 第41番札所・龍光寺(りゅうこうじ・愛媛県宇和島市)
 第42番札所・佛木寺(ぶつもくじ・愛媛県宇和島市)
 第43番札所・明石寺(めいせきじ・愛媛県西予市)
18日目:2月26日(土) 雪 (道の駅・フレッシュパークからりキャンプ場東屋・テント泊)
19日目:2月27日(日) 晴 (国民宿舎・古岩屋荘泊)
 第45番札所・岩屋寺(いわやじ・愛媛県上浮穴郡久万高原町)
■写真(準備中)
アサヒ健康ランド、道の駅・大月、道の駅・宿毛、、ゆらり内海、JR予讃線・卯之町駅、ジネスホテル・松尾、東宇和物産館・どんぐり館、十夜ヶ橋下、道の駅・フレッシュパークからり、龍王温泉、国民宿舎・古岩屋荘横東屋

Part14
■四国88ヶ所巡礼遍路(2回目)
20日目:2月28日(月) 晴 (伊予鉄健康ランド・サウナ泊)
 第44番札所・大宝寺(だいほうじ・愛媛県上浮穴郡久万高原町)
 第46番札所・浄瑠璃寺(じょうるりじ・愛媛県松山市)
 第47番札所・八坂寺(やさかじ・愛媛県松山市)
 第48番札所・西林寺(さいりんじ・愛媛県松山市)
 第49番札所・浄土寺(じょうどじ・愛媛県松山市)
 第50番札所・繁多寺(はんたじ・愛媛県松山市)
21日目:3月1日(火) 晴 (鹿島キャンプ場・テント泊)
 第51番札所・石手寺(いしてじ・愛媛県松山市)
 第52番札所・太山寺(たいざんじ・愛媛県松山市)
 第53番札所・円明寺(えんみょうじ・愛媛県松山市)
22日目:3月2日(水)晴 (鹿島キャンプ場・テント連泊)
23日目:3月3日(木) 雨 (サンライズ糸山・ホテル泊)
 第54番札所・延命寺(えんめいじ・愛媛県今治市)
 第55番札所・南光坊(なんこうぼう・愛媛県今治市)
24日目:3月4日(金) 晴一時雪 (ビジネス旅館・小松泊)
 第56番札所・泰山寺(たいさんじ・愛媛県今治市)
 第57番札所・栄福寺(えいふくじ・愛媛県今治市)
 第58番札所・仙遊寺(せんゆうじ・愛媛県今治市)
 第59番札所・国分寺(こくぶんじ・愛媛県今治市)
 第61番札所・香園寺(こうおんじ・愛媛県西条市)
 第62番札所・宝寿寺(ほうじゅじ・愛媛県西条市)
 第63番札所・吉祥寺(きちじょうじ・愛媛県西条市)
 第64番札所・前神寺(まえがみじ・愛媛県西条市)
25日目:3月5日(土) 晴一時雪(道の駅・とよはまテント泊)
 第60番札所・横峰寺(よこみねじ・愛媛県西条市)
 第65番札所・三角寺(さんかくじ・愛媛県四国中央市)
26日目:3月6日(日) 晴一時雪 (道の駅・ふれあいパークみのホテル泊)
 第66番札所・雲辺寺(うんぺんじ・徳島県三好市)
 第67番札所・大興寺(だいこうじ・香川県三豊市 別名小松尾寺)
 第68番札所・神恵院(じんねいん・香川県観音寺市 )
 第69番札所・観音寺(かんのんじ・香川県観音寺市)
 第70番札所・本山寺(もとやまじ・香川県三豊市)
■写真(準備中)
久万公園、杖の淵公園、予鉄健康ランド、鷹の子温泉、道後温泉・本館、椿の湯、北条温泉、鹿島キャンプ場、ジネス旅館・小松、サンライズ糸山、正乃湯、市民の森、道の駅・今治湯の浦温泉、京屋旅館、登山バス発着場・待合所、道の駅・とよはま、石鎚温泉、武丈の湯、伊予土井駅、三島公園、道の駅・ふれあいパークみの、道の駅・とよはま、萩の丘公園・キャンプ場、琴弾公園

Part15
■四国88ヶ所巡礼遍路(2回目)
27日目:3月7日(月) 晴 (四国健康村・サウナ泊)
 第71番札所・弥谷寺(いやだにじ・香川県三豊市)
 第72番札所・曼荼羅寺(まんだらじ・香川県善通寺市)
 第73番札所・出釈迦寺(しゅっしゃかじ・香川県善通寺市)
 第74番札所・甲山寺(こうやまじ・香川県善通寺市)
 第75番札所・善通寺(ぜんつうじ・香川県善通寺市)
 第76番札所・金倉寺(こんぞうじ・香川県善通寺市)
 第77番札所・道隆寺(どうりゅうじ・香川県仲多度郡多度津町)
 第78番札所・郷照寺(ごうしょうじ・香川県綾歌郡宇多津町)
28日目:3月8日(火) 晴 (ファミリーレストラン・ジョイフル・休憩泊)
 第79番札所・高照院天皇寺(てんのうじ・香川県坂出市)
 第80番札所・国分寺(こくぶんじ・香川県高松市)
 第81番札所・白峯寺(しろみねじ・香川県坂出市)
 第82番札所・根香寺(ねごろじ・香川県高松市)
 第83番札所・一宮寺(いちのみやじ・香川県高松市)
29日目:3月9日(水) 晴 (民宿・ながお路泊)
 第84番札所・屋島寺(やしまじ・香川県高松市)
 第85番札所・八栗寺(やくりじ・香川県高松市)
 第86番札所・志度寺(しどじ・香川県さぬき市)
 第87番札所・長尾寺(ながおじ・香川県さぬき市)
30日目:3月10日(木) 晴のち曇一時小雨 (健康ランド・遊湯館サウナ泊)
 第88番札所・大窪寺(おおくぼじ・香川県さぬき市)
■写真
道の駅・うたづ臨海公園、根宿・まんだら、国健康村、橘ノ丘総合運動公園・キャンプ場、白鳥温泉、天然温泉きらら、ツインパルながお、前川キャンプ場、道の駅・ながお、額峠・大師の水、遊湯館」

Part16
■徳島ぶらぶら
3月11日(金) 曇のち雨 (健康ランド・遊湯館サウナ連泊)
3月12日(土) 晴一時雪 (ビジネスホテル・青月荘泊)
3月13日(日) 晴一時雪 (和歌山港フェリー乗り場・ベンチ泊)
■あとがき・四国霊場巡礼・遍路を振り返って
■四国霊場巡礼・遍路経費清算書
■額縁写真(四国88ヶ所・御影、四国別格20霊場・御影、散華)
■写真(準備中)
健康ランド・遊湯館、徳島とくとくターミナル、十郎兵衛屋敷、人形会館、徳島中央公園


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第1章淡路島編(出発進行)
(平成16年12月24日~12月26日)
■出発進行
 12月24日・「緑の道しるべ・江崎灯台下」・テント泊 →周辺地図リンク
 12月25日・「ウエルネスパーク五色」キャンプ場・テント泊 →周辺地図リンク
 12月26日・「徳島港フェリーターミナル」待合所・ベンチ泊 →周辺地図リンク
■写真→アルバム
 甲子園浜、香露園浜、六甲アイランドフェリー乗場、メリケン波止場、平磯緑地、明石大橋、明石たこフェリー乗場、岩屋港・江島と淡路大橋、道の駅・アンカレージパーク淡路、緑の道しるべ・江崎公園、緑の道しるべ・一宮町郡家公園、震災記念公園、野島断層、ウエルネスパーク・受付建物、ウエルネスパーク・キャンプサイト、ウエルネスパーク・五色温泉、慶野松原・キャンプ場、慶野松原、阿那賀港・元フェリー乗場、洲本ターミナル、津名港・フェリー乗場、淡路島七福神(万福寺、八浄寺、覚住寺、智禅寺、長林寺、宝生寺、護国寺)、泉佐野港・フェリー乗場1、2、和歌山港・フェリー乗場、徳島港・フェリー乗場


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序章用具と携帯品
■用具と携帯品リスト
 自転車
 キャンプ道具
 調理器具
 食料品
 衣類
 靴
 バッグ
 お遍路用品
 その他


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序章ホームレスの経緯


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序章旅のアルバム
■先島諸島
■団地
■切腹(五輪塔、三重城)
■淡路島編
■四国編(1)
■和歌山編



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2009年5月19日 (火)

口永良部島編:part19


和坊放浪記:口永良部島編part19


平成18(2006)年・備忘録

 項目

寝待・湯治小屋
 251日目:3月 7日(火) 曇のち晴  (空き缶・空瓶処分) 禁酒
 252日目:3月 8日(水) 晴     (トレーニング再開・2号室来客) 禁酒
 253日目:3月 9日(木) 雨     (出発準備) 禁酒
 254日目:3月10日(金) 曇のち晴  (出発延期・温泉清掃)
 255日目:3月11日(土) 晴     (見送り・2号室来客) 
 256日目:3月12日(日) 大雨    (お水取り・出発再延期)
 257日目:3月13日(月) 曇     (フェリー太陽欠航・出発不可)
 258日目:3月14日(火) 雨のち曇  (フェリー太陽欠航・出発不可)
 259日目:3月15日(水) 晴     (後境案内)
 260日目:3月16日(木) 雨のち曇  (座禅瞑想専念) 禁酒
※本文中赤字は写真あり
■今日は何の日
 3月12日:東大寺・お水取り
 (試別火入り、社参、試みの湯、花拵え・燈心揃え、壇供つき、総別火入り、衣の祝儀、香薫、声明大懺悔、参籠宿所入り、大中臣祓、食作法、十一面観音悔過法要、六時の行法、大導師作法(神名帳)、咒師作法、授戒、開白上堂・法要、一徳火、松明作り、大導師作法(過去帳)、数取懺悔、走りの行法、小観音出御と後入、法華懺法、牛玉日、達陀の行法、籠松明、お水取り、達陀帽戴き、お集会、開山堂参拝、解散)

 東大寺、法会、十一面観音(観音菩薩・六観音)、練行衆、兜率天、戒壇院、豊島茣蓙、御幣、神仏習合、賓頭盧尊者、八斎戒(六斎日)
写真
 西の湯、西の湯倒壊、西の湯再建、戒壇院、御幣、賓頭盧尊者、釈迦、真竹、松明、籠松明、牛玉札、蓮松明、二月堂、閼伽井屋、お水取り現場、神宮寺本殿、神宮寺・閼伽水、鵜の瀬、達陀帽、東大寺大仏殿、大仏、南大門、阿形像、吽形像、聖観音、准胝観音、十一面観音、千手観音、馬頭観音、如意輪観音・如意宝珠、不空羂索観音

________________________________________


寝待・湯治小屋


251日目:3月7日(火) 曇のち晴  (空き缶・空瓶処分) 禁酒

【お勤め】般若心経2返(朝・夕)、写経2巻(朝・夕)、座禅瞑想20分×2回(朝・夕)

 寝待集落は、ゴミの収集車は来ないので自己責任で処分しなければならない。

 燃えるゴミは、海沿いに石で囲んだ焼却場を作り焼却処分。空き缶・空瓶は本村集落・公民館横の収集場に持参する。

 寝待湯治小屋と寝待集落のバッチャン宅の空き缶・空瓶と寝待から本村に到る道路沿いに捨てられた空き缶を拾いながら本村の公民館に持参し処分する。

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252日目:3月8日(水) 晴  (トレーニング再開・2号室来客) 禁酒

【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 耳の異常が治まったので、今日から、ストレッチ、八段錦、チューブトレーニングを再開する。

 昼過ぎ、数か月の赤ちゃんを抱いた若い夫婦が訪ねてきたので、寝待湯治小屋2号室に案内する。

 この夫婦は、名古屋出身者の屋久島住民で、3日前口永良部島に入り、西の湯横でテントを張っていたらしい。釣り道具と餌を進呈する。

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253日目:3月9日(木) 雨  (出発準備) 禁酒

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経2返(朝・夕)、写経2巻(朝・夕)、座禅瞑想20分×2回(朝・夕)

 昨夜は6時に就寝したのに、朝目覚めたのは6時。12時間も寝てしまった。外は雨。雨の日はよく寝られる。

 2号室に来た屋久島住人と話をしていると、屋久島が懐かしくなり、明日、屋久島に旅立つことにした。

 自転車にサイドバックを付け、荷物を入れ、夕方には出発準備が完了する。

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254日目:3月10日(金) 曇のち晴  (出発延期・温泉清掃)

【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 4時に起床。今日は島を脱出する日。ストレッチだけして、最後の温泉入浴。

 入浴中、寝待集落住人で温泉清掃を担当する前原さんが入って来た。別れの挨拶をと思っていた矢先、今日の温泉清掃お願いしますと云われてしまった。

 今日は10日に一度の温泉清掃日。最近、前原さんの奥さんが腰を悪くしたので、温泉の清掃をしている。

 清掃は、湯船の排水栓と排水ポンプ2台を使用してお湯を抜きながら、湯船に付いた湯の花を、デッキブラシで洗い流し、お湯が少なくなると、湯船の底の砂利をホースで洗うと云った作業をする。

 時間にして2時間程度の作業で、清掃が終われば出発しようと思いながら清掃をしていたが、温泉清掃が嫌で逃げ出したと思われれば、前原さんに迷惑がかかるので、本日の出発は延期する。

 昼過ぎ、2号室の夫婦は明日のフェリーで屋久島に帰る為、西の湯沿いに張ってあるテントへと向かった。

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255日:3月11日(土) 晴  (見送り・2号室来客) 

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経2返(朝・夕)、写経2巻(朝・夕)、座禅瞑想20分×2回(朝・夕)

 朝のお勤め後、2号室に居た赤ちゃんを連れた夫婦者の見送りを兼ねて本村に行くが、時間が早すぎて誰もいない。誰もいないはず。今日は奇数日なのでフェリーの入港は午後の便。

 Aコープで食料品、羽生商店でビールを買って、波止場で持参のおにぎりを肴にビールを飲む。

 10日間の禁酒後のビールは格別に美味い。フェリーの入港迄5時間近くあるので見送りを諦め、寝待に引き揚げる。

 夕方、車で中年男性が来た。静岡県の漁師の息子で、2号室に暫く滞在するとの事。

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256日目:3月12日(日) 大雨 (お水取り・出発再延期)

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経6返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×6回(朝・昼・夕)

 今日12日は東大寺のお水取り(今日は何の日参照)。関西ではお水取りが終わると春が来ると云われるが、口永良部島では朝から大雨。

 今日の出発は中止し、座禅瞑想に専念する。

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257日目:3月13日(月) 曇  (フェリー太陽欠航・出発不可)

【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 今日こそ島を脱出と思っていたが、何と、「強風で波が高いのでフェリー太陽は欠航します」との放送が防災無線のスピーカから流れた。

 欠航丸と揶揄されるフェリー太陽は面目躍如(?)で欠航。

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258日目:3月14日(火) 雨のち曇  (フェリー太陽欠航・出発不可)

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 今日もフェリー太陽は欠航。

 口永良部島を脱出する決意をしてから、意に反して脱出出来ない状態が続いている。

 島を出て行くと悪い事が起こる前触れではないかと思い、脱出を伸ばすことにした。

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259日目:3月15日(水) 晴  (後境案内)

【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経6返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×6回(朝・昼・夕)

 久しぶりの晴れ間。朝のお勤め後、散歩をする為外に出ると、2号室の中年男性が追いかけて来て、釣り場への案内を乞うたので、寝待の西側の釣場で大物が釣れると云われる後境に案内する。

 初めての人でも迷わず行けるように、目印を付けてあるので、釣り場まで案内してお先に失礼する。

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260日目:3月16日(木) 雨のち曇  (座禅瞑想専念) 禁酒

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経6返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×6回(朝・昼・夕)

 昨夜は何時ものように6時に就寝したのに、目覚めたのは朝の6時。よく寝た。

 朝のお勤め後、入浴して部屋に帰ると、強風を伴う大雨が降ってきた。たぶん今日はフェリー太陽は欠航だろうと思うものの、暫くは脱出予定がないので、欠航の有無に頓着しなくなっていた。

 雨の日の日課になりつつある座禅瞑想に専念する。

 酒が切れたので、禁酒をせざるを得ない。

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■今日は何の日


3月12日:お水とり(修二会:しゅにえ)

【概要】
 東大寺(注1)二月堂の修二会(しゅにえ)は、お松明(おたいまつ)やお水取りと呼ばれている、日本の仏教寺院で行われる法会(ほうえ注2)の一つで、修二月会(しゅにがつえ)とも云う。
 東大寺以外でも、薬師寺、法隆寺、長谷寺でも行なわれており、ずれの修二会にも共通しているのは、本尊に対する悔過(けか=罪の懺悔告白)である。
 東大寺の修二会の本行は、3月1日から14日までの2週間行なわれる。二月堂の本尊十一面観音(注3)に、練行衆(れんぎょうしゅう注4)と呼ばれる11人の僧侶が、人々にかわって罪を懺悔(さんげ、キリスト教=ざんげ)し、国家の安泰と万民の豊楽を祈る法要。
 もとは、旧暦の2月1日から行われていたので、二月に修する法会という意味を込めて、「修二会」と呼ばれるようになった。修二会と呼ばれるようになったのは平安時代で、奈良時代には十一面悔過法(じゅういちめんけかほう)と呼ばれ、これが今も正式名称となっている。関西では「お松明(おたいまつ)」と呼ばれることもある。

【起源】
 751(天平勝宝3)年、東大寺を開山した良弁僧正(ろうべそうじょう)の弟子で、二月堂を建立した実忠和尚(じっちゅうかしょう)が、笠置山(かさぎやま・京都府相楽郡笠置町)で修行中に龍穴(りゅうけつ・宇宙の気が満ちた場所)を見つけ、その洞窟に入り、天人の住む天界・兜率天(とそつてん注5)に至り、内院・四十九院の内、天人達が十一面観音の悔過(けか=罪の懺悔告白)を行ずる常念観音院で、生身(しょうじん)の観音菩薩が出現されたのを見て、これを下界でも行ないたいと願った。
 しかし兜率天の一日は人間界の四百年に相当し、この行法を人間世界で行うと数百年も掛かると断られたが、千篇の行法も走ってやれば数を満たすと食い下がって許しを請い、752(天平勝宝4)年2月1日、大仏開眼に合わせて、二月堂で悔過(けか=罪の懺悔告白)を修したのが、東大寺二月堂「修二会」の始まりである。
 以来、現在まで一度も途絶えることなく今日まで伝えられている伝統行事で、1667年(寛文7年)に二月堂が火災で焼失した時も、三月堂で行われ、また、戦中戦後も続けられた。2009年の3月で1258年、1258回を迎える。

【修二会・行事日程】(*印は閏年の時は翌日)
1、別火(べっか)・2月20日~28日*
1-1、試別火(ころべっか):2月20日~25日*

 2月20日:試別火入り
 練行衆(れんぎょうしゅう:11名の僧侶)が、世間の火をいっさい用いず、火打ち石でおこした特別の火だけを利用して戒壇院(注6)の庫裡(くり=別火坊・僧侶の居住する場所)に篭もり、一般の生活とは別の世界へ入る。

 2月21日:社参(しゃさん:神社に参ること)、試みの湯
 社参:練行衆(れんぎょうしゅう:11名の僧侶)が和上を先頭に列を作り、八幡殿、大仏殿、天皇殿、開山堂に参詣し行の安全を祈願する。途中4箇所で平衆がほら貝を吹く。
 試みの湯:二月堂の湯屋で、行法中(3月1日~3月14日)に入浴する風呂に、試みに入浴する。

 2月23日:花拵(ごしら)え・燈心揃え
 仏前に供える花・椿(ツバキ)をたらの木を芯にして400個、南天の実を竹に装飾したもの50個を作る。灯明に用いる燈芯を多数用意する。

 2月24日:上七日(じょうしちにち)用・壇供(だんぐ)つき
 仏前に供えられる壇供(だんぐ)と呼ばれる餅(厚さ約3cm、直径約15cm)を1000個つく。3月5日にも同数の檀供が下七日(げしちにち)の為につかれる。

 2月25日:社参
 この日の社参は、娑婆との別れの意味を含んでいる。

1-2、総別火(そうべっか)・2月26日*~28日*

 2月26日*:総別火入り
 順次入浴し、紙衣(かみこ。和紙で作った衣)を着る。紙衣は清浄な物と考えられており、行の期間中着用する。この期間中は別火坊の大広間の豊島茣蓙(てしまござ注7)の上以外に座ってはならず、私語や土の上に降りることは厳禁で、湯や茶の勝手な飲料も出来ない。

 2月27日*:衣の祝儀(ころものしゅうぎ)
 紙衣(かみこ。和紙で作った衣)の上に重衣(じゅうえ)という墨染めの衣を初めて着用する。

 2月28日*:香薫、声明大懺悔、参籠宿所入り、大中臣祓
 「別火」から「本行」へ移行する為、練行衆は持物を全て香を焚いた煙で清める香薫(こうくん)の行事をして、大広間で声明(しょうみょう、節をつけたお経)大懺悔(おおいさんげ)を唱えてから、午後3時過ぎ、戒壇院から二月堂下の参籠宿所(さんろうしゅくしょ:修二会に参加する僧侶の宿舎)へ移動し、日没寸前、食堂(じきどう)の前の通路で、練行衆の役職者である咒師(しゅし)が祓詞(はらえことば)を唱え、御幣(ごへい注8)を振って練行衆を祓い清め、かつ、登廊の入口に注連縄を張り、結界を作って、行法を妨げる鬼の進入を防ぐと云った神道の行事である通称天狗よせと呼ばれる大中臣祓(おおなかとみのはらえ)が行われる。これは、練行衆が行う神仏習合(しんぶつしゅうごう注9)の所作で、修二会本行の開幕を告げる厳粛な儀式である。

2、本行(ほんぎょう)・3月1日~14日

 食作法(じきさほう)
 3月1日の正午、鐘が鳴らされ食堂(じきどう)で、一汁一菜または二菜の食事(正食)をとる。正食の後はその日は食事をとってはならない。この作法は本行の間、連日続く。

 十一面観音悔過(けか=罪の懺悔告白)法要六時の行法
 本行は、六時の行法(ぎょうぼう)と云われ、1日6回お経を唱え、本行期間中(3/1~3/14)続けられ、①13時頃の日中(にっちゅう)、②13時半頃の日没(にちもつ)、③19時頃の初夜(しょや)、④22時頃の半夜(はんや)、⑤23時頃の後夜(ごや)、⑥24時頃の晨朝(じんじょう)に分けられる。六時はそれぞれ独特の節回しをもった旋律で唱えられ、毎日正午に一回食事をとった後、一切の飲食を断って行われる。
 また、六時の行法での経文は、1、三礼文(さんらいもん:日中と日没にのみ唱える)2、供養文(くようもん)3、如来唄(にょらいばい)4、散華(さんか)5、呪願(しゅがん:初夜と後夜に唱えるのは大呪願、それ以外は小呪願)6、称名悔過(しょうみょうざんげ)7、宝号(ほうごう)8、観音要文(かんのんようもん)9、五仏御名(ごぶつごみょう)10、大懺悔(おいさんげ:初夜と後夜にのみ唱える)11、小懺悔(しょうさんげ:初夜と後夜以外に唱える)12、破偈(はげ)13、後行道(ごぎょうどう)14、廻向文(えこうもん)等から成る。
 この中で最も重要な経が、称名悔過(6)と宝号(7)で、称名悔過(しょうみょうけか:仏の名前を唱える)は、諸仏の名前を唱えた後、十一面観音の姿や功徳を列挙して唱句を斉唱し、一句ごとに礼拝を繰り返す。
 宝号は「南無観自在菩薩」を繰り返し唱えるが、繰り返すうちに、「南無観自在菩薩」が「南無観自在南無観自在」となり、「南無観、南無観」と短くなって、最後は「南無帰命頂礼(なむきみょうちょうらい)大慈大悲(だいじだいひ)観自在尊」と厳かに唱え締めくくる。
 宝号が終わり近くになると平衆の一人が礼堂に出て五体投地(ごたいとうち:両膝・両肘・頭を地につけ拝する最上の礼法)を行い、懺悔(ざんげ)の心を体で表現する。

 大導師作法(神名帳)、咒師作法(しゅしさほう)
 毎夜19時頃の初夜(しょや)の時(六時の一つ)に、日本全国60余州に鎮坐する490ケ所の明神と14,000余ケ所の神々の名が書かれた神名帳(じんみょうちょう)を読み上げ、修二会の行法を照覧あれと神々を勧請(かんじょう:神仏を迎える)する。
 23時頃の後夜(ごや)の時(六時の一つ)に、須弥壇(しゅみだん:仏像等を安置するために一段高く設けられた、須弥山を模して造られた台)の周りを回りながら、清めの水(洒水:しゃすい)を撒き、印を結んで呪文を唱える密教的な咒師作法(しゅしさほう)の儀式をする。


2-1、上七日(じょうしちにち)・3月1日~7日、本尊「大観音」

 3月1日:授戒(じゅかい)、開白(かいはく)上堂・法要、一徳火(いっとくび)
 授戒:深夜1時から、和上(わじょう)が食堂(じきどう)の本尊・賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ注10)に自誓自戒した後、練行衆全員に守るべき八斎戒(はっさいかい注11)を読み聞かせて「よく保つや否や」と問いかける。大導師(だいどうし)をはじめ、練行衆は戒の一つ一つに対して「よく保つ、よく保つ、よく保つ」と三遍誓う。なお3月8日にも改めて授戒が行われる。
 開白(かいはく)上堂:受戒が終わると、1時40分、練行衆は一団となって二月堂に上堂し、木沓(きぐつ:木をくりぬいて作ったくつ)に履き替え、礼堂の床を踏みならし、内陣(本尊を安置する空間)の扉が開くと、駆け入って、須弥壇(しゅみだん:仏像等を安置するために一段高く設けられた、須弥山(注5のPDFファイル参照)を模して造られた台の周囲を3周し、本尊を礼拝する。
 一徳火(いっとくび):2時15分頃、二月堂内の明かりが消され、火打ち石で火をおこす。この火を一徳火と云い、常燈の火種とされる。
 開白(かいはく)法要:2時30分、2週間に及ぶ「本行」の最初の行・悔過(けか=罪の懺悔告白)法要を開白法要と云う。

 3月1~14:松明(たいまつ)作り、3月8日:籠松明(かごたいまつ)作り
 二月堂お水取りの「お松明」で使われる竹を届ける行事を「竹送り」と云い、かつては、竹を奉納したい人が「二月堂様」と書いた札をつけ、奈良に通じる街道に竹を置いておくと、村人や信者達によって二月堂まで搬送されていたが、その様な風習が消えて久しく、昭和53年頃に京都田辺の「山城松明講」が、この竹送りの行事を復活させ、毎年2月11日に竹送りの行事を行い、お松明に使われる一部(10本前後)の真竹を奉納している。
 近畿一円から調達したの中から、お松明で使用する本数を、当日に食堂(じきどう)東側の広場等で、松明を担ぐ童子(世話役)自ら、竹の軸に杉の葉をさして作る。3月1~11日と13・14日に使用する普通の松明は、1日10本で、長さ約6m、重さ約60kg。
 12日に使用する特大の籠松明(かごたいまつ)は、毎夜上がる松明より一回り大きく(長さ約8m、重さ約80kg)、本行が後半の下7日(げしちにち)に入った3月8日に作られる。
 同日、午前9時頃から、練行衆の世話役の童子(どうじ)が、自分が担ぐ籠松明を観光客が見守る中、京都、滋賀、愛知県や生駒市等から集められた長さ6mほどの根付きの竹の先端に、杉の葉を詰め、椹(さわら:檜に酷似した常緑木)の薄板で籠目状に仕上げ、藤蔓(ふじづる)で縛った直径1m程の大きさの松明を2時間半程かけて11本作る。

 3月5日:大導師作法(過去帳)、下七日用・壇供(だんぐ)つき(2/24日に同じ)
 3月5日と12日の2回過去帳読誦が行われる。過去帳では聖武天皇、歴代天皇、東大寺に縁のあった人々や現職の総理大臣以下の閣僚、最高裁長官などの名を読み上げ、その働きが天下太平、万民豊楽をもたらすよう祈願する。
 これには怪談めいた話がある。鎌倉時代の集慶(じゅうけい )と云う練行衆(れんぎょうしゅう)が過去帳を読み上げていると、幽霊みたいな青い衣の女人が現われて、なに故わが名を読み落としたかと云ったので、集慶は 咄嗟(とっさ )に声をひそめて、青衣の女人(しょうえのにょにん)と読み上げると女は満足したように姿を消し、以来、青衣の女人は過去帳に書き加えられ、現在でも読み上げられている。読み上げるときには声をひそめるのが習わしである。

 3月5日~7日:数取懺悔、走りの行法(12~14日にもあり)
 悔過(けか)法要は世間の人達の為の法要であるが、日中(にっちゅう:13時頃)の時(六時の一つ)の後に行われる数取懺悔(かずとりざんげ)別名・三千遍禮拝(らいはい:合掌しておがむこと)は、練行衆自らの煩悩、罪を懺悔するために行われる。練行衆の中灯(ちゅうどう:記録役)、権処世界(ごんしょせかい:処世界の補佐役)、処世界(しょせかい:平衆の末席。法要の雑用役)の若手三人が礼堂に出て堂司(どうつかさ:平衆を率い修二会の進行を担当)の3000回の数えに合わせて数珠を揉みながらの立礼(りゅうらい:立ってする礼)を繰り返す。但し数の数え方は「1偏2偏3偏・・・10偏20偏30偏・・・100偏200偏300偏」と中飛びで数えられるので実際には100回位になる。
 半夜(はんや:22時頃)の時(六時の一つ)の後の23時頃に、二月堂内を練行衆(れんぎょうしゅう)が全力疾走で走り廻る1日千遍の走りの行法が行われるが、これは、天上界・兜率天(とそつてん注5)の一日は人間界の四百年に相当するので、少しでも近づき追いつく為に、須弥壇(しゅみだん)の回りを走り廻って最後に、礼堂の座布団の上へ五体投地(ごたいとうち:両膝・両肘・頭を地につけ拝する最上の礼法)をする。儀式が終わると香水(こうずい、霊水)が施(ほどこ)される。なお、香水は、一般参詣者にも礼堂から格子を通して分けられ、頂くと無病息災の霊験がある。

 3月7日:小観音出御(こがんのんしゅつぎょ)と後入(ごにゅう)
 二月堂の本尊は、内陣(ないじん:本尊を安置してある場所)に二対安置されている秘仏の十一面観音で、大観音(おおがんのん)、小観音(こがんのん)と呼ばれ、上七日(じょうしちにち:3/1~3/7)の本尊は、大観音(おおがんのん)だったが、上七日の最終日の3月7日の日没(にちもつ:13時半頃)の時(六時の一つ)の後、午後6時頃から、内陣後堂(うしろどう)に安置されている小観音が禮堂(らいどう:礼拝読経する建物)に出御(しゅつぎょ)する小観音出御(こがんのんしゅつぎょ)で、それまで後に安置されていた小観音が大観音の前に安置され、後夜(ごや:23時頃)の時(六時一つ)の途中で、内陣に戻される小観音後入(こがんのんごにゅう)で正面に安置され、これ以降法要の対象(本尊)が大観音(おおがんのん)から小観音(こがんのん)に入れ替わる。


2-2、下七日(げしちにち)・3月8日~14日、本尊「小観音」

 3月8日:法華懺法(ほっけせんぽう)、牛玉日(ごおうび)
 法華懺法(ほっけせんぽう):法華経を読誦(どくしゅ)して、その功徳を以て、一切衆生の諸々の罪障を懺悔(さんげ)する法要。
 牛玉日(ごおうび):後半の下七日(げしちにち)に入った8日と9日の初夜(しょや:19時頃)の時(六時の一つ)、練行衆が、墨と牛黄(ごおう:滋養強壮の漢方薬)を閼伽井屋(あかいや)で汲んだお香水(こうずい)で混ぜ合わせたもので、十一面観音のお守り牛玉札(ごおうふだ)を刷る作業をする。
 この札は、厄除けのご利益があるとされ、修二会が結願した日に結縁の人達に配布される。

 3月12日~14日:達陀(だったん)の行法
 3月12日以降の3日間は、後夜(ごや:23時頃)の時(六時の一つ)の咒師作法(しゅしさほう)の間に達陀(だったん)の行法が行われる。達陀(だったん)は、パーリ語の「ダッタ」で「焼き尽くされる」「滅し尽くされる」と云う意味。
 達陀の行法(だったんのぎょうほう)は、堂司(どうつかさ:平衆を率い修二会の進行を担当)以下8人の練行衆(れんぎょうしゅう)が達陀帽(だったんぼう:兜の様な形をした金襴模様の帽子)をかぶり、燃えさかる大きな松明(たいまつ)を持った火天(かてん:十二天の一人)役と、洒水(しゃすい:清めの水)器を持った水天(すいてん:十二天の一人)役と共に須弥壇(しゅみだん:仏像等を安置するために一段高く設けられた、須弥山を模して造られた台)の周りを回り、跳ねながら踊り、最後に、火天役が松明を床叩きつけ、凄まじく火の粉が飛び散って行法が終る。
 行法が終り下堂する際、青竹の杖で石段を打ち鳴らし、“ちょうず(手水・トイレ)”“ちょうず”と声を掛け合いながら石段を駆け下りる。これは、誰もいなくなった二月堂に鬼が出て来て、松明を振りかざし、火事になったら大変なので、練行衆が「ちょっとトイレに行って来るだけ」と鬼に思わせる為と云うが、実は、1667(寛文7)年2月14日未明「達陀」の残り火で二月堂が全焼したのを悔いる意味もあると思われる。

 3月12日:籠松明(かごたいまつ)、お水取り
 一般的にお水取りとして知られているのは、3月12日のお松明(おたいまつ)だが、本来は、初夜(しょや:19時頃)の時(六時の一つ)の行を始める為の道明かりとして焚かれるもので本行の期間中連日行われ、その松明を舞台(欄干)に上がって振り回すのであるが、12日は普段より一回り大きい籠松明が11本上がるので見応えがあり、火の粉を浴びると健康になるとか、幸せになると信じられ、また燃え残りの杉の枝を持ちかえれば無病息災に効くと云われている。
 この籠松明は長さ8m、重さ約70kg(他の日は40kg)で、この大松明を持った童子(どうじ)が観客の頭上に火の粉を散らしながら舞台を走り抜ける。
 また、12日は、お松明、半夜(はんや:22時頃)の走りの行法後、後夜(ごや:23時頃)の咒師作法(しゅしさほう)の中で「お水取り」が行われる。正確には13日午前1時半頃、連行衆(れんぎょうしゅう:11名の僧侶)が直径1mもある大きな蓮松明(はすたいまつ)に案内され、二月堂の本尊で秘仏「十一面観世音菩薩」に供える閼伽水(あかみず:仏に供える香水:こうずい)を二月堂下の建物・閼伽井屋(あかいや)の若狭井(わかさい)と云う井戸から汲み取る行事で、これが現在では「修二会」全体を表す「お水取り」になっている。
 この若狭井(わかさい)の由来は、天平年間、若狭(福井県)の神宮寺(当時は神願寺)から奈良・東大寺に赴いた印度僧・実忠和尚(じっちゅうかしょう)が大佛開眼供養を指導後、753(天平勝宝4)年に二月堂を建立した最初の修二会で、神々を招待されたが、若狭の遠敷明神(おにゅうみょうじん)は釣りに熱中して遅参し、2月12日の夜半に参列した。
 遠敷明神はそのお詫びも兼ねて、若狭より二月堂本尊へ、香水(こうずい:霊水)の閼加水(あかすい)を送る約束をしたときに二月堂地下から白と黒の鵜が飛び出して泉が湧き出たので若狭井(わかさい)と名付け、その水を汲む行事を「お水取り」と呼称した。
 その伝説を信仰し、若狭の神宮寺(じんぐうじ:福井県小浜市神宮寺30-4)では、毎年3月2日の夜に、神宮寺の境内に湧く閼伽水を、2kmほど上流の遠敷(おにゅう)川の鵜の瀬(うのせ:名水百選の一つ)から、この井戸に水を送る「送水神事・お水送り」の行事が執り行われている。 この水は地下を通って、10日間で東大寺二月堂の「若狭井」に届くとされ、13日未明の「お水取り」でくみ上げられる。

 3月15日:達陀帽戴き(だったんぼういただき)、お集会(おしゅうえ)、開山堂参拝、解散
 9時~13時、達陀帽戴き(だったんぼういただき)行事:達陀(だったん)の行法(3/12~14)」で使用された達陀帽(だったんぼう:兜の様な形をした金襴模様の帽子)を幼児の頭に被せる行事で、達陀帽を被せてもらうと賢い子に育つといわれる。(場所:二月堂)
 11時、お集会(おしゅうえ):各宿所を仕切っていた戸が開けられ、談笑できるようになる。
 13時40分、開山堂(かいさんどう:東大寺初代別当(べっとう:寺務を統轄する僧官)良弁僧正(ろうべんそうじょう)を祀るお堂)参拝
 13:50、開山堂の門前にて解散

出典: フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)

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■注

注1:東大寺(とうだいじ)
「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とする、華厳宗(けごんしゅう)大本山の仏教寺院で、金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)とも云う。
聖武天皇(しょうむてんのう:第45代天皇)の治世に災害や疫病(天然痘)が多発した為、聖武天皇は仏教に帰依し、741(天平13)年には国分寺建立の詔を、743(天平16)年には東大寺盧舎那仏(るしゃなぶつ)像の建立の詔を出し、国力を尽くして建立した寺である。
また、当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の本山にあたる「総国分寺」と位置づけられている。
奈良時代には大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約100メートル)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度に渡り焼失した。
現存する大仏は、台座などの一部に当初の部分を残すのみで、1691(元禄4)年に完成したもの。1709(宝永6)年に完成した3代目の大仏殿(現存)は、高さと奥行きは天平時代とほぼ同じだが、間口は3分の2に縮小されている。また、講堂、食堂、東西の七重塔など近世以降はついに再建されることはなく、今は各建物跡に礎石のみが残されている。
奈良時代の寺院では複数の宗派を兼学することが普通で、東大寺も、南都六宗(華厳宗、法相宗、律宗、三論宗、成実宗、倶舎宗)兼学の寺とされ、大仏殿内には各宗の経論を納めた「六宗厨子」があった。平安時代には空海によって寺内に真言院が開かれ、空海が伝えた真言宗、最澄が伝えた天台宗をも加えて「八宗兼学の寺」とされた。近代以降は所属宗派を明示する必要から華厳宗を名乗っている。
【大仏殿】
東大寺の金堂は通称大仏殿と呼ばれており、高さは47.34m、東西の幅57m、南北は50.48m。
盧遮那仏は高さ3.05mの56葉の蓮華座の上に高さ14.91m、重さ452t。
大仏に向かって右手奧にある柱の根本には大仏の鼻の穴と同じ大きさと言われる穴が空いていて、ここをくぐると幸運に恵まれると云われている。
【南大門】
奈良公園の中にある南大門は、高さ25mの楼門(ろうもん・2階造りの門)で、現存のものは1199(正治元)年に再建された。門の左右には1203(建仁3)年、仏師運慶・快慶が弟子と共に75日間で造立した、開口の阿形(あぎょう)と、口を結んだ吽形(うんぎょう)の金剛力士像が安置されている。阿形(あぎょう)はいっさいのはじまりを意味し、吽形(うんぎょう)はいっさいの終りを意味している。
写真:東大寺大仏殿、大仏、二月堂、お水とり、十一面観音、南大門、阿形(あぎょう)像、吽形(うんぎょう)像

注2:法会(ほうえ)
仏教において仏法を説く為や供養を行う為の僧侶・檀信徒の集まりである。その後、法会は追善供養などで行われる法要(法事)などと同じ意味で使われるようになった。

注3:十一面観音(じゅういちめんかんのん)
観音菩薩(※1)の変化身(へんげしん)の一つであり、六観音(※2)の一つでもある。本体の顔以外に頭上に11の顔を持つ菩薩である。
※1:観音菩薩(かんのんぼさつ)
観自在菩薩(かんじざいぼさつ)、観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)、救世菩薩(くせぼさつ)など多数の別名があるが、一般的には「観音さま」とも呼ばれる。
般若心経の観自在菩薩は、梵名の「アヴァローキテーシュヴァラ」の、アヴァ(遍く)ローキテー(見る、見た)シュヴァラ(自在者)という語を玄奘三蔵が漢語に訳したものである。また、法華経「観世音菩薩普門品第二十五」(観音経)には、観世音菩薩はあまねく衆生を救うために相手に応じて33の姿に変身すると説かれており、西国三十三所観音霊場、三十三間堂などに見られる「33」という数字はここに由来する。
※2:六観音
真言系では聖観音(しょうかんのん)、十一面観音千手観音(せんじゅかんのん)、馬頭観音(ばとうかんのん)、如意輪観音(にょいりんかんのん)、准胝観音(じゅんていかんのん)、を六観音と称し、天台系では准胝観音の代わりに不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん)を加えて六観音とする。六観音は六道輪廻(ろくどうりんね、あらゆる生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)の思想に基づき、六種の観音が六道(界)に迷う衆生を救うという考えから生まれたもので、地獄道(界)=聖観音、餓鬼道(界)=千手観音、畜生道(界)=馬頭観音、修羅道(界)=十一面観音、人道(界)=准胝観音、天道(界)=如意輪観音という組み合わせになっている。

(しょう)観音=地獄界(六観音の役割)
写真
衆生の求めに応じて救いの手をさしのべる慈悲深い菩薩であり、正式には観世音菩薩または観自在菩薩と云う。
観世音菩薩は、鳩摩羅什(くまらじゅう)による漢訳。
観自在菩薩は、三蔵法師の名で知られる玄奘(げんじょう)の漢訳。

准胝(じゅんてい)観音=人間界(六観音の役割)
写真
七倶胝仏母(しちぐていぶつも:無限(七倶胝)の仏の母の意)とも云いい、その像容は一面三眼十八臂とするものが多く、手の本数が多いことから千手観音と混同される場合もある。
密教で特に重視され、西国三十三箇所第11番札所の真言宗・醍醐寺(だいごじ:京都府京都市伏見区)の本尊でもある。一方、天台宗では准胝仏母と呼ぶ仏母尊とされ、六観音には准胝の代わりに不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん)を加えている。

十一面(じゅういちめん)観音=修羅界(六観音の役割)
写真
大光普照(だいこうふしょう)観音とも呼ばれる本体の顔以外に頭上に11の顔を持つ菩薩である。
頭上の11面のうち、前後左右の10面は菩薩修行の階位である十地(じゅっち:菩薩が修行して得られる位で52位)を表し、最上部の仏面は仏果(ぶっか:菩薩が修行して得られる最高位)を表す。

千手(せんじゅ)観音=餓鬼界(六観音の役割
写真)
十一面千手観音、千手千眼(せんげん)観音等の呼び名があり、千本の手は、どのような衆生をも漏らさず救済しようとする、観音の慈悲と力の広大さを表している。
千手観音の実際の造像は、38本の持物をもつ手に加えて合掌手(がっしょうて:敬い、思いやるようにする願いをする手)手と宝鉢手(ほうはつて:お腹の病の難からすくわれる願いをする手)を含めて40本の手を持つものが多い。

馬頭(ばとう)観音=畜生界(六観音の役割)
写真
馬頭は、ヒンドゥー教で3人の最高神(創造の神・ブラフマー、繁栄の神・ヴィシュヌ、破壊の神・シヴァ)の1人繁栄の神・ヴィシュヌの異名で、他の観音が女性的で穏やかな表情で表わされるのに対し、馬頭観音は目尻を吊り上げ、牙を剥き出した忿怒(ふんぬ)相であることから、馬頭明王(ばとうみょうおう)とも称する。また馬頭という名称から、民間信仰では馬の守護仏としても祀られる。

如意輪(にょいりん)観音=天界(六観音の役割)
写真
救世菩薩とも呼ばれ、六臂(ろくび:6本の腕)像は、その内の2本に、尊名の由来である如意宝珠(にょいほうじゅ)と法輪(ほうりん)を持っている。
如意宝珠 (にょいほうじゅ)とは、「意のままに様々な願いをかなえる宝の珠」のことで、一般的に、下部が球形で上部が円錐形に尖った形で表され、仏像が持つ球形や球に近い形の珠はすべて如意宝珠(にょいほうじゅ)と呼ばれる。また、仏塔や仏堂の頂上や橋の欄干などの建造物の装飾として取り付けられる擬宝珠(ぎぼし)はこれを模したものである。
法輪(ほうりん)は、古代インドで使用されていた、真ん中に穴のあいた金属製の円盤の外側に刃が付けられている、投擲武器。
写真:如意宝珠(にょいほうじゅ)

不空羂索(ふくうけんさく)観音
写真
天台宗で准胝(じゅんてい)観音の代わりに六観音に加えられており、不空(ふくう)は、空しからず・願いが叶うこと、羂索(けんさく)とは、戦いや狩猟に用いる環のついた投網ことで、菩薩の網で、苦悩する人々を漏れなく救済する菩薩を意味する。


注4:練行衆(れんぎょうしゅう)
参籠(さんろう:修二会に参加する事)する僧侶のことを練行衆と呼び、練行衆・11名の僧侶の任命は毎年、東大寺初代別当良弁(ろうべん)僧正(そうじょう)の御忌日にあたる12月16日早朝、法要開始前に華厳宗(けごんしゅう)管長から発表される。
練行衆の他に三役や仲間(ちゅうげん)、童子(大人である)と呼ばれる人達がこれを補佐する。
練行衆には役割に寄って四職(ししき)と平衆(ひらしゅう)との名称が付けられ、堂内での席の位置によって、北座衆と南座衆に分かれる。
【四職】
①和上(わじょう):練行衆に戒(かい)を授ける役。
②大導師(だいどうし):祈願を司る総責任者。通称・導師さん。
③咒師(しゅし):密教的、神道的修法を行う。
④堂司(どうつかさ):平衆を率い修二会の進行を担当。
【平衆】
⑤北座衆之一(きたざしゅのいち):北座の長で平衆の主席。
⑥南座衆之一(なんざしゅのいち):南座の長。
⑦北座衆之二(きたざしゅのに):北座の次席。
⑧南座衆之二(なんざしゅのに):北座の次席。
⑨中灯(ちゅうどう):記録役。
⑩権処世界(ごんしょせかい):処世界の補佐役。
⑪処世界(しょせかい):平衆の末席。法要の雑用役。

注5:兜率天(とそつてん)
六欲天の第4天。覩史多天(としたてん)とも云う。須弥山(しゅみせん)の頂上から24万由旬(168万km)の処の天界で、内院と外院に分かれている。外院は天衆が、内院には将来仏となるべき菩薩が住むところで、現在は、弥勒菩薩がここにおり、釈尊滅後56億7千万年経って地上に下りることになっている。
仏教の開祖・釈尊もここから白象に乗って摩耶夫人の胎内に下がったと云う。
天人の寿命は4000歳である。ただし人間の400歳をこの天の1日1夜とする。
須弥山の詳細は→PDFファイル

注6:戒壇院(かいだんいん)
写真
出家者が正式の僧尼となる為に、守らなければならない道徳規範や規則の戒律を授けるために設置された施設で、755(天平勝宝7)年に、鑑真和上を招いて創建された。現在の建物は享保18年(1733年)の再建である。内部中央に宝塔があり、その周囲を四天王像が守っている。

注7:豊島茣蓙(てしまござ)
摂津国豊島郡(大阪府豊能郡)に産したござ。酒樽(さかだる)を包んだり、雨具に用いたりした。「てしまむしろ」「としまむしろ」とも云う。

注8:御幣(ごへい)
写真
2本の紙垂(しで:しめ縄等に垂らす、特殊な断ち方をして折った紙)を竹または木に挟み、神前に供えたり、神主がお祓いする時に用いる祭具で、幣束(へいそく)、幣(ぬさ)とも云う。(紙垂→part11参照)

注9:神仏習合(しんぶつしゅうごう)
日本古来の神道と仏教を結びつけた信仰のことで、神仏混淆(しんぶつこんこう)とも云う。
日本に仏教が伝来した飛鳥時代以降、平安時代になって仏教が一般にも浸透し始めると、神は仏の仮の姿であるとする神仏習合思想が生まれ、寺院の中で仏が形を変えて姿を現したとする神(権現・ごんげん)を祀る神社が営まれ、神社に神宮寺(じんぐうじ)が建てられたりした。

注10:賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)
釈迦仏の弟子で、中国では像を食堂(じきどう)に安置して祀った。日本ではこの像を「おびんづるさま」と呼んで、撫でると除病の功徳があるとされ、なで仏の風習が広がった。
写真:東大寺・大仏殿前、三津寺(みつてら:大阪府大阪市中央区心斎橋筋)

注11:八斎戒(はっさいかい)
在家の信者が六斎日(ろくさいじつ)に守る以下の8種の禁戒
①不殺生戒(ふせっしょうかい):故意に殺傷しない。
②不偸盗戒(ふちゅうとうかい):故意に我が物としない。
③不婬戒(ふいんかい):性行為から離れる。
④不妄語戒(ふもうごかい):嘘をつかない。
⑤不飲酒戒(ふおんじゅかい):アルコール類を飲まない。
⑥不香油塗身戒(ふこうゆずしんかい):化粧をしない。
⑥不歌舞観聴戒(ふかぶかんちょうかい):歌舞を見聞しない。
⑦不高広大床戒(ふこうこうだいしょうかい):高くゆったりとしたベッドに寝ない。
⑧不非時食戒(ふひじじきかい):昼以後、何も食べない
六斎日とは、月の内8日、14日、15日、23日、29日、30の6日間を云い、これらの日は悪鬼が人の生命を奪おうとする日であり、そのため病気など不吉な出来事が起こりやすいとされている。

出典: フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)

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■写真

写真・PDFファイルは和坊流宇宙(http://www.justmystage.com/home/kazubo/)の和坊放浪記:口永良部島編:part19でご覧ください。


続く:口永良部島編:part20


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2009年5月 8日 (金)

口永良部島編:part18


和坊放浪記:口永良部島編part18


平成18(2006)年・備忘録

 項目

寝待・湯治小屋
 241日目:2月25日(土) 曇強風    (水汲み中止)
 242日目:2月26日(日) 雨のち曇り  (二・二六事件の日)
 243日目:2月27日(月) 曇       (地滑り発生・寝待集落孤立)
 244日目:2月28日(火) 曇一時晴   (水汲み)
 245日目:3月 1日(水) 雨のち曇   (地滑り現場復旧) 
 246日目:3月 2日(木) 曇       (体調異常・完全休養日) 禁酒
 247日目:3月 3日(金) 雨のち曇   (雛祭り) 禁酒
 248日目:3月 4日(土) 晴       (買出し) 禁酒
 249日目:3月 5日(日) 晴       (お勤め再開) 禁酒
 250日目:3月 6日(月) 雨       (イルカの大群)
※本文中赤字は写真あり
■今日は何の日
 2月26日:二・二六事件の日
 3月3日:雛祭り(五節句、内裏、内裏雛の左右、雛飾り、内裏雛の左右、童謡・うれしいひなまつり、左近の桜・右近の橘、田道間守、神功皇后、非時香菓=橘)、
  :大内裏の位置図、大内裏と内裏図、内裏図
  雛飾り並べ方
注:皇道派(君側の奸、北一輝)、宣伝ビラ、血盟団事件(井上日召、佐郷屋嘉昭、小島玄之・頭山満、田中清玄)、11月事件、五・一五事件(大川周明、三上卓・青年日本の歌(別名・昭和維新の歌)、三無事件、橘孝三郎)
写真
 Aコープ、羽生商店、鎌田商店、二十二士の墓、二・二六事件慰霊像、垂仁天皇陵・橘と桜、京都御所・橘と桜、田道間守の墓、神宮皇后朝鮮遠征画、タチバナ(橘)、文化勲章

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寝待・湯治小屋


241日目:2月25日(土) 曇強風  (水汲み中止)

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 田代の湧水場に水汲みに出掛けるが、風が強く途中から引き返す。

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242日目:2月26日(日) 雨のち曇り  (二・二六事件の日)

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 今日は、二・二六事件の日(今日は何の日参照)。早朝3時頃から雷を伴った大雨が降ってきた。

 何時もは朝のお勤めを終えたら入浴時間だが、雨が激しすぎて朝の入浴は取りやめる。

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243日目:2月27日(月) 曇  (地滑り発生・寝待集落孤立)

【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 昨日の大雨の影響で、夜地滑りが発生した。

 場所は、寝待集落の駐車場から100m程登った山肌で、以前地滑りと崖崩れがあった所に連なる山肌。

 山肌には地滑りの跡が、崖崩れによるコンクリート壁は海岸に落下して無残な姿が見られる場所である。

 現場は道路に土砂が流出堆積し、車両は通行不能な状態になっており、車が2台止まっていた。

 1台は、寝待集落の住人・前原さんの車。もう1台は、昨夜、寝待温泉で入浴した本村集落の住人の車だった。

 本村集落の人達は、温泉からの帰りに地滑りに遭遇、数秒の差で土砂に埋もれるところだったらしい。また、前原さん夫婦は、牛の世話をしなくてはならないので、1輪車に荷物を積み替えて、徒歩で牛小屋に向かった。

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244日目:2月28日(火) 曇一時晴  (水汲み)

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 3日前、田代の湧水地に水汲みに出掛けたが、強風の為途中で引返したので、地滑り現場を徒歩で越えて、水汲みに出掛ける。

 地滑り現場は放置されたままで、何時開通するか分からない。

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245日目:3月1日(水) 雨のち曇  (地滑り現場復旧)

【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 平成12年3月に開通した新寝待線(田代集落・電波塔から寝待集落)全長約2kmの道中には、何年か前の台風被害により、道路が陥没した場所を迂回する応急処理をしたままの場所や、数か所の地滑り跡もそのまま放置されている状況から見て、今回の地滑り復旧も時間がかかると思っていたが、本日重機が入り復旧した。

 何のことは無い、寝待温泉防波堤の嵩上げ工事で使用している重機が、目と鼻の先から出張ってきたもの。業者の話によれば、温泉の追加工事として請け負ったらしい。

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246日目:3月2日(木) 曇  (体調異常・完全休養日) 禁酒

【トレーニング】・【お勤め】休み

 4~5日前より耳に異常を感じていたが、上向きに寝ると右耳に激痛が走り、左体側を下に横臥すると痛みが無くなると云った症状が発生した為、昨夜6時に就寝後もウトウトが続き、熟睡する事が出来ず、5時迄寝てしまった。

 毎日続けている座禅瞑想時にもウトウトして、身が入らないので、今日は完全休養日とし、禁酒をする。

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247日目:3月3日(金) 雨のち曇  (雛祭り) 禁酒

【トレーニング】・【お勤め】休み

 今日は雛祭り(今日は何の日参照)。でも島の生活には変化なし。耳の異常が続いているので、本日も安静日にして禁酒をする。

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248日目:3月4日(土) 晴  (買出し) 禁酒

【トレーニング】・【お勤め】休み

 体の調子は完全でないが、久しぶりの晴天なので本村に買出しに出掛ける。

 無理をして出掛けて来たが、Aコープ、羽生商店共に閉まっている。

 口永良部島には、Aコープ羽生商店の他に鎌田商店があるが、島に入った当初1度立ち寄っただけで御無沙汰している。

 何もないのは分かっているが、折角本村迄買出しに来たので、鎌田商店に入ってトイレットベーパーを買う。

 帰途、田代の湧水地で水を汲んで帰る。

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249日目:3月5日(日) 晴  (お勤め再開) 禁酒

【トレーニング】休み
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 昨夜から耳の痛みが無くなったので、今日からお勤めを再開する。ただし、禁酒は当分続行予定。

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250日目:3月6日(月) 雨  (イルカの大群)

【トレーニング】休み
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 早朝は晴れていたが、9時過ぎから雨が降ってきた。

 昨日、寝待集落の住人のバッチャン連中は本村の家に帰ったので、昼間は自分一人になった。

 昼過ぎに、魚を追って来たのか、イルカが群れをなしてやって来た。十数頭単位のグループが数グループ泳ぎ飛び廻っている。その中の一部グループが手の届く距離まで近づいてきた。

 初めての体験に感動する。

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■今日は何の日

2月26日:二・二六事件の日

 1936年(昭和11年)2月26日の未明、前夜からの雪の中で陸軍・皇道派(注1)の青年将校ら1483名が、「昭和維新断行」を掲げて起こした未曾有(みぞう)のクーデター事件である。
 ク-デタ-は、午前5時に決起、総理官邸、高橋是清・蔵相私邸(赤坂)、斎藤実・内大臣私邸(四谷)、渡辺錠太郎・陸軍教育総監私邸(荻窪)、鈴木貫太郎・侍従長官邸(麹町)、牧野伸顕・前内大臣逗留地(神奈川県湯河原)を次々に襲撃・殺害を図り、政治・軍の中枢である永田町一帯を完全に占拠し、川島陸軍大臣に決起趣意書と7項目からなる要望書を提出して「昭和維新」の断行を迫った。
 しかし、政府は翌日27日未明に戒厳令を布告、天皇が武力鎮圧を命じ、28日午前5時、「叛乱軍は原隊に帰れ」との奉勅命令(ほうちょくめいれい:天皇の命令)が下された為、陸軍は29日に鎮圧を開始した。飛行機から「下士官兵ニ告グ」の宣伝ビラ(注2)を撒き、「兵に告ぐ」のラジオ放送による「今からでも遅くはない」という帰順勧告の結果、将校たちは兵を原隊に帰し、全員投降し、同日4日間の反乱(クーデター)は鎮圧された。
 事件後、首謀者・軍人13名、元軍人3名、民間人1名(北一輝)と民間協力者2名の19名が死刑、69名が有罪となった。
【時代背景】
 当時は1929(昭和4)年の世界恐慌に端を発した大不況、企業倒産が相次ぎ、社会不安が増していた最中。1931年(昭和6年)には石原莞爾率いる関東軍の一部が満州事変を引き起こして以降、1932(昭和7)年2月に血盟団事件(注3)、同5月に五・一五事件(注4)と次々に政治改革を叫ぶ右翼テロが起こっており、これを境に軍部主導の政治へと邁進していった。
 当時陸軍には、皇道派と統制派の厳しい派閥対立があったが、1934(昭和9)年に起きた11月事件(注5)をきっかけとして表面化し、翌1935(昭和10)年7月に皇道派が首領と仰ぐ真崎甚三郎(まざきじんざぶろう)教育総監の更迭問題が起こるや、皇道派の相沢三郎中佐は、永田鉄山(てつざん)軍務局長(少将)が重臣、財閥、政党の手先となり皇軍を私兵化している統制派の元凶であると考え、永田殺害を決意、1935(昭和10)年8月12日白昼斬殺するに至った(相沢事件)。この事件が2.26事件へと発展したのである。
【墓碑・慰霊碑】
墓碑:1952(昭和27)年7月27日の17回忌に、麻布賢崇寺(けんそうじ)に「二十二士の墓」が建立され、毎年2月26日と7月12日に「仏心会」主催の「二・二六事件の法要」が行われている。
なお、二十二士は、7月12日に処刑された、軍人13名と民間協力者2名の15名。8月19日に処刑された元軍人3名と北一輝の4名に自決者2名を加えた計21名に、統制派の陸軍省軍務局長永田鉄山少将を斬殺した相澤三郎中佐を含めた22名である。
慰霊碑:1965(昭和40)年2月26日、二・二六事件の首謀者達が処刑された、旧東京陸軍刑務所敷地跡の東京都渋谷区神南(NHK前)に「二・二六事件慰霊像」が建立された。

注1:皇道派(こうどうは)
陸軍大将・陸相の荒木貞夫(あらき さだお)が、日本軍を「皇軍」と呼んだ事から付けられた陸軍内の派閥の名称で、皇道派の軍人達は、国家社会主義者・北一輝(※)が「日本改造法案大綱」の中で述べた、君側の奸(くんそくのかん)たる、財界や政界を排除して天皇親政による国家改造を説く思想に影響を受けていた。
二・二六事件の後、陸軍の皇道派は壊滅し、軍内の規律統制を尊重・堅持する統制派(陸軍のもう一つの派閥)の中心人物とされた東條英機や石原莞爾らの政治的発言力がますます強くなった。
北一輝(きた いっき)
明治16年(1883年)4月3日 生~昭和12年(1937年)8月19日没。昭和初期の思想家・社会運動家。本名は北輝次(きたてるつぐ後に輝次郎)であるが、中国の革命運動に参加し中国人革命家との交わりを深めるなかで、いつしか中国風の名前「北一輝」を名乗るようになった。右目が義眼だったことから「片目の魔王」の異名をとる。
君側の奸(くんそくのかん)
君主に仕える臣下のうち、性格が邪悪で、狡賢(ずるがしこ)く、君主に取りいって悪を為す者を指す。

注2:宣伝ビラ 
写真
下士官兵に告ぐ
1.今からでも遅いくはないから原隊に帰れ
2.抵抗するものは全部逆賊であるから射殺する
3.お前逹の父母兄弟は國賊となるので皆泣いているぞ
2月29日  戒厳司令部

注3:血盟団事件(けつめいだんじけん)
1932年(昭和7年)2月から3月にかけて発生した連続テロ事件である。事件を起こした血盟団は日蓮宗の僧侶である井上日召(いのうえにっしょう)によって率いられていた集団であった。
日召は、政党政治家・財閥重鎮及び特権階級など20余名を、「ただ私利私欲のみに没頭し国防を軽視し国利民福を思わない極悪人」と名指ししてその暗殺を企て、配下の血盟団メンバーに対し「一人一殺」「一殺多生」を指令した。「紀元節前後を目途としてまず民間から血盟団がテロを開始すれば、これに続いて海軍内部の同調者がクーデター決行に踏み切り、天皇中心主義にもとづく国家革新が成るであろう」というのが日召の構想であった。
同年2月9日、東京都本郷の駒本小学校へ総選挙の応援演説のため訪れた前大蔵大臣の井上準之助(民政党幹事長)が射殺された。実行犯は、日召に帰依していた茨城県那珂郡の農村(現在のひたちなか市)出身の青年メンバー、小沼正(おぬましょう)・菱沼五郎の二名。
同年3月5日、三井銀行本店の玄関前で三井財閥の中心人物(三井合名理事長)である團琢磨(だんたくま)が射殺された。三井財閥がドル買いによって利潤を上げていたことが、日召の反感を買ったものと考えられる。実行犯は同じく、小沼正と菱沼五郎。
警察はまもなく、2件の殺人が血盟団の組織的犯行であることをほぼ突き止めた。日召は、一旦は頭山満(※)の保護を得て捜査の手を逃れようとも図ったが、結局3月11日に自首、関係者14名が一斉に逮捕された。小沼は短銃を霞ヶ浦海軍航空隊の藤井斉海軍中尉から入手したと自供した。裁判では井上日召・小沼正・菱沼五郎の三名が無期懲役判決を受け、また四元義隆(よつもとよしたか)ら他のメンバーも共同正犯として、それぞれ実刑判決が下された。
【関係者のその後】
1940(昭和15)年に井上・小沼・菱沼・四元らは恩赦で出獄する。
井上は、戦後護国団を結成して右翼活動を続けた。
小沼は、戦後は出版社業界公論社社長を務める傍ら右翼活動を続け、「一殺多生」を著わす。
菱沼は、帰郷して右翼活動から一線を引いていたが、小幡五朗と改名し、1958年に茨城県議会議員に当選し、その後8期連続当選、県議会議長を務めて県政界の実力者となった。
四元は、出獄すると井上日召らと共に近衛文麿の勉強会に参画、近衛文麿の書生や鈴木貫太郎首相秘書を務めた。1955年より田中清玄(※)の後継で三幸建設工業社長に就任(2000年~2003年会長)。この間、戦後政界の黒幕的な存在として知られた。
井上日召(いのうえ にっしょう)
日蓮宗の僧侶で右翼活動家。戦前の右翼団体・血盟団、戦後の右翼団体・護国団の指導者。本名は井上昭。昭の字を分けて日召とする。
1928(昭和3)年、茨城県大洗町の立正護国堂の住職になる。その後、海軍の過激派・藤井斉中尉や五・一五事件の首謀者の一人愛郷塾塾長・橘孝三郎らと知り合い、1932(昭和7)年、右翼団体・血盟団結成。一人一殺の血盟団事件を引き起こし、無期懲役刑となったが、1940(昭和15)年 恩赦で出獄後、翌1941(昭和16)年 三上卓(2.26事件首謀者)、四元義隆、菱沼五郎(5.15事件関係者)らと「ひもろぎ塾」を設立し近衛文麿前首相のブレーンとして活躍する傍ら、1954(昭和29)年、佐郷屋嘉昭小島玄之らと護国団を結成し初代団長になる。
佐郷屋嘉昭(さごやよしあき)本名・留雄(とめお)は、玄洋社系右翼団体「愛国社」党員。1930(昭和5)年11月、東京駅構内にて、濱口雄幸首相を狙撃、重傷を負わせ死刑判決を受けるが、1940(昭和15)年仮出所。右翼団体「護国団」の第二代団長となる。1959年には児玉誉士夫らがいる全日本愛国者団体会議(全愛会議)の初代議長となる。
小島玄之(こじまげんし)は、社会主義から国家社会主義へ転換して「護国団」結成に参加し、後に顧問となる。その著作「右翼運動の基本政策」は北一輝の戦後版と位置付けられ、戦後右翼陣営における最大の理論家と評されている。
参考:井上日召(いのうえにっしょう)が住職をしていた、茨城県東茨城郡大洗町・立正護国堂は、現在日蓮宗寺院・東光山護国寺として残っている。境内には、「井上日召上人」を顕彰する銅像や、「昭和維新烈士之墓」などがある。なお、後の日本赤軍のリーダーの重信房子の父親は血盟団員である。
護国寺周辺地図
頭山満(とうやまみつる)
明治から昭和前期にかけて活動したアジア主義者の巨頭。玄洋社(げんようしゃ:明治14年に結成されたアジア主義を抱く政治団体)の総帥。
田中清玄(たなかきよはる、通称せいげん)
元日本共産党書記長で、獄中で転向し、右翼活動家となる。ロイズ保険の会員(日本人でロイズの会員になれたのは、田中清玄と他に1人と云われている)

注4:五・一五事件(ごいちごじけん)
1932年(昭和7年)5月15日に起きた海軍急進派の青年将校を中心とする反乱事件で、血盟団事件の第二陣として計画されたもの。
右翼の神武会(じんむかい)・大川周明(しゅうめい)、紫山塾(しざんじゅく)・本間憲一郎(ほんまけんいちろう)、天行会(てんこうかい)・頭山秀三(とうやましゅうぞう)らが資金や武器の援助を与え、5月15日午後5時ごろから三上卓(みかみたく)海軍中尉ら海軍士官6名、陸軍士官候補生11名、それに元士官候補生や血盟団残党を加えた総勢19名は、4組に分かれて、首相官邸をはじめ、立憲政友会本部、牧野内大臣邸等を襲撃し、当時の護憲運動の旗頭ともいえる犬養毅首相を暗殺した。他方、農本主義者・橘孝三郎(たちばなこうざぶろう)は、主宰する愛郷(あいきょう)塾の塾生7人を率いて東京の変電所を襲撃した。
犯行後、海軍士官や陸軍士官候補生らは東京憲兵隊に自首し、民間側も11月5日までには全員検挙されたが、100万を超える減刑嘆願書が寄せられた。
大川周明(おおかわ しゅうめい)
五・一五事件では禁錮5年の有罪判決を受け服役。大東亜(太平洋)戦争終戦後、民間人としては唯一A級戦犯として起訴されたが、東条英機の頭を殴ったり奇声を発するなど、常識を逸した行動をとり、翌日の法廷で、オーストラリアのウェッブ裁判長は大川周明を精神異常と判断し、裁判から除外した。東京裁判で起訴された被告人の中では、裁判終了時に存命していて有罪にならなかった唯一の人物となった。
三上卓(みかみたく)
5.15事件の主犯で、反乱罪により禁錮15年の刑を受けたが、1938年(昭和13年)に仮出所した。
1940年、「大日本青年党」「まことむすび」などを統合して、「皇道翼賛青年同盟」を結成、初代委員長に就任した。三無(さんゆう)事件では証拠不充分で釈放となった。その後、「黒龍倶楽部」世話人などに就任した。
なお、三無(さんゆう)事件とは、元川南工業社長・川南豊作(当時59歳)を中心とした旧軍人、学生らのグループは、60年安保闘争などの勢いからの共産革命への危機感と、施策に対する不満から、無税・無戦争・無失業の「三無」というスローガンを掲げ、武力で国会を占拠し、池田勇人首相をはじめとする政府要人を暗殺するという東京クーデター計画を立てていたが、公安三課による内偵で未然に探知され、1961(昭和36)年12月12日に、川南の他に元海軍中尉で5・15事件の中心人物であった三上卓(当時56歳)、本陸軍少将・桜井徳太郎(当時64歳)、元陸軍士官学校生徒で「国史会」キャップの小池一臣(当時34歳)ら32人が逮捕された。
三無とは「無税」「無失業」「無戦争」のことで、無税は公社公団の民営化、無失業は公共事業による失業者の吸収、無戦争はミサイルの開発を進め、他国からの侵略を不可能にするというものだった。
参考:昭和5年に作詞作曲した青年日本の歌(別名・昭和維新の歌)は、二・二六事件後は「反乱をあおる危険な歌」とされ、歌唱が禁止された。
日本の歌:松方弘樹・歌YouTube
橘孝三郎(たちばなこうざぶろう)
茨城県出身の政治運動家、郷里で農業に従事するかたわら、農本主義にもとづく青少年教育を目指し、1931(昭和6)年に愛郷塾を設立。また、井上日召と知己となり、五・一五事件では塾生7人を率いて東京の変電所を襲撃し無期懲役の判決を受けた。1940年(昭和15年)、恩赦により出獄。1959(昭和34)年に全日本愛国者団体会議の顧問に就任した。

注5:11月事件
村中孝次・磯部浅一ら陸軍皇道派青年将校(2.26事件の首謀者)が、クーデターを企図した容疑で、士官学校生徒とともに逮捕された事件で、士官学校事件とも云う。

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3月3日:雛祭り(ひなまつり)

 3月3日は五節句(※1)の一つの上巳(じょうし)。旧暦の3月3日は新暦の4月頃で、桃の花が咲く季節になる為、桃の節句とも呼ばれ、京都を含め一部地方ではでは4月3日に雛祭りをしている。
 雛祭りの起源は平安時代の貴族階級の子女が、天皇の御所(内裏:だいり※2)を模した御殿や飾り付けで遊んだ雛遊びが始まりで、やがて武家社会でも行われるようになり、江戸時代には庶民の人形遊びと節句が結び付けられ、雛祭りの祓(はらえ:災厄等を解除する神事)として、一生の災厄を人形に身代りさせるという祭礼的意味合いが強くなり、紙製の形代(かたしろ:小さな人の形)を作ってそれに穢れを移し、川や海に流して災厄を祓う祭礼になった(この風習は、現在でも流し雛として残っている)。
 また、雛飾り(※3)は、江戸時代初期は男女一対の内裏雛(だいりびな)を飾るだけの物であったが、江戸末期から明治にかけて武家子女など身分の高い女性の嫁入り道具の家財のひとつに数えられるようになってからは、自然と華美になり、より贅沢なものになった。
 元々は、5月5日の端午の節句とともに男女の別なく行われていたが、江戸時代頃から、豪華な雛人形は女の子に属するものとされ、端午の節句(菖蒲の節句)は尚武(武事・軍事を重んじる事)にかけて男の子の節句とされるようになった。
※1:五節句
①1月7日:人日(じんじつ)。七種粥を食べることから七草の節句ともいう。
②3月3日:上巳(じょうし)。旧暦で、上巳は3月上旬の巳の日のことを云う。
③5月5日:端午(たんご)。旧暦で、午の月の最初の午の日を節句として祝っていた。菖蒲の節句ともいう。
④7月7日:七夕(しちせき、たなばた)。旧暦の7月7日の夜のこと、七夕は棚幡とも書き、お盆行事で、故人をお迎えするための精霊棚(しょうりょうだな)とその棚に五如来の幡(ごにょらいのはた:五色の色に染められた幡)を安置するのが7日の夕方であることから7日の夕で「七夕」と書いて「たなばた」と発音するようになった。
⑤9月9日:重陽(ちょうよう)。菊の節句とも呼ばれる。邪気を払い長寿を願って、菊の花を飾ったり、菊の花びらを浮かべた酒を酌み交わして祝ったりしていたが、現在では、他の節句と比べてあまり実施されていない。
※2:内裏(だいり)
 内裏とは、天皇の私的区域のこと。御所(ごしょ)とも云う。
 平安京の北辺には、大内裏(だいだいり:平安宮)があり、その内部の中央東寄りに南北約300m、東西約200mの内裏(だいり)が存在した。内裏は、中央政庁である「朝堂院」の北側に位置し、周囲を築地に囲まれ、その内部は北側に後宮、南側に天皇の政務所である紫宸殿や日常生活の中心地である清涼殿などがあった。
 平安京内裏は960(天徳4)年火災で全焼したあと、幾度も火災に見舞われ、やがて里内裏(さとだいり:平安時代以降、平安宮内裏以外の邸宅を天皇の在所として用いたものを指す)が現れてくると天皇はもっぱらそちらに常住するようになり、内裏の意義は低下し、平安宮の内裏は鎌倉時代に焼亡したのち再建されることはなく、南北朝以後は内裏の東に位置する里内裏であった土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)が御所となり、近世になってその内域に紫宸殿、清涼殿などが復元され、現在の京都御所になった。

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図1:平安京(平安宮)・大内裏の位置図
平安京(平安宮)・大内裏の位置図

図2:平安京(平安宮)・大内裏と内裏図
平安京(平安宮)・大内裏と内裏図
【大内裏】
太政官(だいじょうかん):律令官の最高機関で、現在の内閣のような場所。
朝堂院(ちょうどういん):八省院とも云い、大内裏の正庁で、政務・儀式・宴会の場であり、重要な儀式が行われた。
大極殿(だいごくでん):天皇出御の正殿で、即位・ 大嘗祭・ 朝賀・政務が行われた。
豊楽院(ぶらくいん):節会の宴や外国使節歓待などが行われた。
12門(上東門と上西門を除く):「宮城十二門」と総称される。
 大内裏の四方に門が開かれ外面する宮城門(みやぎもん:宮門)12の門上には、書道の名手を選んで書かせた扁額(横に長い額)が掲げられ、左右の近衛府(このえふ:君主を警護する役所)が管轄し火をたいて守った。
 朱雀門(すざくもん)美福門(びふくもん)皇嘉門(こうかもん)郁芳門(いくほうもん)待賢門(たいけんもん)陽明門(ようめいもん)談天門(だんてんもん)藻壁門(そうへきもん)殷富門(いんぷもん) 達智門(たっちもん)偉鑒門(いかんもん)安嘉門(あんかもん)以上が宮城十二門。上東門(じょうとうもん)上西門(じょうさいもん)は後に造られたので入っていない。

図3:平安京(平安宮)・内裏図
平安京(平安宮)・内裏図
【門】
承明門(しょうめいもん)外郭の建礼門(けんれいもん)の対になっている
玄輝門(げんきもん):外郭の朔平門(さくへいもん)の対になっている
宣陽門(せんようもん)外郭の建春門(けんしゅんもん)の対になっている
陰明門(おんめいもん)
【天皇の住居】
紫宸殿(ししんでん):別名・南殿(なでん)内裏の正殿である。即位、朝賀、節会などの重要な儀式を行う場所である。
仁寿殿(じじゅうでん):元々は天皇の住居だったが、住まいが清涼殿へ移ってからは、相撲、内宴などを行う場所になった。
清涼殿(せいりょうでん)天皇の常の居所
後涼殿(こうりょうでん):女御などが住んでいた。
【後宮(こうきゅう)】
 王や皇帝などの后妃(こうひ:后は第一位のきさき、妃はその次位きさき)が住まう場所。 日本では、平安京内裏の七殿五舎が該当する。一般的に、後宮は男子禁制というイメージがあるが、日本では家族や親しい人間(貴族)は、頻繁に出入りしていた。ただし江戸城大奥は、完全な男性禁制の場で、男性の出入りは厳しく制限された。
承香殿(しょうきょうでん):内宴や御遊(ぎょゆう:宮中で催された管弦の催し)などが行われた。
麗景殿(れけいでん):皇后、中宮、女御など、身分の高い女性が住んでいた。
弘徽殿(こうきでん):皇后、中宮、有力な女御などが住んでいた。
常寧殿(じょうねいでん):別名・后町(きさきまち)皇后、女御が住んでいた。
飛香舎藤壷:ふじつぼ):庭に藤が植えてあった事から藤壷とも呼ばれる。皇后、女御が住んでいた。
七殿:承香殿、弘徽殿、登華殿、貞観殿、宣耀殿、麗景殿、常寧殿。
五舎:飛香舎(藤壺)、凝花舎(梅壺)、襲芳舎(雷鳴壺)、昭陽舎(梨壺)、淑景舎(桐壺)
【その他】
校書殿(こうしょでん):歴代の書物を保管していたので別名『文殿/ふどの』とも呼ばれる。
温明殿(うんめいでん):別名・内侍所(ないしどころ)ヤタの鏡という神鏡を安置し、内侍が奉仕している。
蘭林坊(らんりんぼう):儀式の際の用具をはじめとする御物・御書等が納められていた。
桂芳坊(けいほうぼう):毎月音楽を練習した。

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※3:雛飾り

雛飾り並べ方
雛飾り並べ方
男雛(天皇:お内裏様)、②女雛(皇后:お姫様)、③雪洞(ぼんぼり):行燈(あんどん)、④三宝(さんぼう:三方):儀式で物をのせる台、⑤三人官女:宮中に仕える女官。内1人のみお歯黒、眉無し(既婚者を意味する)、⑥高杯(たかつき):食物を盛る脚つきの台、⑦五人囃子:能のお囃子を奏でる5人の楽人。それぞれ太鼓(たいこ)・大鼓(おおかわ・おおづつみ)・小鼓(こつづみ)・笛(ふえ)・謡(うたい)である (能囃子の代わりに5人、又は7人の雅楽の楽人の場合もある)、⑧右大臣(武道に長けた若くて色白の男性)、⑨左大臣(文学に精通している白髪で赤ら顔の男性)、⑩御膳(おぜん)、⑪菱台(ひしだい)菱餅を供える菱形をした台、
仕丁(しちょう):従者で通常3人1組。仕丁の顔は、感情豊かな子に育つようにとの願いを込められ、泣き・笑い・怒りといった喜怒哀楽の表情を表している⑬右近の橘(たちばな)、⑭左近の桜
【内裏雛(だいりびな)の左右】
 内裏雛(男雛・女雛)の並べ方は、東京では、男雛を右(向かって左)に。関西、特に京都では、男雛を左(向かって右)に配置するのが標準的な飾り方になっている。
 これは、古来、日本では「左」が上の位であった為、京都・関西では旧くからの伝統を重んじ、天皇を模した男雛を左に配置している。
 しかし、明治の文明開化で、西洋式の右上位に倣(なら)い、大正天皇が即位式で右に立った。それ以降、昭和天皇も何時も右に立ち香淳皇后が左に並んだことから、東京では、男雛を右に配置したのではないか。
 なお、社団法人日本人形協会では昭和天皇の即位以来、男雛を向かって左に置くのを「現代式」、右に置くのを「古式」とするが、どちらでも構わないとしている。
【童謡】
「うれしいひなまつり」作詞:サトウハチロー 作曲:河村光陽
(1) あかりをつけましょ ぼんぼりに
  お花をあげましょ 桃の花
  五人ばやしの 笛太鼓
  今日はたのしい ひな祭り
(2) お内裏様(だいりさま)と おひな様
  二人ならんで すまし顔
  お嫁にいらした 姉(ねえ)様に
  よく似た官女(かんじょ)の 白い顔
(3) 金の屏風(びょうぶ)に 映(うつ)る灯(ひ)を
  かすかにゆする 春の風
  すこし白酒(しろざけ) めされたか
  赤いお顔の 右大臣(うだいじん)
(4) 着物をきかえて 帯しめて
  今日は私も はれ姿
  春の弥生(やよいの) このよき日
  なによりうれしい ひな祭り
 作詞者・佐藤八郎は、妻と離婚して引き取った3人の子供達の為に豪勢な雛人形を購入した時期にこの曲を作詞したと云われているが、若い時に、嫁ぎ先が決まっていた18歳の姉が肺炎で他界したのを偲んだ、姉への鎮魂歌とも云われる。
 なお、2番の歌詞の「お内裏様(だいりさま)と おひな様」の「お内裏様」は男雛・女雛の一対を指すので、男雛を「お内裏様」、女雛を「おひな様」と呼ぶのは誤りと指摘する人がいるが、「内裏雛」と云う場合は、男雛・女雛の一対だが、お内裏様(だいりさま)は、天皇の愛称なので、問題は無い。ただし、3番の「すこし白酒(しろざけ) めされたか 赤いお顔の 右大臣(うだいじん)」の歌詞は、白酒を飲んだので赤ら顔になったのではなく、右大臣は若くて白い顔、左大臣が年寄りで赤ら顔と云うのが通常。
 佐藤八郎は、「うれしいひなまつり」以外に、童謡・「お山の杉の子」、「ちいさい秋みつけた」。歌謡曲・「リンゴの歌」、「長崎の鐘」、「うちの女房にゃ髭がある」等の多数の作品があり、また、児童文学作品やユーモア小説を多数執筆している。
【左近の桜、右近の橘】
 雛祭で飾る左近の桜、右近の橘は、京都御所の紫宸殿前にある桜と橘(タチバナ)がモデルであると云われているが、その橘の起源は次の通りである。
 日本書紀によると、第11代・垂仁天皇(すいにんてんのう)の命により、田道間守(たじまもり※4)は不老長寿の薬木の非時香菓(ときじくのかぐのみ)=※5)を探しに旅立ち、10年後、非時香菓(ときじくのかぐのみ)=橘)の木を持ち帰ったが、既に垂仁天皇は崩御した後で、田道間守は墓に橘を捧げて死んでしまう。その後、橘は天皇家に仕え守るものとして、垂仁天皇(すいにんてんのう:第11代の天皇)をはじめ、平安京や京都御所の紫宸殿前に植えられた。
 平安京の内裏にある紫宸殿から見て右に植えられた樹が橘。右に植えられた樹が桜で、紫宸殿で行われる、即位・朝賀・節会など重要な儀式の際、近衛府(このえふ:君主を警護する役所)の官人である、左近衛府が桜側に、右近衛府が橘側に居並んだことから、左近の桜、右近の橘と呼ばれるようになった。
※4:田道間守(たじまもり)
 新羅(しらぎ:古代の朝鮮半島南東部にあった国家)から渡ってきて、但馬地方(兵庫県)を開いた天日槍(あめのひぼこ)の曾孫で、天日槍(あめのひぼこ)四世の孫・多遅摩比多詞(たじまひだか)の娘・葛城高額媛(かずらきのたかぬかひめ)は、神功皇后(じんぐうこうごう:第15代応神天皇の母)の母である。
 田道間守が持ち帰った非時香菓(ときじくのかぐのみ)は、記紀(古事記・日本書紀)では「是今橘也」(これ今の橘なり)とあり、「タチバナ」という名は、田道間花(タヂマバナ)が転じたものとする説もある。当時「菓」といえば果物のことであったが、この説話から田道間守は菓子の神「菓祖」として、中嶋神社(兵庫県豊岡市)に祀られ、菓子業者の信仰を集めている。
 なお、「中嶋」という社名は、田道間守の墓が垂仁天皇の御陵の池の中に島のように浮んでいるからと云われる。
 神功皇后(じんぐうこうごう)は、夫の仲哀天皇(ちゅうあいてんのう:第14代天皇)の急死(200年)後、お腹に子供(のちの第15代・応神天皇)を妊娠したまま海を渡って朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻め、新羅が降伏した後、三韓の残り二国(百済、高句麗)も相次いで日本の支配下に入ったとされる三韓征伐(さんかんせいばつ)をし、201年から269年まで政事を執りおこなった人物で、卑弥呼ではないかとも云われる。
※5:非時香菓(ときじくのかぐのみ)=
 は、古くから非時香菓(ときじくのかぐのみ)と云われ、その葉が寒暖の別なく常に生い茂り栄えるから、長寿瑞祥(ずいしょう:吉兆)の樹として珍重されていた。
 日本に古くから野生していた日本固有の柑橘(かんきつ)で、和歌山県、三重県、山口県、四国、九州の海岸に近い山地にまれに自生する。近縁種にはコウライタチバナがあり、萩市と韓国の済州島にのみ自生する。萩市に自生しているものは、国の天然記念物となっている。
 5~6月、枝先に2cm程の白い芳香ある花を付け、冬には3cmほどの黄色い果実になるが、酸味が多くて食用には適さない。
 樹高は2メートルから4メートル、枝は緑色で密に生え、若い幹には棘がある。
 常緑樹である橘は、平安京の頃から紫宸殿の南庭に植えられ、その永遠性(常緑=永遠)は文化の永久性に通じることから、昭和12年に制定された文化勲章のデザインに採用され、橘の五弁の花の中央に三つ巴の曲玉を配し、鈕(ちゅう:つまみ・とって)にも橘の実と葉が用いられている。
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写真

写真は和坊流宇宙(http://www.justmystage.com/home/kazubo/)の和坊放浪記::口永良部島編part18でご覧ください。

Aコープ
羽生商店
鎌田商店
二十二士の墓
 墓周辺地図
二・二六事件慰霊像
 慰霊像周辺地図
垂仁天皇陵:橘
 垂仁天皇陵墓:菅原伏見東陵(すがわらのふしみのひがしのみささぎ)
 古墳名:宝来山(蓬莱山)
 住所:奈良市尼辻西町 近畿日本鉄道橿原線尼ケ辻駅西徒歩5分
京都御所・紫宸殿前:右近の橘、左近の桜
田道間守の墓
月岡芳年・神宮皇后朝鮮遠征画
 出典: フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)
タチバナ(橘)1
タチバナ(橘)2
文化勲章


続く・口永良部島編:part19

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口永良部島編:part18


和坊放浪記:口永良部島編part18


平成18(2006)年・備忘録

 項目

寝待・湯治小屋
 241日目:2月25日(土) 曇強風    (水汲み中止)
 242日目:2月26日(日) 雨のち曇り  (二・二六事件の日)
 243日目:2月27日(月) 曇       (地滑り発生・寝待集落孤立)
 244日目:2月28日(火) 曇一時晴   (水汲み)
 245日目:3月 1日(水) 雨のち曇   (地滑り現場復旧) 
 246日目:3月 2日(木) 曇       (体調異常・完全休養日) 禁酒
 247日目:3月 3日(金) 雨のち曇   (雛祭り) 禁酒
 248日目:3月 4日(土) 晴       (買出し) 禁酒
 249日目:3月 5日(日) 晴       (お勤め再開) 禁酒
 250日目:3月 6日(月) 雨       (イルカの大群)
※本文中赤字は写真あり
■今日は何の日
 2月26日:二・二六事件の日
 3月3日:雛祭り
  五節句、内裏、内裏雛の左右、雛飾り、内裏雛の左右、童謡・うれしいひなまつり、左近の桜・右近の橘、田道間守、神功皇后、非時香菓=橘)、
 :大内裏の位置図、大内裏と内裏図、内裏図
 雛飾り並べ方
注:皇道派(君側の奸、北一輝)、宣伝ビラ、血盟団事件(井上日召、佐郷屋嘉昭、小島玄之・頭山満、田中清玄)、11月事件、五・一五事件(大川周明、三上卓・青年日本の歌(別名・昭和維新の歌)、三無事件、橘孝三郎)
写真
 二十二士の墓、二・二六事件慰霊像、垂仁天皇陵・橘と桜、京都御所・橘と桜、田道間守の墓、神宮皇后朝鮮遠征画、タチバナ(橘)、文化勲章

________________________________________


寝待・湯治小屋


241日目:2月25日(土) 曇強風  (水汲み中止)

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 田代の湧水場に水汲みに出掛けるが、風が強く途中から引き返す。

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242日目:2月26日(日) 雨のち曇り  (二・二六事件の日)

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 今日は、二・二六事件の日(今日は何の日参照)。早朝3時頃から雷を伴った大雨が降ってきた。

 何時もは朝のお勤めを終えたら入浴時間だが、雨が激しすぎて朝の入浴は取りやめる。

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243日目:2月27日(月) 曇  (地滑り発生・寝待集落孤立)

【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 昨日の大雨の影響で、夜地滑りが発生した。

 場所は、寝待集落の駐車場から100m程登った山肌で、以前地滑りと崖崩れがあった所に連なる山肌。

 山肌には地滑りの跡が、崖崩れによるコンクリート壁は海岸に落下して無残な姿が見られる場所である。

 現場は道路に土砂が流出堆積し、車両は通行不能な状態になっており、車が2台止まっていた。

 1台は、寝待集落の住人・前原さんの車。もう1台は、昨夜、寝待温泉で入浴した本村集落の住人の車だった。

 本村集落の人達は、温泉からの帰りに地滑りに遭遇、数秒の差で土砂に埋もれるところだったらしい。また、前原さん夫婦は、牛の世話をしなくてはならないので、1輪車に荷物を積み替えて、徒歩で牛小屋に向かった。

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244日目:2月28日(火) 曇一時晴  (水汲み)

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 3日前、田代の湧水地に水汲みに出掛けたが、強風の為途中で引返したので、地滑り現場を徒歩で越えて、水汲みに出掛ける。

 地滑り現場は放置されたままで、何時開通するか分からない。

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245日目:3月1日(水) 雨のち曇  (地滑り現場復旧) 

【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 平成12年3月に開通した新寝待線(田代集落・電波塔から寝待集落)全長約2kmの道中には、何年か前の台風被害により、道路が陥没した場所を迂回する応急処理をしたままの場所や、数か所の地滑り跡もそのまま放置されている状況から見て、今回の地滑り復旧も時間がかかると思っていたが、本日重機が入り復旧した。

 何のことは無い、寝待温泉防波堤の嵩上げ工事で使用している重機が、目と鼻の先から出張ってきたもの。業者の話によれば、温泉の追加工事として請け負ったらしい。

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246日目:3月2日(木) 曇  (体調異常・完全休養日) 禁酒

【トレーニング】・【お勤め】休み

 4~5日前より耳に異常を感じていたが、上向きに寝ると右耳に激痛が走り、左体側を下に横臥すると痛みが無くなると云った症状が発生した為、昨夜6時に就寝後もウトウトが続き、熟睡する事が出来ず、5時迄寝てしまった。

 毎日続けている座禅瞑想時にもウトウトして、身が入らないので、今日は完全休養日とし、禁酒をする。

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247日目:3月3日(金) 雨のち曇  (雛祭り) 禁酒

【トレーニング】・【お勤め】休み

 今日は雛祭り(今日は何の日参照)。でも島の生活には変化なし。耳の異常が続いているので、本日も安静日にして禁酒をする。

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248日目:3月4日(土) 晴  (買出し) 禁酒

【トレーニング】・【お勤め】休み

 体の調子は完全でないが、久しぶりの晴天なので本村に買出しに出掛ける。

 無理をして出掛けて来たが、Aコープ、羽生商店共に閉まっている。

 口永良部島には、Aコープ羽生商店の他に鎌田商店があるが、島に入った当初1度立ち寄っただけで御無沙汰している。

 何もないのは分かっているが、折角本村迄買出しに来たので、鎌田商店に入ってトイレットベーパーを買う。

 帰途、田代の湧水地で水を汲んで帰る。

写真:Aコープ、羽生商店、鎌田商店

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249日目:3月5日(日) 晴  (お勤め再開) 禁酒

【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 昨夜から耳の痛みが無くなったので、今日からお勤めを再開する。ただし、禁酒は当分続行予定。

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250日目:3月6日(月) 雨  (イルカの大群)

【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 早朝は晴れていたが、9時過ぎから雨が降ってきた。

 昨日、寝待集落の住人のバッチャン連中は本村の家に帰ったので、昼間は自分一人になった。

 昼過ぎに、魚を追って来たのか、イルカが群れをなしてやって来た。十数頭単位のグループが数グループ泳ぎ飛び廻っている。その中の一部グループが手の届く距離まで近づいてきた。

 初めての体験に感動する。

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■今日は何の日


2月26日:二・二六事件の日

 1936年(昭和11年)2月26日の未明、前夜からの雪の中で陸軍・皇道派(注1)の青年将校ら1483名が、「昭和維新断行」を掲げて起こした未曾有(みぞう)のクーデター事件である。
 ク-デタ-は、午前5時に決起、総理官邸、高橋是清・蔵相私邸(赤坂)、斎藤実・内大臣私邸(四谷)、渡辺錠太郎・陸軍教育総監私邸(荻窪)、鈴木貫太郎・侍従長官邸(麹町)、牧野伸顕・前内大臣逗留地(神奈川県湯河原)を次々に襲撃・殺害を図り、政治・軍の中枢である永田町一帯を完全に占拠し、川島陸軍大臣に決起趣意書と7項目からなる要望書を提出して「昭和維新」の断行を迫った。
 しかし、政府は翌日27日未明に戒厳令を布告、天皇が武力鎮圧を命じ、28日午前5時、「叛乱軍は原隊に帰れ」との奉勅命令(ほうちょくめいれい:天皇の命令)が下された為、陸軍は29日に鎮圧を開始した。飛行機から「下士官兵ニ告グ」の宣伝ビラ(注2)を撒き、「兵に告ぐ」のラジオ放送による「今からでも遅くはない」という帰順勧告の結果、将校たちは兵を原隊に帰し、全員投降し、同日4日間の反乱(クーデター)は鎮圧された。
 事件後、首謀者・軍人13名、元軍人3名、民間人1名(北一輝)と民間協力者2名の19名が死刑、69名が有罪となった。
【時代背景】
 当時は1929(昭和4)年の世界恐慌に端を発した大不況、企業倒産が相次ぎ、社会不安が増していた最中。1931年(昭和6年)には石原莞爾率いる関東軍の一部が満州事変を引き起こして以降、1932(昭和7)年2月に血盟団事件(注3)、同5月に五・一五事件(注4)と次々に政治改革を叫ぶ右翼テロが起こっており、これを境に軍部主導の政治へと邁進していった。
 当時陸軍には、皇道派と統制派の厳しい派閥対立があったが、1934(昭和9)年に起きた11月事件(注5)をきっかけとして表面化し、翌1935(昭和10)年7月に皇道派が首領と仰ぐ真崎甚三郎(まざきじんざぶろう)教育総監の更迭問題が起こるや、皇道派の相沢三郎中佐は、永田鉄山(てつざん)軍務局長(少将)が重臣、財閥、政党の手先となり皇軍を私兵化している統制派の元凶であると考え、永田殺害を決意、1935(昭和10)年8月12日白昼斬殺するに至った(相沢事件)。この事件が2.26事件へと発展したのである。
【墓碑・慰霊碑】
墓碑:1952(昭和27)年7月27日の17回忌に、麻布賢崇寺(けんそうじ)に「二十二士の墓」が建立され、毎年2月26日と7月12日に「仏心会」主催の「二・二六事件の法要」が行われている。
なお、二十二士は、7月12日に処刑された、軍人13名と民間協力者2名の15名。8月19日に処刑された元軍人3名と北一輝の4名に自決者2名を加えた計21名に、統制派の陸軍省軍務局長永田鉄山少将を斬殺した相澤三郎中佐を含めた22名である。
慰霊碑:1965(昭和40)年2月26日、二・二六事件の首謀者達が処刑された、旧東京陸軍刑務所敷地跡の東京都渋谷区神南(NHK前)に「二・二六事件慰霊像」が建立された。

写真:二十二士の墓、二・二六事件慰霊像
二十二士の墓周辺地図
二・二六事件慰霊像周辺地図

出典: フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)

注1:皇道派(こうどうは)
陸軍大将・陸相の荒木貞夫(あらき さだお)が、日本軍を「皇軍」と呼んだ事から付けられた陸軍内の派閥の名称で、皇道派の軍人達は、国家社会主義者・北一輝(※)が「日本改造法案大綱」の中で述べた、君側の奸(くんそくのかん)たる、財界や政界を排除して天皇親政による国家改造を説く思想に影響を受けていた。
二・二六事件の後、陸軍の皇道派は壊滅し、軍内の規律統制を尊重・堅持する統制派(陸軍のもう一つの派閥)の中心人物とされた東條英機や石原莞爾らの政治的発言力がますます強くなった。

北一輝(きた いっき)
明治16年(1883年)4月3日 生~昭和12年(1937年)8月19日没。昭和初期の思想家・社会運動家。本名は北輝次(きたてるつぐ後に輝次郎)であるが、中国の革命運動に参加し中国人革命家との交わりを深めるなかで、いつしか中国風の名前「北一輝」を名乗るようになった。右目が義眼だったことから「片目の魔王」の異名をとる。
君側の奸(くんそくのかん)
君主に仕える臣下のうち、性格が邪悪で、狡賢(ずるがしこ)く、君主に取りいって悪を為す者を指す。

注2:宣伝ビラ 
写真
下士官兵に告ぐ
1.今からでも遅いくはないから原隊に帰れ
2.抵抗するものは全部逆賊であるから射殺する
3.お前逹の父母兄弟は國賊となるので皆泣いているぞ
2月29日  戒厳司令部

注3:血盟団事件(けつめいだんじけん)
1932年(昭和7年)2月から3月にかけて発生した連続テロ事件である。事件を起こした血盟団は日蓮宗の僧侶である井上日召(いのうえにっしょう)によって率いられていた集団であった。
日召は、政党政治家・財閥重鎮及び特権階級など20余名を、「ただ私利私欲のみに没頭し国防を軽視し国利民福を思わない極悪人」と名指ししてその暗殺を企て、配下の血盟団メンバーに対し「一人一殺」「一殺多生」を指令した。「紀元節前後を目途としてまず民間から血盟団がテロを開始すれば、これに続いて海軍内部の同調者がクーデター決行に踏み切り、天皇中心主義にもとづく国家革新が成るであろう」というのが日召の構想であった。
同年2月9日、東京都本郷の駒本小学校へ総選挙の応援演説のため訪れた前大蔵大臣の井上準之助(民政党幹事長)が射殺された。実行犯は、日召に帰依していた茨城県那珂郡の農村(現在のひたちなか市)出身の青年メンバー、小沼正(おぬましょう)・菱沼五郎の二名。
同年3月5日、三井銀行本店の玄関前で三井財閥の中心人物(三井合名理事長)である團琢磨(だんたくま)が射殺された。三井財閥がドル買いによって利潤を上げていたことが、日召の反感を買ったものと考えられる。実行犯は同じく、小沼正と菱沼五郎。
警察はまもなく、2件の殺人が血盟団の組織的犯行であることをほぼ突き止めた。日召は、一旦は頭山満(※)の保護を得て捜査の手を逃れようとも図ったが、結局3月11日に自首、関係者14名が一斉に逮捕された。小沼は短銃を霞ヶ浦海軍航空隊の藤井斉海軍中尉から入手したと自供した。裁判では井上日召・小沼正・菱沼五郎の三名が無期懲役判決を受け、また四元義隆(よつもとよしたか)ら他のメンバーも共同正犯として、それぞれ実刑判決が下された。
【関係者のその後】
1940(昭和15)年に井上・小沼・菱沼・四元らは恩赦で出獄する。
井上は、戦後護国団を結成して右翼活動を続けた。
小沼は、戦後は出版社業界公論社社長を務める傍ら右翼活動を続け、「一殺多生」を著わす。
菱沼は、帰郷して右翼活動から一線を引いていたが、小幡五朗と改名し、1958年に茨城県議会議員に当選し、その後8期連続当選、県議会議長を務めて県政界の実力者となった。
四元は、出獄すると井上日召らと共に近衛文麿の勉強会に参画、近衛文麿の書生や鈴木貫太郎首相秘書を務めた。1955年より田中清玄(※)の後継で三幸建設工業社長に就任(2000年~2003年会長)。この間、戦後政界の黒幕的な存在として知られた。

井上日召(いのうえ にっしょう)
日蓮宗の僧侶で右翼活動家。戦前の右翼団体・血盟団、戦後の右翼団体・護国団の指導者。本名は井上昭。昭の字を分けて日召とする。
1928(昭和3)年、茨城県大洗町の立正護国堂の住職になる。その後、海軍の過激派・藤井斉中尉や五・一五事件の首謀者の一人愛郷塾塾長・橘孝三郎らと知り合い、1932(昭和7)年、右翼団体・血盟団結成。一人一殺の血盟団事件を引き起こし、無期懲役刑となったが、1940(昭和15)年 恩赦で出獄後、翌1941(昭和16)年 三上卓(2.26事件首謀者)、四元義隆、菱沼五郎(5.15事件関係者)らと「ひもろぎ塾」を設立し近衛文麿前首相のブレーンとして活躍する傍ら、1954(昭和29)年、佐郷屋嘉昭小島玄之らと護国団を結成し初代団長になる。
佐郷屋嘉昭(さごやよしあき)本名・留雄(とめお)は、玄洋社系右翼団体「愛国社」党員。1930(昭和5)年11月、東京駅構内にて、濱口雄幸首相を狙撃、重傷を負わせ死刑判決を受けるが、1940(昭和15)年仮出所。右翼団体「護国団」の第二代団長となる。1959年には児玉誉士夫らがいる全日本愛国者団体会議(全愛会議)の初代議長となる。
小島玄之(こじまげんし)は、社会主義から国家社会主義へ転換して「護国団」結成に参加し、後に顧問となる。その著作「右翼運動の基本政策」は北一輝の戦後版と位置付けられ、戦後右翼陣営における最大の理論家と評されている。
参考:井上日召(いのうえにっしょう)が住職をしていた、茨城県東茨城郡大洗町・立正護国堂は、現在日蓮宗寺院・東光山護国寺として残っている。境内には、「井上日召上人」を顕彰する銅像や、「昭和維新烈士之墓」などがある。なお、後の日本赤軍のリーダーの重信房子の父親は血盟団員である。
護国寺周辺地図

頭山満(とうやまみつる)
明治から昭和前期にかけて活動したアジア主義者の巨頭。玄洋社(げんようしゃ:明治14年に結成されたアジア主義を抱く政治団体)の総帥。
田中清玄(たなかきよはる、通称せいげん)
元日本共産党書記長で、獄中で転向し、右翼活動家となる。ロイズ保険の会員(日本人でロイズの会員になれたのは、田中清玄と他に1人と云われている)

注4:五・一五事件(ごいちごじけん)
1932年(昭和7年)5月15日に起きた海軍急進派の青年将校を中心とする反乱事件で、血盟団事件の第二陣として計画されたもの。
右翼の神武会(じんむかい)・大川周明(しゅうめい)、紫山塾(しざんじゅく)・本間憲一郎(ほんまけんいちろう)、天行会(てんこうかい)・頭山秀三(とうやましゅうぞう)らが資金や武器の援助を与え、5月15日午後5時ごろから三上卓(みかみたく)海軍中尉ら海軍士官6名、陸軍士官候補生11名、それに元士官候補生や血盟団残党を加えた総勢19名は、4組に分かれて、首相官邸をはじめ、立憲政友会本部、牧野内大臣邸等を襲撃し、当時の護憲運動の旗頭ともいえる犬養毅首相を暗殺した。他方、農本主義者・橘孝三郎(たちばなこうざぶろう)は、主宰する愛郷(あいきょう)塾の塾生7人を率いて東京の変電所を襲撃した。
犯行後、海軍士官や陸軍士官候補生らは東京憲兵隊に自首し、民間側も11月5日までには全員検挙されたが、100万を超える減刑嘆願書が寄せられた。

大川周明(おおかわ しゅうめい)
五・一五事件では禁錮5年の有罪判決を受け服役。大東亜(太平洋)戦争終戦後、民間人としては唯一A級戦犯として起訴されたが、東条英機の頭を殴ったり奇声を発するなど、常識を逸した行動をとり、翌日の法廷で、オーストラリアのウェッブ裁判長は大川周明を精神異常と判断し、裁判から除外した。東京裁判で起訴された被告人の中では、裁判終了時に存命していて有罪にならなかった唯一の人物となった。
三上卓(みかみたく)
5.15事件の主犯で、反乱罪により禁錮15年の刑を受けたが、1938年(昭和13年)に仮出所した。
1940年、「大日本青年党」「まことむすび」などを統合して、「皇道翼賛青年同盟」を結成、初代委員長に就任した。三無(さんゆう)事件では証拠不充分で釈放となった。その後、「黒龍倶楽部」世話人などに就任した。
なお、三無(さんゆう)事件とは、元川南工業社長・川南豊作(当時59歳)を中心とした旧軍人、学生らのグループは、60年安保闘争などの勢いからの共産革命への危機感と、施策に対する不満から、無税・無戦争・無失業の「三無」というスローガンを掲げ、武力で国会を占拠し、池田勇人首相をはじめとする政府要人を暗殺するという東京クーデター計画を立てていたが、公安三課による内偵で未然に探知され、1961(昭和36)年12月12日に、川南の他に元海軍中尉で5・15事件の中心人物であった三上卓(当時56歳)、本陸軍少将・桜井徳太郎(当時64歳)、元陸軍士官学校生徒で「国史会」キャップの小池一臣(当時34歳)ら32人が逮捕された。
三無とは「無税」「無失業」「無戦争」のことで、無税は公社公団の民営化、無失業は公共事業による失業者の吸収、無戦争はミサイルの開発を進め、他国からの侵略を不可能にするというものだった。
参考:昭和5年に作詞作曲した青年日本の歌(別名・昭和維新の歌)は、二・二六事件後は「反乱をあおる危険な歌」とされ、歌唱が禁止された。

日本の歌:松方弘樹・歌YouTube

橘孝三郎(たちばなこうざぶろう)
茨城県出身の政治運動家、郷里で農業に従事するかたわら、農本主義にもとづく青少年教育を目指し、1931(昭和6)年に愛郷塾を設立。また、井上日召と知己となり、五・一五事件では塾生7人を率いて東京の変電所を襲撃し無期懲役の判決を受けた。1940年(昭和15年)、恩赦により出獄。1959(昭和34)年に全日本愛国者団体会議の顧問に就任した。

注5:11月事件
村中孝次・磯部浅一ら陸軍皇道派青年将校(2.26事件の首謀者)が、クーデターを企図した容疑で、士官学校生徒とともに逮捕された事件で、士官学校事件とも云う。

出典: フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)

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3月3日:雛祭り(ひなまつり)

 3月3日は五節句(※1)の一つの上巳(じょうし)。旧暦の3月3日は新暦の4月頃で、桃の花が咲く季節になる為、桃の節句とも呼ばれ、京都を含め一部地方ではでは4月3日に雛祭りをしている。
 雛祭りの起源は平安時代の貴族階級の子女が、天皇の御所(内裏:だいり※2)を模した御殿や飾り付けで遊んだ雛遊びが始まりで、やがて武家社会でも行われるようになり、江戸時代には庶民の人形遊びと節句が結び付けられ、雛祭りの祓(はらえ:災厄等を解除する神事)として、一生の災厄を人形に身代りさせるという祭礼的意味合いが強くなり、紙製の形代(かたしろ:小さな人の形)を作ってそれに穢れを移し、川や海に流して災厄を祓う祭礼になった(この風習は、現在でも流し雛として残っている)。
 また、雛飾り(※3)は、江戸時代初期は男女一対の内裏雛(だいりびな)を飾るだけの物であったが、江戸末期から明治にかけて武家子女など身分の高い女性の嫁入り道具の家財のひとつに数えられるようになってからは、自然と華美になり、より贅沢なものになった。
 元々は、5月5日の端午の節句とともに男女の別なく行われていたが、江戸時代頃から、豪華な雛人形は女の子に属するものとされ、端午の節句(菖蒲の節句)は尚武(武事・軍事を重んじる事)にかけて男の子の節句とされるようになった。

※1:五節句
①1月7日:人日(じんじつ)。七種粥を食べることから七草の節句ともいう。
②3月3日:上巳(じょうし)。旧暦で、上巳は3月上旬の巳の日のことを云う。
③5月5日:端午(たんご)。旧暦で、午の月の最初の午の日を節句として祝っていた。菖蒲の節句ともいう。
④7月7日:七夕(しちせき、たなばた)。旧暦の7月7日の夜のこと、七夕は棚幡とも書き、お盆行事で、故人をお迎えするための精霊棚(しょうりょうだな)とその棚に五如来の幡(ごにょらいのはた:五色の色に染められた幡)を安置するのが7日の夕方であることから7日の夕で「七夕」と書いて「たなばた」と発音するようになった。
⑤9月9日:重陽(ちょうよう)。菊の節句とも呼ばれる。邪気を払い長寿を願って、菊の花を飾ったり、菊の花びらを浮かべた酒を酌み交わして祝ったりしていたが、現在では、他の節句と比べてあまり実施されていない。

※2:内裏(だいり)
 内裏とは、天皇の私的区域のこと。御所(ごしょ)とも云う。
 平安京の北辺には、大内裏(だいだいり:平安宮)があり、その内部の中央東寄りに南北約300m、東西約200mの内裏(だいり)が存在した。内裏は、中央政庁である「朝堂院」の北側に位置し、周囲を築地に囲まれ、その内部は北側に後宮、南側に天皇の政務所である紫宸殿や日常生活の中心地である清涼殿などがあった。
 平安京内裏は960(天徳4)年火災で全焼したあと、幾度も火災に見舞われ、やがて里内裏(さとだいり:平安時代以降、平安宮内裏以外の邸宅を天皇の在所として用いたものを指す)が現れてくると天皇はもっぱらそちらに常住するようになり、内裏の意義は低下し、平安宮の内裏は鎌倉時代に焼亡したのち再建されることはなく、南北朝以後は内裏の東に位置する里内裏であった土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)が御所となり、近世になってその内域に紫宸殿、清涼殿などが復元され、現在の京都御所になった。

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図1:平安京(平安宮)・大内裏の位置図
平安京(平安宮)・大内裏の位置図
図2:平安京(平安宮)・大内裏と内裏図
平安京(平安宮)・大内裏と内裏図
【大内裏】
太政官(だいじょうかん):律令官の最高機関で、現在の内閣のような場所。
朝堂院(ちょうどういん):八省院とも云い、大内裏の正庁で、政務・儀式・宴会の場であり、重要な儀式が行われた。
大極殿(だいごくでん):天皇出御の正殿で、即位・ 大嘗祭・ 朝賀・政務が行われた。
豊楽院(ぶらくいん):節会の宴や外国使節歓待などが行われた。
12門(上東門と上西門を除く):「宮城十二門」と総称される。
 大内裏の四方に門が開かれ外面する宮城門(みやぎもん:宮門)12の門上には、書道の名手を選んで書かせた扁額(横に長い額)が掲げられ、左右の近衛府(このえふ:君主を警護する役所)が管轄し火をたいて守った。
 朱雀門(すざくもん)美福門(びふくもん)皇嘉門(こうかもん)郁芳門(いくほうもん)待賢門(たいけんもん)陽明門(ようめいもん)談天門(だんてんもん)藻壁門(そうへきもん)殷富門(いんぷもん) 達智門(たっちもん)偉鑒門(いかんもん)安嘉門(あんかもん)以上が宮城十二門。上東門(じょうとうもん)上西門(じょうさいもん)は後に造られたので入っていない。

図3:平安京(平安宮)・内裏図
平安京(平安宮)・内裏図
【門】
承明門(しょうめいもん)外郭の建礼門(けんれいもん)の対になっている
玄輝門(げんきもん):外郭の朔平門(さくへいもん)の対になっている
宣陽門(せんようもん)外郭の建春門(けんしゅんもん)の対になっている
陰明門(おんめいもん)
【天皇の住居】
紫宸殿(ししんでん):別名・南殿(なでん)内裏の正殿である。即位、朝賀、節会などの重要な儀式を行う場所である。
仁寿殿(じじゅうでん):元々は天皇の住居だったが、住まいが清涼殿へ移ってからは、相撲、内宴などを行う場所になった。
清涼殿(せいりょうでん)天皇の常の居所
後涼殿(こうりょうでん):女御などが住んでいた。
【後宮(こうきゅう)】
 王や皇帝などの后妃(こうひ:后は第一位のきさき、妃はその次位きさき)が住まう場所。 日本では、平安京内裏の七殿五舎が該当する。一般的に、後宮は男子禁制というイメージがあるが、日本では家族や親しい人間(貴族)は、頻繁に出入りしていた。ただし江戸城大奥は、完全な男性禁制の場で、男性の出入りは厳しく制限された。
承香殿(しょうきょうでん):内宴や御遊(ぎょゆう:宮中で催された管弦の催し)などが行われた。
麗景殿(れけいでん):皇后、中宮、女御など、身分の高い女性が住んでいた。
弘徽殿(こうきでん):皇后、中宮、有力な女御などが住んでいた。
常寧殿(じょうねいでん):別名・后町(きさきまち)皇后、女御が住んでいた。
飛香舎藤壷:ふじつぼ):庭に藤が植えてあった事から藤壷とも呼ばれる。皇后、女御が住んでいた。
七殿:承香殿、弘徽殿、登華殿、貞観殿、宣耀殿、麗景殿、常寧殿。
五舎:飛香舎(藤壺)、凝花舎(梅壺)、襲芳舎(雷鳴壺)、昭陽舎(梨壺)、淑景舎(桐壺)
【その他】
校書殿(こうしょでん):歴代の書物を保管していたので別名『文殿/ふどの』とも呼ばれる。
温明殿(うんめいでん):別名・内侍所(ないしどころ)ヤタの鏡という神鏡を安置し、内侍が奉仕している。
蘭林坊(らんりんぼう):儀式の際の用具をはじめとする御物・御書等が納められていた。
桂芳坊(けいほうぼう):毎月音楽を練習した。

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※3:雛飾り

雛飾り並べ方

雛飾り並べ方
男雛(天皇:お内裏様)、②女雛(皇后:お姫様)、③雪洞(ぼんぼり):行燈(あんどん)、④三宝(さんぼう:三方):儀式で物をのせる台、⑤三人官女:宮中に仕える女官。内1人のみお歯黒、眉無し(既婚者を意味する)、⑥高杯(たかつき):食物を盛る脚つきの台、⑦五人囃子:能のお囃子を奏でる5人の楽人。それぞれ太鼓(たいこ)・大鼓(おおかわ・おおづつみ)・小鼓(こつづみ)・笛(ふえ)・謡(うたい)である (能囃子の代わりに5人、又は7人の雅楽の楽人の場合もある)、⑧右大臣(武道に長けた若くて色白の男性)、⑨左大臣(文学に精通している白髪で赤ら顔の男性)、⑩御膳(おぜん)、⑪菱台(ひしだい)菱餅を供える菱形をした台、
仕丁(しちょう):従者で通常3人1組。仕丁の顔は、感情豊かな子に育つようにとの願いを込められ、泣き・笑い・怒りといった喜怒哀楽の表情を表している⑬右近の橘(たちばな)、⑭左近の桜
【内裏雛(だいりびな)の左右】
 内裏雛(男雛・女雛)の並べ方は、東京では、男雛を右(向かって左)に。関西、特に京都では、男雛を左(向かって右)に配置するのが標準的な飾り方になっている。
 これは、古来、日本では「左」が上の位であった為、京都・関西では旧くからの伝統を重んじ、天皇を模した男雛を左に配置している。
 しかし、明治の文明開化で、西洋式の右上位に倣(なら)い、大正天皇が即位式で右に立った。それ以降、昭和天皇も何時も右に立ち香淳皇后が左に並んだことから、東京では、男雛を右に配置したのではないか。
 なお、社団法人日本人形協会では昭和天皇の即位以来、男雛を向かって左に置くのを「現代式」、右に置くのを「古式」とするが、どちらでも構わないとしている。
【童謡】
「うれしいひなまつり」作詞:サトウハチロー 作曲:河村光陽
(1) あかりをつけましょ ぼんぼりに
  お花をあげましょ 桃の花
  五人ばやしの 笛太鼓
  今日はたのしい ひな祭り
(2) お内裏様(だいりさま)と おひな様
  二人ならんで すまし顔
  お嫁にいらした 姉(ねえ)様に
  よく似た官女(かんじょ)の 白い顔
(3) 金の屏風(びょうぶ)に 映(うつ)る灯(ひ)を
  かすかにゆする 春の風
  すこし白酒(しろざけ) めされたか
  赤いお顔の 右大臣(うだいじん)
(4) 着物をきかえて 帯しめて
  今日は私も はれ姿
  春の弥生(やよいの) このよき日
  なによりうれしい ひな祭り
 作詞者・佐藤八郎は、妻と離婚して引き取った3人の子供達の為に豪勢な雛人形を購入した時期にこの曲を作詞したと云われているが、若い時に、嫁ぎ先が決まっていた18歳の姉が肺炎で他界したのを偲んだ、姉への鎮魂歌とも云われる。
 なお、2番の歌詞の「お内裏様(だいりさま)と おひな様」の「お内裏様」は男雛・女雛の一対を指すので、男雛を「お内裏様」、女雛を「おひな様」と呼ぶのは誤りと指摘する人がいるが、「内裏雛」と云う場合は、男雛・女雛の一対だが、お内裏様(だいりさま)は、天皇の愛称なので、問題は無い。ただし、3番の「すこし白酒(しろざけ) めされたか 赤いお顔の 右大臣(うだいじん)」の歌詞は、白酒を飲んだので赤ら顔になったのではなく、右大臣は若くて白い顔、左大臣が年寄りで赤ら顔と云うのが通常。
 佐藤八郎は、「うれしいひなまつり」以外に、童謡・「お山の杉の子」、「ちいさい秋みつけた」。歌謡曲・「リンゴの歌」、「長崎の鐘」、「うちの女房にゃ髭がある」等の多数の作品があり、また、児童文学作品やユーモア小説を多数執筆している。
【左近の桜、右近の橘】
 雛祭で飾る左近の桜、右近の橘は、京都御所の紫宸殿前にある桜と橘(タチバナ)がモデルであると云われているが、その橘の起源は次の通りである。
 日本書紀によると、第11代・垂仁天皇(すいにんてんのう)の命により、田道間守(たじまもり※4)は不老長寿の薬木の非時香菓(ときじくのかぐのみ)=※5)を探しに旅立ち、10年後、非時香菓(ときじくのかぐのみ)=橘)の木を持ち帰ったが、既に垂仁天皇は崩御した後で、田道間守は墓に橘を捧げて死んでしまう。その後、橘は天皇家に仕え守るものとして、垂仁天皇(すいにんてんのう:第11代の天皇)をはじめ、平安京や京都御所の紫宸殿前に植えられた。
 平安京の内裏にある紫宸殿から見て右に植えられた樹が橘。右に植えられた樹が桜で、紫宸殿で行われる、即位・朝賀・節会など重要な儀式の際、近衛府(このえふ:君主を警護する役所)の官人である、左近衛府が桜側に、右近衛府が橘側に居並んだことから、左近の桜、右近の橘と呼ばれるようになった。

写真:垂仁天皇陵・橘と桜、京都御所・橘と桜
垂仁天皇陵墓:菅原伏見東陵(すがわらのふしみのひがしのみささぎ)
古墳名:宝来山(蓬莱山)
住所:奈良市尼辻西町 近畿日本鉄道橿原線尼ケ辻駅西徒歩5分

※4:田道間守(たじまもり)
 新羅(しらぎ:古代の朝鮮半島南東部にあった国家)から渡ってきて、但馬地方(兵庫県)を開いた天日槍(あめのひぼこ)の曾孫で、天日槍(あめのひぼこ)四世の孫・多遅摩比多詞(たじまひだか)の娘・葛城高額媛(かずらきのたかぬかひめ)は、神功皇后(じんぐうこうごう:第15代応神天皇の母)の母である。
 田道間守が持ち帰った非時香菓(ときじくのかぐのみ)は、記紀(古事記・日本書紀)では「是今橘也」(これ今の橘なり)とあり、「タチバナ」という名は、田道間花(タヂマバナ)が転じたものとする説もある。当時「菓」といえば果物のことであったが、この説話から田道間守は菓子の神「菓祖」として、中嶋神社(兵庫県豊岡市)に祀られ、菓子業者の信仰を集めている。
 なお、「中嶋」という社名は、田道間守の墓が垂仁天皇の御陵の池の中に島のように浮んでいるからと云われる。
 神功皇后(じんぐうこうごう)は、夫の仲哀天皇(ちゅうあいてんのう:第14代天皇)の急死(200年)後、お腹に子供(のちの第15代・応神天皇)を妊娠したまま海を渡って朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻め、新羅が降伏した後、三韓の残り二国(百済、高句麗)も相次いで日本の支配下に入ったとされる三韓征伐(さんかんせいばつ)をし、201年から269年まで政事を執りおこなった人物で、卑弥呼ではないかとも云われる。

写真:田道間守の墓、月岡芳年・神宮皇后朝鮮遠征画

※5:非時香菓(ときじくのかぐのみ)=
 は、古くから非時香菓(ときじくのかぐのみ)と云われ、その葉が寒暖の別なく常に生い茂り栄えるから、長寿瑞祥(ずいしょう:吉兆)の樹として珍重されていた。
 日本に古くから野生していた日本固有の柑橘(かんきつ)で、和歌山県、三重県、山口県、四国、九州の海岸に近い山地にまれに自生する。近縁種にはコウライタチバナがあり、萩市と韓国の済州島にのみ自生する。萩市に自生しているものは、国の天然記念物となっている。
 5~6月、枝先に2cm程の白い芳香ある花を付け、冬には3cmほどの黄色い果実になるが、酸味が多くて食用には適さない。
 樹高は2メートルから4メートル、枝は緑色で密に生え、若い幹には棘がある。
 常緑樹である橘は、平安京の頃から紫宸殿の南庭に植えられ、その永遠性(常緑=永遠)は文化の永久性に通じることから、昭和12年に制定された文化勲章のデザインに採用され、橘の五弁の花の中央に三つ巴の曲玉を配し、鈕(ちゅう:つまみ・とって)にも橘の実と葉が用いられている。
出典: フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)

写真:タチバナ(橘)、文化勲章

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写真

写真は和坊流宇宙(http://www.justmystage.com/home/kazubo/)の和坊放浪記:口永良部島編:part18でご覧ください。


続く・口永良部島編:part19


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2009年4月30日 (木)

口永良部島編:part17


和坊放浪記:口永良部島編part17


平成18(2006)年・備忘録

 項目

寝待・湯治小屋
 231日目:2月15日(水) 雨一時曇  (トイレ掃除)
 232日目:2月16日(木) 雨      (1日断食) 禁酒
 233日目:2月17日(金) 晴      (温泉清掃) 禁酒
 234日目:2月18日(土) 曇      (ロケット打上げ・ひまわり7号) 禁酒
 235日目:2月19日(日) 雨      (座禅瞑想専念) 禁酒
 236日目:2月20日(月) 雨      (座禅瞑想専念) 禁酒
 237日目:2月21日(火) 雨のち晴  (平板散策) 禁酒
 238日目:2月22日(水) 晴      (ロケット打上げ・あかり)
 地図:ロケット発射場位置図
 239日目:2月23日(木) 雨のち晴  (買出し・皇太子誕生日)
 240日目:2月24日(金) 小雨のち曇 (ツワブキ採取)
本文中赤字は写真あり
■一口メモ
 H-2Aロケット9号機・ひまわり7号
 M-Vロケット8号機・あかり(写真:宇宙の姿)
写真
湯治小屋、温泉、トイレ、海中温泉、種子島ロケット発射場、H2A-9号機(H2A-2024型)、M-Vロケット8号機、M-Vロケット発射台、M-Vロケット発射、宇宙の「あかり」、ロケットと金星、ロケット軌跡

________________________________________


寝待・湯治小屋


231日目:2月15日(水) 雨一時曇  (トイレ掃除)

【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 寝待集落の殆どの建物はバラック(粗造り仮小屋)であるが、集落入口の公衆トイレと一番奥にある温泉の二つはコンクリート造りの立派な建物。

 最近、この二つの建物の掃除を担当するようになっており、今日は、公衆トイレの掃除をする。

 寝待湯治小屋をはじめ集落の小屋には、個々の便所の設置がないので、集落入口の公衆トイレを利用している。内部は3年前の台風による被害で、亀裂と段差があり、女子トイレは詰まっているのか水が溢れ出てくる。

 トイレ棟には男女別の更衣室もある。更衣室は、トイレ棟前にある立神岩の露天風呂入浴用と台風時等の避難場所を兼ねているものと思われる。

 但し、露天風呂の海中温泉は、温度が低すぎて冬場の利用は無理だと思うし、トイレから青い水が流れ出ており(バイオトイレの漏れ?)、入浴したことは無い。

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232日目:2月16日(木) 雨  (1日断食) 禁酒

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 今日は、1日断食をする。1週間に1度程度を目安にしている1日断食は、朝・昼・夕に野菜缶ジュースを各1本と水は無制限で、翌朝にお粥の復食を摂り、昼から通常食に戻すといった方法を取っている。

 夕方、本村に帰っていた寝待集落の森杉のバッチャンが帰ってきた。

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233日目:2月17日(金) 晴  (温泉清掃) 禁酒

【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 温泉清掃日は前月に決め、事前に通知されているが、知ってか知らずか、清掃中に入浴に来る人がいるので、浜で拾ってきた板で「清掃中入浴不可」の看板を作り、駐車場トイレ前に出してから温泉の清掃をする。

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234日目:2月18日(土) 曇  (ロケット打上げ・ひまわり7号) 禁酒

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 今日は、種子島宇宙センターからH-2Aロケット9号機(一口メモ参照)の打上予定日。

 打上げ予定時間の3時30分頃に、前回1月24日、H-2A(2022型)8号機で打上げられた「だいち」を見た屋久島を見渡せる丘に行くが、今回は見ることが出来なかった。残念。

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235日目:2月19日(日) 雨  (座禅瞑想専念) 禁酒

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経6返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×6回(朝・昼・夕)

 朝から雨。座禅瞑想に専念する。

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236日目:2月20日(月) 雨  (座禅瞑想専念) 禁酒

【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経6返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×6回(朝・昼・夕)

 今日も雨。昨日同様座禅瞑想に専念する。

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237日目:2月21日(火) 雨のち晴  (平板散策) 禁酒

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経2返(朝・夕)、写経2巻(朝・夕)、座禅瞑想20分×2回(朝・夕)

 今日は、M-Vロケット8号機の打上げが予定されていたが天候不順により明日に延期されたので、朝のお勤め後、おにぎりを持って平板(湯向の東の釣場)に行く。

 旧寝待道路からの進入路上には、目印を付けているので迷うことなく行けるようになったが、浜に出てから、平板の岩場に渡る為には、橋代りになる角材を介する事にしている。が、今日は波が高く岩場に渡ることが出来ず、引返す。

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238日目:2月22日(水) 晴  (ロケット打上げ・あかり)

地図:ロケット発射場位置地図
ロケット発射場位置地図
地図検索サイト;マピオン(http://www.mapion.co.jp/)を加工

【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 昨夜から今朝にかけては満天の星空の見える快晴。

 今日は、M-Vロケット8号機(一口メモ参照)で科学衛星の打上げ日。

 前2回は、種子島宇宙センターからの打上げだったが、今回は鹿児島の内之浦宇宙空間観測所からの打上げ。

 見通しの良い日は、鹿児島県三島村の竹島・硫黄島・黒島が、また、竹島と硫黄島の間には鹿児島本島の開聞岳が三角になって海の上に浮かび、竹島の右手には大隅半島が薄らと見えるので、大隅半島の右端にある内之浦宇宙空間観測所から発射されるロケットも見る事が出来ると予測し、見通しの良い丘に行く。

 打上げ予定時間の6時28分間際になって雲が出てきた。ダメかとあきらめかけたが、予定時間きっかりに、寝待先端の彼方から飛び立つロケットを現認。

 朝日で赤く染まったロケットは、真っ赤な炎を噴出して、明けの明星(金星)が輝く大空に舞い上がる。

 1月24日、H-2Aロケット8号機(だいち)の打上げ時も感動したが、今回はその何倍も感動する。

 次回種子島からのロケット発射を間近で見たい。見るぞ。の思いが募る。

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239日目:2月23日(木) 雨のち晴  (買出し・皇太子誕生日)

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経2返(朝・夕)、写経2巻(朝・夕)、座禅瞑想20分×2回(朝・夕)

 今日は、皇太子(注1)の誕生日。朝降っていた雨が上がったので本村に買出しに行く。

 寝待集落住人・矢野のバッチャンに頼まれた商品と食料品をAコープで、羽生商店でビールと焼酎・三岳を購入して帰る。

注1:皇太子
徳仁親王(なるひとしんのう)は、1960(昭和35)年2月23日、皇太子明仁親王(現・今上天皇)と皇太子妃美智子(現・皇后)の第一子として、東京都千代田区の宮内庁病院で誕生した。
同年2月29日に命名の儀が執り行われ、祖父の昭和天皇により浩宮徳仁(ひろのみや なるひと)と命名された。
1989(昭和64)年1月7日、昭和天皇の崩御により、皇太子明仁親王が天皇に即位した。これに伴い、徳仁親王は皇太子となった。
今上天皇の即位の礼などを経て、1991(平成3)年2月23日、満31歳となった日に立太子の礼(※1)が執り行われた。また同日、皇太子の印とされる「壺切御剣」(※2)を今上天皇から親授された。
1993(平成5)年に小和田雅子と結婚の儀を挙げ、2001(平成13)年に長女・敬宮愛子(としのみや あいこ)内親王をもうけた。
住まいは東京都港区元赤坂2丁目の赤坂御用地(※3)内にある東宮御所(※4)。

※1:立太子(りったいし)
広く東アジアにおいて広まった儀礼で、中国の皇帝や日本の天皇の皇子を跡継ぎとして太子に立てる事である。日本の朝廷においては、古くは儲君(ちょくん、もうけのきみ)とも呼ばれ、儲君を受けた皇子は立太子の礼の儀式を執り行い、内外に皇太子に就任したことを宣言した。

※2:壺切御剣(つぼきりのみつるぎ)
日本において代々の皇太子(東宮)に受け継がれた宝剣である。元は関白(かんぱく:天皇の代わりに政治を行う職)・藤原基経(ふじわらの もとつね:日本史上初の関白に就任した人物)が、養父良房から伝えられたものであった。基経がこれを宇多天皇(うだてんのう:日本の第59代天皇)に献上し、天皇が皇太子である敦仁親王(のちの醍醐天皇(だいごてんのう):第60代天皇)に授けた。
以後、壺切御剣は東宮のシンボルとして現代まで代々受け継がれた。歴代天皇が、その皇位とともに継承してきた三種の神器に近いものと考えられる。

※3:赤坂御用地
東京都港区元赤坂二丁目をほぼすべて占める、皇室専用の敷地一帯を赤坂御用地と称している。ここは江戸時代、紀州徳川家の上屋敷(紀州藩赤坂藩邸)が在った所で、明治維新後、紀州徳川家から帝室(現在の皇室)に献上されたものである。
赤坂御用地内には現在、東宮御所の他、秋篠宮邸、三笠宮邸、寛仁親王邸、高円宮邸といった各宮家の邸宅や皇室の施設が点在する。また、赤坂御用地の北東に隣接して迎賓館(旧赤坂離宮)があり、訪日した外国賓客の接遇に用いられる。
赤坂御用地の中央には、池を中心とした回遊式庭園がある。そこは赤坂御苑と呼ばれ、1963(昭和38)年以来、天皇主催の園遊会会場として用いられる。

※4:東宮御所(とうぐうごしょ)
皇太子の居所を指す。単に東宮とも云い、古くは内裏(だいり:天皇の住居)の昭陽舎(しょうようしゃ)を宛てていた。
昭陽舎とは、平安京内裏の後宮(こうきゅう:七殿五舎)の内の一つ。女御などが居住した。庭に梨が植えられていたところから、梨壺(なしつぼ)とも云う。
七殿五舎(しちでんごしゃ)とは、平安京内裏の紫宸殿や仁寿殿の後方に位置し、主に天皇の后妃の住まう殿舎を指す。これらは後宮と総称され、后妃以外にも東宮やその妃、また親王・内親王などもしばしば殿舎を賜った。
※出典: フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)

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240日目:2月24日(金) 小雨のち曇  (ツワブキ採取)

【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 今日も空模様が怪しいが、朝のお勤め後、裏山へツワブキ(注2)の採取に出掛ける。

 ツワブキは至る所に自生しているが、葉の表面に光沢があるものは食用には向いていないので、葉の表面に産毛の様なものがある若いツワブキを探して採取し、寝待集落の住人・矢野のバッチャンに渡す。

注2:ツワブキ
ツワブキとはキク科ツワブキ属の多年草。名前の由来は、「艶のある葉のフキ」から転じたもので、沖縄方言では「ちぃぱっぱ」とも云う。
葉の表面には光沢があり美しく、日陰でもよく育つので古くから庭園の下草として利用され、晩秋に花茎を伸ばして一重の黄色い花を数輪~10輪程度咲き、花後はタンポポのような綿毛ができて風が吹くとタネが飛んでいく。
茎を利用して、醤油などで煮込み保存食としたり、昔は、生葉を冷湿布として、また葉を炙り表皮を除いたものを、腫れ物などの外用薬にし利用していた。

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■一口メモ


H-2Aロケット9号機・ひまわり7号
2006(平成18)年2月18日15時27分(日本時間)に、種子島宇宙センターからH-2Aロケット9号機で打上げられた「運輸多目的衛星新2号(MTSAT-2)※」は、「ひまわり7号」と命名された。「ひまわり7号」は、2005年2月26日にH-2Aロケット7号機により打ち上げられた「ひまわり6号」のバックアップ衛星である。
ひまわり7号の気象観測機能は、6号に異常がなければ2010年から使用開始される予定である。
なお、打上げ時の重量は約4.7tで、打上げ時点では、日本の宇宙開発史上最も重い衛星である。
※MTSAT(エムティーサット)は運輸多目的衛星(Multi-functional Transport Satellite)の英語略称
【後継機】
後継機は2014年及び2016年に打ち上げが計画されている。これまでの防災機能に加え、地球観測機能を大幅に強化した「静止地球観測衛星」として整備される予定である。寿命は運用、待機ともに7年の14年となり、現在の10年(運用、待機ともに5年)より長寿命化がなされ、また解像度や観測頻度、チャンネル数が増加しデータ量は現在の50倍以上となる見込みである。
【主要諸元】
状態 待機運用(スタンバイ)
目的 気象観測
重量:約2,400kg
全長:約30m
設計寿命:気象観測5年、航空管制10年
本体寸法 箱型 2.4 m x 2.6 m x 2.6 m
最大寸法 全幅約33 m(含ソーラーセール及び太陽電池パネル)
質量 打ち上げ時4.65t ドライ約1.7t
静止経度 東経145度
高度 (h) 3万6,000km
【H2Aロケット】
宇宙航空研究開発機構(JAXA:開発当時は宇宙開発事業団が開発し、三菱重工が製造および打ち上げを行う、人工衛星打ち上げ用ロケットで、JAXA内での表記は「H-IIAロケット」で、発音は「エイチツーエーロケット」であるが、新聞やテレビなどの報道では、「H2Aロケット」と表記され、「エイチにエーロケット」と発音される場合が多い。[
開発費は約1,200億円であり、元になったH2ロケットの開発費の2,700億円とあわせると約3,900億円である。打ち上げ費用は、構成によって異なるが、約85億円~120億円。打ち上げ能力は3.8~5.8t。2001年夏に試験機1号機が打ち上げられて以来、15回中14回の打ち上げに成功しており、成功率は約93.3%である。
【特徴】
機体は、液体水素と液体酸素を推進剤とする1段目・2段目を組み合わせた、2段式ロケットとなっている。打ち上げ時に十分な推力を得るために左右2基の固体ロケットブースターを有し、搭載する衛星・探査機等の質量に応じてさらに固体ロケットブースターや固体補助ロケットを追加して柔軟に対応する事ができる。複数の衛星を同時に打ち上げて、個別の軌道に投入する事もできる。
重量の異なる衛星に合わせて、4形態(H2A204・H2A2044・H2A2022・H2A202)の標準型ロケットから選択できる。
今回のロケットはH2A2024型で、打上げ費用は104億円。
※出典: フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)

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M-Vロケット8号機・あかり
平成18年2月22日6時28分(日本標準時)に、内之浦宇宙空間観測所から第21号科学衛星(ASTRO-F)を搭載したM-Vロケット8号機(M-V-8号機)を打上げ、ASTRO-Fの愛称を「あかり」と命名した。
M-Vロケットは、過去10年にわたって大活躍した第4世代のM-3SII型ロケットの後継機として、Mロケットによって培われてきた技術を集大成し、宇宙科学の要請に応えるべく大幅に大型化した固体燃料ロケットであるが、諸般の事情により、次回2006年9月のM-V-7号機をもって開発が中止される。
「あかり(打ち上げ前の名称はASTRO-F)」は、高度約700kmの太陽同期軌道上に打上げられた日本初の本格的な赤外線天文衛星である。
搭載する口径67センチの赤外線望遠鏡では、遠赤外線カメラと、近・中間赤外線カメラによる高感度の赤外線観測が可能で「銀河がいつどのようにして生まれ、現在の姿に進化してきたか」「星の誕生とその周りで惑星がどのように形成されたのか」というプロセスの解明を主目的としている。

【備考:「あかり」の成果】

宇宙の姿(全天の赤外線による観測結果)

写真1
宇宙の姿1

写真2
宇宙の姿2
写真説明
①中心から帯状に左右に拡がる明るい部分は、銀河系の円盤部分をその中にいる地球から真横に見たもの
②画面中心付近の明るくなっている部分が、我々の銀河系の中心の方向にあたる。
③この方向では、塵だけでなく、年老いた赤く・明るい星(赤色巨星)が密集していて、特に明るく見えている。帯の中、あるいはそれから連なる部分には、盛んに星が生まれている領域があり、生まれたての星で暖められた塵が強い赤外線を放ち、明るく輝いて見えている。
④右下の「大マゼラン雲」は、我々の銀河系のすぐ隣にある小さい銀河である。
※写真2画像は株式会社アストロアーツのステラナビゲータを使用して名古屋市科学館が作成。
※出典:宇宙航空研究開発機構(JAXA)

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写真


写真は和坊流宇宙(http://www.justmystage.com/home/kazubo/)の和坊放浪記:口永良部島編:part17でご覧ください。


続く・口永良部島編:part18


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2009年4月22日 (水)

口永良部島編:part16


和坊放浪記:口永良部島編part16


平成18(2006)年・備忘録

 項目

寝待・湯治小屋
 221日目:2月5日(日) 晴      (野池散策)  禁酒8日目
 地図:寝待~野池周辺
 222日目:2月 6日(月) 曇のち雨  (フェリー太陽欠航) 禁酒9日目
 223日目:2月 7日(火) 雨のち曇  (フェリー太陽欠航・温泉掃除・しゃぶしゃぶ)
 224日目:2月 8日(水) 曇強風   (フェリー太陽含め屋久島航路欠航) 禁酒
 225日目:2月 9日(木) 曇時々晴  (温泉前工事開始) 禁酒
 226日目:2月10日(金) 雨のち曇  (買出し・禁酒解禁)
 227日目:2月11日(土) 晴のち曇  (野池登山道・千両採取)
 228日目:2月12日(日) 晴     (水汲み)
 229日目:2月13日(月) 晴     (自転車整備)
 230日目:2月14日(火) 晴     (二の瀬・貝採り)
※本文中赤字は写真あり
■今日は何の日
 2月7日:北方領土の日 地図:北方領土(千島列島)国境線・北方四島
 2月11日:建国記念日 神武天皇即位日・神武東征・建国の詔・八紘一宇、神武天皇祭
 神武東征経路図 河内湖地図・高倉山周辺地図
■注(一部写真付き)
 一等三角点、択捉島(えとろふ)、国後島(くなしり)、色丹島(しこたん)、歯舞群島(はぼまい)、得撫島(うるっぷ)、新知島(しむしる/しんしる)、占守島(しゅむしゅ)、四大節(しだいせつ)、四大節、推古天皇、瓊々杵命(ににぎのみこと)、速吸之門(はやすいのと)、崗之水門(おかのみなと)、高島宮、河内湖、青雲の白肩津(しらかたのつ)草香津(くさかつ)、茅渟(ちぬ)、名草戸畔(なぐさとべ)、荒坂津(あらさかのつ)、丹敷戸畔(にしきのとべ)、布都御魂(ふつのみたま)、八咫烏(やたがらす、やたのからす)、高倉山、国見丘(くにみのおか)、磐余邑(いわれのむら)、丹生の川上、磯城邑(しきのむら)、畝傍山(うねびやま)、橿原宮(かしはらのみや)
写真
 野池、一等三角点、三角点山、亀の手、神武天皇、神武天皇陵、橿原神宮

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寝待・湯治小屋


221日目:2月5日(日) 晴  (野池散策)  禁酒8日目

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経2返(朝・夕)、写経2巻(朝・夕)、座禅瞑想20分×2回(朝・夕)

地図 寝待~野池周辺地図
寝待~野池周辺地図
地図検索サイト;マピオン(http://www.mapion.co.jp/)を加工

 ここ口永良部島に入ってから、八段錦やチューブトレーニングは行っているが、有酸素運動不足なので、おにぎりを作って旧火山跡の野池散策に出掛ける。

 野池散策は2度目。湯治小屋から、10m程先の前原さん宅から、左手の上り坂・旧寝待線に入り、二の瀬(寝待の西の釣場)、平板(湯向の東の釣場)の各入口を通過し一周道路に出て、湯向方面に200m程行くと、谷筋のヘアピンカーブの先に、右に入る砂利道があるので、その緩やかな上りの坂道に入る。

 鹿が走り周る照葉樹林帯を過ぎ、コンクリート舗装が剥がれ、下部の砂利が表面に現われているデコボコ道を通り、釣り竿用・コサン竹の採取場の竹林を通過し、針葉樹林に変化した林道の先(一周道路から約1km)の木々に赤いテープが沢山付いている。

 その、右手に手書きで野池方面と小さな道標が架かっており、ここから、針葉樹林帯の山に入る。

 急な山肌を直線的に登るように登山道の目印の赤いテープが付いている。この周辺は千両(常緑小灌木・正月用の切花に用いられる)の自生地である。

 赤いテープを頼りに、急な坂を登り切ると、竹林に入る。緩やかな登りの竹林を過ぎると、針葉樹林に変わる。

 暫く歩くと、前方に明るい光が見えたと思うと急に展望が開け、林の中の円形ハゲの様な丸い広場に入ると、何十頭とたむろしていた鹿が一斉に逃げ去った。

 ここが、大昔の野池火山の火口底で、昔は魚が住む火口湖があったと伝えられているが、現在、水は無く天然芝生が茂っている。その広場を横断して、口永良部島の一等三角点(注1)のある三角点山に出て、持参のおにぎりを食べてから下山。寝待には14時に帰り着いた。

注1:一等三角点
三角点(さんかくてん)とは、三角測量に用いる際に経度、緯度、標高の基準になる点のことである(標高については、別途、基準となる水準点も存在する)。通常、見晴らしの良い場所に設置されるため、高山の山頂付近に設置されている場合が多い。場所によっては、公立学校などの公的建造物の屋上に設置されている場合もある。三角点には、基準となる柱石が設置され、石の頂部には十字の切り込みが刻まれ、その中心が三角点の位置であり、高さである。
柱石の破壊など機能を損ねる行為をする者は、測量法の規定により2年以下の懲役又は100万円以下の罰金に処せられる。
地図に・や△の中に・の記号で表記されているのが三角点であって、1等から4等までの種類がある。
一等三角点:設置間隔は約40km、必要に応じて補点(約25km間隔)が設置される。全国に約1千点。柱石の一辺は18cm、破壊や破損に備えて、柱石の直下には2枚の盤石も埋設されている。
二等三角点:設置間隔は約8km、全国に約5千点。柱石の一辺は15cm、破壊や破損に備えて、石の直下には盤石も埋設されている
三等三角点:設置間隔は約4km、全国に約3万2千点。柱石の一辺は15cm、破壊や破損に備えて、柱石の直下には盤石も埋設されている
現在の技術水準においては、2万5千分1地形図を作成するための位置の基準としては、以上の等級の三角点で充足される。
四等三角点:設置間隔は約2km、全国に約6万9千点。柱石の一辺は12cm、破壊や破損に備えて、柱石の直下には盤石も埋設されている
地籍調査又はこれに相当する調査の測量の基準点として、国土交通省土地・水資源局国土調査課の委任を受け、国土地理院が設置するもの。

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222日目:2月6日(月) 曇のち雨  (フェリー太陽欠航) 禁酒9日目

【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経6返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×6回(朝・昼・夕)

 今日の降水確率は午前50・午後80%で、フェリー太陽は欠航。午後からは雨で、座禅瞑想に専念する。

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223日目:2月7日(火) 雨のち曇  (フェリー太陽欠航・温泉掃除・しゃぶしゃぶ) 

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経2返(朝・昼)、写経2巻(朝・昼)、座禅瞑想20分×2回(朝・昼)

 今日は、北方領土の日(今日は何の日参照)。朝から雨が降り続いており、フェリー太陽も昨日に続き欠航。

 夕方、寝待集落の住人で、温泉清掃担当の前原さんが、温泉清掃を手伝ってほしいと訪ねて来たので、一緒に作業をする。

 清掃作業終了後、前原さん宅でしゃぶしゃぶを御馳走になり、久しぶりにビールと焼酎を飲み、8時に湯治小屋に帰る。

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224日目:2月8日(水) 曇・強風  (フェリー太陽を含む屋久島航路欠航) 禁酒

【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経6返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×6回(朝・昼・夕)

 ここ寝待温泉は、10日に1度の割合で温泉清掃があるが、清掃直後の湯船の湯は透明で、人が入るに従って乳白色に変化する。

 今朝の温泉は透きとおっており、1番風呂だった。

 温泉から上がると、早々と防災無線で、5mの高波と強風の為、フェリー太陽、フェリー屋久島2を含む全航路の欠航情報が流れた。

 今日は、座禅瞑想に専念する。

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225日目:2月9日(木) 曇時々晴  (温泉前工事開始) 禁酒

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 朝の入浴時は何ともなかった温泉だが、昼のお勤めを終えて入浴する際、温泉前は通行不可になっていたので、防波堤の外側の岩場を通り入浴する。

 いよいよ温泉横防波堤の嵩上げ工事が始まる様子。

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226日目:2月10日(金) 雨のち曇  (買出し)

【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経2返(朝・夕)、写経2巻(朝・夕)、座禅瞑想20分×2回(朝・夕)

 朝のお勤めを終え、入浴時にパラパラ降っていた雨が一時本降りになったが、短時間で止んだので、本村に買出しに出掛ける。

 郵便局でお金を引出し、Aコープで食料品を、羽生商店でビールと焼酎・三岳を買って帰る。

 禁酒10日目に、温泉清掃を手伝ったお礼に、清掃担当の前原さんのお宅でしゃぶしゃぶを御馳走になった際飲酒、その後2日間は禁酒をしたが、本日本村の買出しで酒類を買ったので、今日から禁酒の解禁をする。

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227日目:2月11日(土) 晴のち曇  (野池登山道・千両採取)

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経2返(朝・夕)、写経2巻(朝・夕)、座禅瞑想20分×2回(朝・夕)

 今日は建国記念日(今日は何の日参照)。朝のお勤めを終えてから、バッチャン連中の要望と運動不足解消を兼ねて、野池登山道入口に縁起物の千両の採取に出掛ける。

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228日目:2月12日(日) 晴  (水汲み)

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 寝待集落の簡易水道水源の状態(ゴミと泥)を見てから、飲み水は島の湧水を汲む様になっている。沸かしてから飲めば問題はないのだが、運動を兼ねているので、朝のお勤めを終えてから、大きなリュクサックに空のペットボトル(2?)6本を入れ、徒歩で田代の湧水を汲みに出掛ける。

 片道2km程の道程だが、帰りはリュクサックに水が入り負荷がかかるので、多少は運動不足に役立つのではないかと思い続けている。

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229日目:2月13日(月) 晴  (自転車整備)

【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経2返(朝・夕)、写経2巻(朝・夕)、座禅瞑想20分×2回(朝・夕)

  朝から快晴。波も無く、風も弱く、気温も高い。ここ数か月間で最高の気候。そろそろ島から脱出しなければと思う。

 取敢えず自転車の手入れをする。自転車は待避壕の中にシートで覆っているが、海の傍なので錆びだらけになっている。

 朝のお勤め後、作業を開始。終わったのは夕方。思ったより錆びの浸食が激しく時間がかかってしまった。

 昼過ぎに、神戸の姉から米を送ったとの電話があったので、出発を延期する。

 整備を終えた自転車は、待避壕から部屋の中に移す。

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230日目:2月14日(火) 晴  (二の瀬・貝採り)

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経2返(朝・夕)、写経2巻(朝・夕)、座禅瞑想20分×2回(朝・夕)

 朝のお勤めを終えてから、温泉奥の崖から、二の瀬(寝待の東側の釣場)に行き、貝(亀の手)を獲って帰り、寝待集落住人・矢野のバッチャン達に渡す。

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■今日は何の日


2月7日:北方領土の日(ほっぽうりょうどのひ)

 1980(昭和55)年に、国会の衆参両院において「北方領土の日」の設定を含む「北方領土問題の解決促進に関する決議」が全会一致で決議され、1855年(安政元年)に日本とロシア(当時は帝政ロシア)との間で最初に国境の取り決めが行われた日露和親条約が結ばれた2月7日を「北方領土の日」とすることが閣議了解によって決められた。

 北方領土とは、北海道根室半島の沖合にある、択捉島(えとろふとう注2)、国後島(くなしりとう注3)、色丹島(しこたんとう注4)、歯舞群島(はぼまいぐんとう注5)の北方四島のことで、1945(昭和20)年8月14日に日本がポツダム宣言の受諾を決定した後、同年8月28日から9月5日にかけてソ連軍は北方領土に上陸し占領。その後、現在に至るまでソ連およびそれを継承したロシアが実効支配を継続している為、日本政府が領有権を主張しているものの、一切の施政権は及んでいない。

【歴史的経緯】
■1855(安政元)年2月7日(旧暦12月21日)、伊豆・下田で帝政ロシアとの間で日露和親条約(下田条約)を締結。条約の第二条には「・・・今より後日本国と魯西亜国との境エトロプ島とウルップ島との間に在るへし、エトロプ全島は日本に属しウルップ全島夫(それ)より北の方クリル諸島は魯西亜に属すカラフト島に至りては日本国と魯西亜国との間に於いて堺を分たす是迄仕来の通たるへし・・・」つまり、両国の国境は択捉海峡(択捉島とウルップ島との間)にあり、樺太はこれまで通り「両国民の混在の地」と定義されている。
■1869(明治2)年、蝦夷地を北海道と改称。このとき国後島・択捉島の行政区分をあわせて「千島国」とし、国後郡(くなしりぐん:国後島)、択捉郡(えとろふぐん:択捉島)、振別郡(ふれべつぐん:択捉島)、紗那郡(しゃなぐん:択捉島)、蘂取郡(しべとろぐん:択捉島)の五郡を置いた。
■1875(明治8)年、日本は千島列島(得撫島:うるっぷ~占守島:しゅむしゅ迄の18の島々)をロシアから譲り受けるかわりに、樺太全島をロシアに渡す「樺太千島交換条約」を締結。
当時の行政区分で千島国と定められていた国後島・択捉島に、得撫島(うるっぷとう)から占守島(しゅむしゅとう)迄の18の島々が編入され、これまでの五郡に、得撫郡(うるっぷぐん:得撫島注6)、新知郡(しむしるぐん/しんしるぐん:新知島注7)、占守郡(しゅむしゅぐん:占守島注8)の三郡が新設・追加された。
■1941(昭和16)年12月8日:大東亜戦争(第二次世界大戦)開戦。
■1943(昭和18)年10月、モスクワにおいて米・英・ソ三国外相会談が開かれ、米国はソ連に対して、南樺太と千島列島をソ連に与える見返りに、対日参戦することを求めた。(モスクワ会談)
■同年11月、イランにおいて、米・英・ソ首脳会談が開かれ、戦勝権益の連合国間での分割、連合国の覇権におかれる戦後世界の戦略に関して幅広い協議が行われた。このなかで、米国はソ連に対して、南樺太・千島を与える見返りに、ドイツ降伏後の対日参戦を求めた。(テヘラン会談)
テヘラン会談の直前、カイロで米・英・中三国による首脳会談が開催され、日本の無条件降伏を求める宣言が採択された。(カイロ宣言)
■1945(昭和20)年2月、ソ連のヤルタで米・英・ソ首脳による「ヤルタ会談」が開かれ、日本を早期に敗北に追い込むため、ドイツ降伏の2ないし3か月後にソ連が対日参戦する見返りとして、日本の敗北後、南樺太をソ連に返還し、千島列島をソ連に引き渡すべきとした。(ヤルタ協定)
■1945(昭和20)年8月6日・9日、広島・長崎に原爆投下
■同年8月8日、ソ連は日ソ中立条約(1941・昭和16年4月締結)を破棄し対日宣戦布告。
■同年8月14日、御前会議にて、米・英・中・ソの共同宣言(ポツダム宣言)の受諾を決定、連合国にポツダム宣言受諾を通告。
■同年8月11日~8月25日、ソ連軍、南樺太に侵攻、占領。
■同年8月18日~8月31日、ソ連軍、カムチャツカ半島方面より千島列島に侵入、得撫島以北の北千島を占領。
■同年8月28日~9月1日、ソ連軍、北方領土の択捉・国後・色丹島を占領。
■同年9月2日、東京湾上の米艦ミズーリにおいて、日本側を代表して重光葵外相、梅津美治郎参謀総長、連合国を代表して連合国最高司令官のマッカーサーが「降伏文書」に署名を行い、これによって日本の降伏が確定した。この時、南樺太・千島の日本軍は極東ソ連軍に降伏することが命令され、南樺太・千島はソ連の占領地区となった。
■同年9月3日~9月5日、ソ連軍、歯舞群島を占領。
■1946(昭和21)年1月29日、GHQ指令第677号により、沖縄や小笠原・竹島・南樺太・千島列島・歯舞・色丹などの地域に対する日本の行政権が中止された。国後、択捉両島は千島の中に含まれるものとして、日本政府の政治上、行政上の権力行使の外におかれることになった。
■同年2月2日、ソ連は南樺太・千島を自国領に編入した。
※北方領土には約1万7千人の日本国民は住んでいたが、本国帰還は認められず、1946(昭和21)年12月、GHQとソ連との間で日本国民全員の引き上げが合意されてから、1949(昭和24)年7月迄にほぼ全員の日本国民が帰国した。
■1951(昭和26)年9月8日、サンフランシスコ講和条約締結。同条約第二条(C)項で「千島列島・南樺太」を放棄はしたが、歯舞、色丹は北海道の一部。国後、択捉は千島列島とは違って一度も外国の領土になったことはない。放棄した千島列島にしたところで、その帰属先を特定していない。この条約にソ連は調印していない為、ソ連との国交は回復しなかった。
■1956(昭和31)年10月19日、日ソ共同宣言(昭和31年12月12日発行・条約第20号)で日ソ間の外交関係が回復。しかし、領土については、南樺太・全千島の返還を要求したが、認められなかった為、日ソ平和条約は締結されず、締結後に歯舞群島・色丹島をソ連が日本に引き渡すと記載された条文を盛り込んだ共同宣言で決着した。その後、日ソ・日ロ間には、幾つかの共同声明や共同コミュニケがあるが、平和条約締結や領土問題での合意に至っていない。
出典: フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)

地図1:北方四島・千島列島・樺太
北方四島・千島列島・樺太地図

地図2:北方領土(歯舞群島・色丹島・国後島)
北方領土(歯舞群島・色丹島・国後島)地図

地図3:北方領土(択捉島)
北方領土(択捉島)地図
地図検索サイト;マピオン(http://www.mapion.co.jp/)を加工

注2:択捉島(えとろふとう)
全長204kmで、沖縄本島の約2.6倍あり、鳥取県に近い広さで、北方領土ではもちろん、日本でも一番大きな島。終戦までは、留別(るべつ)村、紗那(しゃな)村、蘂取(しべとろ)村の三つの村があり、739世帯、3,608人の日本人が住んでいた。現在は、紗那(しゃな)を中心に約6,400人のロシア人が住んでいる。
【島内案内】
内岡(なよか):ビザなし交流で訪問する際、この港から上陸する。
紗那(しゃな): 島で一番大きい街で、学校、病院、ホテルのほか、日本の緊急人道支援で設置した診療所等がある。
単冠湾(ひとかっぷわん):大東亜(太平洋)戦争開戦時、ハワイの真珠湾を攻撃するため、日本海軍連合艦隊が、出撃した港。
天寧(てんねい):現在ある全長2,200mの滑走路を持つ民間用の飛行場は、戦前、日本軍によって建設されたもの。
写真:紗那(しゃな)市街地地図、紗那(しゃな)
注3:国後島(くなしりとう)
北海道の野付半島から16km沖合、全長122kmの島で、沖縄本島より広く、奄美大島の約2倍の広さ。終戦までは、島に泊(とまり)村と留夜別(るやべつ)村の2つの村があり、1,327世帯、7,364人の日本人が住んでいた。現在は、約7,000人のロシア人が古釜布(ふるかまっぷ)と泊(とまり)を中心に住んでいる。
【島内案内】
古釜布(ふるかまっぷ):島で一番大きな港街で、市内中心部、北海道国後郡泊村古釜布グネチコ通りに衆議院議員鈴木宗男の尽力により設置した友好の家(通称・ムネオハウス)という宿泊施設がある。※電話番号7(ロシアの国番号)-42455(市外局番)-22155
(とまり):島で二番目に大きい村。
メンデレーエフ空港:古釜布から南西約20kmの山あいにある2,000m級の滑走路を持つ空港。
爺爺岳(ちゃちゃだけ):北方四島で最高峰(標高1,822m)の火山。
材木岩:ビザなし交流で訪れる定番の海岸。対岸には、知床半島や、羅臼町の街の明かりも見える。
写真:市街地地図、古釜布(ふるかまっぷ)、ムネオハウス、材木岩、羅臼山
注4:色丹島(しこたんとう)
徳之島とほぼ同じ広さで、終戦時までに206世帯、1,038人の日本人が住んでいた。 現在は、約3,100人のロシア人が住んでいる。
【島内案内】
穴澗(あなま):ビザなし交流の訪問団は、ここの港から上陸する。街には、日本の緊急人道支援で設置した発電施設等がある。
斜古丹(しゃこたん):穴澗から車で20分くらいのところにある街(色丹村)。国境警備隊の基地や島で一番大きな商店、カフェ等がある。
イネモシリ:太平洋側にある美しい海水浴場。
マタコタン:穴澗から斜古丹へ向かう途中にある入り江で、ビザなし交流では、ここでピクニックやバーベキューなどをする。
写真:穴澗(あなま)市街地地図、穴澗(あなま)湾・桟橋
注5:歯舞群島(はぼまいぐんとう)
貝殻島(かいがらじま)をはじめ、水晶島(すいしょうじま)、秋勇留島(あきゆりとう)、勇留島(ゆりとう)、志発島(しぼつとう)、多楽島(たらくとう)、春苅島(はるかるとう)からなっている。歯舞群島全島の面積は、小笠原諸島とほぼ同じ広さで、終戦時までは、852世帯、5,281人の日本人が住んでいた。現在、ロシア人居住者はいない。
貝殻島(かいがらじま)は、根室半島・納沙布岬から3.7km沖合いにある小さな無人島。島というよりは岩礁に近く、1937(昭和12)年に日本により建設された貝殻島灯台があるが劣化が進み、傾いた姿が納沙布岬から目視で確認できる。
写真:貝殻島・灯台、水晶島(すいしょうじま)、秋勇留島(あきゆりとう)、志発島(しぼつとう)

以上北方四島全体は、福岡県や千葉県とほぼ同じ広さで、終戦まで3,124世帯、17,291人の日本人が住んでいた。現在、ロシア側は国後島、色丹島、歯舞群島を「南クリル地区」と呼んでおり、その地区の「行政府」を国後島の古釜布に置き、択捉島と、さらに北東にある得撫(うるっぷ)島から新知(しむしる)島までを「クリル地区」と呼んでおり、「クリル地区行政府」を択捉島の紗那に置いている。

注6:得撫島(うるっぷとう)
長さは約120km、幅は約20kmで、択捉水道を隔てて択捉島と相対し、北側には新知島がある。千島列島では4番目に大きな面積を有する島であるが平地が少なく、ほとんどが山岳地帯である。
島の名前の由来は、アイヌ語で「紅鱒:べにます」を意味する「ウルプ」
注7:新知島(しむしるとう、しんしるとう)
千島列島の中部にある長さは59km、幅は約13kmの火山島。島の中部に位置する新知岳(しむしるだけ、別名は新知富士、海抜1360m)は1825年から25年前後に一度噴火している最も活発な火山。島のほとんどは針葉樹林に覆われている。現在、島には国境警備隊の建物があり、付近を往来する船を監視している。
注8:占守島(しゅむしゅとう)
千島列島北東端の長さ約30km、幅は最大で20kmの島。北のカムチャツカ半島とは千島海峡で、南の幌筵島(ほろむしろとう/ぱらむしるとう)別名・波羅茂知島(ぱらもしるとう)とは幌筵海峡(波羅茂知海峡)で隔てられている。
島の北側の一部は砂浜であるが、それ以外はほとんど崖で、多くの岩礁がある。海抜200メートルくらいの緩やかな丘陵が続き、沼地と草原で覆われている。その中にある四嶺山(しれいさん、標高171m)には、戦時中に旧日本軍の守備隊の本部が置かれていた。現在では、戦車、砲台、戦闘機、飛行場、格納庫、トーチカなどの残骸や廃墟が残る。
北洋漁業の基地で、1940(昭和15)年の国勢調査によれば人口は1,805人でそのうち1,729人が男性であった。
※日本国のポツダム宣言受諾後の1945年8月下旬、ソビエト連邦軍により日ソ不可侵条約に反して占領された。このため、現在も札幌国税局管内根室税務署の管轄となっており、法制上3島は存続している。

※北方四島写真は、内閣府北方対策本部・ビザなしネット
出典: フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)、ビザなしネット

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2月11日:建国記念日

 正確には建国記念の日で、日本の国民の祝日の一つであるが、他の祝日が祝日法に日付を定めているのに対し、建国記念の日は「政令で定める日」と定め、1967年(昭和42年)2月11日から適用された。
 
 日付の2月11日は、昔の祝祭日の中の四大節(注9)の一つである紀元節で、日本書紀にある神武天皇が即位(※)したとされる日(辛酉年春正月、庚辰朔)に由来している。この日付を現在の暦に当てはめると紀元前660年(B.C.660年)2月11日となる。

 紀元節は、紀元の始まりを祝う祝日として、1872年(明治5年)に制定。1948年(昭和23年)一旦廃止されが、1957年(昭和32年)2月13日には、自由民主党の衆議院議員らによる議員立法として「建国記念日」制定に関する法案が提出された。しかし、当時野党第一党の日本社会党が「建国記念日」の制定を「戦前回帰、保守反動の最たるもの」として非難・反対したため、成立しなかった。

 その後、9回の法案提出と廃案を経る。結局、名称に「の」を挿入した「建国記念の日」とすることで、“建国されたという事象そのものを記念する日”であるとも解釈できるように修正し、社会党も妥協。1966年(昭和41年)6月25日、「建国記念の日」を定める祝日法改正案は成立した。

神武天皇即位日

 720(養老4)年に編まれた日本書紀・卷第三、神武紀によれば、神武東征(下記参照)後、天皇に即位した年月日は「辛酉年春正月、庚辰朔、天皇即帝位於橿原宮是歳爲天皇元年」とある。

 現在文に訳すと、「辛酉(しんゆう)の年の春正月の庚辰(こうしん)の朔(さく)日に、天皇、橿原宮に於いて即位。この年を天皇の元年とする」となる。

 即位年の辛酉(しんゆう)年は、日本書紀の歴代天皇在位年数を元に計算すると紀元前660年に相当。即位月は春正月であることから立春の前後。即位日の干支は庚辰(こうしん)の(さく注10)日。

 そこで西暦紀元前660年の立春に最も近い庚辰(こうしん)の朔(さく:新月)日を探すと、現在の暦では2月11日と特定される。その前後では前年12月20日と同年4月19日も庚辰(こうしん)の日であるが、これらは「春正月」になり得ない。したがって「辛酉年春正月庚辰、庚辰朔」は紀元前660年2月11日となる。

 その他、明治時代の歴史学者・那珂通世(なかみちよ)説によると、日本書紀はその紀年を立てるにあたって、讖緯説(しんいせつ:予言書)の書を採用しており、その書では、1260年に一度(干支が一周する60年を1元(げん)×21元=1蔀(ぼう)=1260年)の辛酉(しんゆう)年には、天命が改まる年とされ、王朝が交代する革命の年(辛酉革命)という事になり、推古天皇(注11)が斑鳩(いかるが)に都を置いた西暦601年(辛酉年)がその年に当たる。そのため神武天皇の即位年は、西暦601年(辛酉年)から1260年遡った紀元前660年の辛酉(しんゆう)年に相当する事になる。

注9:四大節(しだいせつ)
旧制度の4つの祭日で、①紀元節(2月11日)、②四方節(新年1月1日)、③天長節(今上天皇の誕生日で、明治時代・11月3日、大正時代・10月31日、昭和時代・4月29日。大正天皇の誕生日は8月31日であるが、盛暑期を避けて2ヶ月後を天長節とした)。この3つの祭日に、④明治節(昭和2年、明治天皇祭が先帝祭として祭日になる)が加わり、四つの祝日を四大節(しだいせつ)と呼んだ。
注10:(さく)
月を望むことが出来ない新月(しんげつ)のこと。太陰暦では月の第一日。
参考:月名は次の通り。
1日:朔(さく)、新月(しんげつ)
2日:既朔(きさく)
3日:三日月(みかづき)
7・8日:上弦(じょうげん)
13日:十三夜(じゅうさんや)
14日:小望月(こもちづき)
15日:満月(まんげつ)、望月(もちづき)
16日:十六夜(いざよい)、既望(きぼう)
17日:立待月(たちまちづき)
18日:居待月(いまちづき)
19日:寝待月(ねまちづき)、臥待月(ふしまちづき)
20日:更待月(ふけまちづき)
22・23日:下弦(かげん)
29・30日:晦(つごもり)
注11:推古天皇(すいこてんのう)
甥の厩戸皇子(うまやどのおうじ:聖徳太子)を皇太子に立てた第33代天皇で、初の女帝である。名は、額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)。邪馬台国の卑弥呼ではないかとの説がある



神武東征

 皇祖・天照大神(あまてらすおおみかみ)は孫の瓊々杵命(ににぎのみこと注12)を、豊葦原の水穂の国(とよあしはらのみずほのくに:日本国)に降臨させた(天孫降臨)。

 日向(ひむか)の高千穂の峰に降臨した瓊々杵命は、吾田国(南さつま市)は長屋の笠狭碕(かささのみさき:野間岬)に到達する。

 そこで大山祇神(おおやまつみのかみ)の娘である木花之開耶姫(このはなのさくやひめ)を娶り、火照命(ほでりのみこと:海幸彦・ホデリ)・火遠理命(ほおでりのみこと:山幸彦・ホオリ)を儲ける。

 そして、ホオリ(山幸彦)と海神(わたつみ)の娘・豊玉姫(とよたまひめ)の子である、鵜葺屋葺不合命(うがやふきあえずのみこと)と豊玉姫の妹・玉依姫(たまよりひめ)の間に出来た子が神日本磐余彦命(かんやまといわれひこのみこと=神武天皇)である。

注12:瓊々杵命(ににぎのみこと)
天照大神の子である天忍穂耳命(あめのおしほのみこと)と、高御産巣日神(たかみむすひのかみ=高木神)の娘である萬幡豊秋津師比売命(よろずはたとよあきつしひめのみこと)の子。
ニニギ(瓊瓊杵尊)、ホオリ(山幸彦)、ウガヤフキアエズ(鵜葺屋葺不合命)の三代は日向三代(ひむかさんだい/ひゅうがさんだい)と呼ばれる。

 神武天皇(神日本磐余彦命・かんやまといわれひこのみこと=磐余彦)は、15歳のときに皇太子となり、長じて吾平津姫(あひらつひめ)を妃とし、息子の手研耳命(たぎしみみのみこと)を儲け、甲寅(こういん)の年(紀元前667年、神武天皇・45歳)、兄弟や皇子を集めて、「天孫降臨以来長い年月が経ったが、未だに西辺にあり、全土を王化していない。東の方角に国の中心に相応しい地があると聞くので、かの地に赴いて都を造ろう」と宣言し、その年の10月5日、兄の五瀬命(いつせのみこと)ら、皇子、軍団を自ら率い船で東征に向かった。

 一行が、水路の難所、速吸之門(はやすいのと注13)に至った時、国津神(くにつかみ:土着の神)の椎根津彦(しいねつひこ)を道案内とし、筑紫国(ちくしのくに:大分県)の菟狭(うさ:宇佐)に立ち寄り、宇佐津彦、宇佐津姫の宮に招かれて歓待をうける。

 11月9日、筑紫国(つくしのくに:福岡県)の崗之水門(おかのみなと注14)に寄り道をしてから、12月27日に安芸国(あきのくに:広島県)の埃宮(えのみや注15)に至る。

 翌年の3月6日、吉備国(きびのくに:岡山県)に入り、高島宮(たかしまのみや注16)の行宮をつくって3年滞在して船と兵糧を蓄えた。

注13:速吸之門(はやすいのと)
愛媛県佐田岬と大分県関崎の幅13Kmの速吸瀬戸(豊予海峡)で、潮流は最大5.5ノット(時速10km)と云われており、この潮流にもまれて育った関アジ、関サバは有名である。
注14:崗之水門(おかのみなと)
福岡県遠賀郡芦屋の古い呼称で、現在の岡湊。
注15:埃宮(えのみや)
広島県安芸郡府中町に、埃宮(えのみや)の跡に創建された、多家神社(たけじんじゃ)がある。
注16:高島宮(たかしまのみや)
高島の伝承地は各地にあるが、皇紀2600(昭和15)年、文部省により児島郡甲浦村大字宮浦字高島・現在の岡山市宮浦が指定されている。

 戊午(ぼご)の年(紀元前663年、神武天皇・49歳)の春、高島宮を出て、難波碕(なにわのみさき)に至り。3月10日に、河内湖(かわちこ注17)に入った船団は、河内湖の最奥部にある浪速国青雲の白肩津(しらかたのつ=草香津(くさかつ注18)に上陸。

注17:河内湖(かわちこ)
かつて河内平野に存在していた湖。紀元前約6000年~約5000年ごろには海水が河内平野へ進入し、現在の枚方市付近を最奥部として、上町台地の東部に河内湾と呼ばれる湾が形成された。上町台地から北方へ次第に砂州が伸びていき、河内湾口はほぼ塞がれる形となった。河内湾に流入する淀川と大和川の両河川によって河内湾の淡水化が進み、河内湾は淡水湖である河内湖へとその姿を変えた。紀元後も河内湖は残存しており、4世紀 - 5世紀ごろには草香江(くさかえ)と呼ばれていた。仁徳天皇は上町台地上の難波に宮殿を置いたが、草香江の水害を解消するため難波の堀江という排水路を築いた。その後、河内湖の干拓・開発が急速に進んでいき、湖から湿地へと変わったが、完全に陸域化したのは、江戸時代の大和川付け替え工事以降のことである。
注18:青雲の白肩津(しらかたのつ)草香津(くさかつ)
青雲は白の枕詞で、白肩津(しらかたのつ)草香津(くさかつ)は、旧中河内郡盾津(たてつ)町、現鴻池周辺)

 4月9日、に龍田(たつた:奈良県北葛城郡王寺町)へ進軍するが地勢が険しく先へ進めず、引き返さざるを得ず、改めて生駒山を越えて、ヤマトを目指したが、この地を支配する長髄彦(ながすねひこ)の軍に阻まれ、孔舎衛坂(くさえのさか:近鉄奈良線孔舎衛坂駅跡付近)で戦いになった。

 戦いに利なく、神武天皇の長兄・五瀬命(いつせのみこと)が流れ矢を受けて負傷した。
神武天皇は「日の神の子孫の自分が日に向かって(東を向いて)戦うことは天の意思に逆らうことだ。廻り込んで日を背にして(西を向いて)戦おう」と云い、草香津(くさかつ)まで退いた。

 5月、孔舎衛坂(くさえのさか)の戦いで苦戦した神武天皇は、日を背にして(西を向いて)戦う為、紀伊半島を迂回し、熊野からヤマト入りを目指し出航した。

 その途中、茅渟(ちぬ注19)の山城水門(やまきのみなと:大阪府泉南市樽井)で神武天皇の長兄・五瀬命(いつせのみこと)の矢傷が重くなり、五瀬命(いつせのみこと)は、紀伊国(きいのくに:和歌山県)竃山(かまやま:和歌山市和田)で死去した。(竈山神社に五瀬命(いつせのみこと)の墓がある)

注19:茅渟(ちぬ)
現在の大阪府南部が和泉国(いずみのくに)と云われた古代、淡路島との間の海を茅渟の海(後に和泉灘)と呼んでいた。

 6月、この地域を支配していた名草戸畔(なぐさとべ注20)と云う女賊を誅してから、狭野(和歌山県新宮市佐野)から、熊野の神邑(みわむら:新宮市新宮)に着き、天磐盾(あめのいわたて:和歌山県新宮市神倉・神倉神社)に登った後、再び船を出すが暴風雨に遭った。

 陸でも海でも進軍が阻まれることを憤慨した次兄の稲飯命(いないのみこと)と三兄・三毛入野命(みけいりのみこと)が入水、人身御供となった。

 長兄を含め、3人の兄を失った神武天皇は、息子の手研耳命(たぎしみみのみこと)とともに熊野の荒坂津(あらさかのつ注21)に辿り着き、辺りを支配していた丹敷戸畔(にしきのとべ注22)という者を討伐したが、土地の神の毒気を受け一行は倒れた。

注20:名草戸畔(なぐさとべ)
現在の和歌山市紀三井寺名草山周辺では名草姫(なぐさひめ)と云われているが、人物の名ではなく、名草の長・首領という地位を表す言葉であるという説もある。近くに竃山(かまやま)神社がある。
注21:荒坂津(あらさかのつ)
紀伊續風土記・巻之九十・牟婁郡第二十二によると、「曽根荘より以東の諸荘は上世丹敷戸畔の領せし地にして所謂荒坂の津といふ、荒坂は當荘二木島より曽根浦に越ゆる今の曽根次郎曽根太郎といふ峻坂をいふらむ、丹敷は今長島郷錦浦あり、丹敷はその邊(辺)の大名にして丹敷戸畔、神武帝の御軍を防んとて此地に來りて此あら坂の邊(辺)にて帝の為に誅せられし處(処)成るへし」とある。二木島とは、三重県熊野市甫母町二木島湾のこと。
その他、新宮市三輪崎の熊野荒坂津神社は明治百年を記念して建立された新しい神社であるが、神武天皇上陸の伝説がある。また、三重県度会郡大紀町の錦地区が上陸地とも云われている。
注22:丹敷戸畔(にしきのとべ)
剽悍無類(ひょうかんむるい:比べようのないほど荒々しく強い)の女首領。大昔、紀伊半島は、熊野と紀伊の二つの国に分かれており、熊野の国の首領(女王)が、丹敷戸畔(にしきのとべ)で、紀伊の国の首領(女王)が名草戸畔であったのではないか。
参考:和歌山県東牟婁郡那智勝浦町(那智駅東へ200m)の熊野三所大神社(くまのさんしょおおみわしゃ)は、「往古神武天皇丹敷戸畔を誅し給う地なり」と云われ、境内の一隅に「丹敷戸畔命」と彫られた小祠がある。同社は、九十九王子のひとつである浜の宮王子の社跡に建つため、浜の宮大神社(はまのみやおおみわしろ)とも呼ばれる。また、JR紀勢本線那智駅横の那智駅交流センターに、那智大社を模した町営浴場「丹敷の湯・入湯料¥600」がある。

 そこに、高倉下(たかくらじ)と名乗る人物が現れた。その男曰く、夢の中で、天照大神(あまてらすおおみかみ)と高御産巣日神(たかみむすひのかみ=高木神)が出現し、葦原中国が騒がしいので建御雷神(たけみかずちのかみ)を遣わそうとしたところ、建御雷神は「自分がいかなくとも、国を平定した剣があるのでそれを降せばよい」と述べ、私に「霊剣・布都御魂(ふつのみたま)をお前の倉に落とし入れるので、天つ神の御子に献上しなさい」と命じられ、翌朝目覚めたら蔵の中に剣が刺さっていたので持参したと云う。

 その霊剣・布都御魂(ふつのみたま注23)を神武天皇が手にすると、憔悴して眠りこけていた一行は、精気を取り戻し、進軍を再開したものの、山路険絶の道なき道を進んでいるうちに、道に迷ってしまった。

 そこに、天照大神(あまてらすおおみかみ)から遣わされた八咫烏(やたがらす注24)が現れ、一行の先鋒を務める、日臣命(ひのおみのみこと=道臣命)が八咫烏を追っていくと、莵田下県(うだのしものこおり)に辿り着き、この地を莵田穿邑(うだのうがちのむら::奈良県宇陀郡莵田野町宇賀志)と名付けた。日臣命はこの功績により、道臣(みちのおみ)の名が与えられた。

注23:布都御魂(ふつのみたま)
この霊剣で、建御雷神(たけみかずちのかみ)は葦原中国(あしはらのなかつくに)を平定した。建御雷神(たけみかずちのかみ)または、鹿島神(かしまのかみ:建御雷神が鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)に祀られていることからそう呼ばれる)とは、古事記の、イザナギ・イザナミが島々を生んだ(国産みの)後、神々を生み出していった神産み(かみうみ)に於いて、イザナギがカグツチの首を切り落とした際、十束剣(とつかのつるぎ:10束(束は長さの単位で、拳
1つ分の幅)の長さの剣)天之尾羽張(あめのおはばり:剣であり神の名前でもある)の根元についた血が岩に飛び散って生まれた三神の一柱で、戦国の時代から剣の神、戦いの神として信仰を集め、鹿島神宮、春日大社および全国の鹿島神社・春日神社で祀られ、今日の武道場にも、建御雷神(鹿島神)が必ず祀られている。
注24:八咫烏(やたがらす、やたのからす)
太陽神を意味する神聖の象徴の3本足の烏である。熊野三山において烏はミサキ神(死霊が鎮められたもの。神使)として信仰されており、近世以前によく起請文(きしょうもん:約束や契約を交わす際、それを破らないことを神仏に誓う文書)として使われていた熊野の牛玉宝印(ごおうほういん)には烏が描かれている。また、日本サッカー協会のシンボルマークにも用いられている。これは、日本で最初に東京高等師範学校、現:筑波大学で蹴球(しゅうきゅう)部を創設した中村覚之助に敬意を表し、出身地である那智勝浦町にある熊野那智大社の八咫烏をデザインしたものである。

 8月2日、神武天皇は、莵田(うだ)の地を支配する兄猾(えうかし)と弟猾(おとうかし)を呼んだところ、兄猾は来なかったが、弟猾は参上し、兄が神武天皇を暗殺しようとする姦計を告げた。そこで道臣命(みちのおみのみこと=日臣命)を送ってこれを討たせた。

 神武天皇は、軽兵を率いて吉野の地を巡ったところ、国神・贄持之子(にえもつのこ)、国神・氷鹿(ひい)、国神・石押分之子(いしおしわくのこ)と名乗る地元の豪族が従った。

 9月5日、神武天皇は高倉山(注25)に登り、辺りを見渡すと国見丘(くにみのおか注26)周辺の女坂、男坂、墨坂には、八十梟帥(やそたける:人名ではあるが、数多くの勇者の意もある)の軍団が待ち構え、ヤマトに入る要所の磐余邑(いわれのむら注27)では、兄磯城(えしき)の軍が充満しているのが見えた。

 この夜、神武天皇の夢枕に、高御産巣日神(たかみむすひのかみ=高木神)が現れ、天香山(あまのかぐやま=天香山神社(あまのかぐやまじんじゃ)奈良県橿原市南浦町)の社の中の土を取って、天平瓮(あまのひらか:平らな土器)八十枚と厳瓮(いつへ:御神酒の器・かめ)を作り、天神地祇(てんじん:天の神・天津神、ちぎ:地の神・国津神)を敬い祀れ、さらに、亦厳呪詛(いつのかしり:呪いをかける)を行え、そうすれば、敵はおのずと平伏するであろう」と告げた。

 その言葉に従って天平瓮(あまのひらか)と厳瓮(いつへ)を作って、丹生の川上(注28)に登り、天神地祗を祀り、敵に呪いをかけた。 

注25:高倉山
標高440mの高倉山の頂上に鎭座する、高角神社(たかつのじんじゃ:奈良県宇陀郡大宇陀町守道)には、「日本書紀・巻三・神武天皇即位前紀戊午年九月の条、天皇陟彼菟田高倉山之巓。瞻望域中。時國見丘上則有八十梟帥」の故事により、山頂に顕彰碑が建てられている。また、本殿横には寛政十一年(1799)に「神武天皇望軍之旧跡」の石碑が残っている。
注26:国見丘(くにみのおか)
宇陀郡大宇陀町と桜井市の境にある、経ヶ塚山(きょうがずかやま)のこと。経ヶ塚山の南に女坂)、北東に男坂(半坂)があり、男坂の北側に墨坂(宇陀市榛原)がある。
注27:磐余邑(いわれのむら)
奈良県旧十市郡内、旧安倍村大字池之内および旧香久山村大字池尻付近。奈良県桜井市吉備にある春日神社の横に磐余邑の顕彰碑が建てられている。このあたりは神武天皇と長髄彦(ながすねひこ)が決戦した故地でもある。
注28:丹生の川上
丹生の川上には、丹生川上神社(にうかわかみじんじゃ)上社・中社・下社の三つの神社があるが、奈良県吉野郡東吉野村大字小(おむら)・丹生川上神社(にうかわかみじんじゃ)中社・旧蟻通神社(ありとおしじんじゃ)が天神地祗を祀った神社と思われる。

 10月、神武天皇は、軍を発して、国見丘(くにみのおか=経ヶ塚山・きょうがずかやま)周辺の女坂(経ヶ塚山の南)、男坂(経ヶ塚山の北東)、墨坂(宇陀市榛原)で戦闘 八十梟帥(やそたける)を討つ。

 11月、磯城邑(しきのむら注29)の兄磯城(えしき)、弟磯城(おとしき)の元に、使いを送ったところ、弟磯城は降参したが、兄磯城は逆らった為、椎根津彦(しいねつひこ:神武天皇が東征において速吸門(はやすいのと:大分県関崎の豊予海峡)で出会った国津神)が奇策を用いると同時に、皇軍が墨坂(宇陀市榛原)と、半坂(男坂)の後方から兄磯城軍を挟み撃ちにして打ち破った。

注29:磯城邑(しきのむら)
奈良県桜井市、三輪山の南麓の初瀬川付近

 12月、磐余邑(いわれのむら注30)で、長髄彦(ながすねひこ:生駒山越えでヤマトを目指す途中、孔舎衛坂(くさえのさか:近鉄奈良線孔舎衛坂駅跡付近)の戦いで敗れた相手)と対峙することとなった。

 両軍共に死力を尽くして戦ったが勝負がつかず、神武天皇が最後の突撃の覚悟を決めたそのとき。天が曇り、雹(ひょう)が降り、遙か天空から金色の鵄(とび)が飛来し、神武天皇の弓の先にとまった。そして、金色の鵄(とび)は光り輝きだした。これを見た長髄彦の軍は眼がくらみ、戦意を喪失した。

 そこで、長髄彦(ながすねひこ)は神武天皇に「昔、天津神の子が天の磐船(あまのいわぶね)に乗って降臨した。名を櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと)という。私の妹の三炊屋媛(みかしきやひめ)を娶わせて、可美真手(うましまで)という子も生まれた。ゆえに私は饒速日命を君として仕えている。天津神の子がどうして二人いようか。どうして天津神の子であると称して人の土地を奪おうとしているのか」とその疑いを述べた。神武天皇は天津神の子である証拠として、天の羽羽矢(あまのははや:天から授かった聖なる矢)と歩靱(かちゆき:弓を入れる筒状の道具)を見せると、長髄彦は恐れ畏まったが、改心することはなかった。その為、ヤマトの支配者・饒速日命(ニギハヤヒノミコト)は長髄彦を殺して降伏した。

 翌、巳未(きび)の年の2月20日(紀元前662年・神武天皇50歳)、神武天皇に従わない、層富県(そほのあがた:奈良県生駒郡)の波多の丘岬(はたのおかさき:奈良市赤膚)の新城戸畔(にいきとべ)、和珥(わに:奈良県天理市和珥)の坂下の居勢祝(こせのはふり)、臍見(ほそみ)の長柄(奈良県御所市長柄)の山崎の猪祝(いのはふり)と云う3名の土蜘蛛(つちぐも:辺境の民)と、高尾張邑(たかおはりのむら:奈良県北葛城郡當麻町)の身体が小さく手足の長い土蜘蛛を打ち滅ぼす。

 3月、畝傍山(うねびやま注31)の東南の橿原(かしはら)の地を都と定める。

 庚申(こうしん)の年(紀元前661年・神武天皇51歳)、大物主の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)を正妃とした。

 辛酉(しんゆう)の年(神武天皇元年・紀元前660年・神武天皇52歳)の正月、神武天皇は橿原宮(かしはらのみや注32)で践祚(せんそ:天皇の位に就く)され、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称した。

注30:磐余邑(いわれのむら)
奈良県旧十市郡内、旧安倍村大字池之内および旧香久山村大字池尻付近。奈良県桜井市吉備にある吉備池の横に磐余邑の顕彰碑が建てられている。このあたりは神武天皇と長髄彦(ながすねひこ)が決戦した故地でもある。
注31:畝傍山(うねびやま)
奈良盆地南部に位置する山。「畝火山」あるいは「慈明寺山」とも云う。耳成山、天香具山とともに「大和三山」と呼ばれている。
注32:橿原宮(かしはらのみや)
1890(明治23)年、橿原宮があった地である、奈良県橿原市の畝傍山の麓、久米町に橿原神宮(かしはらじんぐう)が創建された。

参考1:建国の詔(みことのり)、八紘一宇(はっこういちう)
日本書紀巻三の詔の中にある神武天皇の建国の詔(みことのり)の後段に「六合(りくごう)を兼ねて、以って都を開き、八紘(あめがした)を掩(おお)ひて宇(いえ)と為(せ)すこと亦可(またし)からずや」とあり、「六合を兼ねて」とは上下四方、十方世界。「八紘一宇」とは、四海一家、世界は道義の世界ではひとつ。のことで、その意味は、「四方の国々を束ねて都を造り、ひとつの家族のように仲良く暮らしていける国にしようではないか」と云うことであるが、この八紘一宇(はっこういちう)が大東亜戦争(第二次世界大戦)中、国是ともいえるスローガンになった。

参考2:神武天皇祭(じんむてんのうさい)
毎年4月3日、宮中の皇霊殿や橿原神宮・宮崎神宮などの神武天皇を祀る神社で神武天皇祭が行なわれる。祭典の行われる4月3日は、神武天皇の崩御の日(太歳己卯=紀元前586年・3月11日)を新暦に換算した日。
太歳己卯(たいさいきぼう)の太歳(たいさい)とは、木星の周期に基づく紀年法で、干支紀年法では、丁卯(ちょうぼ)に該当する。

出典: フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)

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神武東征経路図
神武東征経路図

日向(ひむか)の高千穂の峰に降臨した瓊々杵命は、吾田国(南さつま市)は長屋の笠狭碕(かささのみさき:野間岬)に到着。紀元前667年(神武天皇・45歳)10月5日、日向(ひむか)から東征出発。
周辺地図・野間岬
周辺地図・日向

①速吸之門(はやすいのと)愛媛県佐田岬と大分県関崎の幅13Kmの速吸瀬戸(豊予海峡)
周辺地図:速吸瀬戸・豊予海峡

②国津神(くにつかみ:土着の神)の椎根津彦(しいねつひこ)を道案内とし、筑紫国(ちくしのくに:大分県)のの菟狭(うさ:宇佐)に立ち寄り、宇佐津彦、宇佐津姫の宮に招かれて歓待をうける。
周辺地図:菟狭・大分県宇佐市

③11月9日、筑紫国(つくしのくに:福岡県)の崗之水門(おかのみなと:福岡県遠賀郡芦屋の古い呼称。)に寄り道をする。
周辺地図:崗之水門・福岡県遠賀郡芦屋

④12月27日に安芸国・埃宮(えのみや:広島県安芸郡府中町に、埃宮(えのみや)跡に創建された、多家神社(たけじんじゃ)がある)に至る。
周辺地図:埃宮・多家神社

⑤翌年の3月6日、吉備国(きびのくに:岡山県)に入り、高島宮(たかしまのみや:児島郡甲浦村大字宮浦字高島・現在の岡山市宮浦)で3年滞在。
周辺地図:高島宮・岡山市宮浦

⑥紀元前663年、神武天皇・49歳)の春、高島宮を出て、難波碕(なにわのみさき)に至り。3月10日に、河内湖に入った船団は、河内湖の最奥部にある浪速国青雲の白肩津(しらかたのつ=草香津(くさかつ)に上陸。(旧中河内郡盾津(たてつ)町、現鴻池周辺)
周辺地図:草香津・盾津中学校

河内湖周辺地図

⑦4月9日、龍田(たつた:奈良県北葛城郡王寺町)へ進軍するが地勢が険しく先へ進めず、引き返さざるを得ず、改めて生駒山を越えて、ヤマトを目指したが、この地を支配する長髄彦(ながすねひこ)の軍に阻まれ、孔舎衛坂(くさえのさか:近鉄奈良線孔舎衛坂駅跡付近)で戦いになった 草香津(くさかつ:中河内郡盾津(たてつ)町地域)まで退いた。
周辺地図:孔舎衛坂(近鉄奈良線孔舎衛坂駅跡)

⑧茅渟(ちぬ)の山城水門(やまきのみなと:大阪府泉南市樽井)で神武天皇の長兄・五瀬命(いつせのみこと)の矢傷が重くなる。
周辺地図:山城水門・大阪府泉南市樽井

⑨五瀬命(いつせのみこと)は、紀伊国(きいのくに:和歌山県)竃山(かまやま:和歌山市和田)で死去した。埋葬する。6月、この地域を支配していた名草戸畔(なぐさとべ※9)と云う女賊を誅す。竈山神社に五瀬命(いつせのみこと)の墓あり
周辺地図:竈山神社・五瀬命の墓

⑩狭野(和歌山県新宮市佐野)を経て、
周辺地図:狭野・新宮市佐野

⑪熊野の神邑(みわむら:新宮市新宮)に着き、天磐盾(あめのいわたて:和歌山県新宮市神倉・神倉神社)に登った後、再び船を出すが暴風雨に遭った。
周辺地図:天磐盾・神倉神社

⑫熊野の荒坂津(あらさかのつ:三重県熊野市甫母町二木島湾)に辿り着き、辺りを支配していた丹敷戸畔(にしきのとべ)という者を討伐したが、土地の神の毒気を受け一行は倒れた。
荒坂津(あらさかのつ)の伝承地は、新宮市三輪崎の熊野荒坂津神社、三重県度会郡大紀町の錦がある。また、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町(那智駅東へ200m)の熊野三所大神社(くまのさんしょおおみわしゃ)は、「往古神武天皇丹敷戸畔を誅し給う地なり」と云われ、境内の一隅に「丹敷戸畔命」と彫られた小祠がある。
周辺地図:荒坂津・二木島湾

⑬莵田下県(うだのしものこおり)に辿り着き、この地を莵田穿邑(うだのうがちのむら)・宇陀の窟(うだのうがち)奈良県宇陀郡莵田野町宇賀志付近)と名付けた。
周辺地図:莵田穿邑

⑭9月5日、神武天皇は高倉山に登る。高倉山の頂上に、高角神社(たかつのじんじゃ:奈良県宇陀郡大宇陀町守道)あり。
周辺地図:高倉山・高角神社

⑮丹生の川上に登り、天神地祗を祀り、敵に呪いをかけた。
丹生の川上には、丹生川上神社(にうかわかみじんじゃ)上社・中社・下社の三つの神社があるが、奈良県吉野郡東吉野村大字小(おむら)の丹生川上神社(にうかわかみじんじゃ)中社・旧蟻通神社(ありとおしじんじゃ)だったと云われる。
周辺地図:丹生川上中神社

⑯10月、神武天皇は、軍を発して国見丘(くにみのおか=経ヶ塚山・きょうがずかやま:宇陀郡大宇陀町と桜井市の境の山)周辺の女坂、男坂、墨坂で戦闘 八十梟帥(やそたける)を討つ
周辺地図:経ヶ塚山

⑰11月、磯城邑(しきのむら:三輪山の南麓の初瀬川付近・奈良県桜井市)兄磯城(えしき)討つ
周辺地図:初瀬川付近

⑱12月、磐余邑(いわれのむら)で、神武天皇と長髄彦(ながすねひこ)が戦う。
奈良県旧十市郡内、旧安倍村大字池之内および旧香久山村大字池尻付近。奈良県桜井市吉備にある吉備池の横に磐余邑の顕彰碑が建てられている。このあたりは神武天皇と長髄彦(ながすねひこ)が決戦した故地でもある。
周辺地図:吉備池・磐余邑の顕彰碑

⑲畝傍山(うねびやま)山麓の橿原宮(かしはらのみや)で践祚(せんそ)する。畝傍山(うねびやま)は、奈良盆地南部に位置する山。「畝火山」あるいは「慈明寺山」とも云う。耳成山、天香具山とともに「大和三山」と呼ばれている。橿原宮の跡地に橿原神宮(かしはらじんぐう)が創建されている。
周辺地図:畝傍山・橿原神宮

地図:高倉山周辺地図
高倉山周辺地図

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写真

写真は和坊流宇宙(http://www.justmystage.com/home/kazubo/)の和坊放浪記:口永良部島編:part16でご覧ください。


続く・口永良部島編:part17


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2009年4月 8日 (水)

口永良部島編:part15


和坊放浪記:口永良部島編part15


平成18年・備忘録

 項目

■寝待・湯治小屋
 211日目:1月26日(木) 晴    (トレーニング再開)
 212日目:1月27日(金) 曇    (鹿の解体・角収集)
 213日目:1月28日(土) 晴    (鹿肉料理)
 214日目:1月29日(日) 雨    (ヤシの実で器作り) 禁酒1日目
 215日目:1月30日(月) 曇のち晴 (ヤシの実の器完成) 禁酒2日目
 216日目:1月31日(火) 雨のち晴 (1日断食) 禁酒3日目
 217日目:2月 1日(水) 雨のち曇 (般若心経の表作成) 禁酒4日目
 218日目:2月 2日(木) 晴    (般若心経の表作成・買出し) 禁酒5日目
 219日目:2月 3日(金) 曇    (節分・道路工事開始) 禁酒6日目
 220日目:2月 4日(土) 曇    (座禅瞑想専念) 禁酒7日目
※本文中赤字は写真あり
今日は何の日:節分・秦山府君(冥土の旅・十王・十三仏)、天球座標図
写真:雄鹿、鹿の角とヤシの実の器、節分行事(追儺祭・イワシとヒイラギ)、十王

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■寝待・湯治小屋


211日目:1月26日(木) 晴  (トレーニング再開)

【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経2返(朝・夕)、写経2巻(朝・夕)、座禅瞑想20分×2回(朝・夕)

 ナタ・カマの使い過ぎで、右腕が上がらなくなっていたが症状が軽快してきたので、ストレッチ後に八段錦とチューブトレーニングを再開する。

 朝のお勤め後、本村集落に買出しに出掛ける。Aコープに滅多に見かけない卵と野菜類が売れ残っていたので購入して帰り、昨日浜辺で拾ったヤシの実の皮むきをする。

 夕方、寝待集落住民の前原さんの招きで、8時まで酒を飲む。

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212日目:1月27日(金) 曇  (鹿の解体・角収集)

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経2返(朝・夕)、写経2巻(朝・夕)、座禅瞑想20分×2回(朝・夕)

 8時前に、寝待集落の住人・森杉のバッチャンのご主人で、本村集落に住む森杉のジッチャンと一緒に平板(ひらばん:湯向集落の西の釣場)に出掛けるが、途中の川端に在るミカンの木に八朔が一杯生っている。

 森杉のジッチャンが、地面に落ちたミカンを拾い集め出したが、地面に接した面が腐っている。木に生っているミカンは地面から高くて採ることが出来ない。魚も獲りたいし、ミカンも欲しい。

 そこで、森杉のジッチャンは平板に釣りに、自分はミカン集めをする事にした。

 竹を2本繋ぎ先端にカマを取付け、ミカン狩りをする。

 背負い籠1杯のミカンを採って寝待に帰り、3等分して寝待集落住人のバッチャン2人と前原さんに届ける。

 昼過ぎに森杉のジッチャンが帰って来て、裏山に鹿が掛かっているので一緒に見に行こうと誘いに来たので急斜面の裏山に行くと、雄鹿が鹿よけネットに角を絡ませ暴れている。

 森杉のジッチャンは持参のナタで鹿の頭部を強打する。鹿は絶命したので、下に降ろす。

 鹿の両足にロープを結わえ木に吊るし、解体作業に取り掛かる。

 両足に包丁で切り口をつけ、皮を剥いで行く。途中から、森杉のバッチャンが包丁片手に加担する。包丁を持って鹿の解体をするその姿は、日頃杖をついてヨタヨタしているバッチャンとは人が違う程はつらつとしていた。

 2時間ほどで解体作業は終了。各部位を寝待集落の住人に分け、自分も太股の肉を頂くが、肉に興味が無いので前原さんに差し上げる。

 しかし、肉を取った残骸は角が付いたまま土に埋めようとするので、鹿の角を頂戴する。

 口永良部島は竹と鹿の島と云ってもいい位鹿が多い。以前は屋久島から猟師が来て、鹿の駆除をしていたが、ある時漁師が仔牛を撃ち殺し持ち帰ったことがあり、それ以来猟師の入島を拒んでいるので、鹿の頭数は増えても減ることの無い状態が続いている。

 農作物の被害を食い止める為、鹿のくくり罠を仕掛けたり、鹿よけネットを張っている。それらに掛った鹿の内、温もりのある鹿は今回の様に解体して食用にしているが、冷たくなっている鹿は放置され、山の中や道路端で朽ちはて骨だけになっている鹿を見かけることがある。

 その都度、鹿の角を収集し、10本以上保管するに至っている。

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213日目:1月28日(土) 晴  (鹿肉料理)

【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経2返(朝・昼)、写経2巻(朝・昼)、座禅瞑想20分×2回(朝・昼)

 前日に続き、寝待集落の住人・前原さんの牧場でもメス鹿がくくり罠に掛かり、解体したての新鮮な鹿肉料理の御招ばれに出向く。

 前原さん宅には、前原さんの同級生で鹿さばきの名人・国重さんと電力会社勤務・一郎さんが居た。

 食卓には、肝臓と背ロースの刺身が並んでいる。生で食するのが絶品と勧められ食べるが、口に合わない。生食は止めて、湯通しした肉を焼肉のタレで頂く。

 この肉は美味。癖になりそう。

 8時30分に帰り就寝する。

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214日目:1月29日(日) 雨  (ヤシの実で器作り) 禁酒1日目

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 今日は朝から雨。先日浜辺に流れ着いたヤシの実で器を作る。

 ヤシの実で器を作ろうと思ったのは、西表島の南風見田キャンプ場を訪れた時、同地に長期滞在している女の子が、浜で拾ってきたヤシの実で器を作り、その器で御飯を食べていたのを思い出した為。

 夕方、寝待集落の住民・矢野のバッチャンから、豆腐・パン・白菜の差し入れがある。

 本日から当分の間禁酒をする事にする。

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215日目:1月30日(月) 曇のち晴  (ヤシの実の器完成) 禁酒2日目

【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 午前中、寝待集落の住人・前原さんの牧場に敷く石を集める。午後には、昨日作り始めたヤシの実の器が完成する。

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216日目:1月31日(火) 雨のち晴  (1日断食) 禁酒3日目

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経6返(朝・昼・夕)、写経6巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×6回(朝・昼・夕)
☆1日断食の方法
【摂取物】朝・昼・夕:野菜ジュース各1本、水:無制限
【復食】翌朝お粥、昼食以降は通常食

 昨夜は何時ものように7時に就寝したのに5時30分に目覚める。寝過ぎ。

 朝から雨が降っている。降水確率は午前50%、午後90%で1日中雨模様なので、何もする事が無いので、1日断食をし、お勤めも倍にする。

 でも、昼過ぎから雨も止んで晴れ間も出てきた。午前の降水確率50%で雨が降り、午後の降水確率90%で雨が止み晴になる。

 天気予報は当てにならないのは、屋久島も口永良部島も同じ。

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217日目:2月1日(水) 雨のち曇 強風  (般若心経の表作成・フェリー太陽欠航) 禁酒4日目

【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経2返(朝・夕)、写経2巻(朝・夕)、座禅瞑想20分×2回(朝・夕)

 朝からの雨は10時過ぎに止んだが、強風と高波でフェリー太陽は欠航と防災無線での放送があった。

 寝待集落の住人・矢野のバッチャンから、般若心経を覚えたいので、振り仮名付きの表を作って欲しいと頼まれたので作成しようと準備をするが、口永良部島には用紙が売っていない。

 幸い昨年のカレンダーがあったので、その裏面を利用してマス目を引き、楷書・仮名付きの表を作成して、バッチャンに渡す。

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218日目:2月2日(木) 晴  (般若心経の表作成・買出し) 禁酒5日目

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経2返(朝・夕)、写経2巻(朝・夕)、座禅瞑想20分×2回(朝・夕)

 久しぶりに朝から晴れ。9時に寝待を出発して、本村に買出しに行く。

 Aコープで米とインスタントラーメン、野菜缶ジュースを購入。何時もの買い出しは、ビールと焼酎・三岳を買うが、禁酒続行中なので羽生商店には寄らずに帰る。

 昼からは、昨日作成した般若心経の表と同じものを作成、寝待集落住人・森杉のバッチャンに渡す。

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219日目:2月3日(金) 曇  (節分・道路工事開始) 禁酒6日目

【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経2返(朝・夕)、写経2巻(朝・夕)、座禅瞑想20分×2回(朝・夕)

 朝から防災無線で、波が高くフェリー太陽丸は欠航のとの放送が流れた。

 今日から、温泉の防波堤の嵩上げ工事に関する侵入道路の設置工事が始まった。

 寝待温泉は台風上陸の度に何らかの被害が発生する為、防波堤の嵩上げをする予算が付いたが、寝待集落の道は細くて重機は勿論車も通れないので、駐車場から温泉までの道を海側に作るらしい。

 前回の防波堤工事でも進入路を作ったが、台風等で、途中で途切れているので、その修復作業の様なもの。

 工事は口永良部島で唯一の建築会社が辞退したので、屋久島の会社が請け負い、作業員達は、寝待集落の小屋を借りて自炊するらしい。今日は節分(今日は何の日参照)なのに自宅で豆まきも出来ないとぼやいていた。

 朝のお勤め後、第2水源に行くが、道を作る為のカマが壊れたので途中で引返す。

 第2水源とは、寝待集落の簡易水道の水源の他に、集落の住人・森杉のバッチャン宅には、独自で引きこんだ水道があり、その水源を勝手に第2水源と命名したもの。

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220日目:2月4日(土) 曇  (座禅瞑想専念) 禁酒7日目

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経9返(朝・昼・夕)、写経6巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×9回(朝・昼・夕)

 ここ2~3日お勤めの回数が疎かになっていたので、温泉入浴以外外出はせずに、座禅瞑想に専念する事にする。

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今日は何の日


2月3日:節分(せつぶん)

【節分の由来】
本来、季節を分けることを意味しており、立春(注1)立夏(注2)立秋(注3)立冬(注4)の前日のことであったが、旧暦では立春が1年の初めだった事から、節分と云えば春の節分を指すようになった。
旧暦の節分は新暦の大晦日にあたり、平安時代の宮中では、鬼に扮した人を、矢などで追い払う追儺(ついな 注5)の行事が行われていた。その宮中での節分の行事が、次第に各地の社寺でも行われるようになり、現在の形になった。
中国は春秋時代(紀元前400~700年)、冥府(死後の世界)の神・秦山府君(たいせんふくん 下記参照)が住む山・秦山(注6)が北東にあったことと、陰陽道で北東は鬼が出入りする、万事に忌み嫌う方向であったことから、冥府→北東→鬼門と云われるようになった。
その、鬼門である北東は、十二支では丑と寅の方角(うしとら)で、丑は12月を、寅は1月を指し、12月から1月にかけての季節の節目が鬼門に当たる訳である。
この様な事から、鬼の出入りする鬼門の方角で、邪気を祓うことにより、春が無事に迎えられると考え、節分の行事が行われ、豆が撒かれるようになった。
豆をまくのは、昔から、大豆には霊的な力が宿ると信じられ、神様への供え物として使われていたことから、豆を蒔くことで豆の霊力により邪気を払えると考えたのではないか。
また、京都鞍馬山に鬼が出たとき、毘沙門天のお告げによって大豆を鬼の目に投げつけて退治したという話があり、魔の目(魔目=まめ)に豆を投げつけて魔を滅す(魔滅=まめ)と云う説もある。
ただし、豆まきに用いられる豆は炒り豆でなくてはならない。これは、生の豆を使って拾い忘れたものから芽が出てしまうと縁起が悪いとされているから。「炒る」が「射る」にも通じるようである。
豆まきでは年男(同じ干支に生まれた人)または、一家の主人が「福は内、鬼は外」といいながら煎った大豆をまき、自分の年の数だけ豆を食べると1年病気にならないと云われている。
なお、2020年迄は2月3日が節分だが、2021年以降は4年ごとに2月2日が節分となる。2月2日が節分となる年は2021、2025、2029、2033、2037、2041、2045、2049、2053年。
なお、参考までに、京都御所の表鬼門(東北)には、秦山府君(陰陽道祖神)を祀った天台宗の寺院・赤山禅院がある。

【節分行事】
方違え(かたたがえ)
平安時代には、節分の日(大晦日)に、方違え(かたたがえ)といって、翌年の恵方(※)に移動(宿泊)してから、新しい季節(正月)を迎えると云う風習があったが、室町時代頃には、家の中の恵方にある部屋に、豆を撒いて厄払いをしてから、そこに移るというようになった。これが現在家庭での豆まきの始まりと云われる。
※恵方:正月の神の来臨する方向。その年の歳徳神(としとくじん)のいる方向。
焼嗅(やいかがし)
鰯(いわし)の頭を焼いて、(ひいらぎ)の枝に刺し、家の入り口に掛ける風習がある。これは鰯の頭の悪臭と、柊(ひいらぎ)のトゲで、邪気(鬼)の進入を防ぐという風習。
巻き寿司のまるかぶり
恵方巻(えほうまき)と云って、節分の夜にその年の恵方に向かって目を閉じて一言も喋らず、願い事を思い浮かべながら巻きずしを丸かじりする近畿地方の風習である。
恵方巻の起源は定かではないが、昭和初期の大阪では船場の商人の間で行なわれていたようで、戦後は廃れていたが、1973(昭和48)年から大阪海苔問屋協同組合が海苔を使用する巻き寿司販促キャンペーンをし、翌年には、節分のイベントで巻き寿司の早食い競争をしたり、1977(52)年には道頓堀で行った海苔の販売促進行事をマスコミが取り上げ、全国の食品メーカーがそれに便乗して全国に広まったと云われる。
巻き寿司をまるごと食べるのは、「縁を切らないために包丁を入れない」という事である。



秦山府君(たいせんふくん)
十二天の焔摩天に従う眷属の一人だが、十王信仰に取り入れられ、十王のうちの泰山王となった。
そもそも仏教では、衆生(しゅじょう:生命あるすべて)が生まれ、生き、死に、再び生まれる間の中間の四時期を①生有(しょうう:それぞれの世界に生を受ける瞬間)②本有(ほんう・ほんぬ:生を受けてから死ぬまでの一生の期間)③死有(しう:死ぬ瞬間)④中有(ちゅうう:死んでから次の生を受けるまでの期間)の四有(しう)に分け、4番目の中有(ちゅうう)もしくは中陰(ちゅういん)と呼ばれる期間は、この世とあの世の境目の世界で、その身は霊魂身の状態で、この期間に生まれ変わり輪廻転生を繰返すとされているが、仏教が中国に渡ると道教の前世の功罪を裁く思想と融合して審判制度が導入され、十王信仰が成立した。
十王信仰(じゅうおうしんこう)とは、我々が死ぬと冥土(冥途:死者の霊魂が迷い行くと云う世界)の旅にでて、7日目(秦広王)・14日目(初江王)・21日目宋帝王・28日目(五官王)・35日目(閻魔王)・42日目(変成王)・49日目(泰山王)の順番で7人の王(本来の姿は仏)の審判を受け、各審判で問題が無いと判断された場合は次の審判に回る事は無く、六道・六界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)の来世(らいせ)に行く。最終的には、泰山王・秦山府君が担当の7回目の審判で、全ての亡者の行方が決定されるが、100日目(平等王)・1年目(都市王)・2年目(転輪王)に3人の王による再審制度も用意されていると云う信心である。

【冥土の旅】
冥土の旅の始まりは、死出の山(しでのやま)越えである。7日間かけて非常に険しい山道を星の光だけを頼りに800里(約320km)歩き、①7日目(初七日:しょなぬか)には、秦広王(しんこうおう)=不動明王(ふどうみょうおう)によって書類審査による最初の審判が行なわれる。この裁きを受けた後、三途の川を渡る。
三途の川(さんずのかわ)は、三通りの渡り方がある事に由来し、善人だった者は有橋渡(うきょうと)を、罪が浅い人は山水瀬(さんすいせ)という浅瀬を、罪深き人は江深淵(こうしんえん)という川底深い濁流の中を渡ると云った因果応報という原理が見られる。
三途の川のほとりの賽の河原(さいのかわら)では、幼くして亡くなった子供達が、父母供養の為小石を積んで塔をつくっているが、鬼がやってきて、その塔を壊してしまう。子供達は恐ろしさのあまり、泣きながら逃げまどう。親に先だち死んだ罪は重く、三途の川を渡らしてもらえず、賽の河原で苦を受けているのである。
その姿を見ながら、三途の川を渡った先には、衣領樹(えりょうじゅ)という大樹があり、その下には二人の爺婆が冥途の旅人から衣服を剥ぎ取り衣領樹にかける。この木は衣の持ち主が生前に犯した罪の軽重によってしなる度合いも変わるという特殊な樹木で、そのあとの審判の証拠になる。
②14日目(二七日:ふたなぬか)には、初江王(しょこうおう)=釈迦如来(しゃかにょらい)による2回目の審判が行われる。ここでは生前の無意味な殺生を裁かれる。
③21日目(三七日:みなぬか)には、宋帝王(そうていおう)=文殊菩薩(もんじゅぼさつ)により3回目の審判が行なわれる。ここでは猫と蛇を使い、生前の邪淫(じゃいん:妻または夫以外の者と浮気する事)について裁かれる。事実があれば、男は猫に男根を噛まれ、女は女陰に蛇が入り込むとされる。
④28日目(四七日:よなのか)には、伍官王(ごかんおう)=普賢菩薩(ふげんぼさつ)により
4回目の審判が行なわれる。ここでは生前の言動を裁かれ、亡者を秤(はかり)に乗せて善悪を判断する。
⑤35日目(五七日:いつなのか・ごしちにち)には、裁判長であり地獄を守護する天界の焔摩天、閻魔天でもある閻魔王(えんまおう)=地蔵菩薩(じぞうぼさつ)により5回目の審判が行なわれる。ここでは、浄玻璃(じょうはり)という水晶でできた鏡があり、生前の悪業がすべて映し出され、裁かれる。この時に嘘をつくと舌を抜かれるとされる。なお、閻魔王は、人類最初の死者である事から冥界を支配している王なので、亡者には寛大で、地獄に堕ちるよりしかたがない者にも、遺族が追善供養してくれるかもしれないと地獄行きを猶予してくれる。
⑥42日目(六七日:むなのか)には、変成王 (へんじょうおう)=弥勒菩薩(みろくぼさつ)より6回目の審判が行なわれる。ここでは、秤を使って裁きを行なった五官王と、鏡を使って裁いた閻魔王の判断が適切であるか審査される。
⑦49日目(七七日:なななのか・なのなのか)泰山王(たいせんおう:秦山府君)=薬師如来(やくしにょらい)により、7回目の審判が行なわれ最終的な判決が下される。  
泰山王(秦山府君)は亡者に六つの鳥居を指し示す。そのそれぞれの鳥居の先には、六道(六界)の世界か広がっているが、どの鳥居がどの世界に通じているかは不明である。それを承知の上で、亡者自身に来世(らいせ)に繋がる鳥居を選択させることになる。こうして、全ての亡者は、自己の選択の形で、来世に生まれ変わって行く。
⑧100日目(百か日:ひゃっかにち)は、平等王(びょうどうおう)=観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)による審判。
⑨1年目(一周忌(いっしゅうき)は、都市王(としおう)=勢至菩薩(せいしぼさつ)による審判。
⑩2年目(三回忌(さんかいき)は、転輪王(てんりんおう)=阿弥陀如来(あみだにょらい)による審判。
百か日からの審判は、地獄・餓鬼・畜生界に落ちた亡者の再審制度で、亡者自身が後悔や反省をしても手遅れで、後は残された親族、縁者による追善供養(ついぜんくよう:死者の年忌に仏事を行う)・回向(えこう:仏事を営んで死者の冥福を祈ること)がどのように営まれているかということで判断される。以上で、十王(十仏)の全ての審判が終了する。
なお、仏教が中国を経由して日本に入ると、鎌倉時代には、十三仏信仰が始まった。十三仏信仰は、
前述の十王・十仏に、⑪7年目の七回忌に蓮華王(れんげおう・けかおう)=阿?如来(あしゅくにょらい)。⑫13年目の十三回忌に祇園王(ぎおんおう)=大日如来(だいにちにょらい)。⑬33年目の三十三回忌に法界王(ほうかいおう)=虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)を加え、十三王・十三仏を配当するものである。
余談であるが、冥途の旅の亡者の姿は、人間の目には見えないが、香を食物としているので、仏壇には線香を絶やしてはならないと云われている。
※閻魔十王像の写真は尼崎市寺町の大覚寺(だいかくじ:律宗)
※35日目・閻魔王、49日目・泰山王(秦山府君)の審判風景の写真は奈良国立博物館

注1:立春(りっしゅん)
二十四節気(※)の一つ。2月4日頃、この日から雨水までの期間。太陽が天球上(※天球座標図参照)の黄経315度の点を通過する日。
この日以降初めて吹く南寄りの強風を「春一番」と呼ぶ。また、立春から数えて88日目を八十八夜、210日目を二百十日、220日目を二百二十日と定められている。
立春の早朝、禅寺では門に「立春大吉」と書いた紙を貼る習慣がある。
旧暦では、立春と元日がほぼ同じ頃に来る。年によっては年が明ける前に立春が来ることもあり、これを「年内立春」と云う。

注2:立夏(りっか)
二十四節気の一つ。5月5日頃、この日から小満までの期間。天球上の黄経45度の点を太陽が通過する日。

注3:立秋(りっしゅう)
二十四節気の一つ。8月7日頃、この日から処暑までの期間。太陽が黄経135度の点を通過する日。
この日から暦の上では秋になるが、一年で最も暑い時期である。この日から暑中見舞いではなく「残暑見舞い」を出すことになる。

注4:立冬(りっとう)
二十四節気の一つ。毎年11月7日頃、この日から小雪までの期間。天球上の黄経225度の点を太陽が通過する日。

※二十四節気(※天球座標図参照)  
太陰太陽暦では、その年によるが季節と日付の間に1ヶ月程度のずれが生じるため、中国では、太陽が通る道の黄道全周を、春分点を基準(0度)に15度ずつに分け、その24の分岐点(春分点0度、夏至点90度、秋分点180度、冬至点270度)を太陽が通る日に名前をつけ、季節の目安としたのが二十四節気である。わが国にもこれが伝わり、旧暦から現在の暦に変わった今も季節感のある二十四節気が使用されている。

天球座標図

天球座標図
315度:立春(りっしゅん2月4日)
330度:雨水(うすい2月19日)
345度:啓蟄(けいちつ3月6日)
0度:春分(しゅんぶん3月21日)
15度:清明(せいめい4月5日)
30度:穀雨(こくう4月20日)
45度:立夏(りっか5月6日)
60度:小満(しょうまん5月21日)
75度:芒種(ぼしゅ6月6日)
90度:夏至(げし6月21日)
105度:小暑(しょうしょ7月7日)
120度:大暑(たいしょ7月23日)
135度:立秋(りっしゅう8月7日)
150度:処暑(しょしょ8月23日)
165度:白露(はくろ9月8日)
180度:秋分(じゅうぶん9月23日)
195度:寒露(かんろ10月8日)
210度:霜降(そうこう10月23日)
225度:立冬(りっとう11月7日)
240度:小雪(しょうせつ11月22日)
255度:大雪(だいせつ12月7日)
270度:冬至(とうじ12月22日)
285度:小寒(しょうかん1月5日)
300度:大寒(だいかん1月20日)
※日付は年によって違いがあるがその値は±1日以内である

注5:追儺(ついな)
旧暦の大晦日(12月30日)の宮中の年中行事であり、平安時代の初期頃から行われている鬼払いの儀式で、現在の節分の豆蒔きの元となった行事で、方相氏(ほうそうし)と呼ばれる鬼を払う役目を負った大舎人(おおとねり:天皇の側近で護衛や雑役をする役人)が、右手に神剣を持ち、4つの目を持つ鬼神の面をつけて、大内裏(だいだいり)を回ると、公卿(くぎょう:公家の中の最高幹部)は清涼殿(せいりょうでん:天皇の住居)の階(きざはし:階段)から弓矢をもって方相氏に対して弓をひき、殿上人(てんじょうびと:冠位の高い人)らは、振り鼓(でんでん太鼓)をふって厄を払った。

大内裏(だいだいり)
平安京の北辺中央に位置(現在の京都御所から約1km西側)する東西約1.2km、南北約1.4kmの、行政施設・国家儀式や年中行事を行う殿舎や天皇の居住する内裏(だいり)が設置されている区域で、官僚やその家族の邸宅も大内裏の内部にあり、それらの殿舎は、内裏の清涼殿(せいりょうでん:天皇の住居)と廊下で繋がっていた。
これらの施設は、平安末期1227(安貞元)年の火災で焼失し、その跡地は内裏があった野と云う意味で内野と呼ばれ、荒れ果てた地になっていたが、1582(天正10)年豊臣秀吉が天下の実権を握り、1586(天正14)年には、内野に聚楽第(じゅらくてい)の建設に着手した。
周辺には武家屋敷、公家屋敷、町家などが整然と区画され、改造された京都の街は、聚楽第と御所を中心とした城下町的形態となり、平安京の左右対称的な構造は失われたものの、これが近世以降の城下町の原形となり、以後、この形式が全国各地に受け継がれていった。
その後、1595(天正19年)12月、秀吉は甥の羽柴秀次に関白職を譲り、翌年、秀次は聚楽第に移り住むが、秀吉に実子の秀頼が誕生を機に、両者の仲は悪化。
秀吉は1595(文禄4年)7月、秀次の関白並びに左大臣職を剥奪、高野山に追放し、自刃の沙汰を下し、秀次の子女・妻妾などを処断すると同時に、聚楽第の破却を命じ、聚楽第は完全に取り壊され、その地は草生い茂る空き地となってしまった。
その3年後の1598(慶長3)年、秀吉は伏見城で62年の生涯を閉じる。

注6:泰山(たいざん)
中華人民共和国山東省泰安市にある山で高さは1,545m(最高峰は玉皇頂と呼ばれる)。封禅(ほうぜん:帝王が天と地に王の即位を知らせ、天下が太平であることを感謝する儀式)の儀式が行われる山として名高く道教の聖地である五つの山(=五岳)の一つでもっとも尊いとされ、ユネスコの世界遺産(複合遺産)に登録されている。

出典:フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)

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写真

写真は和坊流宇宙(http://www.justmystage.com/home/kazubo/)の和坊放浪記:口永良部島編:part15でご覧ください。


続く・口永良部島編:part16

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2009年3月30日 (月)

口永良部島編:part14


和坊放浪記・口永良部島編:part14


平成18年・備忘録


 項目

■寝待・湯治小屋
 201日目:1月16日(月) 曇のち雨  (湯治客来訪)
 202日目:1月17日(火) 晴      (阪神淡路大震災記念日)
 203日目:1月18日(水) 雨      (仔牛誕生)
 204日目:1月19日(木) 雨      (地球観測衛星・だいち、打上げ延期)
 205日目:1月20日(金) 雨      (座禅瞑想専念)
 206日目:1月21日(土) 雨      (運動不足解消法)
 207日目:1月22日(日) 雨のち晴  (寝待湯治小屋貸切状態)
 208日目:1月23日(月) 晴   (地球観測衛星・だいち打上げ再延期、温泉清掃)
 209日目:1月24日(火) 晴      (地球観測衛星・だいち打上げ)
 210日目:1月25日(水) 晴      (1日断食)
※本文中赤字は写真あり
一口メモ
 地球観測衛星・だいち
今日は何の日
 阪神淡路大震災記念日
写真
 地球観測衛星・だいち・H2Aロケット(H2A2022型)、阪神淡路大震災(高速道路倒壊・ルミナリエ)

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■寝待・湯治小屋


201日目:1月16日(月) 曇のち雨  (湯治客来訪)

【トレーニング】ストレッチ
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 昨夜、寝待湯治小屋2号室に、女性2人、男性3人がやってきて、朝から全員ウェットスーツを着用して潜っていた。

 彼らは、屋久島の住人で、2~3日滞在するらしい。

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202日目:1月17日(火) 晴  (阪神淡路大震災記念日)

【トレーニング】ストレッチ
【お勤め】般若心経6返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 今日は、阪神淡路大震災(今日は何の日参照)から11年目の記念日。地震発生時刻の午前5時46分に黙祷してから、般若心経を唱える。

 午前中は、本村集落に行き、Aコープで米と食料品、羽生商店で、ビールと焼酎・三岳を買って帰る。

 夕方、バックパッカーの青年が来たので、寝待湯治小屋3号室に案内、湯治小屋は満室になり、賑やかになってきた。

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203日目:1月18日(水) 雨  (仔牛誕生)

【トレーニング】ストレッチ
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 以前、海岸に打ち上げられたロープで、鹿罠を作って鹿の通り道に仕掛けたが獲物の収穫はゼロ。この結果を聞いた寝待集落の住人の森杉のバッチャンのご主人が、本格的なワイヤーロープの鹿罠を持って来てくれた。

 寝待集落の住人で、親牛3頭を所有し肉牛飼育(注)をしている前原さんの所で仔牛が誕生。

 前原さんは、湯向集落の出身者のUターン組で、初めての仔牛誕生が余程嬉しかったのか、雨の中知らせに来てくれた。

注:肉牛飼育
口永良部島では、戦前より、サツマイモとサトウキビが換金用として栽培されていたが、1960(昭和35)年代にそれらの加工工場が閉鎖され、その後、ガジュツ(※)が換金用として栽培されたが、その加工工場の恵命我神散(けいめいがしんさん)乾燥工場も1985(昭和60)年に閉鎖され、島の畑作産業は衰退した。
そうした状況の中で、戦前から使役用として利用されていた牛を、肉用仔牛の生産に特化し、現在ではサービス産業以外で島唯一の換金用産業になっている。
2005年時点で、年間の生産額(2005年)は約3千万円、仔牛生産農家は13戸、従事者数は21人で、牛の総数は393頭であるが、各農家の所有頭数は3頭から190頭まで開きがある。
飼育は自然資源の竹藪を利用した周年放牧(1年を通して牛を屋外で飼育する方法)と自然交配によって生産され、その放牧地の面積は約1,500haで島の面積の約40%を占めている。
この様な環境下で飼育された仔牛は、年1~2回開かれる仔牛競り市(本村集落に在る)に出荷し換金するが、博労(ばくろう:牛馬を売買する仲介人)の競り値段は年によってばらつきがあり(5~30万円)、安定した換金産業とは言い難い面がある。
口永良部島で大規模に仔牛生産を行っている新村牧場の経営者(50歳)は、1996(平成8)年にUターンして仔牛生産を始め、牛の血統管理を行い、契約している肥育業者へ仔牛を直接出荷しており、島の慣習的畜産形態に新たな展開をもたらしている。
ガジュツ(紫ウコン)
インドのヒマラヤ地方が原産地のショウガ科の多年草植物で、春ウコン、秋ウコンと同じ仲間。紫色の綺麗な花を咲かせ、根茎の切り口も紫色をしている事から「紫ウコン」とも云われている。
江戸時代から薬用として珍重され、種子島・屋久島の重要な産物(御禁製品)としての扱いを受けていたが、明治以降は、屋久島の民間薬として細々と使用されていた。
そのガジュツを、昭和8年、屋久島の「老舗恵命堂」の初代社長が、胃腸薬・恵命我神散の主薬として世に送り出したことから再び屋久島の重要産物となった。
見た目は、ガジュツとウコンは同じだが、輪切りにすると、その切り口は、ウコンは黄色、ガジュツは紫色をしている。
薬効としては、ガジュツはウコンよりも少し強いが、苦味が強いため、健康食品としてウコンほど人気が無いが、ガジュツとウコンを併用することにより、薬効がさらに高まることが確かめられている。

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204日目:1月19日(木) 雨  (地球観測衛星・だいち、打上げ延期)

【トレーニング】ストレッチ
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 昨夜は、何時もと同じ7時に就寝したが、目が覚めたのは6時。熟睡した。

 朝のお勤めを終え、温泉に行くと、寝待湯治小屋5号室の楠木さんが入浴していた。

 楠木さんは、昨夜、寝待集落住民の前原さんの仔牛誕生を祝って酒を飲みすぎ、二日酔い気味だった。

 今日は、JAXA(宇宙航空研究開発機構)が開発をしていた地球観測衛星・「だいち」が、種子島宇宙センターからH2Aロケット8号機で打上げ予定だったが、テレメータ送信機に不具合が発見された為延期になった。

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205日目:1月20日(金) 雨  (座禅瞑想専念)

【トレーニング】ストレッチ
【お勤め】般若心経9返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×9回(朝・昼・夕)

 3日連続の雨。温泉入浴以外外出はせず、座禅瞑想に専念する。

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206日目:1月21日(土) 雨  (運動不足解消法)

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 雨が続いており、運動不足解消の為、テーブルを利用しての昇降を30分3セット実行し、久しぶりに汗をかく。

 17日に寝待湯治小屋に来た、バックパッカーは屋久島に行く為、雨の中徒歩で本村港に向かった。

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207日目:1月22日(日) 雨のち晴  (寝待湯治小屋貸切状態)

【トレーニング】ストレッチ
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 寝待湯治小屋5号室の楠木さんは、沖縄県伊江島の葉タバコ農家で季節労働者として働く為の日程調整で、口永良部島に来て2カ月余りが経過したが、今日沖縄に向け出発した。

 湯治小屋から湯治客が居なくなり貸切状態になった。

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208日目:1月23日(月) 晴  (地球観測衛星・だいち打上げ再延期、温泉清掃)

【トレーニング】ストレッチ
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 地球観測衛星「だいち」は、19日打上げ予定が、本日10時33分に変更されていたが、衛星の姿勢制御装置に使用されている米国製トランジスタに異物が混入している恐れがあることが分かり明日に再延期された。

 寝待集落住民で、温泉清掃担当の前原さんが目を負傷したので、清掃をしてくれるよう依頼があったので、11時から温泉の清掃をする。

 温泉の清掃は2回目。前回は前原さんの奥さんが腰痛の為寝込んでしまったので前原さんと一緒に清掃をしたので、要領は分かっているので一人で行った。

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209日目:1月24日(火) 晴  (地球観測衛星・だいち打上げ)

【トレーニング】ストレッチ
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 朝のお勤めを終え、寝待集落住民の矢野のバッチャンからの差し入れのお好み焼きとサツマイモで早めの昼食を摂る。

 今日は、地球観測衛星「だいち(一口メモ参照)」が種子島宇宙センターからH2Aロケット8号機で打上げられる日。口永良部島から種子島宇宙センターは直視できないが、方向は屋久島を挟んだ側に在るので、屋久島を見渡せる丘に行く。

 打上げ予定時間の10時33分に、屋久島の一湊右側から、赤い火を吹いて舞いあがるロケットを確認。生まれて初めてのロケットを見る事が出来感激する。

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210日目:1月25日(水) 晴  (1日断食)

【トレーニング】ストレッチ
【お勤め】般若心経6返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×6回(朝・昼・夕)
☆1日断食
【摂取物】朝・昼・夕(野菜ジュース:各1本)、水:無制限
【復食】翌朝お粥、昼食以降は通常食

 寝待集落の2人のバッチャン達は、旧正月の餅つきの為本村に帰った。寝待は自分一人になったので1日断食をし、般若心経と座禅瞑想を何時もの倍にする。

 朝のお勤め後、浜沿いを散歩して、魚釣り用の浮き2個とヤシの実を見つけ持ち帰る。

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一口メモ

地球観測衛星「だいち」、衛星計画名「ALOS」

地球資源衛星1号「ふよう」と地球観測プラットフォーム技術衛星「みどり」の開発と運用によって蓄積された技術をさらに高性能化したもので、①標高など地表の地形データを読みとるセンサ②土地の表面の状態や利用状況を知るためのセンサ③昼夜・天候によらず陸地の観測が可能なセンサを搭載し、詳しく陸地の状態を観測する機能を持っている。
「だいち」のセンサは地形情報を正確に取得することが可能で、地表の基準点などの情報に頼らずに2万5000分の1の地図作成ができる地形データ収集を行えるので、開発目的の1つである「日本国内やアジア太平洋地域など諸外国の地図の作成・更新」には大きな威力を発揮することが期待されている。
※センサとは,様々な種類の物理的特性を分析や記録しやすい電気の信号に変える変換装置。
【主要諸元】
本体:約6.2m×3.5m×4.0m
太陽電池パドル:約3.1m×22.2m
PALSARアンテナ:約8.9m×3.1m
質量 約4,000kg
軌道高度 約690km
軌道周期 約99分
※宇宙航空研究開発機構(JAXA)ホームページより抜粋
【H2Aロケット】
宇宙航空研究開発機構(JAXA:開発当時は宇宙開発事業団が開発し、三菱重工が製造および打ち上げを行う、人工衛星打ち上げ用ロケットで、JAXA内での表記は「H-IIAロケット」で、発音は「エイチツーエーロケット」であるが、新聞やテレビなどの報道では、「H2Aロケット」と表記され、「エイチにエーロケット」と発音される場合が多い。
開発費は約1,200億円であり、元になったH2ロケットの開発費の2,700億円とあわせると約3,900億円である。打ち上げ費用は、構成によって異なるが、約85億円~120億円。打ち上げ能力は3.8~5.8t。2001年夏に試験機1号機が打ち上げられて以来、15回中14回の打ち上げに成功しており、成功率は約93.3%である。
【特徴】
機体は、液体水素と液体酸素を推進剤とする1段目・2段目を組み合わせた、2段式ロケットとなっている。打ち上げ時に十分な推力を得るために左右2基の固体ロケットブースターを有し、搭載する衛星・探査機等の質量に応じてさらに固体ロケットブースターや固体補助ロケットを追加して柔軟に対応する事ができる。複数の衛星を同時に打ち上げて、個別の軌道に投入する事もできる。
重量の異なる衛星に合わせて、4形態(H2A204・H2A2044・H2A2022・H2A202)の標準型ロケットから選択できる。
今回のロケットはH2A2022型で、打上げ費用は110億円、主要諸元は下表参照。
主要諸元一覧
段数 第1段 固体ロケットブースタ 固体補助ロケット 第2段 衛星フェアリング(4S型)
全長 37.2m 15.2m 14.9m 9.2m 12.0m
外径 4.0m 2.5m 1.0m 4.0m 4.07m
質量 114t 77t 15.5t 20.0t 1.4t
※出典: フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)

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今日は何の日


1月17日:阪神淡路大震災記念日

1995(平成7)年1月17日午前5時46分、淡路島北端を震源とする兵庫県南部地震が発生した。マグニチュード7.3で震源の深さは約16キロ。神戸市・芦屋市・西宮市と淡路島の北淡町で震度7の非常に激しい揺れを観測、鉄道・高速道路・港湾等の交通機関や電気・水道・ガスのライフラインが壊滅状態となった。
この地震による被害は、死者:6,433名、行方不明者:3名、負傷者:43,792名、避難人数:316,678人(ピーク時:1/23)、住家被害:全壊104,906棟、半壊144,274棟、全半壊合計約25万棟(約46万世帯)、一部損壊390,506棟、火災被害:住家全焼6,148棟、全焼損(非住家・住家共)合計7,483棟、罹災世帯9,017世帯、その他被害 : 道路10,069箇所、橋梁320箇所、河川430箇所、崖崩れ378箇所、被害総額 : 10兆円規模と戦後日本で最大最悪・未曾有の震災となった。
関西では、震災前まで地震を意識する住民は少なく、官公庁の地震対策も震度5を想定しており、今回の地震は、予測されていなかった大震災であったのは事実ながら、一方では、人災被害の見方もある。
と云うのは、陸上自衛隊中部方面隊第3師団(兵庫県伊丹市)隷下(れいか:従属する)の第36普通科連隊は、地震発生数分後には行動を開始、近傍派遣(きんぼうはけん※1)によって、阪急伊丹駅や西宮市民病院へ出動したが、他の部隊は兵庫県知事による災害派遣要請の待機状態になっていた。
しかし、兵庫県知事からの派遣要請は無く、結果、地震発生から4時間後の午前10時過ぎ、陸上自衛隊第3特科連隊(姫路駐屯地)からの「この連絡を以って派遣要請が有ったと認識して良いか」との電話を受けた、兵庫県消防交通安全課課長補佐・野口一行が「宜しくお願いします」と回答。これが兵庫県から陸上自衛隊への正式な災害派遣出動要請となり、貝原兵庫県知事は最後まで自衛隊による災害派遣要請の決断を行わず、野口課長補佐の回答を追認する形となった。(新聞記事より※2
これ以外にも、米海軍第7艦隊の艦艇を神戸港に入港させてのヘリコプターによる負傷者の救援も、受入体制の未整備、政治的理由、接岸施設の被災による危険性などの要因により、拒否する事態も発生した。
また、自衛隊の最高指揮官である内閣総理大臣・村山富市(社会党)も、未曾有(みぞう)の大災害にも関わらず、財界首脳との食事会など、予定通りの公務をこなし、自衛隊出動命令が遅れた。
これらは、時の内閣総理大臣・村山富市や兵庫県知事・貝原俊民(かいはら・としたみ)の危機管理体制の欠如や自衛隊を感情的に毛嫌いする事による、災害派遣要請の遅れが被害者を増やしたと云われる。
それに反し、民間企業の活動は、震災時、神戸市に本社を構えていたスーパー・ダイエーや当時ダイエー傘下だったローソンは、東京都内の自宅で知った当時の中内功社長の指揮により、建物が半壊状態であっても営業可能な状態の店を即座に開店し、在庫商品を破格(菓子パンやおにぎり一個10円等)で提供。また、地震当時神戸市内に店舗がなかったセブンイレブンジャパンも地震発生3時間以内に救援物資や食料等をヘリ空輸するなど、非常に早い対応を行っている。
参考までに、震災直後の時間経過は次の通り。
1995年1月17日(火)午前5時46分地震発生
5時56分 伊丹市長・松下勉が伊丹市役所に登庁
6時 北淡町長・小久保正雄が町役場に登庁
6時35分 神戸市長・笹山幸俊が神戸市役所へ登庁
6時50分 兵庫県副知事・芦尾長司が県庁へ登庁
7時 芦屋市長・北村春江が市役所へ登庁
県内の各市町長が各市町役場へ続々と登庁
8時10分 陸自第3師団所属第3特科連隊から兵庫県消防交通安全課課長補佐・野口一行の元へ災害派遣出動の確認の電話が入るが、貝原知事未登庁の為、災害派遣要請無。
8時20分 貝原知事、県庁へ登庁
9時 小久保・北淡町長が県民局を通じて自衛隊の出動を要請。同時刻、松下・伊丹市長が陸自中部方面総監部に救援を要請
9時5分 国土庁防災局が兵庫県総務部に自衛隊派遣の要請を行うよう通達
9時30分 神戸市が県に自衛隊出動を要請
兵庫県から自衛隊への災害派遣要請を待たずに直接自衛隊へ派遣要請を行う市町村が続出
10時 野口課長補佐が陸自第3特科連隊からの「この連絡を以って派遣要請が有ったと認識して良いか」と云う電話を受け「宜しくお願いします」と回答。これが兵庫県から陸上自衛隊への正式な災害派遣出動要請となる
【余談】
当時、貝原兵庫県知事は、県庁から東3km程の神戸市中央区中島通3丁目の知事公舎に居住していたにも関わらず、他の首長より大幅に登庁が遅れた理由は、有馬温泉に愛人と宿泊していた為との噂があったが、最近、軍事評論家・佐藤守(元航空自衛隊三沢・松島基地司令、南西航空混成団司令)の2007年6月30日ブログ日記の、ある軍人の述懐「阪神・淡路大震災当時の兵庫県知事に対する旭日大綬章に対して異議あり」の中で、県知事は有馬温泉に宿泊中だったとの記載がそれを裏付けている。
有馬温泉に愛人と宿泊していた事実はともかく、この記事の表題にある如く、貝原元兵庫県知事は、2007年4月29日、「阪神・淡路大震災からの復旧・復興に尽力した」と評価され、叙勲で最高の、旭日大綬章(きょくじつだいじゅしょう)を受章しているのは、噴飯ものである。
この受章前の2007年4月8日、石原慎太郎・東京都知事から「神戸の震災は首長の判断が遅く2千人余計に死亡した」(朝日新聞・2007年4月9日付け)と皮肉られている。
【独り言】
震災当時兵庫県西宮市に居住し、未曾有の大災害を眼のあたりにした経験者として、日頃から自衛隊の連携を密にし、災害出動が迅速に行われていれば、石原慎太郎・東京都知事の云う2000人はともかく、大勢の人達が圧死を逃れることが出来たのではないかと確信、貝原兵庫県知事(当時)はその責任を取って辞任すべきと思っていた。
しかし、知事は辞任することなく、1998年10月の兵庫県知事選に立候補を表明した。多選(4選目)批判の風潮もさることながら、災害出動の遅れを批判されることもなく、各党相乗りの貝原氏に共産系候補が挑むといった過去の構図(今回で4回連続)そのままの体たらく。
この貝原元兵庫県知事の厚顔無恥振りは高級官僚出身の政治家特有の性癖と納得できるが、政党の不甲斐なさと、貝原氏が圧勝した選挙結果に、疑問を呈したことを思いだした。
【追悼行事】
震災の年の12月15日から25日まで、震災復興が進む神戸で街の再生を象徴的に表そうと光のイベント・神戸ルミナリエの開催が決まった。
ルミナリエは、十六世紀イタリアで始まった光を用いた祭礼・装飾芸術のひとつで希望・喜びなどの意味があるとされ、旧居留地周辺の街路に、全長約八百メートルにわたって赤、青、黄など八色の電球十五万個が華やかに光をともすもので、期間中の会場一帯は、人の洪水となり、予想の3倍以上250万人を超える人々が詰め掛け、来場者が買い物などで落とした一人当たりの平均支出額は約一万円にもなり、「来年もやってほしい」とする意見も九割以上を占めた。
以来、毎年12月に、鎮魂と追悼・街の復興を祈願して神戸ルミナリエが開催されているが、現在では、クリスマス時期のイベントとして定着しており、全国各地からルミナリエを観覧目的とした観光バスが出るなど、約2週間の期間中に毎年約400万人が訪れる。

※1:近傍派遣(自衛隊法第83条3項)
部隊や自衛隊の施設の近傍で災害が発生している場合、部隊長等が部隊を派遣することを「近傍派遣」と云う。この活動は近所づきあいの範囲とされ都道府県知事等の要請は必要としない。
※2:新聞記事
2004年9月5日、神戸新聞Web News「史上最大の派遣・震災10年。第3部」の「事後了承、あやふやな要請時刻」より

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写真


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続く・口永良部島編:part15


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2009年3月21日 (土)

口永良部島編:part13


和坊放浪記・口永良部島編part13


平成18年・備忘録


 項目

■寝待・湯治小屋
 113日目~200日目  (座禅瞑想専念)
※本文中赤字は写真あり
■今日は何の日
 1月10日:十日戎(七福神)
 1月11日:鏡開き
 1月15日:小正月
■一口メモ
 ヒンドゥー教
 四天王
 道教(道・タオ、神仙思想、煉丹術、陰陽道、大極図)
仏教の世界観(PDFファイル)
 三千大千世界・九山八海の構造(仏教の宇宙像、三界表、天の概要、須弥山、図:人間界・冥界・地獄界)
写真:福笹、猩猩、万福寺・布袋像、丸髷、七福神、四天王、十二天

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■寝待・湯治小屋


113日目~122日目  (座禅瞑想専念・1日断食)

 後境(寝待の西の釣場)進入路の整備の後遺症か、右腕が上がらない。

 コーヒーカップも持ち上げることが出来ない程なので、八段錦とチューブトレーニングは中止し、当分座禅瞑想に専念することにした。

113日目:1月8日 (日) 曇   

【トレーニング】ストレッチ
【お勤め】般若心経6返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×6回(朝・昼・夕)

 今日は何の予定も無かったが、火力発電所に勤務する一郎さんの母親から、自宅に飾るセンリョウ(千両)が欲しいとの要望があったので、散歩がてらに採集に出掛ける。

114日目:1月9日(月) 曇一時雨  

【トレーニング】ストレッチ
【お勤め】般若心経6返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×6回(朝・昼・夕)

 お勤めの合間の散歩の時間に、先日ウナギの罠を仕掛けた後境(寝待の西の釣場)に出掛けるが、獲物は入っていなかった。

115日目:1月10日(火) 晴

【トレーニング】ストレッチ
【お勤め】般若心経6返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×6回(朝・昼・夕)

 今日は十日戎(とおかえびす ※今日は何の日参照)の日。朝のお勤めを終えてから、久しぶりに自転車で本村集落に出掛け、Aコープで食料品、羽生商店でビールと焼酎・三岳を買って帰る。

 夕方、与那国島・宮古島・沖縄本島で一緒だったゲロミキこと高木美樹ちゃんから年賀はがきが届いた。

116日目:1月11日(水) 晴

【トレーニング】ストレッチ
【お勤め】般若心経6返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×6回(朝・昼・夕)

 今日は、寝待集落の住人・森杉のバッチャンのご主人が、本村から来て、平板(湯向の西の釣場)に、寝待・湯治小屋5号室の楠木さんは、後境(寝待の西の釣場)にそれぞれ釣りに出掛けた。

 夕方、5号室の楠木さんから刺身の差し入れがあった。

117日目:1月12日(木) 晴  

【トレーニング】ストレッチ
【お勤め】般若心経6返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×6回(朝・昼・夕)

 何時も起床は3~4時頃なのに、今朝は6時まで11時間も熟睡した。

 朝のお勤め後、野池登山道入口迄散歩に行き、センリョウ(千両)を採取して帰る。

118日目:1月13日(金) 雨

【トレーニング】ストレッチ
【お勤め】般若心経9返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×9回(朝・昼・夕)

 今日は全国的に雨模様。温泉入浴以外外出する事もなく、何時もより多めにお勤めをする。

119日目:1月14日(土) 雨のち晴

【トレーニング】ストレッチ
【お勤め】般若心経6返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×6回(朝・昼・夕)

 昨日から降り続いていた雨は午前中に上がり、晴れ間が出てきた。

 夕方、ガソリンスタンド・プロパンガス販売・テレビアンテナ整備と一人何役もしている畠さんが、寝待・湯治小屋の洗濯機置場の水道配管工事に来たので、ガス代金¥3,000を支払う。

200日目:1月15日(日) 曇  (1日断食)

【トレーニング】ストレッチ
【お勤め】般若心経6返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×6回(朝・昼・夕)
☆1日断食の方法
【摂取物】朝・昼・夕(野菜ジュース:各1本)、水:無制限
【復食】翌朝お粥、昼食以降は通常食

 今日は、1日断食を実行する。
朝、暗い内に、岩場に行ってアマメ(船虫)を捕獲し、釣りに行く準備をしたが、雲行きが怪しくなってきたので、釣りは中止して、電話ボックスの照明取り付け工事をする。

 寝待は、携帯電話が通じないので、住民達は公衆電話を使用しているが、夜間照明が無く不自由していたので、寝待・湯治小屋5号室の古い照明器具を電話ボックスに付けた。

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■今日は何の日


1月10日:十日えびす(十日戎・十日恵比寿)

主として「関西」地方で盛んなお祭りで「えべっさん」と呼ばれて親しまれている。この祭りは、日本の「福の神」の代表格である「えびす様」を祀るもので、毎年1月9日(宵えびす)10日(本えびす)~11日(残り福)の3日間の日程で、各地の「戎神社」で行われる。
恵比寿は、七福神(下記参照)の中の一人で、釣り竿と鯛を持ち、漁業・商売繁盛の福の神として親しまれている。
その総本社は、甲子園球場がある兵庫県西宮市の「西宮戎神社」。
この祭礼では、孟宗竹の枝の笹(竹は、青々としてまっすぐ伸びる様子から、榊(さかき)とともに清浄な植物の1つとされ、色々な神事に竹や笹が用いられている)に吉兆(きっきょう=子宝)と呼ばれる、小判・金箱・小槌・米俵・鯛等の縁起物を飾った福笹を「商売繁盛、笹もってこい」の掛け声で売り、3日間だけで、100万人もの参拝客で賑わう。
参拝客は、この福笹を持ち帰り1年間飾って、翌年、その古い福笹を神社に納め、新しい福笹を戴くといった事を繰り返し、常に福の神を招き入れる象徴としている。


七福神(しちふくじん)
福をもたらすとして信仰されている次の七柱の神で、各地に、七福神巡りと云うお参りがある。また、正月に「七福神の乗った宝船の絵」を枕の下に入れて寝ると、良い初夢が見られると云われる。

1、恵比寿(えびす)
古くは漁業の神であり時代と共に福の神として商売繁盛や五穀豊穣をもたらす、商業や農業の神となった。
七福神の中で唯一、日本古来の福の神(その他はインド、中国の神)で、その由来は複雑であるが、「えびす」を称する神は、①イザナギ、イザナミの子である蛭子命(ひるこのみこと)か、②大国主命(大黒さん)の子である事代主神(ことしろぬしかみ)が多い。
①の説は、蛭子命は3歳になっても足が立たなかった為、葦(あし)で作った天磐樟船(あめのいわくすぶね)に乗せて流されたと云う伝承を受け、流された蛭子命はどこかの地に漂着したという信仰が生まれ、その代表が兵庫県西宮市の浜で、そこには蛭子命系のえびす神社の総本社である西宮神社がある。
②の説は、天津神からの国譲りの要請を受諾するかどうかを事代主に聞きに行ったとき、事代主は釣りをしていたとされる伝承から、その海で釣りをする姿とえびすの海の神であることが結びついた。七福神の絵図でえびすが釣竿で鯛を釣っているのは、この事代主神の伝承に基づくものである。

2、大黒天(だいこくてん)
ヒンドゥー教(一口メモ参照)のシヴァ神の化身であるマハーカーラ(摩訶迦羅)のことで、マハーとは大(もしくは偉大なる)、カーラとは黒(暗黒)を意味するので大黒天と呼ばれる。
密教の伝来とともに、日本にも伝わり、大黒の「だいこく」が大国に通じるため、大国主命(おおくにぬしのみこと)の民族的信仰と習合されて、食物・財福を司る神となった。一般には米俵に乗り福袋と打出の小槌を持っており、袋の中身は、以下の七宝が入っていると云われている。
七宝(しちほう、しっぽう)とは、仏典に示される7つの宝物を指し、
般若経では、金・銀・瑠璃(るり)・瑪瑙(めのう)・シャコ・琥珀(こはく)・珊瑚(さんご)。
無量寿経では、金・銀・瑠璃(るり)・玻璃(はり)・シャコ・瑪瑙(めのう)・珊瑚(さんご)。
法華経では、金・銀・瑠璃(るり)・シャコ・瑪瑙(めのう)・真珠・ マイ瑰(まいかい)の7種で、金・銀・真珠以外の用語説明は次の通り。
瑠璃(るり):ガラスの古名で、英名のラピス・ラズリは青い石。青色に金を散りばめたような独特の模様を持つ石。
玻璃(はり):水晶。
シャコ:シャコ貝の略。その殻は厚く、純白で光沢がある装飾品。
琥珀(こはく):樹脂が化石になった、透明な黄褐色の宝石。鉱物ではないが、硬度は鉱物に匹敵する。
珊瑚(さんご):さんご虫の群体の骨格で、加工し宝石として利用されている。
瑪瑙(めのう):石英等の混合物で、縞状(白・赤・緑・紫等)に模様がある鉱石で、飾り石として用いられる。
マイ瑰(?瑰:まいかい):中国で産する美石で、紫色をしており、昔、「赤紫石」と呼ばれていた宝石。
これらの七宝は、仏教の「西方極楽浄土」では、自然や建物は七宝で、「東方浄瑠璃世界」の大地は、瑠璃(るり:青い宝石)で出来ていると云われている。
また、仏教の宇宙観(仏教の宇宙観PDFファイル参照)では、世界の中央にそびえる山・須弥山(しゅみせん)は、金・銀・瑠璃(るり)・玻璃(はり)の四宝から成り立っていると云われる。

3、毘沙門天(びしゃもんてん=多聞天)
ヒンドゥー教の財宝神クヴェーラが前身と云われるヴァイシュラヴァナ神のこと。ヴァイシュラヴァナとは、「よく聞く所の者」という意味があることから「多聞天」と呼ばれる。
日本では毘沙門天と呼ばれる、四天王(一口メモ参照)の一尊に数えられる武神で、日本では四天王の四尊として祀られる時は「多聞天」、単独で祭られた場合を毘沙門天と呼ばれ、特に勝負事に利益ありとして崇められる。

4、弁才天(べんざいてん=弁財天=弁天)
ヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティー神。日本では「才」が「財」の音に通じることから財宝神として「弁財天」と呼ばれることが多い。また、略して「弁天」とも云う。
像容は8臂像と2臂像の2つに大別され(臂=手の数をあらわしている)、8臂像の手には弓、矢、矛(ほこ)、鉄輪、羂索(けんさく、投げ縄)などを持ち、2臂像は、琵琶を奏する形の像である。

5、福禄寿(ふくろくじゅ)
像容は、背が低く、長頭で長い髭をはやした老子で、杖に経巻を結び、鶴を伴っている。そもそも福禄寿は、道教(一口メモ参照)の教えの中に、福(幸福)、禄(財産)、寿(長寿)と云う「三徳」と云う願いを具現化し、神格化した三体一組の神で、中国の春節には、福星(官服を着た黒髪の姿)・禄星(緑色の服装で、金銭や嬰児を抱いた姿)・寿星(禿げた長頭に白髭を生やした老人)を描いた「三星図」を飾り、3つの事が叶う事を願う風習がある。日本には、この寿星で南極星(※)の化身と云われる南極老人(星)が単独で日本に伝わった。寿老人(じゅろうじん)と同一神の説がある。

南極星:天体は、日本がある北半球では北極星を中心に回転するが、南半球では天体の回転の中心になるような南極星と呼べる星はないものの、竜骨座の1等星カノープスが1万2千年後には天の南極の場所に見えるようなるので、南極星と呼ばれている。広い中国でも、この南極星は滅多にお目にかかれない為、この星を見た者は長寿になるという伝説が生まれ、寿老人の星、南極老人星と呼ぶようになった。
なお、日本では、布良星(めらぼし)と呼ばれており、鹿児島では南の地平線から6度程度、沖縄の那覇では10度程度の高さに出る。

6、寿老人(じゅろうじん)
酒を好み頭が長く、白髪で赤い顔をした長寿の神。道教の、南極老人星(カノープス)の化身なので、福禄寿と同一神と云われることから、七福神から外された時代もあった。その間は、猩猩(しょうじょう )が入れ替わった。
寿老人は不死の霊薬を含んでいる瓢箪を運び、長寿と自然との調和のシンボルである鹿を従えている。手には、これも長寿のシンボルである不老長寿の桃を持っている。

猩猩(しょうじょう、猩々)
龍や麒麟などと同じく中国の伝説上の生き物で、人の言葉を理解し、赤ら顔の人間のごとき容姿で、酒を好むとされている。
参考:猩猩(オランウータン)。大猩猩(おおしょうじょう:ゴリラ)。黒猩猩(くろしょうじょう:チンパンジー)。猩猩緋(しょうじょうひ:深紅色をした毛織物の布で作られた陣羽織)なお、ショウジョウバエは、酒に誘引される性質から猩猩になぞらえて名付けられた。

7、布袋 (ほてい)
大きな袋を背負った太鼓腹の僧侶の姿で描かれる布袋は、唐の末期の明州(浙江省)に実在したといわれる契此(かいし)という乞食僧がモデル。彼は、捉蛇袋(ずたぶくろ:捉蛇とはその漢字のとおり蛇を捉える力をもった袋)を背負って托鉢・乞食(こつじき)していたので、この乞食僧・契此を布袋と称するようになったと云う。
 ※彼が残した偈文に「弥勒真弥勒、分身千百億、時時示時人、時人皆不識(弥勒や真の弥勒、身を千百億に分けて、時に応じてその時の人に示すも、時の人皆これをしらず)」という句があったことから、実は布袋は弥勒菩薩の垂迹(すいじゃく:仏が生れ変って仮にこの世に出現すること)という伝聞が広まり、中国の一部では弥勒菩薩は布袋とされた。日本でも、京都府宇治市の寺院、黄檗宗(おうばくしゅう)大本山萬福寺(まんぷくじ)には、半跏思惟形の弥勒菩薩像とは全く異なる、太鼓腹の布袋像が安置されている。

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1月11日:鏡開き

鏡開きとは、正月のあいだ、神棚や床の間などに飾ってあった鏡餅を割って、汁粉や雑煮などにして食べる儀式のこと。これは、歳神へのお供え物を食べるころによって、一年間一家の無病息災が約束されるという意味がある。
元々は正月20日に、甲冑(かっちゅう)などの具足(ぐそく)に供えた具足餅をさげてお雑煮にして食べ、この日を「具足開き」として祝っていたが、徳川三代将軍家光が正月20日に亡くなった為、それ以後は11日に行われるようになった。
鏡開きの名称は、「切る」ということを嫌ったことに由来するので、鏡開きの餅を包丁などで切るのは禁物で、手またはハンマーで割るものである。

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1月15日:小正月(こしょうがつ)

元旦から松の内までを大正月というのに対して、1月15日を一般に小正月、地方によっては、女正月と呼んでいる。
成人の日を1月15日としたのは、この日が小正月であり、かつて、奈良時代以降、男子の成人を示すものとして行われる元服(※1)の儀が小正月に行われていたことから、1月15日は成人の日だったが、ハッピーマンデー制度(※2)導入に伴い、2000(平成12)年から1月第2月曜日に該当する日に変更された。移動先が1月第3月曜日でないのは、阪神・淡路大震災の発生日である1月17日が成人の日に当たらないよう、被災者に対して配慮している為。

※1:元服(げんぶく、げんぷく)
「元」は首(=頭)、「服」は着用を表すので、「頭に冠をつける」という意味。初冠(ういこうぶり)とも云われる。なお、公家の女子の成人式は裳着(もぎ)と云う。
公家の12~16歳の男子が、氏神の社前で、子供の髪型(角髪:みずら)から頭髪を束ねた大人の髪(冠下の髻:かんむりしたのもとどり)を結い、冠をつけ、武家の場合は烏帽子をつけ、幼名を廃して元服名(本名)を新たに付けた。
室町時代以降は民間にも普及し、江戸時代頃からは公家を除く、武家、庶民の間では元服の時に烏帽子をつけず、月代(さかやき:額の髪を半月形に剃ったもの)にすることで、成人のしるしとなった。
江戸時代以降は女性も元服と称し、18~20歳位で行った。女性で元服という場合は、地味な着物を着て、日本髪の髪形を丸髷(まるまげ)に替え、お歯黒(歯を黒く染めること)を付けてもらい、引眉(ひきまゆ:眉を剃りまたは、抜いたあと、元々の眉を薄い墨でなぞること)をする。お歯黒を付けるが引眉しない場合は半元服と呼ばれた。半元服の習慣は現在でも祇園の舞妓等一部の花街に残っている。
また、とんと焼(※3)き又は、左義長(さぎちょう)と呼ばれる火祭りの行事がある。

※2:ハッピーマンデー制度
週休2日制が定着した今日、月曜日を休日とする事によって土曜日・日曜日と合わせた3連休にし、余暇を過ごしてもらおうという趣旨で制定された。
他の祭日の移動日は、海の日(7月20日→7月の第3月曜日)。敬老の日(9月15日→9月の第3月曜日)。体育の日(10月10日→10月の第2月曜日)。
※3:とんと焼き(左義長):神戸では「とんと焼き」又は単に「とんと」と云うが、地方によっては、どんど焼き、どんと焼き、とんど焼き等で呼ばれている。
「とんと」は、その年飾った門松や注連飾り、書き初めで書いた物を持ち寄って焼き、その火にあたり、餅を焼いて食べて無病息災を願うもの。また、書き初めを焼いた時に炎が高く上がると字が上達するとも云われている。

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■一口メモ


ヒンドゥー教

インドやネパールで多数派を占める民族宗教である。特徴として、聖牛を崇拝(例:シヴァ神の乗り物はナンディンという牡牛である)する、菜食主義(不殺生を旨とし、そのため肉食を忌避する)者が多い。また、ヒンドゥー教の修行であるヨーガの特徴の結跏趺坐する姿はインダス文明の印象にも刻まれており、かなり早い時期から実施されていたと思われる。
なお、ヒンドゥー教の3大神は次の通り。
①ヴィシュヌ神:世界維持の神、慈愛の神、鳥神ガルーダに乗る。10大化身と呼ばれる多数の分身を有する。
仏教の開祖である釈迦牟尼は9番目の化身とされている。
②シヴァ神:創造と破壊の神、乗り物は牡牛のナンディー、トラの皮をまとい首にコブラを巻く。
しばしば結跏趺坐し瞑想する姿で描かれる。日本では大黒天。また、シヴァ神の子供で象の頭を持つ神ガネーシャは富と繁栄、智恵と学問を司る。日本では聖天(注1)
③ブラフマー神:世界創造の神、水鳥ハンサに乗った老人の姿で表される。日本では梵天。ブラフマー神の神妃のサラスヴァティー日本では弁財天

注1:聖天:歓喜天(かんぎてん)
聖天の名称は、大日如来もしくは観自在菩薩の権化身であるために、歓喜天の本身(大日如来もしくは観自在菩薩)を表すために「聖」の字を用いて聖天としたという。
ちなみに「聖天」は「しょうでん」と濁って読む場合が多く、象頭人身の姿で表わされる。また、大根・巾着を組み合わせた図をシンボルとしている。

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四天王

欲界の六欲天の中、初天に住む、持国天・増長天・広目天・多聞天の守護神を云う。須弥山(しゅみせん)の中腹にある四王天(しおうてん:四大王衆天・しだいおうしゅうてん)の主で、上は帝釈天(たいしゃくてん※1)に仕え、下は八部鬼衆(はちぶきしゅう:8つの鬼神)を支配して、仏法とその帰依の衆生を守護する神。
持国天(じこくてん)は、須弥山東面の第四層の賢上城に住み、東方の勝身洲(しょうしんしゅう)を。増長天(ぞうちょうてん)は、須弥山南面の南瑠璃?(みなみるりた)に住み、南方の瞻部洲(せんぶしゅう:人間界)を。広目天(こうもくてん)は、須弥山西面の白銀?(はくぎんた)に住み、西方の牛貨洲(ごけしゅう)を、多聞天(たもんてん=毘沙門天)は、須弥山北面の水精?の天敬城に住み、北方の倶廬洲(くるしゅう)をそれぞれ守護している。
下天に住む、四天王の身長は半由旬、寿命は500歳で、その一昼夜は人間界の50年に相当する。これを、戦国の武将、織田信長が好んで舞ったと伝えられる能の「敦盛」では、「人生五十年、下天のうちに比ぶれば夢幻のごとくなり、ひとたびこの世に生を受け滅せぬもののあるべきか」と謳っている。
なお、身長の半由旬(はんゆじゅん)とは、1由旬が約7kmと云われているので、半由旬は3.5km。寿命は500歳で、人間世界では、365日×50年×500歳=9,125,000年になる。
四天王は早くから日本でも信仰されおり、聖徳太子は、四天王に祈願して勝利を得たことに感謝して摂津国(大阪市天王寺区)に四天王寺(四天王大護国寺)を建て、また、後世の仏像製作においても、須弥壇(しゅみだん:本尊を安置する場所)の四隅には、邪鬼を踏みしめて立つ四天王像が配置されている。四天王像としては、東大寺(奈良市)の戒壇院のものが有名である。※欲界・須弥山・四王天・四州は仏教の宇宙観参照

※1:帝釈天(たいしゃくてん)
軍神・武勇神で、雷神(インドラ)と呼ばれる神。諸天を糾合して阿修羅と戦っていた荒々しい神だったが、仏の教えを聞いて、正法を護持する、善神となった。
守護神・十二天(じゅうにてん※2)の一天で、須弥山(しゅみせん:仏教の宇宙観PDFファイル参照)の頂上にある?利天(とうりてん)の喜見城に住んでいて、四天王を統率し、人間界の善悪を監視する為、毎月8、14、15、23、29、30日(六斎日)には人間界に使者や四天王を遣わし監察している。
帝釈天の身長は、1由旬で7km。寿命は人間世界の36,500,000年である。

※2:十二天(じゅうにてん)
上下・月日・四方(東・南・西・北)・四維(しい: 東南、西南、西北、東北の四隅)を守護する十二の天衆。天:梵天(ぼんてん)、地:地天(じてん)、日:日天(にってん)、月:月天(がってん)、東:帝釈天(たいしゃくてん)、南:焰魔天または閻魔天(えんまてん)、西:水天(すいてん)、北:毘沙門天(びしゃもんてん)、東南:火天(かてん)、西南:羅刹天(らせつてん)、西北:風天(ふうてん)、東北:伊舎那天(いざなてん)の総称で、各天の概略は次の通り。
梵天(ぼんてん):天の神
色界十八天(仏教の宇宙観参照)のうち、空居天の初禅三天の最高位(第三天)である大梵天を指して「梵天」と言う場合もある。神としての梵天はこの大梵天に住み、その下の第二天である梵輔天には、梵天の輔相(大臣)が住み、さらにその下の第一天である梵衆天には、梵天の領する天衆がこの天に住むとされる。
地天(じてん、ぢてん):地の神
大地を神格化したもので、地神。古くは、大地の堅牢さ・万物を生育させる恵みをあらわす神として信仰され、これが仏教に取り入れられたものである。
多くは男神とされているが、「阿婆縛抄」ならびに古代インドでは女神であった。釈尊が菩提樹下で悟りを開く時、地下より湧出し、その証明を与えたともされている。形象としては、経典などにより異なるが腕は2本で持物は一定しない。
月天(がつてん、がってん):月の神
正しくは月天子で、月天はその略称。月やその光明を神格化した神で、勢至菩薩の変化身ともされる。四大王天(四天王の住む所)に属し、月輪を主領して四天下を照らす。
日天(にちてん、にってん):太陽の神
正しくは日天子で、日天はその略称。太陽(日輪)を神格化した神で、観世音菩薩の変化身の一つともされる。四大王天(四天王の住む所)に属し、太陽を宮殿とし、その中に住むと云う。
帝釈天(たいしゃくてん):東方の守護神
須弥山(しゅみせん:仏教の宇宙観参照)の頂上にある?利天(とうりてん)の喜見城に住んでいて、四天王や三十三天をを統率し、天主とも呼ばれる。
焔摩天または閻魔天(えんまてん):南方の守護神
六欲天の第3天(仏教の宇宙観参照)に住み、閻魔天后・太山府君・荼枳尼天・七母天などの眷属が従う。形象は1面2臂で片手に人の顔が付いた杖を持つ。
水天(すいてん):西方の守護神
水の神であり、竜を支配するとされる。
毘沙門天(びしゃもんてん):北方の守護神
四天王の一尊に数えられる武神で、四天王の四尊として祀られる時は「多聞天」、単独で祭られた場合を毘沙門天と呼ばれる。また、日本独自の信仰として七福神の一尊とされ、特に勝負事に利益ありとして崇められる。
火天(かてん):東南方の守護神
火を神格化したもので、仙人の姿をしており、火天后及び仙人・天女を眷族とする。
羅刹天(らせつてん):西南方の守護神
羅刹とは鬼神の総称であり、羅刹鬼(らせつき)・速疾鬼(そくしつき)・可畏(かい)とも訳される、破壊と滅亡を司る神。また、地獄の獄卒(鬼)のことを指すときもある。四天王の一尊である多聞天に夜叉と共に仕える。
風天(ふうてん):西北方の守護神
風を神格化したもので、形象は、腕は2本で甲冑を着て片手に旗のついた槍を持ち、風天后・童子を眷属とするものがある。
伊舎那天(いざなてん、いしゃなてん):東北の守護神
欲界第六天(他化自在天)の主。その姿は黄金の牛に乗り、目が三つ、右手に三鈷戟(さんこげき:両側に枝の出た三叉の槍)、左手に血の入った杯を持ち、ドクロの首飾りをして薄気味悪い雰囲気を持つ、これは迷いや欲望を絶つ為と云われ、伊舎那天が喜ぶ時はすべての神々も喜び、魔障(ましょう:修業を妨げる悪魔の障害)は乱れなが、伊舎那天が怒った時は、魔障が現れ国土が乱れると云われる。

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道教(どうきょう)

中国三大宗教(三教と言い、儒教・仏教・道教を指す)の一つである。
(タオ ※1)という自然の条理を旨とする老荘(老子、荘子)思想の流れを汲み、これに陰陽五行説(※2)、や神仙思想(※3)を加味して、不老長生の煉丹(れんたん)術(※4)を求め、符呪(まじない)・祈祷(神仏に祈ること)等を行う、漢民族の土着的・伝統的な多神的宗教。
道教は、仏教や儒教と同じ頃に日本に渡来したものの、仙人になるために水銀などの危険薬物を使うため、独立した宗教としては定着しなかったが、その一部である呪術信仰は修験道の主要な担い手となった山林修行者に受容され、また、陰陽師が道術を取り入れ、日本独自の陰陽道(※4)が生まれた。陰陽師としては、平安時代の安倍晴明が有名である。

※1:(タオ)
宇宙自然、万物の終始に関わる普遍的法則や道徳的規範等の道理を説く中国哲学。老子によれば、道とは名付けることのできないものであり(仮に道と名付けているに過ぎない)、礼や義などを超越した真理とされる。天地一切を包含する宇宙自然、万物の終始に関わる道を天道といい、人間世界に関わる道を人道という。

※2:陰陽五行説
中国で生まれた自然哲学思想で、陰陽(いんよう)説と五行(ごぎょう)説とが組み合わされ、これによって、天地の変異、災祥(さいしょう:禍や幸い)、人事の吉凶等を説明する中国の易学(八卦)でもある。

陰陽説】(陰陽思想)
森羅万象、宇宙の万物は全て陰と陽に分かれていて、互いに対立する属性を持った二つの気であり、万物の生成消滅と言った変化はこの二気によって起こるとされる。
淮南子(えなんじ:前漢の頃、淮南王劉安が学者を集めて編纂させた思想書)によると、地球誕生以前の宇宙は、混沌(天地万物を生成させる根源的エネルギー)とした限りなく巨大な空間だったが、この空間が弾けると、混沌の中から光に満ちた明るい澄んだ陽の気が上昇して天を造り、重く濁った暗黒の陰の気が下降して大地が誕生したとある。この二気の働きによって万物の事象を理解し、また将来までも予測しようというのが陰陽説である。
例えるならば、天の気は集まって陽気となり、地の気は集まって陰気となる。
この陰陽二気のうち、純粋なものは春夏秋冬の四季を構成し、そこからあふれでた気は万物を構成する。
陽気だけが結合すると火となり、その火気の純粋なものは太陽となる。陰気ばかりが結合すると水となり、その水気の純粋なものは月となる。
さらに太陽と月からあふれでた気は、集まって星となる。このように気は天地日月星山川の自然を構成する要素であり、同時に人間を構成しているものも同じ気であると云うことである。
また、陰陽二元論的に考えると、受動的・防衛的・沈静的性質を「陰」。能動的・攻撃的・昂進的性質を「陽」と云う。
具体的には、影・暗・柔・水・冬・夜・裏などが「陰」であり、光・明・剛・火・夏・昼・表などが「陽」である。これらは相反しつつも、一方がなければもう一方も存在し得ない。
森羅万象、宇宙のありとあらゆる物は、相反する陰と陽の二気によって消長盛衰し、陰と陽の二気が調和して初めて自然の秩序が保たれる。
重要な事は陰陽二元論が、この世のものを善と悪に分ける善悪二元論とは異なり、陰は陽を、陽は陰を含み、万物はそれが置かれている状況によって、ある時は陰と現れ、またある時は陽となって現れる物事の相対的な相を示す概念であると云うことである。
これら、陰陽が生じる様子は、道教のシンボルにもなっている陰陽魚(大極図 注2)で表わされている。

注2:陰陽魚(大極図)
写真
陰陽魚は陰陽太極図ともいい、円は天と地に別れる前に存在した太極を、その中の黒白の色で陰陽を、黒地と白地の配置で八卦(占術)を表している。
この図は道教のシンボルとして世界中に広まり、韓国国旗にもなっている。
陰陽魚は円の中央で反対側まで細長く伸び、互いに食い入る形になっている。円で太極を、黒色は陰を表し右側で下降する気を意味し、白色は陽を表し左側で上昇する気を意味する。魚尾から魚頭に向かって領域が広がっていくのは、それぞれの気が生まれ、徐々に盛んになっていく様子を表し、やがて陰は陽を飲み込もうとし、陽は陰を飲み込もうとする。陰が極まれば、陽に変じ、陽が極まれば陰に変ず。陰の中央にある魚眼のような白色の点は陰中の陽を示し、いくら陰が強くなっても陰の中に陽があり、後に陽に転じることを表す。陽の中央の点は同じように陽中の陰を示し、いくら陽が強くなっても陽の中に陰があり、後に陰に転じる。太極図は、これを永遠に繰り返すことを表している。
※写真・韓国国旗
大韓民国(だいかんみんこく)国旗は通称太極旗(たいきょくき)と呼ばれる。白地の中央にある円で「太極」を表し、その中に赤と青の2色からなる「陰陽」があり(青部を上に掲揚するのは逆さであり誤りである)、その周囲四隅に「卦」が配置されたデザインとなっている。

五行説】(五行思想:ごぎょうしそう)
陰陽説から派生した空間及び時間の双方を表記する概念で、万物は木・火・土・金・水の5種類の元素から成るという説である。
四季の変化は五行の推移によって起こると考えられ、方角・色など、あらゆる物に五行が配当され、そこから、五行の色と四季を合わせて、青春、朱夏、白秋、玄冬といった言葉が生まれた。詩人、北原白秋の雅号も、これに因んだものである。

五行  木     火    土   金  水
五色  青(緑) 朱(紅) 黄     玄(黒)
五方  東     南    中央  西  北
五時  春     夏    土用    冬
(土用とは各季節の始まりの18日間に当たる)

※3:神仙思想
呪術を駆使し、倫理や道徳の実践を通じて徳を積むことで福禄と長生き(福・禄・寿)を獲得し、不死で超能力を持つ神仙(仙人:不老不死を得た人)になることを目指している。
仙人になるために修行をする者は「道士」「方士」と呼ばれる。
古くは中国の始皇帝が求めに応じ、方士である徐福は不老不死の仙薬を求め、日本に逢着し、日本各地に徐福伝説が残る。その中の一つ和歌山県新宮市には、徐福の墓や関連施設が整備された徐福公園がある。

※4:煉丹(れんたん)

外丹術】:振砂(しんしゃ=水銀)を煉(ね)って、不老不死の妙薬・金丹を作る術を云うが、煉丹を行う道士(方士)は薬草の扱いにも長けていたことから、医師として、薬草を煎じた水を飲ませて信者を救ったり、呪術に使用していた可能性が窺える。
空海・弘法大師が開いた高野山は水銀鉱脈であることから、空海は煉丹術に長けていたとの見解もある。
振砂を焼くと水銀がとれる。水銀は常温で液状になる唯一の金属で、硝酸を加えることで溶解し、安易に金属合金を作ることが出来るので、好んで用いられた。また、赤色絵具の原料でもあり、鳥居の着色にも使用されていた。

内丹術】:瞑想によって、体内の気を循環融合させて永遠の身体性である不老長寿を獲得する技法。人体とは宇宙の縮図との考えに則り、人体と天体との気を体内に取り入れ、その内気の精を練り上げ気を純化し(練精化気)、その気を練って神に純化し(練気化神)、神を練って虚に還り(練神還虚)、還を練って道と一体になること(練虚合道)を目指した。詳細は後述する予定。

※5:陰陽道(おんみょうどう・いんようどう)
中国で生まれた自然哲学思想、陰陽五行説を起源として日本で独自の発展を遂げた自然科学と呪術の体系で、陰陽道に携わる者を陰陽師と呼ぶ。
陰陽五行説が、自然界の万物は陰と陽の二気から生ずるとする陰陽思想と、万物は木・火・土・金・水の五行からなるとする五行思想を組み合わせ、自然界の陰陽と五行の変化を観察して瑞祥・災厄を判断し、人間界の吉凶を占う実用的技術として日本で受容され、中国の占術・天文学の知識を消化しつつ神道、道教、仏教などからも様々な影響を受け取って日本特異の発展を遂げた結果誕生したものと考えられている。
5~6世紀頃、陰陽五行説が仏教や儒教とともに日本に伝わった当初は、漢文の読み書きに通じた渡来人の僧侶によって担われていたが、7世紀後半から8世紀始めに律令制が敷かれると、陰陽の技術は国家管理となり、陰陽道、天文道、暦道を置き、それぞれに吉凶の判断、天文の観察、暦の作成の管理を行わせた。
また、僧侶が天文や災異瑞祥を説くことを禁じ、陰陽師の独占がはかられた。
平安時代以降は、宮廷社会から日本社会全体へと広がりつつ一般化し、陰陽師などの手を通じて民間へと浸透して、日本の神道と相互に影響を受けあいながら独自の発展を遂げた
8世紀末からは密教の呪法や密教とともに新しく伝わった占星術(宿曜道)や占術の影響を受ける。
10世紀の平安時代には、陰陽道の占術に卓越した才能を示し、宮廷社会から非常に信頼を受けた安倍晴明が出た。
一方、民間では陰陽道の浸透がより進展し、占い師、祈祷師として民間陰陽師が活躍した。
江戸時代には、陰陽道はもはや政治に影響を及ぼすことはなくなったが、民間で暦や方角の吉凶を占う民間信仰として広く日本社会へと定着していった。
明治維新後の1872(明治5)年に至り、新政府は陰陽道を迷信として廃止させた。現代には天社土御門神道(福井県大飯郡おおい町)と、高知県物部村(香美市)に伝わる民間信仰・いざなぎ流(舞神楽は国の重要無形民俗文化財)を除けば、暦などに名残をとどめるのみである。
出典: フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)他

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仏教の世界観

 三千大千世界・九山八海の構造(仏教の宇宙像、三界表、天の概要、須弥山、図:人間界・冥界・地獄界)→PDFファイル

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写真

写真は和坊流宇宙(http://www.justmystage.com/home/kazubo/)の和坊放浪記:口永良部島編:part13でご覧ください。


続く・口永良部島編:part14

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2009年3月 5日 (木)

口永良部島編:part12


和坊放浪記・口永良部島編part12


平成18年・備忘録


 項目

■寝待・湯治小屋
 106日目:1月1日(日) 雨のち曇   (初詣)
 107日目:1月2日(月) 曇一時雨   (竹竿用の竹の採取)
 108日目:1月3日(火) 曇のち晴   (うなぎ仕掛け)
 109日目:1月4日(水) 曇       (しぶんぎ座流星群)
 星空:2006年1月中旬
 110日目:1月5日(木) 曇一時小雨  (平板到達)
 地図:寝待~湯向周辺地図
 111日目:1月6日(金) 雨        (1日断食)
 112日目:1月7日(土) 雨時々曇り  (七種粥・昭和天皇の崩御した日)
※本文中赤字は写真あり
※注:初詣、サカキ(榊)・シキミ(変毒為薬:へんどくいやく・毒を変えて薬と為す)、神社拝礼作法
一口メモ:正月行事(鏡餅、おせち料理、お屠蘇、雑煮、初詣)
今日は何の日:1月1日(日本と世界の正月)、1月7日(七種粥、昭和天皇崩御・安岡正篤)
写真:金峰神社・長尾神社、竹竿用の竹、うなぎ獲りの仕掛け、鏡餅、三方、春の七草

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■寝待・湯治小屋


106日目:平成18年1月1日(日) 雨のち曇  (初詣)

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経2返(朝・夕)、写経2巻(朝・夕)、座禅瞑想20分×2回(朝・夕)

 昨夜の大晦日は、歳神様を迎える為に一晩中起きている習わしがあり、この夜に早く寝ると白髪になるとか、しわが寄るとかいった俗信(ぞくしん=迷信)があるらしいが、そんなことはお構いなしに何時ものように7時には寝床に入り、いつの間にか寝入ってしまっていた。

 4時前に起床。初日の出を見に行く予定だったが、外は雨。初日の出は諦める。

 日課になっている、ストレッチと八段錦をして、般若心経を唱え、写経と座禅瞑想を終えてから、温泉に入る為外に出ると、いつの間にか雨は止んでいた。

 朝食は、お節は無いが、雑煮代りに、味噌汁に貰いものの餅を焼いて入れ、焼酎でお屠蘇を飲み正月行事(一口メモ参照)の真似事をしてから、初詣(はつもうで 一口メモ参照)に行くことにする。

 口永良部島の神社仏閣は、本村集落に在る金峰神社と永光寺。それに、湯向温泉横のお湯の神様を祀る湯向権現神社があるが、今日は本村に向かう。

 本村集落の外れに在る金峰神社は今回で2回目の訪問。神主不在神社の精か手入れがされておらず、茂った草をかき分け拝殿に向かう。

 ここには、隣合わせに、小さな拝殿が2ヶ所ある。他の1つは、花尾神社。両拝殿には、しめ縄が張られ、サカキ(榊 注1)が飾られていた。

 「二礼二拍手一礼」の拝礼作法(注2)で参拝してから、同集落北外れに在る、永光寺を訪ねる。

 永光寺は、以前浜沿いに在ったが、台風で崩壊し同地に移転されたらいい。入口に小さな鐘が架かっているものの外見は普通の民家であった。

 窓越しに仏壇らしき物が見えたが、入口が閉まっていたので引返し、寝待に帰る。

注1:サカキ(榊・賢木)
語源は、神と人との境であることから「境木(さかき)」の意で、古くは神事に用いられるサカキヒサカキシキミ等を含む常緑樹の総称あった。
神事で使用される様になったのは、古事記の天の石屋戸の伝説に、「天香具山(あめのかぐやま)の五百津真賢木(いほつまさかき:枝葉のよく繁っている賢木)の枝に玉と鏡と青い麻と白い木綿をかけて用いた」とあり、それにならって、神事の祭壇や神棚に神が降りる依代(よりしろ:神が降臨する際の目標物のこと)として用いられる様になり、榊(神の木)の漢字があてがわれた。
なお、サカキ(榊・賢木)は、関東以南の比較的温暖な地域で生育するため、関東以北では類似種のヒサカキ(非榊・姫榊)で代用し、シキミ(樒・? ※1)は仏事で用いられている。
サカキとヒサカキを見分けるポイントは、葉が小さく、鋸歯がある(ギザギザしている)ならヒサカキ、表面がツルツルしていて、縁がギザギザしていないならサカキである。
※1:シキミ(樒・?)
シキミは、「毒物及び劇物取締法」で劇物に指定されている毒性のある植物だが、浄土真宗や日蓮正宗では、シキミの枝葉を仏前に供える。
その意味するところは、変毒為薬(へんどくいやく:毒を変えて薬と為す)を顕しているという。
変毒為薬とは、この世に於ける衆生(しゅうじょう:生命のあるもの全て)の三毒の煩悩(※2)三業(※3)といった毒を、仏や本尊の功徳により転じて薬にすることを云う。
※2:三毒(さんどく)の煩悩
仏教で、人間の諸悪・苦しみの根源とされている三つの煩悩(貪:とん・瞋:じん・癡:ち)を毒に例えたものである。
①貪(とん)とは、むさぼり求める心で貪欲(とんよく)とも云う。
②瞋(しん)とは、怒りの心で瞋恚(しんに)とも云う。
③癡(痴・ち)とは、真理に対する無知の心で愚癡(ぐち)ともいう。
※3:三業(さんごう)の毒
仏法では、善悪の心を働かせるのは、身・口・意の三つで起こす「業」(ごう)と云う所作に具体的に現われるので、これら身業・口業・意業の悪業(合計10)を離れ、善業(十善戒)を努めることが大事とされる。
①身業(しんごう)は、日頃の行動こと。悪業では殺生(せっしょう=生き物を殺す)・偸盗(ちゅうとう=盗み)・邪淫(じゃいん=邪道のセックス)。
②口業(くごう)は、語業とも云う言葉のこと。悪業では妄語(もうご=嘘)・綺語(きご=飾った言葉)・悪口(あっく=人の悪口)・両舌(りょうぜつ=二枚舌)。
③意業(いごう)は、 意識・心の働きのこと。悪業では貪欲、慳貪(とんよく、けんどん=必要以上に惜しまない)・瞋恚(しんい=腹を立てる)・邪見(じゃけん=間違った見方)。

注2:神社拝礼作法
【手水(てみず・ちょうず)の作法】
神社には通常、入口付近に手水舎(てみずや・ちょうずや)と呼ばれる水盤(流水施設)が置かれているので、まずここで手や身(口)を洗い清める。昔から、水は、罪(つみ)や穢(けがれ)を洗い流すものと考えられ、境内近くの川や湧き水を利用して身を清め参拝していた風習が、現在の手水舎になったものと思われる。
①右手で柄杓(ひしゃく)を持ち、左手を洗う。
②左手に持ち替え、右手を洗う
③再び右手に持ち、左手に水をため、口をすすぐ。
④柄杓を立てて、柄(え:持つところ)を洗い流す。
【拝礼の作法】
①賽銭箱にお金を入れる。
②鈴がある場合は鈴を鳴らす。
③2回深く御辞儀(おじぎ)をする(二礼)。
④2回の拍手を打ち(二拍手)、手を合わせたまま祈願をする。
⑤もう一度1回深く御辞儀をする(一礼)。
 以上「二礼二拍手一礼」が拝礼の基本作法です。出雲大社は二礼四拍手一礼です。
※参考
【玉串の作法】:玉串奉奠(たまぐしほうてん)
玉串(たまぐし)とは、サカキ(榊)の小枝に紙垂(しで)をつけたもの(杉の枝などを用いることもある)で、玉串を神前に捧げて拝礼することを玉串奉奠(たまぐしほうてん)と云う。仏式の焼香にあたるもの。
写真1 
①右手で玉串の根元を上の方から持ち、左手で葉先を支えるように持ち(写真1)、胸の高さになるようにやや持ち上げて一礼する。
写真2
②玉串を捧げる案(机)の前へ進み、軽く御辞儀をする。③玉串を時計回りに90度回し、葉先が神前に向かうようにし(写真2)、左手も根元に持ち替えて、祈念する。
写真3
写真4
写真5
③右手で玉串の葉先を下から持ち、時計回りに180度動かし(写真3~4)、根元が神前に向かうようにし、玉串を案(机)の上に捧(置く)げる。(写真5)
④二礼二拍手一礼をし、元の席に戻る。
通常は、枝の根元を神前に向けて捧げるが、伊勢神宮では葉先を神前に向けて捧げるのが伝統となっている。
出典: フリー百科事典・ウィキペディア(Wikipedia)

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107日目:1月2日(月) 曇一時雨  (竹竿用の竹の採取)

【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経2返(朝・夕)、写経2巻(朝・夕)、座禅瞑想20分×2回(朝・夕)

 去年の12月初め頃、釣り竿に適したコサン竹(布袋竹:ホテイチク)を採取したが、残りが少なくなったので、補給に向かい6本採取して帰る。

 竹の枝を丁寧に切り落としてから、寝待のゴミ焼却場(自分で作った石で囲んだ場所)で、ゴミを燃やした火で炙(あぶ)ってから干す作業をする。

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108日目:1月3日(火) 曇のち晴  (うなぎ仕掛)

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経2返(朝・夕)、写経2巻(朝・夕)、座禅瞑想20分×2回(朝・夕)

 寝待集落の住人の前原さんから、後境(寝待の西側にある釣り場で進入路完成済み)の小川に昔はウナギがいたと聞いたので、今日は、朝から、ウナギ獲りの仕掛けを作ることにした。

 2?のペットボトルと竹で、2種類のうなぎの仕掛けを作る。

 ペットボトルの仕掛は、先端部1/3~1/4を切り取って、反対にして差し込み、外れないように結わえたもの。

 竹の仕掛は、竹を1m程に切って、節を貫通した物を3本結わえた簡単なもの。

 それぞれ、3セット作り、後境に出掛ける。

 ウナギは海ウナギと称するウミヘビのイブラーではない。正真正銘のかば焼きにするウナギ。島の湯向集落の幅1mに満たない狭い水路にも大ウナギがおり、魚の食べ残し等の残飯を水路に入れると、何処からなく大ウナギが群れをなして現れ、われ先に餌を食べ始め、その姿は驚嘆にも値するほどであるが、集落の人が残飯を与え飼っている感じなので獲ることは憚られるので、後境に仕掛けることにする。

 ついでに、カマとナタで進入路の整備もして帰る。

 夕方、腕が上がらなくなった。後境の進入路の整備でカマとナタの使い過ぎか・・・

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109日目:1月4日(水) 曇  (しぶんぎ座流星群)

【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経2返(朝・夕)、写経2巻(朝・夕)、座禅瞑想20分×2回(朝・夕)

星空:2006年1月中旬の星空
星空:2006年1月中旬
しぶんぎ座流星群:別名:りゅう座ι(イオタ)流星群
現在「しぶんぎ座」という星座は存在しないが、放射点である「りゅう座」と「うしかい座」の境界あたりの「りゅう座ι(イオタ)星」付近に、「壁面四分儀座」と云う星座があったことから、現在もそのまま使われており、毎年1月4日頃を極大(流星群が最も活発に活動する時期)として活動する3大流星群(ペルセウス座流星群、ふたご座流星群)の一つである。
ペルセウス座流星群、ふたご座流星群が、極大日を中心に数日間の活動を続けるのに比べ、しぶんぎ座流星群の極大は数時間程度。

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 今日は、しぶんぎ座流星群の極大日(流星群が最も活発に活動する時期)。午前2時に起床するも曇空。

 今年は、月(月齢4)も日の入り後に沈むので、月明かりの影響もなく、絶好の観測条件(同ような好条件は2014年)で1時間あたり最大で40~60個の流星が観測できる予定であったが、天候は回復せず。

 観測は残念し、平板(ひらばん)の進入路作りに向かう。

 5度目の挑戦だが、道が判然とせず、地面に落ちている無数のみかん(八朔:はっさくと思う)の内、程度の良いものを持ち帰る。

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110日目:1月5日(木) 曇一時小雨  (平板到達)

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経2返(朝・夕)、写経2巻(朝・夕)、座禅瞑想20分×2回(朝・夕)

地図:寝待~湯向周辺地図
寝待~湯向周辺地図
地図検索サイト;マピオン(http://www.mapion.co.jp/)を加工

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 昨夜は、6時過ぎから雨が降り出し、4時の起床時も雨が降っていた。その雨も7時前には止んだ。

 平板の進入路が判然としない愚痴を聞いたのか、寝待集落の住人・森杉のバッチャンのご主人が、平板に案内すると訪ねてきた。

 渡に船で、寝待湯治小屋5号室の楠木さんを誘って、平板に出掛ける。

 平板の入口は、旧寝待道から入り、入口から50~60m入った所の狭い広場から、海の見える見晴らしの良い場所まで出て、倒木を越え、元牧場の有刺鉄線沿いを通り、杉林に囲まれた広場の先の谷筋で、ミカンの木がある小川に出たが、その先が分からなかった。

 森杉のジッチャンによれば、杉林に囲まれた広場は、水田跡との事。平板には、この水田跡の角に左に折れる細い道があり、この道に入れば良いことが分かった。

 持参した目印の赤いロープの切れ端を付けながら前進し、海岸に出ることが出来た。

 海岸の岩場を50~60m右(東側)にとり、小高い岩場を登ると、そこが目的の平板だった。

 文字通り平な岩場で、3人で釣りを始めるが、後境や二つの瀬と違い食いが悪い。

 昼食に、森杉のバッチャンが作ってくれたおにぎりを食べてから、引き揚げる。釣果は、森杉のジッチャンが釣った1匹のみ。

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111日目:1月6日(金) 雨  (1日断食)

【トレーニング】ストレッチ
【お勤め】般若心経9返(朝・昼・夕各3)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×9回(朝・昼・夕各3)
☆1日断食
【摂取物】朝・昼・夕(野菜ジュース:各1本)、水:無制限、黒糖少々
【復食】翌朝お粥、昼食以降は通常食

 ここ数日お勤めがおろそかになっている。幸い今日は朝から雨が降り続き止む気配が無いので、お勤めに専念し、1日断食を実施する。

 ただし、2日前の後境進入路の整備の後遺症で、腕が上がらないので、八段錦とチューブトレーニングは中止。

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112日目:1月7日(土) 雨時々曇り  (七種粥・昭和天皇の崩御した日)

【トレーニング】ストレッチ
【お勤め】般若心経12返(朝・昼・夕各4)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×9回(朝・昼・夕各3)

 今日は、七種粥(ななくさがゆ)の日(今日は何の日参照)。七草が無いので、ボウフウ(長命草)の新芽でお粥を作り食する。また、昭和天皇の崩御した日(今日は何の日参照)でもあるので、般若心経を何時もより多めに唱える。

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一口メモ


正月行事

【鏡餅】
年神様へのお供えとした餅のことで、その形は三種の神器(※1)の鏡・玉・剣(餅、ダイダイ、串柿)を、また、餅を二重に重ねているのは、陰(月)と陽(太陽)を表しているとも云われている。
鏡餅の飾り方は、三方(※2)の上に二枚の半紙を敷き、ウラジロ(長寿と夫婦円満)とユズリハ(家系が絶えない象徴)を置き、その上に大小二個の丸餅をのせ、昆布(喜ぶ)を前にさげておき、その上にダイダイ(家が代々繁栄する)をのせ、串柿(幸運を取り込む)を添える。
三方がない場合は、半紙を敷いて、ウラジロを添え、鏡餅の上に葉のついたみかんをあげただけでも良い。なお、餅をつく場合は、12月28日までにつくこと。
※1:三種の神器(さんしゅのじんぎ、三種の神宝:みくさのかむだから)
記紀(古事記・日本書紀)の伝承で、高天原(たかまがはら:天上にある神々の住む世界)の主神・天照大神(あまてらすおおみかみ)が孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を葦原中国(あしはらのなかつくに:高天原と黄泉の国<よみのくに・死者・霊の世界>の間にあるとされる世界=日本の国土のこと)の統治の為降臨した際授けた、以下の三種の宝物である。
①八咫鏡(やたのかがみ):天照大神(あまてらすおおみかみ)が天岩戸(あめのいわやと)に隠れたときに造られた。
②八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま):天照大神が天岩屋戸に隠れたとき、玉祖命(たまのおやのみこと)によって造られた。
③天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ):須佐之男命(すさのおのみこと)が八俣の大蛇を退治した時に尾から出た太刀。後に日本武尊(やまとたけるのみこと)が敵の火攻めに遭った時、この剣を以て叢(くさむら)を切り開き難を逃れたことから草薙剣(くさなぎのつるぎ)とも云う
現在では八咫鏡は伊勢神宮の皇大神宮(内宮)に、天叢雲剣は熱田神宮に神体として、八尺瓊勾玉は皇居の御所に保管されている。
なお、皇居には八咫鏡と天叢雲剣の形代(分身)があり、八咫鏡の形代は宮中三殿の賢所に、天叢雲剣の形代と八尺瓊勾玉は御所の剣璽の間(けんじのま)に安置されている。
※2:三方(さんぼう)
三方とは、神仏や高貴な人物に献上する際に、物をのせる台で、前・左・右の三方に刳形(くりかた・穴)があることから、そう呼ばれる。

【御節料理(おせちりょうり)】
御節とは、暦上の節目、季節の変わり目などにあたる人日(じんじつ:1月7日、七草)、上巳(じょうし:3月3日、桃の節句、雛祭り)、端午(たんご:5月5日、菖蒲の節句)、七夕(しちせき:7月7日、たなばた)、重陽(ちょうよう:9月9日、菊の節句)の五節句のことで、このとき作られた料理のことだったが、今日では正月料理だけが「おせち」と呼ばれている。
御節料理は、めでたさを「重ねる」という縁起をかついで重箱に詰められ、正式には五段重を使うが、近年では、省略された三段重が主流である。
重箱は上から順に一の重、二の重、三の重と数える。五段重の場合は与の重、五の重(何も入っていない)で、四段目を与の重(よのじゅう)と呼ぶのは、四(し)が死を連想させ縁起が悪い為で、五の重が空になっているのは、現在が満杯(最高)の状態ではなく将来さらに繁栄し、富が増える余地があることを示している。
おせち料理を詰めた重箱は、上から順に一の重(口取り)、二の重(焼き物と酢の物)、三の重(煮物)で、語呂合わせ的な次のような縁起物が入る。
①一の重(口取り)
田作り(たづくり):ごまめ(片口イワシの稚魚を醤油風味の飴炊きにしたもの):田を作る事から豊作を願って食べられた。
数の子(かずのこ):卵の数が多いことから子孫繁栄を願って食べられた。
黒豆(くろまめ):黒には魔よけの力が有るとされていたので、まめ(勤勉)に働き、まめ(健康)に暮らせることを願って食べられた。
紅白かまぼこ:祝儀用としてめでたい彩りから。元は神饌の赤米、白米を模した物。
伊達巻:巻き物(書物)に似た形から、知識が増える事を願う縁起物。関西風の御節では「だし巻」が代わりに入っていることが多い。
栗金団(くりきんとん):「金団」とは黄金の団子という意味(金の布団の意味とする地方もある)で、見た目の色合いが豪華で金塊のように見えるところから定番となる。
お多福豆:文字通り福が多からんことを祈願した。
②二の重(焼き物・酢の物)
鰤の焼き物:出世魚である事から出世を祈願したもの。
鯛の焼き物:「めでたい」の語呂合わせ。
海老の焼き物:ひげが長く腰が曲がっている様子が老人を連想させる事から長寿を祈願したもの。
鰻の焼き物:鰻登りから出世を祈願。ごく最近の風潮。
紅白なます:甘酢の中に大根・人参も入れてほぐしたらよく混ぜ合わせた物で、めでたいときに使われる紅白の幕と同じ意味あいで、平安、平和を祈る縁起物(酢の物)。
③三の重(煮物・煮しめ)
蓮根:孔が空いていることから遠くが見えるように先見性のある一年を祈願。
里芋:里芋は子芋がたくさん付くことから、子宝を願って。
トコブシ:別名「フクダメ」。福が溜まる事を願って。
昆布巻き:「よろこぶ」の語呂合わせ。昆布やこんにゃくなどを結ぶのは「むつみ合う」の語呂合わせ。
くわい:大きな芽が出ることから「めでたい」、芽が出る=出世を祈願。

【お屠蘇(おとそ)】
お屠蘇とは、元日から三が日の間に飲む薬酒のことで、元日にこれを飲めば、一年の邪気をはらい、寿命を延ばすと云う、不老長寿を祈る新年の祝い酒として出されるもので、屠蘇酒とは、文字どおり、鬼気、悪魔を屠り(ほふり:切る)、人魂を蘇らせる(生きかえる)酒という意味がある。
一家の主人の音頭で「おめでとうございます」のあいさつを交わし、若い人から順に、三献といって三つ重ねの杯で上から順に三杯ひとりで飲み回し、全員がお屠蘇を飲み終わるまでは、料理には手をつけない。お酒の飲めない人は、御祝い事の儀式なので、唇を濡らす程度の真似ごとをすればよい。

【雑煮】
雑煮とは、年越しの夜に、神事にたずさわった人々が、神に供えた飲食物を分かち食べた儀式から変化してきたもで、関西では丸餅を湯煮したみそ汁仕立てが多く、関東では切り餅を焼いたすまし汁仕立ての雑煮が主流になっている。

【初詣(はつもうで)】
一般的に、正月三が日に寺社(神社・寺院)や教会等に参拝し、一年の無事と平安を祈る行事を云う。初参り(はつまいり)とも云う。
元々は、一家の長が大晦日の夜から元日の朝にかけて氏神の社に籠り祈願する「年籠り:としこもり」と云う風習が、やがて、大晦日の夜の「除夜詣」と元日の朝の「元日詣」との2つに分かれ、元日詣が今日の初詣の原形となった。江戸時代末期までは氏神または、自宅から見て、その年の恵方(えほう:神の来臨する方向)の方角の社寺に詣でる恵方詣(えほうもうで)が多かったのだが、明治以降では氏神や恵方とは関係なく有名な寺社への参詣が普通になっている。そのきっかけは、京阪神の電鉄会社が自社沿線の神社仏閣を「今年の恵方は○○」と宣伝し始めた為に、本来の恵方ではない神社仏閣にも詣でるようになり、恵方の意味が薄れ、有名な神社仏閣にお参りするようになったと云われている。
※出典:フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)

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今日は何の日


1月1日正月

【日本】
正月とは、本来1月の別名だが、現在は、三が日(さんがにち:1月1日から3日迄)か松の内(まつのうち:元々は1月15日まで、現在は一部では7日まで)を指すことが多い。また、旧暦の15日を小正月(こしょうがつ)と呼んだり、12月8日(関西では13日)を「正月事始め」と称する。
なお、元旦(がんたん)は、1月1日の朝・夜明けを意味する言葉で、元日(がんじつ)は、1月1日全体を意味する言葉である。
【欧米】
欧米では正月はクリスマス休暇(12月24日~1月1日)中の一つのイベントと位置づけられている。1月1日のみ休日で、翌1月2日から金融市場などは平常業務を開始する。
【アジア】
旧暦の1月1日は、月の運行により決められる為に約1か月の間で移動がある。新暦の1月21日~2月21日の間の新月の日が、旧正月(春節)と呼ばれる。
中国、韓国、台湾は春節、ベトナムでは「テト」と呼び、新暦の正月よりも旧正月の方が重視されている。
【インド、南アジア】
タミル暦を使用する国の新年は、新暦の4月13日か14日になる。
【中近東(イスラム)】
イラン暦では、(元日、正月)は春分。
イラン暦の「正月」は、3月21日(春分)で「ノールーズ」と云いお祝いをする。
イスラム暦の9月は断食月(ラマダン)で、断食明け(10月1日)のお祭りを、イスラム正月と呼ぶこともあるが、イスラム暦1月1日は断食明けの約3ヶ月後である。
イスラム暦元年は、モハメッドが メッカからメディナに脱出した西暦622年で、以降太陰暦(1ヶ月は29日か30日、1年は354日)となり新暦よりおよそ11日短いので、毎年正月(1月1日)は移動する。参考・西暦2009年12月18日がイスラム暦1431年1月1日。

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1月7日七草粥(ななくさがゆ)、昭和天皇崩御の日

七草粥(ななくさがゆ)
正月七日は、人日(じんじつ)という五節句の一つで、七日節句とも呼ばれ、朝、春の七種を刻んで入れた七種粥作って食べると万病を避けられると云い伝えられている。
【春の七草】 
セリ(芹) セリ科の多年草(冬に枯れても春に芽を出す草)高さ約30cm。
田の畔や湿地に自生する。せりあって生えることからセリと云われる。
注意:セリによく似たドクゼリ(毒芹)は猛毒植物。特徴は、茎は丸く中空で、根が太くて緑色。草丈が50~1m。
ナズナ(薺:ぺんぺん草) アブラナ科の二年草(発芽から開花まで2年わたる草)高さ約30cm。
田畑や道端、土手に生え、冬の間は葉が地面に広がっているが、春に茎が立ち始め、白い小十字形の花をつける。花の咲いた後の実が逆三角形で三味線のバチに似ていることからぺんぺん草とも呼ばれている。
ゴギョウ(御形:母子草) キク科の二年草。
道端や荒れ地、田畑の畦(あぜ)等にかたまって生える。草全体が白い毛におおわれており、厚ぼったく、春、茎の先に黄色の小さな花をたくさんつける。
ハコベラ(ヒヨコ草) ナデシコ科の二年草。高さ15~50cm。
山野や道端に自生。葉は、柔らかい卵型で、小鳥が好んで食べるのでヒヨコ草とも云う。春、小さな白色の花をつける。
ホトケノザ(佛座)シソ科の二年草。高さ約10~25cm。田平子(タビラコ)の別称。
原野、道端等に自生。春、心臓形の葉の付け根に紫色の花をつける。
対生する葉を蓮座(れんざ:はすの花の形に作った、仏像を乗せる台)に見立てて、仏の座(ホトケノザ)と付けられた。
スズナ(菘) 蕪(かぶ)の別称。
スズシロ(蘿葡) 大根(ダイコン)の別称。

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昭和天皇崩御

1989年1月7日午前六時三十三分、昭和天皇が崩御(87歳)。新元号は「平成(へいせい)」と決定。八日施行される。
新元号「平成」は陽明学者・安岡正篤(※1)が考案したとされる元号であるが、その由来は、史記(司馬遷によって編纂された中国の歴史書)の「内平外成(内平かに外成る)」、書経(中国最古の歴史書)の「地平天成(地平かに天成る)」からで「国の内外、天地に平和を達成する」との意味。なお、安岡正篤は、昭和20年8月15日の終戦の詔書(玉音放送)の草案も加筆している。
※1:安岡正篤(やすおかまさひろ:旧姓堀田)
1898(明治31)年2月13日、大阪市順慶町(現在の中央区長堀)で堀田家の四男として出生、安岡家に養子に迎えられる。
1926年(大正15年)4月に松下村塾の再現を期し開いた私塾・金鶏学院(きんけいがくいん)は吉田茂が顧問で、近衛文麿ら政財界の重要人物から広い支持を得、聴講生は軍人、官僚、華族の他に、井上日召や四元義隆といった、のちの血盟団(一人一殺主義を掲げる右翼団体。日本赤軍の女性指導者の重信房子の父親もメンバー)の構成員も含まれていた。
終戦後、GHQの指令により解散したが、戦後は、政治家や財界人の精神的指導者や御意見番として暗躍。吉田茂、池田勇人、佐藤栄作、福田赳夫、大平正芳等が安岡を師と仰いだ。また、晩節その知名度を利用した事件(※2)に巻き込まれた。
※2:事件(細木数子再婚騒動)
東京都渋谷区出身のタレント占い師・細木数子(ほそきかずこ、1938年4月4日生)は東京成徳高等学校中退後、東京銀座で水商売に従事していたが、1983(昭和58)年3月1日、自衛隊関係者の政治団体の会合で、安岡と知り合った。
細木数子は、その半年後、40歳以上年上の当時85歳で認知症の症状があった安岡と結婚を切望したものの、安岡家の親族は猛反対し、安岡の実兄である高野山真言宗大本山管長、金剛峯寺第403世座主の堀田真快氏のもとへ移し、細木との接触を拒絶した。
にも拘らず、細木数子は婚姻届を役所に提出。その届け出が受理されたため、安岡家は東京地裁に「細木との婚姻の無効」を求める調停を申し立てたが、その翌月の12月13日、安岡は住友病院(大阪)にて他界(享年86歳)し、調停は婚姻の無効で決着した。

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写真


写真は和坊流宇宙(http://www.justmystage.com/home/kazubo/)の和坊放浪記:口永良部島編:part13でご覧ください。


続く・口永良部島編:part13 平成18年・備忘録


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2009年2月25日 (水)

口永良部島編:part11


和坊放浪記:口永良部島part11


平成17年・備忘録


 項目

■寝待・湯治小屋
 90日目~99日目  (座禅瞑想・断食2回目)
 断食法
 100日目:12月26日(月) 曇    (買出し)
 101日目:12月27日(火) 曇    (竹竿作り)
 102日目:12月28日(水) 晴    (門松作り)
 103日目:12月29日(木) 晴    (竹花器製作)
 104日目:12月30日(金) 晴    (自作竹竿試し釣り)
 105日目:12月31日(土) 雨    (花器と竹竿作り)
※本文中赤字は写真あり
■一口メモ:今日は何の日
 12月23日:天皇誕生日
 12月25日:クリスマス:大正天皇祭
 12月31日:大晦日(おおみそか)
写真
 竹竿、竹花器
※注:国旗、門松・注連(しめ)飾り・しめ縄・紙垂(しで)の作り方・とんと焼き、センリョウ(千両)、松

______________________________________


■寝待・湯治小屋


90日目~99日目  (座禅瞑想・断食)

 昨日、寝待湯治小屋2,3号室の湯治客が帰り、5号室の男性1人になったのを機に、2回目の断食を実施することにした。

断食法
【目的】 約300万年に及ぶ人類の歴史(現代人ホモ・サピエンスは10万年程前にアフリカで誕生し、世界中に広がっていった)はまさに飢餓との闘いの歴史と云っても過言ではない。
人類は、その長い飢餓状態の歴史の中で、エネルギーを効率よく利用出来る遺伝子を持った人々が生き残ってきたとも云え、当然、我々現代人もその遺伝子を受け継いでいる。
と云う事は、我々現代人は、飢餓に対して、非常に強い適応能力を持っていることになる。
しかし、近年、先進諸国は、飽食の時代に入って、この適応能力が弱くなりつつあることに危惧する者の1人として、本能の1つの飢餓遺伝子(自分流命名)を刺激する為に、断食をするものである。
この断食は、飽食時代の反省から出発したもので、ダイエット、宿便、各種症状改善と云った目的を持った本格的な断食ではないが、断食そのものは、人間に飢餓遺伝子が備わっているので、思ったより楽に取り組むことが出来る。当所1~2日間は、空腹感に見舞われることもあるが、それが過ぎると、爽快感が訪れ、ストレスが無くなるので、座禅瞑想には最適である。
【内容】 減食・断食・復食の3段階に分かれ、基本的には、減食2日間、断食(3日以上)、復食3日間にしている。なお、慣れれば減食をせずに、断食に入ることも可能。
【方法】 断食(5日間)の方法(計10日間)
減食(2日間)
 1日目:朝食(無)、昼食(消化の良い食事を腹5~6分目)、夕食(全粥)
 2日目:朝・昼・夕(全粥)
断食(5日間)
 3~7日目:朝・昼・夕(野菜缶ジュース:各1本)、水(無制限)、黒糖少々
復食(3日間)
 8日目:朝(重湯)、昼・夕(五分粥)
 9日目:朝・昼・夕(全粥)
 10日目:朝(全粥)、昼・夕(消化の良い食事を腹5~6分目)翌日から通常食。
※周1回程度の1日断食を習慣化すると、本断食に入り易いが、忙しい人は、本断食よりも1日断食で十分。
☆お粥の米と水の割合
重湯:1対10、三分粥:1対8、五分粥:1対7、全粥:1対5 ※煮立ったら火を弱め40分炊く。
☆1日断食の方法
【摂取物】朝・昼・夕(野菜ジュース:各1杯・200cc程度)、水:無制限
【復食】翌朝お粥、昼食以降は通常食

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90日目:12月16日(金) 曇・雨  (座禅瞑想・断食1日目) 禁酒

【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)
【摂取物】朝食(無)、昼食(消化の良い食事を腹5~6分目)、夕食(全粥)
 
 本日降水確率50%だが、本村迄買出しに出掛ける。Aコープで缶ジュース類の買物をして帰る。

 モンベル製の雨合羽もテント同様防水切れか内部がびしょびしょになる。


91日目:12月17日(土) 曇・雨 強風  (座禅瞑想・断食2日目) 禁酒

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経9返(朝・昼・夕各3返)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×9回(朝・昼・夕各3回)
【摂取物】朝・昼・夕(全粥)
 
 相も変わらず天候不順が続いている。天気予報では、今日から冷え込むとの事。


92日目:12月18日(日) 曇・雨  (座禅瞑想・断食3日目) 禁酒

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経9返(朝・昼・夕各3返)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×9回(朝・昼・夕各3回)
【摂取物】朝・昼・夕(缶ジュース各1本)、水分無制限、黒糖少々

 昨夜は、強風と高波の音に加え、寒くてなかなか寝付かれなかったが、2時に目が覚め、般若心経解釈本を読んでから起床する。


93日目:12月19日(月) 曇・雨  (座禅瞑想・断食4日目) 禁酒

【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経9返(朝・昼・夕各3返)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×9回(朝・昼・夕各3回)
【摂取物】朝・昼・夕(缶ジュース各1本)、水分無制限、黒糖少々

 昨日は睡眠時間が短かった精か、今日は、6時に就寝して5時まで11時間熟睡した。

 天気は、昨日までの降水確率50%が20%になったが、相変わらず、雲・雨の繰り返しですっきりしない。

 夕方、神戸からUパックが届く。卵、肉、米等の食料品の他に現金¥50,000が入っていた。感謝。


94日目:12月20日(火) 晴  (座禅瞑想・断食5日目) 禁酒

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)
【摂取物】朝・昼・夕(缶ジュース各1本)、水分無制限、黒糖少々

 久しぶりに降水確率0%。シーツとタオルケットを選択してから、運動不足(有酸素運動)解消の為本村迄出掛ける。

 寝待集落のバッチャン達は、正月が近づいたので本村の自宅に帰った為、寝待集落は、湯治小屋5号室の楠木さんと2人だけになった(夜は、肉牛生産者の前原さん夫婦が帰ってくる)。


95日目:12月21日(水) 雨  (座禅瞑想・断食6日目) 禁酒

【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経9返(朝・昼・夕各3返)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×9回(朝・昼・夕各3回)
【摂取物】朝・昼・夕(缶ジュース各1本)、水分無制限、黒糖少々

 今日も天候不順。午後から7mの高波になるらしく、フェリー太陽、フェリー屋久島2は欠航。
 夜に、強風・波浪・雷警報が発令されたので、雨戸を閉めて6時に就寝する。


96日目:12月22日(木) 雨  (座禅瞑想・断食7日目) 禁酒

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経9返(朝・昼・夕各3返)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×9回(朝・昼・夕各3回)
【摂取物】朝・昼・夕(缶ジュース各1本)、水分無制限、黒糖少々

 強い風と波と雨音で3時に目が覚めた。フェリーは昨日に続く欠航で、九州の道路や鉄道は雪の為通行止めや運休になっており、全国的に大雪になった様子。


97日目:12月23日(金) 雨時々晴  (座禅瞑想・断食8日目) 禁酒

【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経9返(朝・昼・夕各3返)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×9回(朝・昼・夕各3回)
【摂取物】朝(重湯)、昼・夕(五分粥)

 今日は、天皇誕生日(一口メモ参照)国旗(注1)が無いので、白紙のスケッチ紙にクレヨンで日の丸を描いて部屋内に揚げる。

 座禅瞑想・断食は、今日からお粥の復食期間に入った。

注1:国旗(日章旗・日の丸)
日本の国旗は、法律上は日章旗(にっしょうき)と呼ばれ、一般的に日の丸と呼ばれる旗である。
【由来】
日本人は古来、太陽を信仰の対象としており、聖徳太子も隋の皇帝・煬帝へ、「日出処天子―」で始まる手紙を送っている。また、国名「日本」(日ノ本)というところからも太陽(日の出)を意識しており、日本古来の神々を祀る神社の殆どは太陽を拝める南や東の方向に向いていること等からも太陽への信仰は窺える。
太陽信仰や「日ノ本」の国という意識が具体的に記載されている文献としては、797(延暦16)年の「続日本紀」の中にある文武天皇の701(大宝元)年の朝賀の儀に関する記述で、正月元旦、儀式会場の飾りつけに「日像」の旗を掲げたとあり、これが日の丸の原型で最も古いものと云われている
【経緯】
1854(嘉永7)年3月の日米和親条約調印後、外国船と区別するための標識が必要となり、薩摩藩の第11代藩主で島津氏の第28代当主である島津斉彬(なりあきら)、幕府海防参与徳川斉昭らの進言によって、「日の丸」の幟(のぼり)を用いることになり、同7月9日、老中阿部正弘により布告された。
翌1855(安政2)年、島津斉彬は琉砲船「昇平丸」を幕府に献上するが、このとき初めて日章旗が船尾部に掲揚された。これが日章旗を日本の船旗として掲揚した第一号である。
1859(安政6)年、幕府は幟(のぼり)から旗に代えて日章旗を「御国総標」にするという触れ書きを出した。日章旗が事実上国旗の地位を確立したのはこれが最初である。
【事例】
江戸時代の絵巻物などにはしばしば白地に赤丸の扇が見られるようになっており、特に狩野派なども赤い旭日の表現を多用するようになり、江戸時代の後半には縁起物の定番として認識されるに到っていた。
一方、船印としては、薩摩藩に服属していた琉球王国が中国への進貢船に日章旗を用いており、これは当時の絵図からも確認することができる。進貢船の派遣自体は14世紀まで遡るが、日の丸を掲げるようになったのがいつからかは定かではない。しかし19世紀初頭の屏風絵にははっきりと描かれている。他にもハーリーで用いられる爬竜船の船尾部にも日の丸の幟が掲げられていた。
ちなみに日の丸(日輪)は、琉球でも太陽神(テダガミ)の象徴として、船印だけでなく首里王府が建てる石碑(玉陵の碑文など)にも刻まれていた。琉球では、古くから太陽神が信仰されており、進貢船の日の丸も航海の無事を太陽神に祈る意味で使用されたものである。
【国旗国歌法の成立】
1990年代末から学校の式典等における日章旗掲揚に係わる問題が頻発、掲揚に反発する教職員(日教組)とのトラブルから高校校長に自殺者が出るに至った。背景には教育現場における日の丸掲揚と君が代斉唱に対する反対運動があった。このことに対処するため、1999年(平成11年)には国旗国歌法が公布され、正式に国旗として定められた。
【日章旗と軍用の旗】
日章旗は大日本帝国陸軍の軍旗として 自衛隊の兵器に記される国籍マークは大日本帝国軍時代から白のふちどりがついた日の丸であらわされる。また大日本帝国陸海軍の軍旗、軍艦旗となっていた旭日旗は海上自衛隊のみが自衛艦旗としてそのまま受け継ぎ、陸上自衛隊はデザインを変更した自衛隊旗を使用している。
出典: フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」


98日目:12月24日(土) 曇  (座禅瞑想・断食9日目) 禁酒

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経9返(朝・昼・夕各3返)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×9回(朝・昼・夕各3回)
【摂取物】朝、昼、夕(全粥)

 座禅瞑想・断食は、復食2日目に入り、3食お粥(全粥)にする。

 1ヶ月程前に、洗濯機置場が完成したものの、水道工事未着工の為、洗濯機本体は、寝待湯治小屋1号室の窓下に置いたままの状態で使用してが、1週間前の強風で、蓋が何処かに飛んで行ってしまった。

 その蓋が、海岸沿いの岩場で見つかった。

 小さな幸せ。クリスマスイブ(一口メモ参照)の贈り物。こんな些細な事にでも幸せを感じる断食に感謝。


99日目:12月25日(日) 曇  (座禅瞑想・断食最終日) 禁酒

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経9返(朝・昼・夕各3返)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×9回(朝・昼・夕各3回)
【摂取物】朝、(全粥)、昼・夕(うどん)

 断食終了。

 年末迄に、平板(ひらばん)の釣り場に行く道づくりをする為、カマを研ぐ。

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100日目:12月26日(月) 曇  (買出し)

【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経2返(朝・夕)、写経2巻(朝・夕)、座禅瞑想20分×2回(朝・夕)

 今日から通常食にするが、特に食に対する執着は無く、朝食は、残ったお粥を食する。

 6時前に雨が降ってきたが、10分程で止んだので、溜まっていた空き缶を本村の公民館に持って行く。本村に行ったついでに、Aコープに寄ると、寝待湯治小屋の管理者で公民館長の林さんに会ったので、今月分の使用料を支払う。

 Aコープから羽生商店に寄って、ビールと焼酎・三岳を買っての帰り、林さんの奥さんに出会い、大根4本頂き、寝待に帰って、5号室の楠木さんと分ける。

 本村に帰っている矢野のバッチャンが家族と温泉に来たついでに、野菜や焼き魚、ミカンを、夕方には、牛小屋から帰ってきた寝待集落の住人前原さんの奥さんから、イモとミカンの差し入れがあり、夜は、久しぶりにビールと焼酎を飲む。美味い。

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101日目:12月27日(火) 曇  (竹竿づくり)

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 朝、浜辺を散歩中に釣り竿を見つける。竿は潰れていたが、穂先は使えそうなので持ち帰り、先日来から集めていた、コサン竹の先端に繋げ、寝待湯治小屋2号室に居た、エホバの証人の信者の人から頂いた仕掛けを取り付け、竹竿が完成した。

 昼から、田代集落の90歳のジッチャンの土地を借りて、肉牛3頭を飼育している、寝待集落の住人の前原さんの牛舎に寄ってから、田代のジッチャンの家に行き、榊(さかき)を頂いて、寝待の温泉上にある、水神様に供える。

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102日目:12月28日(水) 晴  (門松作り)

【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 今日は、門松(注2)を作る為、朝の散歩の時間にセンリョウ(千両)(注3)(注4)を採りに行く。

 センリョウ(千両)は、旧寝待道路の一周道路の手前と、野池登山道入口付近に。松は、新寝待道路沿いに盆栽に出来るような若松が沢山生えている。

 センリョウ(千両)は正月の縁起物なので、背負い籠に一杯採取し、寝待集落の貯水塔下に置いて、欲しい人が持って帰れるようにしておく。

 完成した門松は、寝待集落の待避壕の床几の上に置く。

注2:門松
門松(かどまつ)とは、正月に家の門の前などに立てられる一対になった松や竹の飾りのこと。松飾りとも云う。
古くは、木に神が宿ると考えられていたことから、門松は年神を家に迎え入れるための依代(よりしろ:神が降臨する際に、よりどころとする目標物のこと)という意味合いがある。
玄関等に飾る注連(しめ)飾り(注3-1)も依代である。
門松の3本組の竹の先端部の形状は、斜めに切った「そぎ」と、真横に切った「寸胴:ずんどう」の2種類があるが、切り口に節が現れる様に斜めに切るのは笑った口を意味するものらしい。
最近では、門松の代わりに、玄関の両側に白紙を巻いた根松や松の小枝等が飾られている。
【飾る期間】
12月13日(事始め)から28日迄に飾る。12月29日に飾るのは「二重苦」、また9の末日でもあるので「苦待つ」に通じ、12月30日12月31日に飾るのは「一夜飾り」「一日飾り」といって神をおろそかにするということから、12月28日までに飾るのが良いとされている。
松の内(1月7日)がすぎれば取り払って、小正月(1月15日)のとんと焼き(※)で燃やすのが一般的。注連飾りも同じ。
注3-1:注連(しめ)飾り
神社が用いる神域と外界とを隔てる結界に張る、紙垂(しで:四手)をつけた注連(しめ)縄(※)がもとになっており、家内が歳神を迎えるに相応しい神聖な場所である事の証として注連縄を張ったのが始まりと云われる。
注連(しめ)飾りは、注連縄(しめなわ)に紙垂(しで:四手)、ウラジロ、ユズリハ、ダイダイなどをあしらって作る。
紙垂(しで:四手)は清浄な場であることのしるしで、和紙を重ねて折り、一定の形に切ったもの(作り方参照)。
ウラジロ(裏白)は、裏面が白いシダのことで、裏表のない潔白な心を示すと同時に、枝が長く伸びることから、長寿にも通じるとされる。
ユズリハ(譲葉)は、別名親子草とも呼ばれ、若葉が出たあとに古い葉が落ちることから、代々譲って子孫が長く絶えないとされている。
ダイダイ(橙)は、家が「代々」栄えるとの語呂から、縁起ものとして使われている。飾りの橙を残しておくと、火除けになるとも云われている。
とんと焼き
日本各地で行なわれる小正月(1月15日)の火祭り・左義長(さぎちょう)の事で、神戸では「とんと焼き」又は単に「とんと」と云うが、地方によっては、どんど焼き、どんと焼き、とんど焼き等で呼ばれている。
「とんと」は、その年飾った門松や注連飾り、書き初めで書いた物を持ち寄って焼き、その火にあたり、餅を焼いて食べて無病息災を願うもの。また、書き初めを焼いた時に炎が高く上がると字が上達するとも云われている。
注連縄(しめなわ)
神域と外界とを隔てる為の縄である。七五三縄とも書く。天照大神が天岩戸から引き出された際、二度と天岩戸に入れないよう、注連縄(尻久米縄:しりくめなわ)で戸を塞いだのが起源とされる。
古来、日本人は自然の山や巨石、大木等に神が宿っていると信じ、信仰の対象とし、大木等の周囲を注連縄で囲うことで神聖を保つことに使われた。現在は、聖なる領域と俗なる領域を分ける結界の意味を持つ。また、大相撲の最高位の大関の中で、選ばれた特別な力士だけが、締めることを許される横綱も注連縄である。
横綱を含む神社の注連縄は、大麻繊維で作られている。
大麻繊維は、切れにくく、金色に輝く繊維には、穢れをはらう力があるとして、神事には欠かせないものであるが、栽培量が少なくなっていることから、伊勢神宮や出雲大社など大きな神宮社以外では、稲藁(いなわら)を使用している。

注4:センリョウ(千両)
センリョウ科の常緑小低木で常緑広葉樹林の下に自生していることが多い。高さは50~100cm。冬に赤い果実をつけ美しいのと、名前がめでたいのでマンリョウ(万両)などとともに正月の縁起物とされる。

注5:
日本では長寿を表す縁起のよい木とされ、松、竹、梅の3つを松竹梅(しょうちくばい)と呼んで重宝している。

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103日目:12月29日(木) 晴  (竹花器製作)

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経1返(朝)、写経1巻(朝)、座禅瞑想20分×1回(朝)

 今日は、少し太めの竹を採取し、正月用の花を生ける花器を作る作業に専念する。

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104日目:12月30日(金) 晴  (自作竹竿試し釣り)

【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経2返(朝・夕)、写経2巻(朝・夕)、座禅瞑想20分×2回(朝・夕)

 今日は、一昨日作った竹竿の試し釣りに行くことにする。釣り場は、温泉奥の崖越えをした先に在る二つの瀬。餌はアマメ10数匹。

 長い竹竿持参なので、陸路から入る。旧寝待道路から入る道は、先日道づくりをして以来一度も入っていないので、再確認がてら出発。

 陸路から、二つの瀬に出ると、既に、寝待湯治小屋5号室の楠木さんが釣り場所を確保していた。

 楠木さんは、昨日大物を釣り上げたので、2日連続で釣りに来たらしい。

 釣ポイントは1ヶ所しか無いので今日は釣りを諦め、次回の為に釣り竿を岩場に立て掛けて置き引き返す。

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105日目:12月31日(土) 雨  (花器と竹竿作り)

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経1返(朝)、写経1巻(朝)、座禅瞑想20分×1回(朝)

 竹製の花器の評判が良かったので、寝待湯治小屋と集落住民用に追加作製をする。

 また、竹竿を二つの瀬に置いてきたので、新しく竹竿を作る。穂先が無いので、ホウライチク(別名:チンチク・沈竹)を加工して穂先代りにし、二竿作る。

 1本は、後境(寝待の西側の釣り場で、進入路整備済み)用。1本は平板(湯向の東側の釣り場だが進入路不詳)用。

 それぞれの釣り場には、竹林の中や、勾配の急な道なき道を通る為、8~10mと長い竿を持ち運ぶのは危険なので、それぞれの釣り場に置いておき、現場で仕掛けを作り、魚を釣る為。

 平板(ひらばん)の釣り場は、旧寝待道路に入口があり、進入路造りに4回に渡って挑戦。

 1~2回目は、入口から50~60m入った所の狭い広場から、右や左にさ迷ったあげく、一歩も前進できず。

 3度目は、海の見える見晴らしの良い場所まで出て、倒木を越えた所迄。

 4度目は、元牧場の有刺鉄線沿いを通り、杉林に囲まれた広場の先の谷筋で、ミカンの木がある小川に出たが、その先が分からず引返したと云った経緯があり、今年中に進入路完成を見たかったが、今日は大晦日(一口メモ参照)。残念。

 夕方、寝待集落の住人前原さんの奥さんから、年越しそばの差し入れがある。

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■一口メモ:今日は何の日


12月23日天皇誕生日

第125代・今上天皇(明仁:あきひと)は、1933年(昭和8年)12月23日午前6時39分、昭和天皇・香淳皇后の第五子として誕生。
1959(昭和34)年4月10日、日清製粉勤務の正田英三郎・冨美(1981年、富美子と改名)夫妻の長女、正田美智子(昭和9年10月20日生)と結婚。
1989(昭和64)年1月7日、昭和天皇の崩御を受け即位。翌8日、元号は平成に改元された。
皇后・美智子との間に
第1皇子・浩宮徳仁親王(ひろのみや なるひと:皇太子)1960(昭和35)年2月23日生
第2皇子・礼宮文仁親王(あやのみや ふみひと:秋篠宮)1965(昭和40)年11月30日生
第1皇女・紀宮清子内親王(のりのみや さやこ:黒田慶樹夫人)1969(昭和44)年4月18日生
の3子がいる。
【昭和天皇の子】
照宮成子内親王(てるのみや しげこ、1925年生1961年没・東久邇宮盛厚王妃)
久宮祐子内親王(ひさのみや さちこ、1927年生1928年没)
孝宮和子内親王(たかのみや かずこ、1929年生1989年没・鷹司平通夫人)
順宮厚子内親王(よりのみや あつこ、1931年生・池田隆政夫人)
継宮明仁親王(つぐのみや あきひと、第125代天皇・今上天皇)
義宮正仁親王(よしのみや まさひと、1935年生・常陸宮)
清宮貴子内親王(すがのみや たかこ、1939年生・島津久永夫人)

【系図】
系図

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12月25日クリスマス(大正天皇祭)

クリスマス(英語: Christmas, Χmas)とは、イエス・キリストの降誕(誕生)を祝うキリスト教の記念日。昔の暦では日没を一日の境目としているので12月24日夕刻から朝までをクリスマス・イヴとして祝う。
日本語の「クリスマス」は、英語の「Christmas」に由来し、語源は「キリストのミサ」(Christ + Mass)にある。「Christ」はギリシア語の「Xristos」に由来するので、19世紀の英語圏では「Χ」にアポストロフィを付けてX'masとしたり、現在の英語圏ではXmas、あるいは、X-masと綴る。
なお、日本では「Xマス」とも略記する。
日本で初めてのクリスマスは、1552年(天文21年)に周防国山口(現在の山口県山口市)において宣教師コメス・デ・トルレスたちが日本人信徒を招いてのミサであった。しかし、その後江戸時代に幕府がキリスト教を徹底的に弾圧したことから、明治のはじめまでまったく受け入れられることはなかった。
日本でクリスマスが受け入れられたのは、1900年(明治33年)に明治屋が銀座に進出し、そのころからクリスマス商戦が始まったことが大きな契機であった。
また、大正天皇が崩御した12月25日が、1926年(昭和元年)~1947年(昭和22年)までの期間に新たな祝日「大正天皇祭※」とされ、この新たな状況もクリスマス普及に大きな役割を果たしたとされる。
1928年(昭和3年)の朝日新聞には「クリスマスは今や日本の年中行事となり、サンタクロースは立派に日本の子供のものに」と書かれるまでに普及していた
出典: フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)
大正天皇祭
1926(大正15・昭和元)年12月25日、嘉仁(よしひと)天皇が崩御(48歳)大正天皇と諡(おくりな)され、1947年(昭和22年)までの期間に新たな祝日とされた。
大正とは易経にある「何ごともスムーズに運ぶ」と云う「大亨以正:たいこういしょう」より採られたものある。
大正天皇は1879(明治12)年8月31日、明治天皇の第三皇子として誕生。生母は典侍 柳原愛子である。生来健康に恵まれなかったが、明治天皇と皇后美子との間には皇子女がおらず、また、側室出生の親王・内親王ら5人も、第三皇子である大正天皇の出生以前に相次いで死去していた為、皇太子となった。
1900年(明治33年)5月10日、九條節子(後の貞明皇后)と結婚し、1912(明治45・大正元)年7月30日、明治天皇の崩御を受け即位したが、1917(大正6)年頃から、病が悪化、1921(大正10)年11月25日、当時20歳だった皇太子・裕仁親王(後の昭和天皇)が摂政に就任することで天皇は事実上の引退となり、1926(大正15,昭和元)年、大正天皇が崩御し、皇太子であった裕仁親王が践祚(せんそ:皇位を受け継いで即位する事)した。
【大正天皇の子】
迪宮裕仁親王(みちのみや ひろひと:1901年生1989年没 第124代・昭和天皇)
淳宮雍仁親王(あつのみや やすひと:1902年生1953年没 秩父宮)
光宮宣仁親王(てるのみや のぶひと:1905年生1987年没 高松宮)
澄宮崇仁親王(すみのみや たかひと:1915年生 三笠宮)

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12月31日大晦日(おおみそか)

旧暦では、月の終わりの30日を晦日(みそか)と呼び、1年の最後の日に大を付けて大晦日(おおみそか)」と呼ぶようになった。
また、大晦日は別名・大晦(おおつごもり)とも云う。晦(つごもり)とは、旧暦で15日が満月で、30日の新月は月が隠れる日すなわち月隠「つきごもり」が訛ったもと云われている。
【大晦日の行事】
①年越しの夜のことを除夜(じょや)と云い、かつて、除夜は年神を迎える為に一晩中起きている習わしがあり、この夜に早く寝ると白髪になるとか、しわが寄るとかいった俗信があった。
また、宮中や全国の神社では、6月30日に「夏越しの大祓」後の半年間に受けた罪や穢れ(けがれ)を祓(はら)う「年越しの大祓」が執り行われる。
②元日の午前0時をはさんで、全国のお寺で、108つの鐘を鳴らす除夜の鐘(じょやのかね)の行事がある。108とは仏教思想に基づく百八煩悩を意味し、鐘をつくことでこれらの煩悩を1つ1つ取り除いて、清らかな心で正月を迎えようと云う訳で、最後の1回は年が明けてから突き、今年1年煩悩に惑わされないように、と云う意味が込められていると云われる。
③年越し蕎麦の習慣は江戸時代中期が起源で、その意味するところは、金箔職人が飛び散った金箔を集めるのに蕎麦粉を練った蕎麦団子使ったことから、金運に恵まれる。その他、そばの麺のごとく長生きができる。逆に細くて切れやすいことから、一年の苦労や厄災を年内に断ち切る。等々の願いが込められている

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写真

写真は和坊流宇宙(http://www.justmystage.com/home/kazubo/)の和坊放浪記:口永良部島編:part11でご覧ください。


続く・口永良部島編:part12


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2009年2月18日 (水)

口永良部島編:part10


和坊放浪記:口永良部島編part10


平成17年・備忘録


 項目

■寝待・湯治小屋
 73日目~76日目   (建築手伝い)
 寝待湯治小屋見取り図
 77日目~89日目   (お勤め専念期間)
■一口メモ:今日は何の日
 11月23日:勤労感謝の日・旧新嘗祭
 11月25日:憂国忌・三島由紀夫の忌日
 12月 1日:映画の日
 12月 8日:大東亜(太平洋)戦争開戦記念日
 12月14日:忠臣蔵・四十七士討ち入りの日
※本文中赤字は写真あり
注(一部写真付き)

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■寝待・湯治小屋


73日目~76日目 (建築手伝い)

寝待湯治小屋見取り図

寝待湯治小屋見取り図

73日目:11月29日(火) 曇  (建築手伝い1日目)

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経1返(朝)、写経1巻(朝)、座禅瞑想20分×1回(朝)

 昨夜は可成り強い雨が降っていたが、4時の起床時には道路も乾いていた。

 寝待・湯治小屋5号室に隣接する畳1枚程の場所に、土台基礎の羽子板付き沓石(くついし 注1)が設置されている。同所に洗濯機置場としての小屋を作る為の土台基礎を作ったものの放置されていたが、今日から、工事に入った。

 工事をするのは、島の住人の山口さんと畠さんの2人。この2人は大工さんではない。

 山口さんは漁師さん。畠さんはガソリンスタンド・プロパンガス販売・電気水道工事全般を担当している人。

 大工さんではないが、電気カンナを始め、道具類は充実しており、また、1畳程の広さの洗濯機置場を作るのに、曲尺(かねじゃく 注2)を使い、墨付けをして、(ほぞ 注3)を作って組み立てていくと云った玄人顔負けの仕事ぶりに驚くと同時に、洗濯機小屋なのに、ここまでしなくともと思いつつ、建築手伝いをする。

 建築手伝いと云っても、カンナくずや不要木材の焼却等の下働きをする。

 5時に一連の作業が終了、何時もより遅い夕食をしてから就寝する。

注1:沓石(くついし)
腐食防止の為に、柱や束(つか:床束の事)の下に置くコンクリート製の石。羽子板付き(150×150×200)1個¥800~1,000。

注2:曲尺(かねじゃく)、別名:指矩(さしがね)
裏表に目盛りが刻まれている金属製のL字形の直角定規。表目は寸目(1寸=3,03cm)かセンチ目が、裏目には角目(表目の√2倍:丸太の直径を知る)と丸目(円周率分の1:丸太からとれる角材の1辺の長さを知る)の目盛りが刻まれており、これらの目盛りと形状を利用して、物の長さや角度を測り、部材に墨付けするときに使われる。
曲尺一本あれば、タテ、ヨコ、斜めに複雑に組み合う木造建築の接合部分作り出すことができ、この手法(規矩術:きくじゅつ、規矩法とも云う)のお陰で、複雑な木組みで構成されている五重塔等を作りだすことが出来たと云われる。

注3:(ホゾ)
2つの部材を接合するために一方の材につくり出した突起をホゾ。他の材に開けた孔(あな)はホゾ穴

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74日目:11月30日(水) 晴  (建築手伝い2日目)

【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経1返(朝)、写経1巻(朝)、座禅瞑想20分×1回(朝)

 今日も、建築手伝い。洗濯機置場の屋根下地の上に、アスファルト製のシートを張り瓦代りにするのが、口永良部島の建築様式。このシートの釘打ち作業をする。

 余談ではあるが、口永良部島ではシートの上に、コールタールを塗っている。コールタールは、かつては枕木や木電柱など、木材の防腐剤として、またトタン屋根の塗料として表面に塗布されてきたが、コンクリート製の普及や発癌性があることから、使われなくなってきているものの、そんなことに頓着しないのが口永良部島の魅力でもあると感じた。

 洗濯機置場は完成したが、水道工事が未了なので、洗濯機は、1号室の蛇口を利用して使用する状態に変化はない。

 完成した洗濯機置場に、洗濯機を移動できるのは何時になるのかナァー

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75日目:12月1日(木) 晴  (建築手伝い3日目)

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経1返(朝)、写経1巻(朝)、座禅瞑想20分×1回(朝)

 今日、寝待湯治小屋の管理をする公民館長の林さんが、軽トラックで比較的新しい十数枚の畳を持ってきた。

 寝待湯治小屋の畳を入れ替えるらしい。まず5号室(四畳半)の畳の入れ替えに取り掛かるが、半畳の畳が無いので。四畳半から六畳に改造する作業をし、工事で出た廃材や畳の上敷き等は焼却した。

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76日目:12月2日(金) 曇のち晴  (建築手伝い4日目)

【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経1返(朝)、写経1巻(朝)、座禅瞑想20分×1回(朝)

 昨日に続き、2号室の畳の入れ替え改造作業。2号室の畳の殆どは腐っており、焼却処分。3号室は畳の入れ替えはせず、作業は5時過ぎに終了し、2号室で、公民館長の林さんの奥さんが持参したビールと天ぷらで完了祝いをする。

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77日目~89日目 (お勤め専念期間)

 建築手伝いの期間中、お勤め(般若心経、写経、座禅瞑想)が満足にできなかったので、今日から専念する。


77日目:12月3日(土) 晴  

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 午前中、本村に買出しに行き、Aコープで食材、羽生商店でビールと焼酎・三岳を買って帰る。

 夕方、2号室に中年夫婦の湯治客が来た。

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78日目:12月4日(日) 雨・強風  

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 昨夜から風雨が強く、欠航丸と揶揄されているフェリー太陽は勿論、フェリー屋久島2や高速艇も全て欠航。

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79日目:12月5日(月) 雨・強風・あられ

【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 昨日からの強風が続いており、集落の防災スピーカーで、フェリー太陽、フェリー屋久島2、高速艇の各船便の欠航が伝えられた。2日連続欠航。

 鹿児島の桜島では、平年より20~30日早い初冠雪が観測されたらしいが、口永良部島・寝待温泉でも、大粒のあられが降ってきて、寒くなってきた。

 温泉内には、6m以上の高波による影響で、排水溝から海水が逆流し、湯船はゴミが混ざった塩風呂と化す。

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80日目:12月6日(火) 曇一時雨 強風

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経2返(朝・夕)、写経2巻(朝・夕)、座禅瞑想20分×2回(朝・夕)

 今日は、フェリー太陽のみ3日連続欠航。昼から、釣り竿に適した竹を探しに行く。

 釣り竿にはコサン竹(注4)が最適だが、竹の島と云っていい位竹林が多い口永良部島でも、一部にしか自生しておらず、田代集落に居住する90歳のジッチャンから教えてもらった場所に行く。

 寝待集落から、旧寝待道を通り、一周道路に出て、湯向方面に200m程行くと、谷筋のヘアピンカーブの先に、右に入る砂利道があるので、その緩やかな登りの坂道に入り、野池登山口に至る中間点付近の谷間の竹林に到着するが、なかなか見つからず、それらしい竹を5~6本採取し持ち帰る。

 寝待に帰って、竹の枝を丁寧に切り落とし、火で炙(あぶ)ってから浜辺に干す。

注4:コサン竹
布袋竹(ホテイチク)と云って、節の間隔が短いか変形している竹で、南四国、南九州、屋久島、奄美大島に自生しており、釣り竿を始め、竹籠、竹塀に利用されている。
一部地方では五三竹(ごさんちく)と呼ばれている。

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81日目:12月7日(水) 雨一時晴

【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 朝の入浴時は星空だったが、7時過ぎから雨が降ってきた。

 今日は、降ったり止んだりの天気。お勤めの合間に、浜辺を散歩し、釣りに使用するウキを拾って帰る。

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82日目:12月8日(木) 曇

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 今日は、曇空だが久しぶりの晴れ模様。本村に自転車で買出しに出掛ける。

 Aコープで、ラーメン、人参、歯ブラシを羽生商店でビールと焼酎・三岳を買って帰る。

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83日目:12月9日(金) 曇

【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 2日連続で本村に出掛ける。今日は集めていた流木等をUパックで神戸に送った。

 本村の郵便局からの帰途、畑に居た島の女の人から土が付いた黒い山芋・大薯(だいしょ 注5)を頂戴し、寝待に帰って、矢野のバッチャンにあげる。

 12月3日に寝待・湯治小屋2号室に来た中年夫婦は、種子島からの湯治客で、男性は毎日釣りをして過ごしているが、先日採取したコサン竹で釣り竿を作ることを知って、釣りの仕掛け一式をプレゼントしてくれた。

 夕方、バッチャンから、昼間の山芋を「とろろ」にした料理の差し入れがあったので、酒の肴に食すると抜群に美味かった。

注5:大薯(だいしょ)
南九州や四国で少量栽培される熱帯産の山芋。九州では捏芋(つくねいも)、関西では大和芋と呼ばれ、すりおろしたものは箸でつまめる程粘り気が強い。

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84日目:12月10日(土) 曇一時雨

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経3巻(朝・昼・夕)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 今日は、久しぶりに風が弱まり、波も低くなってきたので、溜まっていたゴミを焼却する。

 2号室の人から、釣りたての魚と芋を、森杉と矢野のバッチャンから、豚足と天ぷらを頂戴する。

 夕方、寝待・湯治小屋3号室に、オートバイに釣り竿を満載した男性が入り、湯治小屋は満室になった。

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85日目:12月11日(日) 曇一時雨

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経2返(朝・昼)、写経2巻(朝・昼)、座禅瞑想20分×2回(朝・昼)

 寝待・湯治小屋3号室の男性に、洗剤をあげたらジャガイモのごった煮のお返しがあり、また、夕方には、スープを作ったので取りに来るようにと云われたので、3号室を訪ねると、11月25日に湯治小屋5号室に来た、楠木さんが居たので、3人で焼酎を飲む。

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86日目:12月12日(月) 雨 強風

【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経6返(朝・昼・夕各2返)、写経6巻(朝・昼・夕各2巻)、座禅瞑想20分×6回(朝・昼・夕各2回)

 今日は、一日中雨が降ったり止んだりの繰り返し。お勤めに専念できた。

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87日目:12月13日(火) 雨 強風

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経6返(朝・昼・夕各2返)、写経6巻(朝・昼・夕各2巻)、座禅瞑想20分×6回(朝・昼・夕各2回)

 今日は、昨日と同じような天候。フェリー太陽、フェリー屋久島2は欠航。温泉入浴以外、外出せず。

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88日目:12月14日(水) 雨

【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経6返(朝・昼・夕各2返)、写経6巻(朝・昼・夕各2巻)、座禅瞑想20分×6回(朝・昼・夕各2回)

 今日は、フェリー太陽のみ欠航。温泉入浴以外、外出せず。

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89日目:12月15日(木) 雨

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経6返(朝・昼・夕各2返)、写経6巻(朝・昼・夕各2巻)、座禅瞑想20分×6回(朝・昼・夕各2回)

 寝待・湯治小屋2号室と3号室の人達は、フェリー太陽の欠航で足止めを余儀なくされていたが、今日、防災スピーカーで、フェリー太陽が種子島を出港したとの放送があったので急ぎ出立した。

 2号室の種子島の中年夫婦は、輸血拒否で一世を風靡したエホバの証人(注6)の信者らしく、機関紙の「ものみの塔」や「目ざめよ」を置いて行った。また、3号室の男性から、卵や野菜を頂いた。

注6:エホバの証人
キリスト教の一派である「ものみの塔聖書冊子教会」の信者あるいはその集合を指す。1870年米国にて、チャールズ・テイズ・ラッセルらが聖書研究会を結成したことに始まり、1931年以降、正式名称として「エホバの証人」を採用している。信者数は日本で21万人、全世界で約650万人。モルモン教、統一教会と並び、カトリックの総本山であるバチカンの法王庁からキリスト教系三大カルトの一つとされている。
※はてなキーワードより

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■一口メモ:今日は何の日


11月23日:勤労感謝の日・旧新嘗祭

 1873(明治6)年から天皇陛下がその年の新穀を神様に捧げて感謝する儀式である新嘗祭(にいなめさい)を祭日と定められていたが、1948(昭和23)年に勤労感謝の日となった。その意味するところは、年間労働である農業による収穫を喜ぶ新嘗祭を、勤労を感謝する日としたものである。
 新嘗とはその年に収穫された新しい穀物(米、麦、豆、あわ、きび又はひえ=五穀)の事で、10月17日、その新穀を天照大神に捧げる神嘗祭(かんなめさい)の後、皇居の中の神嘉殿(しんかでん)に天照大神はじめ八百万の神々を招き、神々と共に新穀を食する儀式を新嘗祭(にいなめさい)と云い、この新嘗祭のうち、天皇が即位して最初に行なうものを特に大嘗祭(おおなめさい)と云う。

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11月25日:憂国忌・三島由紀夫の忌日

 小説家で劇作家三島由紀夫(注7)の忌日。著書・憂国から「憂国忌」とも云われる。彼は1970(昭和45)年11月25日の今日、三島自身が結成した「楯の会」学生長・森田必勝(25才・早稲田大学教育学部)・同班長・古賀浩靖(23才・神奈川大学法学部卒)・同班長・小賀正義(22才・神奈川大学工学部)・同班長・小川正洋(22才・明治学院大学法学部)と共に陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地(東部方面総監部)の総監室を訪問し、舩坂弘(注8)から贈られた自慢の名刀「関の孫六」を見せた後、益田兼利総監を人質に取って籠城。バルコニーで自衛隊決起(反乱)を促す演説や、戦後民主主義と日本国憲法の批判や安保体制化での自衛隊の存在意義を問う激文(注9)を撒いた後、総監室で切腹(注10)し森田必勝と古賀浩靖が名刀「関の孫六」で介錯。続いて、森田必勝が切腹し古賀浩靖が介錯した。
 なお、古賀浩靖は服役後、宗教団体・生長の家総裁谷口清超の娘と結婚し、荒地浩靖と改名し宗教活動をおこなっている。

【個人的影響】
 自衛隊に身を置いた者の一人として、日本国憲法第9条第2項(下記参照)がある限り、自衛隊は「違憲の存在」でしかないと感じていた矢先、三島由紀夫はバルコニーの演説で、「諸君は武士だろう、武士ならば、自分を否定する憲法をどうして守るんだ」と絶叫し、また、激文で、愛する歴史と伝統の国、日本を骨抜きにしてしまった憲法に抗議して腹を切る自衛隊員はいないのか。もしいれば、今からでも共に起ち、共に死のう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇えることを熱望すると結び、「武士故の切腹」を実行した三島事件に衝撃を覚えて以後、それに導かれるように新渡戸稲造著「武士道」に出会い、座右の書となる。


日本国憲法第9条第1項:日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
日本国憲法第9条第2項:前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

注7:三島由紀夫(みしま ゆきお)本名・平岡公威
1925(大正14)年1月14日生、1970(昭和45)年11月25日没享年45歳
戒名:彰武院文鏡公威居士。埋葬場所:多摩霊園(10区13側32番)
平岡家の菩提寺は曹洞宗真福寺(兵庫県加古川市西神吉町宮前261-1)

注8:激文
 われわれ楯の会は、自衛隊によって育てられ、いわば自衛隊はわれわれの父でもあり、兄でもある。その恩義に報いるに、このような忘恩的行為に出たのは何故であるか。
 かえりみれば、私は四年、学生は三年、隊内で準自衛官としての待遇を受け、一片の打算もない教育を受け、又われわれも心から自衛隊を愛し、もはや隊の柵外の日本にはない「真の日本」をここに夢み、ここでこそ終戦後ついに知らなかった男の涙を知った。ここで流したわれわれの汗は純一であり、憂国の精神を相共にする同志として共に富士の原野を馳駆した。このことには一点の疑いもない。われわれにとって自衛隊は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛冽の気を呼吸できる唯一の場所であった。教官、助教諸氏から受けた愛情は測り知れない。しかもなお、敢えてこの挙に出たのは何故であるか。たとえ強弁と云われようとも、自衛隊を愛するが故であると私は断言する。
 われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見ていなければならなかった。
 われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されているのを夢みた。しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によってごまかされ、軍の名を用いない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因を、なしてきているのを見た。もっとも名誉を重んずべき軍が、もっとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負いつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与えられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与えられず、その忠誠の対象も明確にされなかった。われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤った。自衛隊が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。自衛隊が自ら目ざめることなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。憲法改正によって、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽すこと以上に大いなる責務はない、と信じた。
 四年前、私はひとり志を抱いて自衛隊に入り、その翌年には楯の会を結成した。楯の会の根本理念は、ひとえに自衛隊が目ざめる時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために、命を捨てようという決心にあつた。憲法改正がもはや議会制度下ではむずかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となって命を捨て、国軍の礎石たらんとした。国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によって国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであろう。日本の軍隊の建軍の本義とは、「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことにしか存在しないのである。国のねじ曲った大本を正すという使命のため、われわれは少数乍ら訓練を受け、挺身しようとしていたのである。
 しかるに昨昭和四十四年十月二十一日に何が起ったか。総理訪米前の大詰ともいうべきこのデモは、圧倒的な警察力の下に不発に終った。その状況を新宿で見て、私は、「これで憲法は変らない」と痛恨した。その日に何が起ったか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の反応を見極め、敢えて「憲法改正」という火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。治安出動は不用になった。政府は政体維持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、国の根本問題に対して頬かぶりをつづける自信を得た。これで、左派勢力には憲法護持の飴玉をしやぶらせつづけ、名を捨てて実をとる方策を固め、自ら、護憲を標榜することの利点を得たのである。名を捨てて、実をとる! 政治家たちにとってはそれでよかろう。しかし自衛隊にとっては、致命傷であることに、政治家は気づかない筈はない。そこでふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまった。
 銘記せよ! 実はこの昭和四十四年十月二十一日という日は、自衛隊にとっては悲劇の日だった。創立以来二十年に亘って、憲法改正を待ちこがれてきた自衛隊にとって、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され、相共に議会主義政党を主張する自民党と共産党が、非議会主義的方法の可能性を晴れ晴れと払拭した日だった。論理的に正に、この日を境にして、それまで憲法の私生児であつた自衛隊は、「護憲の軍隊」として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあろうか。
 われわれはこの日以後の自衛隊に一刻一刻注視した。われわれが夢みていたように、もし自衛隊に武士の魂が残っているならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。自らを否定するものを守るとは、何たる論理的矛盾であろう。男であれば、男の衿がどうしてこれを容認しえよう。我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、決然起ち上るのが男であり武士である。われわれはひたすら耳をすました。しかし自衛隊のどこからも、「自らを否定する憲法を守れ」という屈辱的な命令に対する、男子の声はきこえては来なかった。かくなる上は、自らの力を自覚して、国の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかっているのに、自衛隊は声を奪われたカナリヤのように黙ったままだった。
 われわれは悲しみ、怒り、ついには憤激した。諸官は任務を与えられなければ何もできぬという。しかし諸官に与えられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。シヴィリアン・コントロールが民主的軍隊の本姿である、という。しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、軍政に関する財政上のコントロールである。日本のように人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ、党利党略に利用されることではない。
 この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩もうとする自衛隊は魂が腐ったのか。武士の魂はどこへ行ったのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になって、どこかへ行こうとするのか。繊維交渉に当っては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあったのに、国家百年の大計にかかわる核停条約は、あたかもかつての五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかわらず、抗議して腹を切るジエネラル一人、自衛隊からは出なかった。
 沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいう如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。
 われわれは四年待った。最後の一年は熱烈に待った。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待とう。共に起って義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。もしいれば、今からでも共に起ち、共に死のう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇えることを熱望するあまり、この挙に出たのである。   三島由紀夫

注9:舩坂弘
大東亜戦争におけるパラオ‐マリアナ戦役最後の戦いで、米兵を200人以上殺傷多大な戦果を上げた日本陸軍軍曹。戦後は大盛堂書店(渋谷)の社長となり、パラオでの遺品回収活動を行い、剣道や文筆に関することから三島と親交があった。(昭和47年、光文社カッパブックス発行・関ノ孫六参照)

注10:三島の切腹痕
警視庁牛込署の検視報告によると、三島はへそ下4cmに刀を突き立て、左から右に向かって約13cm、深さ約5cmにわたって切り裂いたため、腸が傷口から外に飛び出していた。

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12月1日:映画の日

1896(明治29)年11月25日、日本で初めて神戸で映画の一般公開が開始され、1956(昭和31)年きりの良い12月1日を記念日とした。

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12月8日:大東亜(太平洋)戦争開戦記念日

 1941(昭和16)年12月8日、「ニイタカヤマノボレ」の暗号電報と共に、午前3時19分(現地時間7日午前7時49分)、ハワイの真珠湾を奇襲攻撃し、攻撃の成功を告げる「トラトラトラ」という暗号文が打電され、3年6箇月に及ぶ大東亜戦争対米英戦(太平洋戦争)が勃発した。

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12月14日:忠臣蔵・四十七士討ち入りの日

 1701(元禄14)年3月14日、江戸城松之廊下で播磨赤穂藩主・浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が、幕府の礼式を司る吉良上野介(きらこうずけのすけ)に小刀で切りかかるという刃傷(にんじょう)事件が発端となり、翌15年12月14日寅の上刻(現在の午前3時頃)赤穂浅野家筆頭家老・大石内蔵助(おおいしくらのすけ)の率いる47人が、本所の堀部安兵衛宅に集まり、そこから吉良邸へ討ち入り、主君の仇討ちを成し遂げた赤穂浪士達は、細川家・水野家・松平家・毛利家の四大名家に預けられ、幕府による処分を待った。
 幕閣の意見は、「主君の仇討ちを成し遂げた赤穂浪士達は、忠義の面からは正当な行為なので無罪放免」と「公儀の許し無く徒党を組んで幕府高官の屋敷に押し入り、罪なき人を殺めたのは許しがたく打ち首獄門が適当」とに分かれていた。
 時の将軍綱吉は、仇討ちを正当とする忠義をとるか、法を以て裁くかの二者択一を迫られるが、結果、元禄16年2月3日、赤穂浪士達に切腹の沙汰を下した。
 切腹は、単なる自殺ではなく、武士の名誉を重んじ、誇りをもったまま逝ける崇高な儀式でもあるところから、赤穂浪士の忠義を称賛すると同時に、犯罪者を処罰すると云った、武士道に於いてのみ可能な解決を見た。
 大石内蔵助(享年45歳)はじめ赤穂浪士達は翌4日切腹したが、この事件を題材として、歌舞伎仮名手本忠臣蔵等々の作品の中で生き続ける存在になっている。

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写真


注の写真は和坊流宇宙(http://www.justmystage.com/home/kazubo/)の和坊放浪記:口永良部島part10でご覧ください。


続く・口永良部島:part11


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2009年2月12日 (木)

口永良部島編:part9


和坊放浪記:口永良部島編part9


平成17年・備忘録


 項目

■寝待・湯治小屋
 63日目:11月19日(土) 晴     (しし座流星群)
 星空:冬の星座・しし座流星群・おうし座流星群
 八段錦型:一段錦~八段錦
 64日目:11月20日(日) 雨のち晴  (ヨダレカケ?)
 65日目:11月21日(月) 晴     (2つの瀬・陸路進入路開通)
 66日目:11月22日(火) 晴     (久しぶりの卵と唐芋掘り)
 67日目:11月23日(水) 晴     (ボウフウの天ぷらは絶品)
 68日目:11月24日(木) 曇     (ボウフウ収穫と鹿罠の仕掛け)
 69日目:11月25日(金) 曇     (湯治客到着)
 70日目:11月26日(土) ?     (食中毒)   禁酒
 71日目:11月27日(日) ?     (安静日)   禁酒
 72日目:11月28日(月) ?     (回復・散歩) 禁酒
※本文中赤字は写真あり
写真

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■寝待・湯治小屋


63日目:11月19日(土) 晴  (しし座流星群)

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経1巻(朝)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

星空

1:冬の星座

冬の星座


2:しし座流星群
しし座流星群
レグルスとアルギエバからμ(ラス・エラセド・ボレアリス)及びε(ラス・エラセド・アウスト
ラリス)にかけては、特徴的な?形を裏返した星の並びが、しし(ライオン)の頭の部分に当たり、ししの大鎌と呼ばれる。ちょうどこのししの大鎌の中に放射点(×印)がある。

3:おうし座流星群
おうし座流星群
おうし座流星群には南群と北群の2つの放射点(×印)がある。

【メモ】
多くの流星を見るコツ:放射点の方角にこだわらず、空全体を見渡すこと。
流星の正体:宇宙空間にただよっている0.1ミリから数センチのチリ(流星ダスト)が、地球の大気に突っ込んできたときに発光する現象で流れ星とも呼ばれている。

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 昨夜、温泉清掃を終え、満天の星空に流れ星を見つけ、明日15日は、しし座流星群の極大日と確認してから就寝し、3時に起床。

 幸い今朝は快晴に恵まれたものの、16日に満月になっており、その月明かりで観察条件としては良好とは言い難いが、月と火星と流れ星の星空を見上げていると、人類は太古の昔から、同じ星空を見上げ何を考えていたのかと思いを巡らすと、何かしらロマンを感じる。

 流れ星は、8月13日に屋久島で、ベルセウス座流星群を観察。その際、流星31、人口衛星1、ピカピカ光る物体1(宇宙ステーションか?)を観測して以来。

 しし座流星群は、毎年11月中旬頃に出現するが、33年毎に最も太陽に近づいた時が大出現に当たり、前回の大出現は2001年で、18日から19日の未明にかけて、1時間あたり数百から数千もの流星雨を観察する事が出来たらしい。

 しかし、今年は次の活動期を迎える迄の静穏期に入るのと、満月といった気象条件から、余り期待されていないと云うが、月と火星と流れ星を同時に見られる機会でもあるので、床几を出してその上に寝転がり観察を開始する。

 3時から5時までの2時間で、16個の流星を観察できたが、中には火の玉のような流星もみられたので、大満足して温泉に入る。

 なお、今回の観察は、西の空に地球接近中の赤い火星が明るく輝いているおひつじ座の東にある、おうし座から出現している流星群も含まれているが区別は不能で、個人的には火の玉のような流れ星がおうし座流星群ではなかったかと思っている。

 朝食後、日課になっているストレッチ・八段錦(はちだんきん 注1)をしてから、般若心経を唱え、写経と、座禅瞑想をする(お勤めと称することにする)。

 昨日に続き、2つの瀬(寝待先端から垂直の崖を超えて行く釣り場兼貝採取場)の陸路入口から道づくりをするものの、竹林の中をさまよい歩く結果となり、引き揚げる。

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注1:八段錦
中国で古くから伝わっている気功、健康法で、八つの型から成っており、呼吸に合わせて、ゆっくり、ゆっくり動かす動作は、年齢や体力に関係なく、また、どこでもすぐに取り組むことができる運動です。1段ごとの独立した運動であるが、慣れてくれば、流れるように連続して行うと良い。

【立禅】(最初と最後に行う)

立禅①足は肩幅に開き、膝を軽く曲げる感じで立ち、両手は力を抜いて横におろし、リラックスする(基本姿勢)。
②宇宙を意識し、鼻から深く長い息を吸いながら、宇宙の気を、百会(ひゃくえ)を通じて体内に取り入れ、丹田(たんでん)へ持って行き。丹田で軽く息を止め、
③口から細く長い息を吐きながら、会陰(えいん)に落とし、両足を通り、足裏の涌泉(ゆうせん)から、地球の中に吐き切る。
④地球からのエネルギーを吸い取る感じで、鼻から深く長い息を吸いながら、涌泉、会陰を通じ丹田迄持って行き、丹田で軽く息を止め、
⑤丹田から、口から細く長い息を吐きながら、百会を通じて、宇宙に息を吐き切る。これを繰り返し、心を落ち着ける。
※八段錦の全ての動作は、鼻から深く長い息を吸い、口から細く長い息を吐く腹式呼吸(基本呼吸)に合わせたゆっくりとした動作を心掛ける事。

百会(ひゃくえ)
左右の耳の穴を結んだ線と頭の真中を通る線との交点で、東洋医学では、天の気を受け入れるツボと云われている。

丹田(たんでん)
へそ下3寸(約9cm)付近、東洋医学では、関元穴(かんげんけつ)と云う。丹田は赤色、つまり火と関連づけられ、エネルギーの源の穴として、精神の要の場所とされている。
また、人間の体内、特に女性の胎内では、0,06gの精子と0,1~0,2mm(0,0015~0,003g)程の卵子が結合し、細胞分裂を繰り返し、何百万倍になって新生児が誕生するといった過程は、原子動物から人類までの何億年間もかかった進化の過程を僅か10ヶ月ほどで完成さす
驚異的な能力を備える。それはまさに、小さな宇宙そのものである。
丹田は、小宇宙の体内の中で太陽に相当する場所で、エネルギー(気)の貯蔵所であり、また、発信地でもある。

会陰(えいん)
陰部と肛門の間をさし、東洋医学では、会陰穴(えいんけつ)と云い、「気と血」のエネルギーの分枝する重要な場所である。

涌泉(ゆうせん)
足の裏の土踏まずの前方中央部にある、人間が生きるためのエネルギーが泉のように湧き出るツボであることからこのような名前が付いたと云われる。

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八段錦型:一段錦~八段錦

【第一段錦】
写真1-1 ①基本姿勢から、両手の手の平を上にして、へその前で軽く組み、
写真1-2 ②息を吸いながら、組んだ手を顔の前迄上げて行き、手の平を下に向け、
写真1-3 ③息を吐きながら、手の平を下にした状態のまま下におろし
写真1-4 ④息を吸いながら、組んでいる手を上げて行き、顔の前で手の平を外側に返し、頭上まで上げて行き
写真1-5 ⑤組んだ手をほどき、息を吐きながら左右に大きな円を描くように手を下ろし基本姿勢に戻る。(
または、基本姿勢に戻りながら、第二段錦の姿勢に入る)
※手の上下の際は、水に浮かんだボールを沈めたり、持ち上げたりする感じで行う。

【第二段錦】
写真2-1 ①足を肩幅の2倍程に開き、膝を曲げて腰を落とし、手は自然に前に下ろし両手を軽く握り、
写真2-2 ②息を吸いながら両手を胸の前まで持ち上げながら、胸の前で、左手でVサインを作り、
写真2-3 ③息を吐きながら、左手のVサインを左横に広げ、視線はVサインの向こうをうっすらと見、同時に右手は弓を引くように大きく右に引き、
写真2-4 ④息を吸いながら、左手のVサインを閉じながら、両手を胸の前に戻し、
写真2-5 ⑤息を吐きながら両手を下ろす。
同じ要領で右手のVサインで行い、終われば、⑤息を吐きながら両手を下ろすと同時に、基本姿勢に戻る。
※Vサインを作り弓を引くようにする際にも力まず、自然体で行う事。

【第三段錦】
写真3-1 ①基本姿勢から、息を吸いながら、手の平を上に向け、顔の高さ迄、両手を上げ、
写真3-2 ②息を吐きながら、手の平を下にして、両手をみぞおち迄下げ、
写真3-3 ③息を吸いながら左手は上(天)に、右手はそのまま下(地)へ下げ(天地を分ける感じで)、
写真3-4 ④息を吐きながら、右手はそのまま、左手をゆっくり横から円を描くように下ろし、基本姿勢に戻す。
次は、左右の手を代えて行う。

【第四段錦】
写真4-1 ①基本姿勢から、息を吸いながら、手の平を上にして、両手を顔の前迄上げていき、
写真4-2 ②息を吐きながら、顔の前で手の平を返し(下に向け)下ろす。同時に首をゆっくり左に向け、意識を丹田から右足の土踏まずに移動させ、
写真4-3 ③息を吸いながら、手の平を上に向け、両手を顔の前迄上げると同時に、首を正面に向け、意識も丹田に戻し、
写真4-4 ④息を吐きながら、両手を下げ、基本姿勢に戻る。
次は右側に首を向ける動作を行う。

【第五段錦】
写真5-1 ①基本姿勢から、息を吸いながら、足を肩幅の2倍程に開き、膝を曲げて腰を落とし、手は太腿に置き、正面を向き、
写真5-2 ②息を吐きながら、肩から右を向き、上体を右前に倒し、
写真5-3 ③腰を軸にして上半身を右から左にゆっくりと回転させ、
写真5-4 ④頭が左膝の上迄きたら、
写真5-5 ⑤息を吸いながら、顔だけゆっくりと右に回して右足先に目線を向け、
写真5-6 ⑥息を吐きながら、顔を左に回し、目線を左膝の上に戻し、息を吸いながら基本姿勢に戻る。
次は、同じように左右を逆にして行う。

【第六段錦】
写真6-1 ①基本姿勢から、息を吸いながら、手のひらを下にして肩まで上げ、
写真6-2 ②息を吐きながら下ろし、手首を反る様に曲げ、下ろした手を少し後ろに引き、
写真6-3 ③息を吸いながら、両腕を前方から頭上まで上げ、
写真6-4 ④両手を上げたまま、息を吐きながら、腰を中心に上半身を右へ傾け、
写真6-5 ⑤半円を描く様に、上体を前に倒しながら、右から左に大きく回転
写真6-6 ⑥上半身が左にきたら、息を吸いながら、後ろに倒しながら左から右に回転、その間目は両手の指先を見て3回転する。反対側も同じ様にし
写真6-7 ⑦最後の回転時に、両手を頭上高く押し上げ、
写真6-8 ⑧息を吐きながら前屈し、下ろした両手で足首を外側から掴み、息を吸いながら、状態を起こし、基本姿勢に戻る。(または、基本姿勢に戻りながら、第七段錦の姿勢に入る)

【第七段錦】
写真7-1 ①息を吐きながら、足を肩幅の2倍程に開き、膝を曲げて腰を落とし、手は自然に前に下ろし両手の拳を握り、
写真7-2 ②息を吸いながら、拳の甲を上にして、胸の高さまで上げ、
写真7-3 ③息を吐きながら左拳を強く握り左前方に突き出し、同時に右拳も強く握って右に引き(弓を引く形)、目は左の拳を追いかっと見据え、(力強く、気力を増大させる)
写真7-4 ④息を吸いながら、両拳を胸の前に戻し(目は左拳を追う)、正面を向き、息を短くハァと吐きだすと同時に力を抜き、
写真7-5 ⑤息を吸いながら、両拳を頭上に上げ、拳を広げ、
写真7-6 ⑥息を吐きながら、体の横に大きな円を描くように両手を下ろし、最初の姿勢に戻る。
次は同じように左右を逆にして行い、最後に基本姿勢に戻る。
※③では、気力を充実させる必要があるが、力みすぎることのないよう注意する事。

【第八段錦】
写真8-1 ①基本姿勢から両足を狭め(両足の間に拳一つ程入れる広さ)、
写真8-2 ②息を吸いながら、手の平を下に向け、両手を肩の高さ迄上げ、
写真8-3 ③吐きながら、両手を下ろし、元の姿勢に戻り、息を吸いながら、肛門を引き締め、両足の踵を上げ、しばらく間を取り、
写真8-4 ④肛門から力を抜き、息を吐きながら、踵をストンと落とし、しゃがみ込んで膝を抱え、自然呼吸で、踵をつけたまま、前後に軽く揺すり、元の姿勢に戻る。
この動作を2~3回繰り返す。

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64日目:11月20日(日) 雨のち晴  (ヨダレカケ?)

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経1巻(朝)、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 4時に起床時に降っていた雨は、明け方には止んだ。

 今日は、公民館長の林さんが、広島大学の学生達を引き連れ、寝待温泉の後片付けにやってきた。

 寝待温泉は、2ヶ月半前の、9月5~6日にかけて屋久島地方を通過した台風14号で裏山の崖が崩壊、その土石が温泉に流れ込み、温泉内は清掃をして入浴可能な状態に回復したが、出入口は、ドアーが破損、大小の岩が押し入った状態のまま放置され、入口は使用不能で、温泉入浴は、脱衣場側のドアーから出入りをしていた。

 その状態を回復する為の作業を広島大学の学生達に依頼したらしい。

 広島大学の学生達は、生物生産学部水産資源学研究室(具島健二教授)の大学院生で、口永良部島前田集落内に民家を借り上げ、共同で自炊生活をし、様々な魚の研究を30年以上にわたって行ってきており、日頃は西の湯に隣接する美浦海岸で、日々の魚達の行動を観察しているが、その研究の1つにヨダレカケ(注2)があるらしい。

 赤ちゃんのヨダレカケではありません。寝待に来た当初、海岸の岩場でぴょんぴょんと飛び跳ねているので、トビハゼかとも思ったが、そうではなく、海中での暮らしを捨て、陸上で岩の上に張り付いて暮らすという珍しい魚で、3年程前に、NHKの大自然スペシャル・生きもの地球紀行取材陣が3か月間島に滞在、その間、レポーターで俳優の柳生博も寝待にやって来たらしい。

 そんな話を聞いているうちにも、学生達は、温泉入口の岩を除去し、大量のゴミを浜辺で焼却し、昼過ぎには片付き綺麗になった。

 学生達が引き揚げてから、浜辺を散策し、打ち上げられている大量のゴミの中からロープの束を見つけ、絡まっているロープを根気よく解いて、50m程のロープ2本の内の1本で、鹿のくくり罠を10セット作る。

 と云うのは、沖永良部島の山野を歩きまわって気が付いたことの1つに、ロープやワイヤーで輪を作った物が、あちこちに散見。これが、鹿を捕獲する罠である事が分った。

 この罠は、人間が傷つく事はあり得ない単純な構造であったので、くくり罠を作り、鹿の通り道に仕掛けることにしたものである。

注2:ヨダレカケ
魚なのに岩の透き間で産卵し、雄が卵を守るという極めて珍しい生態をもつ魚で、岩に張り付く吸盤が口の下にあり、それが赤ちゃんの涎掛けに似ているので、このように命名された。ヨダレカケは波打ち際で藻を食べて暮らしており、潮の干満に合わせて、飛び跳ねて移動する特異な生態を有する。個人的感想であるが、海中での暮らしを捨て、陸上で暮らすという、ヨダレカケの生態を聞くと、人間の進化の歴史を垣間見る感がした。

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65日目:11月21日(月) 晴  (2つの瀬・陸路進入路開通)

【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経2返(朝・夕)、写経1巻(朝)、座禅瞑想20分×2回(朝・夕)

 今日は、2つの瀬(寝待先端から垂直の崖を超えて行く釣り場兼貝採取場)の旧寝待道路側からの進入路が判然としないので、海側から探索することにする。

 寝待温泉奥の岩場を通り、垂直の崖を2ヶ所乗り越え、2つの瀬に着く。瀬から山側を見渡すと何か所かそれらしいところがあるが、其々急斜面で突き当たる。

 最後に、1番西側の崖の上に登ると、クマザサが茂りその奥に竹藪が続き、1本の細い水路らしい跡を辿ると、視界の広がる竹林に出て、前回旧寝待道路側から入った際、目印に着けていた赤い印(太いロープの撚りを戻して、50cm程にカットしたもの)を発見し、無事陸路進入路が開通した。

 これで、危険な崖越えをせずに、2つの瀬に行くことが出来るので一安心。

 残るは、湯向集落側にある平板(ひらばん)への進入路作りを残すのみとなった。

 夕方、寝待集落の住人で、肉牛の飼育をしながら、温泉の清掃を請け負っている前原さんが来て、奥さんが腰痛の為、明日、牛の餌にする唐芋刈を手伝ってほしいとの依頼があったので了解する


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66日目:11月22日(火) 晴  (久しぶりの卵と唐芋掘り)

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経2返(朝・夕)、写経1巻(朝)、座禅瞑想20分×2回(朝・夕)

 午前中、本村のAコープにインスタントコーヒーを買いに行くと、何と、卵があるではないか、卵様の顔を見るのは久し振り、こんな口永良部島が好き。

 10個入りのパックを2個買って帰るが、余りの嬉しさに、肝心のインスタントコーヒーを買い忘れた。

 帰り路、田代集落に在る前原さんの牧場に寄り、唐芋(サツマイモ)掘りを手伝う。唐芋とはサツマイモの事で、牛の餌にするらしい。

 生まれて初めての芋掘り。そんなに広くない畑ではあるが、初めての作業に腰が痛くなった。終わってから、前原さんの奥さん手作りの弁当とビールを御馳走になる。

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67日目:11月23日(水) 晴  (ボウフウの天ぷらは絶品)

【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経2返(朝・夕)、写経1巻(朝)、座禅瞑想20分×2回(朝・夕)

 今朝は、3時前に目覚め、早すぎるので、寝床で本を読んでから4時に起床。

 朝の日課を終え、温泉に入浴し、朝食を摂ってから、寝待集落の住民・森杉のバッチャンから、自宅の窓拭きを頼まれたので、午前中ガラス拭き作業をする。

 森杉のバッチャンの子供達は大阪で、ご主人は本村に居住しており、バッチャン自身は足が悪い為大掃除は出来ないので、年末を迎えてのガラス拭き。

 寝待集落の大方の家はバラック造りで、玄関は板製であるが、森杉のバッチャン宅は、玄関をはじめベランダや小窓にはアルミサッシが入っている都会風(?)家。

 窓拭きが終わると、バッチャンから、缶ビール2本と焼き豚、インスタントコーヒーを頂く。

 昼から、森杉と矢野のバッチャンから、寝待集落の海岸沿いに自生するボウフウ(注3)と云う
野草を教えてもらい、その新芽を摘んで天ぷらにしてもらい食する。美味い。旅に出て初めて出会った最高の美味さ・・・絶品。

 明日からは、野菜不足をボウフウで補うぞー・・・

 夕食は、ボウフウの天ぷらと、バッチャンから頂いた焼き豚を酒の肴にして、ビール2本と焼酎
・三岳を3杯も飲んでしまった。

注3:ボウフウ (ボタンボウフウ)別名・長命草(ちょーみーぐさ)
与那国島では、断崖に自生、激しい潮風と照りつける太陽などの非常に厳しい自然条件下で生育している野草で、「1株食べると1日長生きする」と云われ「長命草」の名で親しまれてきた。古くから滋養強壮食材として、また、殺菌・抗菌作用を持つことから刺身のつまとして利用されていたが、与那国町商工会が長命草を商標登録し、「長命草青汁」、「長命草茶」等を販売、町も「町興しの特産物」として位置付け、道路際に大きな宣伝看板が立てて、販売に力を入れている。
なお、与那国商工会が保有する商標「長命草」の使用権は、日本ランチェスター工業(株)(兵庫県三田市)が有し、同社が加工技術等を提供している。
個人的には、年中新芽を出し、冷蔵庫で長期間保存も出来るので、天ぷらの他、おひたし、炒め物の具材として重宝した。

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68日目:11月24日(木) 曇  (ボウフウ収穫と鹿罠の仕掛け)

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経2返(朝・夕)、写経1巻(朝)、座禅瞑想20分×2回(朝・夕)

 与那国島では、切り立った崖に自生している長命草(ボウフウ)を確認したものの、食する事はなかったが、寝待のボウフウ(長命草)は、駐車場から温泉にかけての足場の良い海岸沿いに幅広く自生しており、その新芽の天ぷらは絶品だったので、今日は寝待以外のボウフウの自生地を探索する。

 寝待集落の住人で、口永良部島の長老でもある2人のバッチャンからの情報では、寝待以外では湯向の海岸に自生しているとの事。

 背負い籠に昼食用のおにぎりと鹿を捕獲する為のくくり罠を10セット入れ、9時に出発し、寝待集落のコンクリート製貯水塔から、旧寝待道に入り、鹿の通り道らしい場所に、くくり罠を仕掛けながら湯向集落に向かう。

 湯向集落のボウフウ(長命草)自生地は、波止場に出る手前の待避壕付近に集中しており、両手一杯程の新芽を集めて13時過ぎに寝待に帰る。

 収穫したボウフウ(長命草)は、バッチャンに渡し、午後から、温泉の道と、神様付近の草刈りをし、バッチャンに昨日同様ボウフウ(長命草)の天ぷらを作ってもらい食する。

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69日目:11月25日(金) 曇  (湯治客到着)

【トレーニング】ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング
【お勤め】般若心経9返(朝・昼・夕各3返)、写経3巻(朝・昼・夕各1巻)、座禅瞑想20分×6回(朝・昼・夕各2回)

 今朝も2時に起床。最近起床時間が早くなってきた。

 5時前後に就寝するので当然の結果か。

 朝から温泉に入っており、これで、朝から酒を飲めば、会津民謡「会津磐梯山」に登場する小原庄助さんではないかと一瞬頭をよぎり、「小原庄助さん なんで身上つぶした 朝寝 朝酒 朝湯が大好きで それで身上つぶした ああもっともだ もっともだ」と歌ってしまった。

 今日は、本村に買出しに行く予定をしていたが、中止をし、1日中お勤めに専念する。

 夕方、寝待湯治小屋・5号室に新しい湯治客が到着した。30歳前半の男性で、楠木さん。

 楠木さんは、若い頃より南西諸島が気に入り、各島で働きながら移動する生活を続けており、今回、沖縄県伊江島の葉タバコ農家からの連絡待ち期間を利用して、4~5年前に訪れたことがある寝待湯治小屋に来たらしい。

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70日目:11月26日(土) 天気? (食中毒) 禁酒

 昨夜から腹の調子が悪くなり、下痢と嘔吐があり、久し振りに苦しい思いをした。原因は特定できないが、一昨日頂いた刺身を、火を通さなければと思いつつ、酒の肴にしてしまった為かと思いつつ、禁酒は当然、絶食と入浴も控え、1日中安静にして過ごす。

 こんな日に限って、差し入れが多い。5号室の楠木さんからは、釣りたての魚。バッチャン達からは、焼酎・缶ビールにタケノコ、天ぷら。火力発電所に勤務する一郎さんからは、刺身。

 好意で頂いた刺身が原因の食中毒とは、口が裂けても云えないので、有難く頂戴したが、食べ物は全て放棄することになった。ごめんなさい。

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71日目:11月27日(日) 天気?  (安静日) 禁酒

 体調は少し良くなってきたが、絶食を続け、温泉にも入らず、安静にする。

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72日目:11月28日(月) 天気?  (回復・散歩) 禁酒

【トレーニング】ストレッチ、八段錦
【お勤め】般若心経3返(朝・昼・夕)、写経1巻、座禅瞑想20分×3回(朝・昼・夕)

 腹の調子も良くなったので、お粥を食べ、3日振りに温泉にも入り、散歩に出掛け、トレーニングを再開し、お勤めもする。

 症状は回復したが、今一、体に力が入らない。

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■写真

写真は和坊流宇宙(http://www.justmystage.com/home/kazubo/)の和坊放浪記:口永良部島編part9でご覧ください。


続く・口永良部島編part10


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2009年2月 2日 (月)

口永良部島編:part8


和坊放浪記:口永良部島編part8


平成17年・備忘録


 項目

■寝待・湯治小屋
 52日目:11月 8日(火) 晴      (アマメの捕獲法)
 53日目:11月 9日(水) 晴のち曇  (テレビは有害)
 テレビ有害論 
 54~58日目                (座禅瞑想・断食)
 座禅瞑想
 59日目:11月15日(火) 晴      (紀宮清子内親王殿下ご結婚)
 60日目:11月16日(水) 晴      (簡易水道修理)
 61日目:11月17日(木) 晴一時雨  (選挙違反捜査)
 62日目:11月18日(金) 曇のち晴  (温泉清掃)
※本文中赤字は写真あり
写真 

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■寝待・湯治小屋


52日目:11月8日(火) 晴  (アマメの捕獲法)

 夜中虫に刺されたのか余りの痒さに目が覚める。夜中と云っても午後8時。目覚めたついでにトイレに行く為外に出ると満天の星空。

 暫く星空観察をしてから、部屋に入り布団を点検するが、虫は発見できなかった。

 寝待・湯治小屋5号室では、部屋の中にテントを張って寝ていたが、1号室に替わってからは虫刺され被害はなかったが・・・1号室お前もかの心境。

 4時に起床。満天の星空の中を温泉に行く。温泉に行く道がアマメ(船虫)の大群で真っ黒になっている。その中に足を踏み入れると、足底のアマメが一斉に逃げ去り、足底の面積だけがコンクリートの白い色が現れる。その繰り返しで温泉まで辿り着いた。

 少し大袈裟な表現だが、とにかくアマメの多さには参る。

 このように嫌われもののアマメだが、釣り餌には最適らしく、本村集落から魚釣りの餌として捕獲に来る人がいる。と云う事は本村にはアマメはいないのか。アマメはいるが寝待程大量にはいないと云う事だと思う。

 このアマメはすばしっこく素人の我々には捕獲は困難であるが、慣れた漁師さんたちは、塵取りとホウキ、バケツを持参し、ゴミを掃く要領で塵取りの中にアマメを追い込み捕獲し、見る間にバケツの中はアマメだらけになるといった具合。

 しかし、普通の人達は、浜に打ち上げられている漁具でプラスチック製ブイ(直径3~40cmの浮き球)を半分に切断して、その中に、魚の食べ残しを入れ、夕方岩場の隙間に置いておくと、匂いにつられてアマメが中に落ちるので、翌朝それを回収するといった方法でアマメを捕っている。

 それ以外には、暗くなってからアマメに懐中電灯を当てると、一瞬アマメの動作が鈍くなるので透かさず手で捕るといった方法もある。

 また、アマメは雑食性で、藻類や生物の死骸等様々なものを食べる海岸の掃除虫で、特に、生活排水垂れ流し状態の寝待集落に於いては、有難い存在であるのかもしれない。

 この様に、有難くもあり、有難くも無い存在のアマメを観察していると奇妙な行動を発見した。

 アマメは個体で行動しているのではなく、1つのグループを作っているのではないかと思う。と云うのは、寝待のアマメは、8匹ぐらいが頭を寄せ合い円状(菊の花びらのような状態)に1つのグループを作り、それらのグループがあちこちに散在し、大きな集団を作っている。

 寝待以外で、アマメ(船虫)の集団を見たことが無いので、このような行動が普通なのかどうか判断の仕様がないものの、敵である魚やイソヒヨドリから身を守る為なのかなぁと思うといじらしくもなった。

 とにかく、今日は、虫刺されを防ぐ意味で、布団を日光消毒し、布団カバーや、タオルケットの洗濯をする。

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53日目:11月9日(水) 晴のち曇  (テレビは有害)

 口永良部島のテレビやラジオ放送の受信状態は芳しくないものの、新聞や雑誌類の無い島ではラジオが唯一の情報源(テレビは何十年に亘ってテレビの無い生活をしてきたので興味が無くなっている・テレビ有害論)。

 そのラジオもNHKが辛うじて受信できるものの、早朝は朝鮮放送の電波が強く聞きずらいが、4時過ぎからの心の時代からラジオを聞くのが楽しみの一つ。

 心の時代が終わると、今日は何の日がある。それによれば今日は太陽暦採用記念日(注1)と語呂合わせで119番の日らしい。

 昨日に続き本日も晴天。2日連続で布団の天日干しをして、空缶・瓶捨てに本村に行き、Aコープで食料品の買い出しと、その帰途、田代の一周道路沿いに在る湧水を汲んで帰る。

 新村集落出身で現在寝待集落の住人である前原さんによれば、田代湧水は口永良部一の名水との事なので、寝待集落簡易水道水源の泥とゴミの状態を見て以来、飲み水はこの田代湧水を汲んで利用している。

 簡易水道水源の泥とゴミを見る前は、何の違和感もなく飲み水としていたのに、見た途端に飲み水としては適さないと思うのは人間の脳の為せる技なのか・・・

テレビ有害論
1953(昭和28)年2月1日にNHKが、半年後の8月28日に日本テレビが本放送を開始。本放送開始当日の受信契約数は、千件未満であったものの、日本の経済成長にともなって、電気冷蔵庫、電気洗濯機とともに、3種の神器として家庭に受けいれられ、急速に普及しはじめた。
1958(昭和33)年に完成した東京タワーによって、関東一円にサービスエリアが広がったことと、翌年の皇太子ご成婚の年で一気に普及。
その後、1963(昭和38)年には、日米間の衛星中継が成功(最初のニュースがケネディ暗殺だった)。翌年の東京オリンピックの開催ではカラーテレビが普及し、1971(昭和46)年には、NHK総合テレビによる全時間カラー放送が始まった。やがて、各家庭に1台から各人1台の時代に入って行き、放送技術は年々進化するものの、放映される中身は年々退化する一方で、くだらないバラエティやトーク番組、レポーターと称する輩がはびこるワイドショーとか、幼稚化した政治家が出演する政治ショー、新聞各紙をボードに貼ってニュース解説をするような程度の低い安易な番組等々が24時間休むことなく垂れ流され続けられている。
社会評論家の大宅壮一が「テレビばかり見ていると、人間の想像力や思考力を低下させてしまう」という意味で、一億総白痴化(いちおくそうはくちか)との流行語を生みだしたが、まさに、日本社会が崩壊している現在、その元凶は、テレビであろうと断言する。
大人の場合は、テレビ社会から離れることで白痴化から免れることが出来るが、深刻な悪影響下にあるのは乳幼児である。
幼児期からテレビを見続けていると、テレビ番組の楽しさだけにしか反応しない「テレビ脳」になって前頭葉が働かなくなり、思考能力を失い、言葉や心の発達を妨げ、「キレる」「ムカつく」と云った短絡的行動様式と共に、暴力映像への長時間接触が、後年の暴力的行動や事件に関係していることは、まぎれもない事実であろう。
日本小児科学会が2004(平成16)年2月に発表した「子どもとメディア」の中でテレビの危険性について、人の脳は、ゼロ歳から2歳までが急速に発達し、その重量は5歳迄に大人の90%になるが、この時期にテレビなどを見せるだけで親子のスキンシップが不足すると、心や言葉の発達に影響を及ぼす可能性があるので、
1. 2 歳までのテレビ・ビデオ視聴は控えましょう。
2. 授乳中、食事中のテレビ・ビデオの視聴は止めましょう。
3. すべてのメディアへ接触する総時間を制限することが重要です。1 日2 時間までを目安と考えます。テレビゲームは1日30 分までを目安と考えます。
4. 子ども部屋にはテレビ、ビデオ、パーソナルコンピューターを置かないようにしましょう。
5. 保護者と子どもでメディアを上手に利用するルールをつくりましょう。
と云う5つの提言をしている。
今からでも遅くはない、家庭からテレビを追放し、ラジオを聞こう。
幸い、現行の地上アナログ放送は停止され2011年7月からデジタル化に移行される。これを機にNHKを含む全テレビ放送を有料化する事を提案する。

注1:太陽暦採用記念日
1872(明治5)年11月9日に、それ迄使用していた「太陽太陰暦(旧暦)」を廃止し、「太陽暦(新暦・グレゴリオ暦)」を採用する旨の布告をだした。これを記念した日である。
太陽暦は同年12月2日から採用され、翌同年12月3日が、1873(明治6)年1月1日となった。
※太陽太陰暦:持統天皇4年(690年)(692年との説もある)に中国暦を導入以降、江戸時代迄の1200年近く月の運行を元にした農業暦として定着していた。
※持統天皇(高天原廣野姫):日本の第41代天皇。女帝。万葉歌人としても天皇御製歌として名を留めている。代表作は「春過ぎて 夏来るらし 白妙の 衣干したり 天香具山」(万葉集28)
※天香具山(あまのかぐやま、あめのかぐやま):奈良県橿原市にある標高152mの丘陵で、畝傍山、耳成山とともに大和三山と呼ばれているが、カシオペア座とする説もある。
■暦
古代エジプト文明の人々は天文学的観測技術が無い中で、北の空に輝く最も明るい星シリウスと天空上の太陽の運行との関係を示す太陰暦を作り上げていた。
暦には、この太陰暦を含み、天文周期を組合せて作られた、年・月・日を表わす太陽暦、太陰太陽暦の3種類がある。
※シリウス:古代エジプトでは、季節の始まりを示す星として、また、ナイル川の氾濫時期を知らせてくれる星として(日の出直前東から昇る時期とナイル川の氾濫時期とが重なる)崇められてきた。太陽を除けば地球上から見える最も明るい恒星でオリオン座の三つ星の東南方向に一際明るく輝いており、おおいぬ座にあるため犬星とか天狼星(中国)とも呼ばれ、日本ではその色から青星とか、おおぼしとも云われてきた。
オリオン座・ベテルギウス、こいぬ座・プロキオンとともに冬の大三角を形成する。
☆太陽暦
1,エジプト暦:古代エジプト人は、シリウスと太陽が、地球上から見て正反対側(天球上で方向が180度離れた場所)に有る位置関係が1年周期(365日)で繰り返されることを見つけた。これによって太陽暦が生まれた。
2,ユリウス暦:1太陽年は365.25日であるが、1年を365日とするエジプト暦では、1年に0.25日のずれが生じるため、BC46年(紀元前)ローマ将軍ユリウスが4年ごとに366日の閏年(うるう)を設けるユリウス暦を制定した。現在4の倍数の西暦年数を閏年とするのがこの方式である。
3,グレゴリオ暦:太陽年は正確には365.2422…日なので、4年ごとに1日増やすユリウス暦では1年に0.0078日(365.35-365.2422=0.0078)、400年に3日のずれが生じる。
そこで時の法王グレゴリオ13世は、400年に3日だけ閏年を減らすという新しい太陽暦を定めた。これがグレゴリオ暦である。ただし、西暦が4の倍数でも100の倍数の年(400の倍数の年は除く)は、閏年から除く。わが国では、明治5年(1872)12月2日に旧暦からグレゴリオ暦に切り替えられ、その翌日が明治6年1月1日となって現在に至っている。
☆太陰暦
月の満ち欠け、すなわち新月(満月)から次の新月(満月)までの時間の29.53日の1朔望月(朔望月・さくぼうげつ・朔は新月、望は満月を示す)を周期とし、新月の日を月の第1日(ついたち)とする暦が太陰暦で、1年を12ヶ月354日(奇数月30日、偶数月29日)としたため、1月の平均は29.5日となった。これにより約33ヶ月に1日のずれ(29.53-29.5=0.03、1÷0.03=33.3)が生じ、このときには30日の月を2回続けることでずれを調整している。現在回教徒の国で使用する回教暦は太陰暦である。
☆太陰太陽暦
純粋な太陰暦では1年が354日のため、3年で1月のずれが生じる。これを解消するのに太陽暦に閏月を置く方式を採用したのが太陰太陽暦である。正確には1太陽年から12朔望月の差の日数10.8750日(365.2422-354.3672=10.8750)を月数に換算した数字0.3683月{10.8750÷354.3672÷12)=0.3683}に近い値の分数8分の3(0.3750)乃至19分の7(0.3684)を採り、紀元前25世紀のバビロニア暦では、8年に3回の閏月。紀元前15世紀の中国暦では、19年に7回の閏月を置いた。

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54~58日目(座禅瞑想・断食)

 10月30日に寝待・湯治小屋5号室から1号室に引っ越して以来、1号室から見える奇岩・立神や海岸に打ち寄せる波の音、鳥のさえずり、風が流れる音・・・道路側の5号室から、海側の1号室に変わっただけなのに、部屋の中で座っているだけで、心の安らぎを覚え、般若心経を唱え、写経と座禅をしてきたが、今日から本格的に座禅瞑想・断食をすることにした。

 なお、ストレッチ、八段錦(はちだんきん)は30年程前から実行していたものであり、チューブトレーニングは先般、運動不足解消の為、屋久島出張時に買い求めたものである。

 また、断食は誕生日に1日断食や3日断食を実行してきており、座禅に関しては、以前から取り入れていたが、今回は断食を伴う座禅瞑想(自分勝手の命名)を実行することにした。

54日目:11月10日(金) 雨  (座禅・瞑想断食1日目) 禁酒

般若心経(注2)9返(朝・昼・晩各3返)、写経3巻(朝・昼・晩各1巻)、ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング、座禅・瞑想20分×3回。【摂取物】水分無制限、缶ジュース朝・昼・晩各1本。

55日目:11月11日(土) 雨  (座禅瞑想断食2日目) 禁酒

般若心経9返、写経3巻(朝・昼・晩各1巻)、ストレッチ、八段錦、座禅瞑想20分×10回。【摂取物】水分無制限、缶ジュース朝・昼・晩各1本。

 昨夜7時に就寝、5時起床10時間の熟睡。寝過ぎか。

56日目:11月12日(土) 曇  (座禅瞑想断食3日目) 禁酒

般若心経9返、写経3巻(朝・昼・晩各1巻)、ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング、座禅瞑想20分×3回。【摂取物】水分無制限、缶ジュース朝・昼・晩各1本。

57日目:11月13日(日) 曇のち雨  (座禅瞑想断食4日目) 禁酒

般若心経9返、写経3巻(朝・昼・晩各1巻)、ストレッチ、八段錦、座禅瞑想20分×10回。【摂取物】水分無制限、缶ジュース朝・昼・晩各1本と朝晩お粥。

 本村集落では住民総出の草刈り日、温泉は夕方から草刈りを終えた人達で温泉は満員盛況。

58日目:11月14日(月)雨のち曇  (座禅瞑想断食5日目) 禁酒

般若心経9返、写経3巻(朝・昼・晩各1巻)、ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング、座禅瞑想20分×3回。【摂取物】水分無制限、缶ジュース朝・昼・晩各1本と3食お粥。

 寝待集落・個人所有の湯治小屋の住人・矢野のバッチャン宅に殆ど毎日寝泊まりしている人の息子さんで口永良部島火力発電所に勤務する一郎さんから、欠員が出来たので、1年契約の臨時職員にとの要請があったが、緊急時に本村に在る火力発電所に行く足(車)が無い事を理由にお断りする。

座禅瞑想
座禅瞑想とは、特別な訓練や過酷な修行を伴うものではなく、心身をリラックスさせ、脳の中に脳内麻薬を出すことであり、その為には、「1/fのゆらぎ」の環境下で脳波をアルファ波にすることである。
アルファ波を出すためには「いかにしてリラックスすることができるか」ということになり、1/fのゆらぎの環境下で、眠らず、何も考えず、黙って静かに時間を過ごすと云った条件を揃えることができれば、ほぼ確実に誰にでもアルファ波は出現する。
1/f(えふぶんのいち)のゆらぎとは、元来自然の音の中に含まれているもので、規則性は無いがある特定の法則性を持った音、例えば、そよ風の音、小川のせせらぎの音、波の音、小鳥のさえずり等人間が心地良いと感じる自然界の音の中に存在している。
脳内麻薬:通常麻薬とは、ケシの花が枯れて数日すると、ケシ坊主と呼ばれる果実を実らす。それに切り傷を入れて出てくる乳汁から麻薬の阿片が取れ、その薬効は、鎮痛効果の他に、快感、恍惚感、浮上感があり、常用すれば麻薬中毒になり、人間の心と体を蝕む恐ろしい薬だが、その一方で末期ガン患者の激しい痛みを解消してくれる薬でもある。
この様な麻薬作用を持った物質が我々の脳内にも存在している。この脳内麻薬は 1975(昭和50)年ブタの脳から発見され、その後、脳下垂体から取り出したエンドルフィンが麻薬作用を持っていることが確かめられ、なかでもベータ・エンドルフィンという物質は鎮痛作用が一番強く、モルヒネの6.5倍もあることが判った。
ベータ・エンドルフィンは脳の内部の根底に密に分布し、脳の活動を左右しているとも云われ、また、脳内の多くの神経の中で、精神系だけを走り、刺激されるとドーパミンという神経伝達物資が分泌されると共に快感を生じさすA10(エイ・テン)と呼ばれる神経を刺激する働きがある。
実験によると、このエンドルフィンが放出されている状態ではアルファ波が出てことが確かめられている。
座禅瞑想のやり方
●座り方
原則的には、あぐらの状態から右足を左の太股の付根にのせ、次に左足を右の太股の付根にのせるのが、結跏趺坐(けっかふざ)だが、どちらの足が上でも構わない。体が固くて結跏趺坐は難しいという人なら、片方の足だけを組むのが半跏趺坐(はんかふざ)でも可。座禅の最中に足が痛くなった場合は、足を組み替えたり、結跏から半跏に直しても良い。要は安定した座り方ができればいいのであり、足を組めなければ正座でも構わないし、イスに姿勢を正して腰掛けても良い。
●手の組み方
法界定印(ほっかいじょういん)とよばれる組み方は、右手を組まれた足の上に置き、左の手のひらを右手のひらの上に置き、左右の親指の先をかるく触れ、できた輪の形を卵型にするが、左右の手の上下はどちらでもよく、また、左右の手を太股の上に置く(開いても握っても良い)だけでも可
●調身・身体を調える
足を組み手の位置が決まれば、上半身を振り子のように前後左右に揺すって、しっかりと腰の位置を決め、次に、上体だけをまっすぐに起こし、顎を引き肩の力を抜いてリラックスし、目は閉じず自然に軽く開け(凝視せずぼんやりと眺めるようにすれば、おのずと半分閉じた状態になる)、視線を1~2m前方のローソクの火を見る。
●調息・呼吸を調える
息を鼻から深く長く吸い込み、これを徐々に口から吐き出します。この深呼吸を数回行った後は、鼻呼吸にする。ヘソ下の丹田に意識を集中し、「いーち」という感じで力まず息を細く長く吐き切る(体中の空気を全部出すつもりで)。吐けば自然に吸う息となり、「にーい」と同じように息を吐き切り、これを繰り返して10まで到達したら、また1から繰り返す。吐く息を長く主にし、吸う息を従にした腹式・丹田呼吸をする。普段の呼吸回数は1分で17、8回だが、慣れると5、6回になる。
●調心・心を調える
雑念を払い欲望を捨て去り無心の状態に持っていくことは決して簡単ではないので、取敢えず、欲望・雑念・妄想・眠気・苛立ち・痛み・しびれ等心や体の感覚を頭の中で簡単な言葉で確認する。確認し続けることで、今という瞬間に意識が集中し、自分を客観的に“観る”ことが出来る。すると雑念が消え、瞬時に集中力が生まれ、だんだんと気持ちが落ち着いてきて、自ずと心も調ってくるので、焦らず行うことが肝心である。
●座禅瞑想の時間
10分から30分程が目安。座禅瞑想ははガマン大会ではないと云う事を心する事。
●終わり方
2~3回大きく深呼吸し、ゆっくり立ちあがり、首を回し、手足をブラブラさせ、体を脱力する。
注意事項
①身体を十分動かしてから取り組む事。
②幻覚が現れた場合、軽く眺める程度にして、興味を持ったり、追いかけたりしない事。

注2:仏説摩訶般若波羅蜜多心経(ぶっせつまかはんにゃはらみたしんきょう)
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時(かんじざいぼさつぎょうじんはんにゃはらみたじ)
照見五蘊皆空度一切苦厄舎利子(しょうけんごうんかいくうどいっさいくやくしゃりし)
色不異空空不異色色即是空空即是色(しきふいくうくうふいしきしきそくぜくうくうそくぜしき)
受想行識亦復如是舎利子(じゅそうぎょうしきやくふにょぜしゃりし)
是諸法空相不生不滅不垢不浄不増不減(ぜしょほうくうそうふしょうふめつふくうふじょうふぞうふげん)是故空中無色無受想行識(ぜこくうちゅうむしきむじゅうそうぎょうしき)
無眼耳鼻舌身意無色声香味觸法(むげんにびぜつしんにむしきしょうこうみそくほう)
無眼界乃至無意識界(むげんかいないしむいしきかい)
無無明亦無無明盡乃至無老死亦無老死盡無苦集滅道(むむみょうやくむむみょうじんないしむろしやくむろうしじんむくしゅうめつどう)
無智亦無得以無所得故(むちやくむとくいむしょとくこ)
菩提薩?依般若波羅蜜多故(ぼだいさったえはんにゃはらみたこ)
心無?礙無?礙故無有恐怖遠離一切?倒夢想究竟涅槃(しんむけいげむけげこむうくうおんりいっさいてんとうむそうくぎょうねはん)
三世諸仏依般若波羅蜜多故得阿耨多羅三藐三菩提(さんせいしょぶつえはんにゃはらみたことくあのくたらさんみゃくさんぼだい)
故知般若波羅蜜多(こちはんにゃはらみた)
是大神呪是大明呪是無上呪是無等等呪能徐一切苦真実不虚(ぜだいじんしゅぜだいみょうしゅぜむじょうしゅぜむとうどうしゅのうじょいっさいくしんじつふこ)
故説般若波羅蜜多呪即説呪曰(こせつはんにゃはらみたしゅそくせつしゅうわつ)
羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提娑婆訶(ぎゃていぎゃていはらぎゃていはらそうぎゃていぼじそわか)
般若心経(はんにゃしんきょう)

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59日目:11月15日(火) 晴  (七五三、紀宮清子内親王殿下ご結婚)

般若心経3返、写経3巻、ストレッチ、八段錦、座禅瞑想20分×3回。

 昨夜は6時に就寝したのに、4時30分まで寝てしまった。10時間強も熟睡したことで心身ともに快調な朝を迎えた。

 七五三(注3)の今日、本村のAコープに買出しに行く予定だったが、天皇家の長女でサーヤの愛称で親しまれていた紀宮清子内親王(のりのみや さやこないしんのう)と東京都職員の黒田慶樹(よしき)さん(39歳)の結婚式。

 テレビ有害論者で日頃テレビは見ないが今日は特別。買い出しを中止して午前中テレビ鑑賞。

 式は、天皇皇后両陛下、皇太子同妃両殿下、新郎の母親ら両家合わせて31人が列席し、帝国ホテル欄の間で行われた。

 新郎の黒田さんは、紀宮さまの兄・秋篠宮さまと同級生、学習院大法学部卒業後、祖父(三井物産)や父(トヨタ自動車)の勤務先と関連の深い三井銀行(現三井住友銀行)に入行したが31歳の時に退職、現在東京都庁・都市整備局の次席(係長級)として勤務しており、都内のマンションで新婚生活がスタートするらしいとの報道であった。
※宮内庁ホームページhttp://www.kunaicho.go.jp/index.html

 テレビを見終わり、午後は、ひびが入った物干し竿の中に水が溜まり、蟻が巣を作っているので、物干し用の竹を探しに行き入れ替える。

 夕方、寝待集落の住人・前原さんが、簡易水道のパイプに異常が発生したので様子を見てほしいと訪ねて来た。

 集落入口の駐車場とトイレの間の2m程の垂直の山肌を登ると、竹藪の中に黒い大きな貯水タンクが設置されているが、そのタンクに繋がっている塩ビ製給水パイプが折れ、水が流れ出ていたので、破損箇所をテーピングし、あて木で補強するといった応急処理をする。

注3:七五三
三歳(男・女児)、五歳(主に男児)、七歳(女児)の年の11月15日に、成長を祝って神社・寺などに詣でる年中行事。
旧暦の11月15日は二十八宿の鬼宿日(鬼が出歩かない吉日)に当たり、その日に、髪置の式(3歳になると剃っていた髪を伸ばし始める)、袴着の式(5歳の男児が碁盤の上で吉方に向けて袴を着ける)、帯解の式(7歳女児の着物が、それまでの付け紐を取り去り、着物の脇をふさいで帯を締める)というそれぞれの儀式を行っていたことに由来する。
明治改暦以降は新暦の11月15日に行われるようになったが、現在では11月15日に拘らずに、前後の祝日や、お天気の良い吉日の日等、都合の良い日に行われている。
※二十八宿(にじゅうはっしゅく)
月が黄道(太陽の通り道)に沿って進む軌道付近の星座を28個定め、その場所を宿と呼んだ。
28宿の星座は4つの方角の7宿ごとにまとめられ、そのつなげられた形は4つの聖獣の姿に見たてられ、東・青龍、北・玄武、西・白虎、南・朱雀の四神(四象とも云う・高松塚古墳の壁画で有名)に分けられ、天文学・占星術(宿曜占星術)で用いられた。
なお、宿曜占星術は、真言密教の経典である宿曜経の名前に由来、弘法大師 空海が、膨大な量の密教仏典の中に、この仏典を持ち帰った。
二十八宿 ・四神(四象)
東方・青龍(とうほうせいりゅう):1,角(かく・おとめ座)2,亢(こう・おとめ座)3,氏(てい・てんびん座)4,房(ぼう・さそり座)5,心(しん・さそり座)6,尾(び・さそり座)7,箕(き・いて座)
北方・玄武(ほっぽうげんぶ):8,斗(と・いて座)9,牛(ぎゅう・やぎ座)10,女(じょ・みずがめ座)11,虚(きょ・みずがめ座)12,危(き・みずがめ座)13,室(しつ・ペガサス座)14,壁(へき・ペガサス座)
西方・白虎(せいほうびゃっこ):15,奎(けい・アンドロメダ座)16,婁(ろう・おひつじ座)17,胃(い・おひつじ座)18,昂(ぼう・おうし座)19,畢(ひつ・おうし座)20,觜(し・オリオン座)21,参(しん・オリオン座)
南方・朱雀(なんぽうすざく):22,井(せい・ふたご座)23,鬼(き・かに座)24,柳(りゅう・うみへび座)25,星(せい・うみへび座)26,張(ちょう・うみへび座)27,翼(よく・コップ座)28,軫(しん・からす座)

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60日目:11月16日(水) 晴  (簡易水道修理)

般若心経3返、写経3巻、ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング、座禅瞑想20分×3回。

 昨夜は、紀宮清子内親王(のりのみや さやこないしんのう)と東京都職員の黒田慶樹(よしき)さんの結婚報道のテレビを7時過ぎまで見てから就寝。3時30分起床。外は満月の月明かりで昼間のよう(大袈裟!)懐中電灯を点けずに温泉に行く。

 昨日買出しの予定だったが、皇室の結婚報道を見る為中止したので、午前中本村のAコープ迄買出しに出掛ける。

 Aコープの商品入荷日は奇数日なので、偶数日に行っても何もないのが普通だが、今日はおでんセットと玉ねぎがあった。おでんセットの消費期限は昨日の日付だったが頓着はしない。先日は乾麺の賞味期限が3か月も前だった。腹を壊さずに食べられれば御の字。おでんセット、玉ねぎとお米(5kg)を買って帰る。

 午後からは、簡易水道貯水タンクの給水パイプの修理。昨日は応急処理をしたものの水が止まってしまった。

 現場に行くと、パイプの割れ目から水が出ている。テープを巻くと水は貯水タンクに入って行く。しばらく様子を見る。

 結果、貯水タンク(直径約2m×高さ約3mの円形)の水位が上昇し、浮玉が上がりきると、ボールタップ弁が閉じ、貯水タンクへの給水が停止するといった、家庭の水洗トイレのタンク内と同じ構造になっている。

 貯水タンクが満タンになり、ボールタップ弁が閉じると、給水管に圧力がかかり、テーピングだけの修理箇所が剥がれ水が外に流れ出す為、水道水を使用し、タンク内の水位が下がりボールタップの弁が開いても給水されない事が分かった。

 給水パイプの取り換えが必要だが部品は勿論道具も無い状態では如何ともし難い。かと云ってほっとく(放っておく)訳にもいかず、給水パイプの破損箇所にゴムホースを繋ぎ、貯水タンクの上部のネジ式の蓋(直径約50cm)を取って、そこへ直接流しこむ方法を取り様子を見ることにした。

 夕方、寝待湯治小屋の管理者である公民館長の林さんが家族を連れて温泉入浴に来たので、簡易水道の状況を報告し、早急に本修理を依頼すると同時に、今月末迄の湯治小屋使用料¥28,800を支払う。

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61日目:11月17日(木) 晴一時雨  (選挙違反捜査)

般若心経3返、写経3巻、ストレッチ、八段錦、座禅瞑想20分×3回。

 今日は、寝待温泉先端の東側に在る通称「二つの瀬」に行く陸路が在ると、90歳の“田代のジッチャン”から教えてもらったので、その入口の確認に行く。

 通称「二つの瀬」は、寝待温泉側から足場の悪い垂直な2ヶ所の崖を、ロープを頼りに越えていかなければならず、危険を伴うので陸路があるのならば、後鏡同様(part4参照)進入路を作る心算。

 寝待集落内のコンクリート製貯水塔横から旧寝待線に入り、急な坂を登り切ったところに、車が2~3台止められる駐車スペースがあり、その先の竹林に陸路の入口があった。

 入口は直ぐに分かったが、竹林内に際立った踏み跡は見つからず、今日のところは入口周辺の確認に留める。

 寝待に帰って、昨日応急処理をした簡易水道貯水タンクの様子を見に行くと、貯水タンクのオーバーフロー用排水口から水が流れて、順調に給水されていたので一安心する。

 簡易水道の給水は一安心だが、交番は勿論警察官が居ない口永良部島に刑事が3~5名侵入(?)したらしい。

 と云うのは、人口14,000人足らずの屋久島には上屋久町・屋久町の2つの町があり(口永良部島は上屋久町)、二重行政の無駄を解消する為合併協議をし、今年2月には合併の賛否を問う住民投票が実施され賛成が反対を上まわり、この結果を受け両町長が合併協定書に調印をしたものの、上屋久町議会が反対し否決された為、住民がリコールをして、今回の解散(10月25日告示 30日投票)になったらしい。

 そのリコール選挙で、口永良部島で選挙違反があったとの事で、その捜査の為刑事が来島しているらしい。恐ろしいと口を揃えて批難している。

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62日目:11月18日(金) 曇のち晴  (温泉清掃)

般若心経3返、写経3巻、ストレッチ、八段錦、チューブトレーニング、座禅瞑想20分×3回。

 運動不足解消の為、本村迄散歩をする。本村のAコープに行くと牛乳と豆腐それに野菜が売れ残っていた。

 口永良部島に入って牛乳や豆腐を買った記憶が無いほど久しぶりの商品。天の恵みと思い全部購入する。

 全部と云っても、牛乳、豆腐各1。野菜は、ニンジン、ごぼう、キャベツ各1である。ルンルン気分で寝待に帰る。

 今日は、10日に1度の温泉清掃日だが、清掃を担当している寝待の住人・前原さんの奥さんが腰痛の為寝込んでしまったので、温泉清掃を手伝うことになった。

 浴槽内の排水用の栓を抜いた上、排水ポンプ2台使用してお湯を排出する。同時に、浴槽に付着した湯の花をデッキブラシで擦り、底に敷いてある玉砂利も擦って洗い、ホースで水道水を掛けて洗い流す。

 5時から初めて終わったのが7時だった。温泉内から外に出ると、まっ黄色の月が東から上がってきたところで感動する。

 明日はしし座流星群の極大日。楽しみ。

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写真


写真は和坊流宇宙(http://www.justmystage.com/home/kazubo/)の和坊放浪記:part8でご覧ください。


続く・口永良部島編part9


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2009年1月20日 (火)

口永良部島編:part7


和坊放浪記:口永良部島part7


平成17年・備忘録


 項目

■寝待・湯治小屋
 42日目:10月29日(土) 曇一時雨  (簡易水道断水)
 43日目:10月30日(日) 曇時々晴  (湯治小屋・1号室に移動)
 :湯治小屋・見取り図
 44日目:10月31日(月) 曇一時雨  (空缶・空瓶出し)
 45日目:11月 1日(火) 晴     (布団で寝る)
 46日目:11月 2日(水) 晴     (湯治小屋・1号室改装準備)
 47日目:11月 3日(木) 雨     (文化の日、1号室改装完了)
 48日目:11月 4日(金) 晴     (火山噴火避難訓練)
 49日目:11月 5日(土) 曇     (写経・般若心経)
 50日目:11月 6日(日) 雨     (座禅三昧)
 51日目:11月 7日(月) 曇     (アマメ・ガジャブ・蜘蛛)
本文中赤字は写真あり。
写真

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■寝待・湯治小屋


42日目:10月29日(土) 曇一時雨  (簡易水道断水)

 昨夜は、5時過ぎから雷を伴う雨が降ってきたが6時には就寝していた。4時起床、朝風呂に入り朝食を作ろうと水道の蛇口を捻るが水が出ない。

 3~4日前に、湯治小屋1号室・種子島の太田さんと水源整備をしたところなのに水が出ないとは・・・何か別のトラブル発生かと思っているところに、寝待住人の前原さんが訪ねてきた。

 寝待集落が断水なので、原因を探りに水道施設や水源に行こうと思うが、場所が分からないので案内を請うに来た。

 前原さんは、寝待居住1年以上になるが温泉管理・清掃の契約はしているものの水道施設管理は契約外なので分からないらしい。

 小雨の中、駐車場・トイレ棟側にある2m程の垂直の山肌を登ると、竹藪の中に直径約2m×高さ約3mの黒い大きな貯水タンクが在る。

 このタンクに水は来ていないので、水源まで行くことにする。

 水源までの道は、先日来から整備済なので迷うことなく行けるがとにかく足場の悪い急な山道、途中2ヶ所に小さな中継タンクが在るが水は来ていないので、原因は水源にある。

 水源に着いて、巨石を伝って流れ出る湧水を溜める堰(約1m×約1,5m×深さ約0,5m)の上部の蓋を取る。

 蓋と云っても、堰の上に竹を組み金網や布を敷いて、その上に風で吹き飛ばされないよう石の重しを置いてあると云ったもの。

 計測をして、取り外しを簡単にできるような蓋をオーダーすればよいと思うのは、都会風発想かと思いながら、覆いを外すと水は満杯である。

 堰には導水管と排水管の2本のパイプが付いている。その、導水口のゴミ除け金網ネットにゴミや落ち葉等が吸いついており、これが断水の原因と判明した。

 先日掃除をしたところなのに、ゴミによる断水。取敢えず金網ネットは取り外すことにした。

 寝待の簡易水道は、水源の堰から導水管を通り2ヶ所の小さな(直径約1m×高さ約1m)中継タンクを経て、山裾の大きな貯水タンクに貯められ、各戸に配水されている。

 水源の堰には、溜まった泥やゴミを流し出す排水管(ドレン)が取り付けられているものの、赤くて丸いハンドルは根元が腐敗し無くなっており、また、中継タンクはろ過処理(活性炭等のフィルターを敷く構造と思う)が出来る構造になってはいるが何も入っておらず、中継タンクの用をなしていないと素人目には映った。

 部外者がとやかく云う問題でもないが、水源の巨石にはカラス等の鳥類が飛来しており、鳥糞の混入も考えられることから、煮沸(しゃふつ)して飲む必要を感じた。

 簡易水道の断水も解決。

 今日は雨模様なので湯治小屋内で過ごし、5時に部屋のテントに入って寝る。

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43日目:10月30日(日) 曇時々晴  (湯治小屋・1号室に移動)




湯治小屋・見取り図

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 3時に起床。湯治小屋・1号室に電気が点いている。1号室の湯治客の種子島の太田さん夫婦は約40日滞在し、今日帰る予定なので出発準備をしているのであろう。

 その種子島の太田さん夫婦は、畠商店(ガソリンスタンド・プロパンガス・電気修理)の軽トラックに乗って本村港に出発する。※寝待の住人の送迎に関し、本村に行く時は車両所有者に依頼し、2,000円程度の謝礼を渡すのが習わしと聞いている。

 現在居住する湯治小屋・5号室は、蚤かシラミかは判然としないが体中をかまれるので、部屋の中にテントを張って寝ている状態。

 事前に管理者の林さんに、1号室に移動する了解を得ているので、さっそく移動準備をする。

 まず、5号室と1号室の掃除と、1号室の水道蛇口側の窓ガラスの破損部分に板を張って修理をし、移動を完了した。

 湯治小屋は4室あり、2,3,5号室は4,5畳の和室に炊事場が付いた同じ広さだが、1号室は、6畳間と窓側に1、5畳程の板の間があり、使用料は5号室より100円アップの700円(温泉入浴料¥200含む)。

 しかし、部屋は6畳間であるが、6枚の畳を2枚重ねにし3畳の状態で使用しており、空スペースの床板の上に御座が敷いてある。

 その御座は、強風が吹くと床下からの風に煽られ超常現象かとも見間違うように浮き上がり空中を漂っている。

 この部屋に1年以上居住していた温泉の管理を担当している前原さんに聞いてみると、以前、台風で湯治小屋が流された時、1号室の畳を入れ替えたが、寸法が合わず、それ以来2枚重ねにして使用しているとの事だった。

 それにしても、何年もこんな状態で使用しているとは・・・これも離島故かと唖然とすると同時に感心もする。

 夕方、前原さんの奥さんから「昨夜、種子島の太田さんの送別会があり、誘いに来たが、既に寝ていたので」と小豆御飯と色々な料理の差し入れがあり、贅沢な夕食を摂る。

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44日目:10月31日(月) 曇一時雨  (空缶・空瓶出し)

 昨夜は、湯治小屋・1号室に移動して初めての夜。久しぶりに7時迄テレビを見てから就寝。今朝は2時30分起床、ストレッチをしてから朝風呂へ。

 寝待集落には、町管理の温泉と湯治小屋が在るのに、ゴミ収集車が来ないので、生ゴミは穴を掘って埋め、燃えるゴミは海岸に石で囲った焼却場を作り燃やし、燃えカスは生ゴミの上に振掛けているが、空缶・空瓶類がたまってきた。

 自転車にそれらを積んで、8時に寝待を出発、本村集落の公民館横の空缶・空瓶の集積所迄持参する。

 本村に行ったついでに、Aコープでインスタントコーヒー、羽生商店でビールと焼酎・三岳を買って帰る。その途中、雨が降ったり止んだりの天気になったが、雨宿りをしながら濡れずに寝待迄帰れた。

 寝待に帰ってから、集落道路の植木の剪定をしていると、自己所有の小屋に湯治に来ている、元島民で現鹿児島在住の竹田さんから、プロパンガスの交換依頼があった。

 島のプロパンガスは高いので鹿児島から持参したらしい。しかし、プロパンガスの交換は未経験だが、島では何でもしなくてはならないし、してやらなければならない。モンキーを使用し、器具を外そうとするが回らない。結果逆ネジであることが判明し交換完了。勉強になった。

 夜は、内閣改造のテレビニュースを見て7時に就寝する。

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45日目:11月1日(火) 晴  (布団で寝る)

 夜中の1時過ぎに目覚めたので、暫く星空観察をしてから2度寝をする。

 寝待・湯治小屋には、一昨日種子島の太田さん夫婦が引き揚げて、誰も居なくなった。湯治小屋は4室あるが、2,3号室に使用していない古い布団が置いてある。

 布団以外にも、鍋釜類の調理器具や炊飯器まである。これらは、長期滞在した湯治客が置いて行ったものらしい。

 今日は天気がいいので、種子島の太田さんが作った机の様な台の上や、物干し竿に布団を干し、午前中は、集落のゴミの焼却をする。

 午後から本村に行く。昨日に続き本村に行くのは、寝待湯治小屋の管理者で公民館長の林さん宅に寄って野菜を頂く為。

 林さんの家族(夫婦と奥さんの両親)は、毎日のように寝待の温泉に来ており、昨日来た時に、林さんの奥さんから、旬の野菜があるので取りに来たらと云われていた。

 島で野菜は貴重品。Aコープで購入しようと思えば、奇数日の3時入荷時に女性陣の中に入ってわれ先に確保しなければ手に入らないので、さっそく、その好意に甘んじる。

 沢山の野菜を頂き寝待に帰り、寝待集落の住民と均等に分けた。

 古い布団の日光消毒も出来たので、今日から布団で寝ることにする。布団で寝たのが何時か思い出せないぐらい時が経過しており、夜が楽しみである。

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46日目:11月2日(水) 晴  (湯治小屋・1号室改装準備)

 昨夜は久しぶりに布団で寝た。四国巡礼・遍路当時は何日か民宿に宿泊したが、南の島に来てからは、殆どテント暮らしで、冬場は寝袋。夏場はタオルケットを使用していたので、久しぶりの布団に感動すると思ったが、何時もと同じ感覚。

 布団であれ、寝袋であれ、寝ることに変わりはないと達観出来たのか!!・・・まぁ取敢えず感想なしと云う事で・・・

 昨夜寝る前(7時前)に東の空に火星を見、今朝は2時に起床して星空観察。

 今日は、管理者の公民館長林さんの了解を得ているので、湯治小屋1号室の改装をする。

 湯治小屋はいわゆる掘建小屋で、畳周りには敷居代わりの材木とタルキ材で囲っているので、それらの材木を取り外し6枚の畳が入るようにする。

 まず、それらの材木に接する棚柱等を取り外すのに半日以上かかる。次に畳周りの材木を取り除く作業に入るが、敷居代わりの材木の一部の釘が外れない。結局作業途中で中断せざるを得なくなった。

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47日目:11月3日(木) 雨  (文化の日、1号室改装完了)

 4時起床。快晴。昨日に続き星空観察をしたが、途中から雲が出てきて、星が見えなくなってしまった。

 今日は文化の日(注1)で、この日は晴天になる確率が高く、「晴れの特異日」として有名であるが、口永良部島の寝待は雨模様。

 6時過ぎから、湯治小屋・1号室の玄関周りの造作をする。大工道具は、ノコギリとカナヅチ、バール(くぎ抜き)しかないので、溝掘りはドライバーで代用し何とか形が付いたところに、湯治小屋の管理者で公民館長の林さんが助っ人に来てくれた。

 林さんの車の中には、自動カンナ等大工道具が満載。自分で家も建てることが出来るらしい。

 大きなバールで、昨日取り外すことが出来なかった敷居代わりの材木をいとも簡単に外してしまった。

 さっそく畳6枚を適当に並べ掛けると、畳の敷き方(注2)にも決まりがあるらしく、何度か並べ替えをしてから、枠を固定して改装は完了した。

 夕方、寝待集落の住人・矢野のバッチャンからおかずと御飯の差し入れがある。

注1:文化の日
1946(昭和21)年に日本国憲法が公布された日で、1948(昭和23)年公布・施行の祝日法で「文化の日」に定められた。この日皇居では文化勲章の授与式が行われる。日本国憲法は半年後の1947(昭和22)年5月3日(憲法記念日)に施行された。
戦前までは天長節(天皇誕生日)と呼ばれていたが、1912(明治45)年7月30日の明治天皇の崩御(死去)に伴い廃止され、昭和に入ってから「明治節」として復活、「四大節」の一つに数えられていた。※四大節:①新年、②紀元節(現在の建国記念日)、③天長節(天皇誕生日)、④明治節(文化の日)。
旧暦での天長節は9月22日だったが、1872(明治5)年12月2日に太陽暦(グレゴリオ暦)の採用(その翌日が明治6年1月1日)にともない、9月22日を太陽暦に換算した11月3日に変更された。

注2:
畳の語源は「たたむ」で、昔畳はとても大切なものだったので、普段は重ねて置いておき、祝儀や不祝儀の時に敷くものだった。
●敷き方
1、床の間・出入り口に対して
2、畳数による敷き方
祝儀敷:現在の和室は固定されているので、祝儀用を基本としている
写真:四畳半 六畳 八畳
不祝儀敷:寺院や旅館等の大広間では不祝儀敷きになっている。
写真:四畳半 六畳 八畳
●寸法
関東間:1757×879mm
関西間(京間):1909×954mm
公団間:約1650×750mm
●畳数
畳数は、3、4.5、6、8、10、12・・・畳とある。また、7.5畳は「凶」とされ避けられている。理由は、不祝儀用の4.5畳の真中の半畳を裏返しにして切腹した間で、その隣室に3畳の間を設け、そこで検死を行った。切腹の間である4.5畳と絶命を調べた3畳を合わせた7.5畳は縁起が悪いとされている。

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48日目:11月4日(金) 晴  (火山爆発・避難訓練)

 今朝も満天の星空。朝風呂に入り、チューブトレーニングをしてから、竹田さんの荷物運びをする。竹田さんは鹿児島在住の元島民で、寝待集落の自己所有の小屋に湯治に来ていたが、今日離島した。

 今日は避難訓練の日。

 口永良部島は火山島で、1841年の記録に残る最古の噴火以来現在まで10年ないし20年おきに噴火を繰り返しているので年に1回、火山(新岳)が爆発したとの想定で防災訓練が行われる。

 本村港に在る口永良部出張所に災害対策現地本部が設置、上屋久町長による避難指示等の措置が発令され、島民は防災行政無線(屋外スピーカー・本村2ヶ所、前田、湯向寝待各1カ所)放送の指示に従い、指定された一次避難場所(注4)に避難する。※発令基準(5段階)レベル1・登山注意、2・登山禁止、3・避難準備、4・避難勧告、5・避難指示。詳細=(注3)

 平成17年2月から火山活動度レベルが2になって、火山性微動が1日200回前後観測されているので、訓練も真剣になるだろうと思っていたが、サイレンが鳴り響いて寝待の一次待避場所に指定されている、集落の待避壕に集まってお茶の時間になってしまっていた。※火山活動度レベル レベル:1→平常、レベル2→火口周辺規制、レベル3→入山規制、レベル4→避難準備、レベル5→避難、詳細=注5

 ただし、本村では、海上保安庁による巡視船への緊急輸送訓練で、沖合に待機している巡視船迄避難して訓練は終了したらしい。

参考】新岳において規模の大きい噴火が発生した場合の想定される被害は以下の通り。
① 噴出岩塊
火口からの距離が約3kmの範囲で、噴出岩塊が落下し、本村、前田、向江浜、田代、寝待等の集落に落下する危険がある。また、島を周回する町道が寸断される危険がある。
② 降下火砕物
噴出岩塊よりも粒径が小さく、口永良部島周辺の上層の風は、西風が卓越しており、大規模な噴火による降下火砕物は東側で厚く堆積するものと予想される。一方、小規模な噴火では、地上付近では風の影響を受けやすい。降下火砕物が厚く堆積すると、森林や農作物に被害が生じるほか、冷え切っていない火砕物によって火事が発生することもある。
③ 火砕流・溶岩流
火砕流・溶岩流が北西側に流れ出した場合, 向江浜に到達する可能性がある。溶岩流は、比較的ゆっくりとした速度で流下するため、流下が始まってから逃げることもできるが、火砕流は時速100kmを越す速度で流下するため、発生してから避難することは困難である。
④ 泥流・土石流
噴火に伴って、古岳、新岳の山腹には降下火山灰や火砕流等の未固結堆積物が堆積し、斜面の透水性も悪くなっている。このような堆積物は非常に不安定で、噴火時及びその後の降雨によって泥流や土石流として流れ下ることがある。
泥流・土石流が発生した場合、向江浜、湯向に到達する可能性がある。また、島を周回する町道が寸断される危険がある。
⑤ 火山ガス
火山活動の活発化に伴い、有毒な火山ガスが噴出する可能性がある。火山ガスの滞留、拡散は、 地形や気象条件に依存しているが、濃度の高い火山ガスを吸うと死に至ることもある。
⑥ 山体崩壊
古岳、新岳等の口永良部島東部の火山体は、急崚な地形をしており、火山活動の活発化に伴って山体が崩壊する可能性がある。
⑦ 津波
新岳火口から西側に向かって何らかの理由で土砂が急速に流れ下り、海に流入した場合、津波が発生する危険がある。
 以上鹿児島県公式サイトPDFより

注3:規制内容別避難発令基準(5段階)
【規制内容】1・登山注意
【発令基準】火山現象に関連する異変を認めた、あるいは鹿児島地方気象台から臨時火山情報が発表され、火口周辺への立入には、注意を要すると判断されたとき。
【規制区域】火口周辺
【規制等の措置】ア・各登山口、火口付近その他適宜の場所の掲示板等にその旨を掲示するとともに広報誌その他の方法により、登山者、住民等への周知を図る。
イ・上記について関係機関、団体等に対しその周知を図る。
【規制内容】2・登山禁止
【発令基準】火山現象に関連する異変を認めた、あるいは鹿児島地方気象台から臨時火山情報が発表され、登山は危険であると判断されたとき。
【規制区域】火口の中心から半径2km以内
【規制等の措置】ア・「1・登山注意」の場合に準じ措置するとともに、周辺市町村職員、消防団員等を巡視警戒に当たらせるものとする。
イ、道路管理者に対し、交通規制の措置を要請する。
【規制内容】3・避難準備
【発令基準】噴煙、有感地震等異常現象が発生、又は強雨が予想され、あるいは鹿児島地方気象台から緊急火山情報が発表され、噴火、土石流、その他による災害が発生することが予想されるとき。
【規制区域】島内全域
【規制等の措置】ア・サイレン、広報車及び消防団員等の巡回により規制内容の周知徹底を図る
イ・防災担当者は、直ちに避難所の開設を行う。
ウ・上記措置について関係機関に連絡するとともに島外避難の準備を行うよう指示する。
【規制内容】4・避難勧告
【発令基準】噴火が発生、又は有感地震の続発等顕著な異常現象が発生、又は強雨が予想され、あるいは鹿児島地方気象台から緊急火山情報が発表され、噴火、土石流、その他による大災害が発生し、住民の生命財産の危険がせまってきたとき。
【規制区域】島内全域
【規制等の措置】ア・サイレン、広報車及び消防団員等の巡回により規制内容の周知徹底を図る
イ・防災担当者は、住民等に対し所定の避難所に集合するよう徹底を図る。
ウ・上記措置について関係機関に連絡する。
【規制内容】5・避難指示
【発令基準】噴火活動が活発になり噴火その他の大災害の発生が確実となり、住民の生命身体の危険が予見されるとき、又は噴火その他の大災害が発生したとき。
【規制区域】島内全域
【規制等の措置】ア・サイレン、広報車及び消防団員等の巡回により規制内容の周知徹底を図る
イ・ 消防分団長及び避難誘導責任者は住民をまとめて島外避難への誘導を行う。
ウ・残留希望者についても強く指示して避難させる。

注4:寝待避難路及び避難所
順位1:避難経路・寝待牧道、交通手段・車輌or徒歩、一次避難所・退避壕→避難経路・町道本村湯向線、交通手段・車輌・徒歩、二次避難所・役場出張所
順位2:避難経路・寝待里道、交通手段・徒歩、一次避難所・退避壕→避難経路・旧道本村線、交通手段・徒歩、二次避難所・金岳小体育館

注5:火山活動度レベル
レベル5
【火山状況】極めて大規模な噴火が発生かその可能性・全島に影響があるような極めて大規模な噴火、あるいは大規模な火砕流や溶岩流が発生、または発生する可能性があり、島内全域で警戒が必要な状態。
【噴火の形態】噴石、火砕流等が広範囲に影響する可能性がある。
【過去事例】有史以降事例なし。
レベル4
【火山状況】中~大規模な噴火が発生かその可能性・火口からある程度離れた地域まで噴火が飛散、火砕流、溶岩が到達するような中~ 大規模な噴火が発生、または顕著な地殻落変動が発生するなど中~大規模な噴火が発生する可能性があり、火口からある程度離れた地域でも警戒が必要な状態。
【噴火の形態】噴火が火口からある程度離れた地域(火口から3km程度)に飛散、または火砕流等がある程度離れた地域に到達する可能性がある。
【過去事例】
・1841年8月の噴火(集落爆発、死者多数)。
・1931年4月の爆発(火口から北西約2kmの向江浜に噴石飛散、負傷2)。
・1933年12月の噴火(七釜集全焼、死者8、負傷26)。
・1966年11月の噴火(火口から3,5km地点に直径1mの噴石落下、負傷3)。
レベル3
【火山状況】小規模な噴火が発生かその可能性・火口周辺に噴石が飛散するような小規模な噴火が発生かその可能性あり,火口周辺では注意が必要な状態。  
【噴火の形態】噴石が火口周辺(火口から1,2km程度)に飛散する可能性がある。
【過去事例】
・1945年11月の割れ目噴火。
・1968年12月~1969年3月の噴火。1972年9月、1973年11月、1974年6月の噴火、1976年4月の噴火。
・1980年9月の割れ目噴火。
・2004年2月~3月の火山性地震の多発
レベル2
【火山状況】やや活発な火山活動・噴煙活動のやや活発化,火山性地震が増加するなど火山活動がやや活発化している状態。
【噴火の形態】噴火活動への移行階段の可能性がある。
【過去事例】
・1932年7月の噴煙、鳴動。
・1982年10月の新噴気孔生成。
・1996年3月、1999年8月、2000年1月、2003年2~4月の火山性地震の増加。
レベル1
【火山状況】静穏な火山活動・少量の噴気活動, 火山性地震や微小な火山性微動が時折発生するものの噴火の兆候がない状態。
【噴火の形態】噴火の可能性は低い。
【過去事例】
・1992年11月~1999年9月の火山活動。
・2000年7月~2003年1月の火山活動。
・2003年11月~2004年1月の火山活動。
レベル0
【火山状況】長期間火山の活動の兆候なし・長期にわたり、噴気活動がなく、火山性地震の発生もほとんど見られず、火山性微動の発生もない状態。
【噴火の形態】噴火の可能性なし。

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49日目:11月5日(土) 曇  (写経・般若心経)

 寝待・湯治小屋1号室の改装を終え、広々とした部屋から外を見ると、奇岩・立神がそびえ立ち、天候が良ければ、海の彼方には、何時も噴煙を上げている硫黄島の左に黒島、右に竹島の大隅諸島3島が、その奥には、鹿児島の開聞岳が三角形に、その右手には佐多岬の大隅半島が浮かんで見える。

 海岸に打ち寄せる波の音、鳥のさえずり、風が流れる音、時々遠くから聞こえるキーンと云う鹿の鳴き声・・・道路側の5号室から、海側の1号室に変わっただけなのに、部屋の中で座っているだけで、心の安らぎを覚える。

 思わず座禅をし、風景や自然界の音を楽しむ内に、母の胎内の羊水に浮かんでいるらしい自分が現れ、はっと我に帰る。うとうとしていた。

 明日から座禅と般若心経の勉強をしようと心に誓う。

 取敢えず、写経をする。

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50日目:11月6日(日) 雨  (座禅三昧)

 昨夜から雨が降り続いている。時折強い風が吹き付ける。その度に床下から畳の隙間から風が噴き上がってくる。

 昨日から、日に3度の写経と、座禅を始めたので、雨の日も退屈はしない。座禅をしては温泉に入り、温泉に入っては座禅をしたりの繰返し。贅沢な座禅を堪能している。

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51日目:11月7日(月) 曇  (アマメ・ガジャブ・蜘蛛)

 今朝の湯治小屋は、アマメがやたらに多い。アマメとは鹿児島の方言でゴキブリのことであるが、口永良部島では船虫のことを指す。

 寝待の湯治小屋前の岩場には、アマメが群れをなしている。動きが素早く、人影を見ると瞬時に岩の隙間に隠れ、いなくなってしまう。

 岩場のアマメも決して気持のよくない雰囲気だが、このアマメが部屋の中に侵入、寝ていると顔を這い廻り、時として噛むこともある。

 這いまわるのは、アマメだけでなく、小さな黒い頭(2~3mm)から長い足が出てヒョイヒョイと云った感じで動く体長3cm位の蜘蛛もいる。

 そのうえ、温泉地だけにいると云う、吸血性のアブなのか蚊なのか分からない、小さな・小さな虫がいる。

 現認することが難しい位小さな虫は、地元ではガジャブと呼ばれ、刺されると強烈な痒みが発生する厄介者である。地元の人達は免疫があるのか、何ともないらしい。

 取敢えず、アマメの侵入を少しでも阻止する為、入口の隙間を塞ぐ事にする。個人所有の小屋は、小屋の周りに、屋根材の塩ビ製の波板で囲い室内への侵入を防いでいるが、材料が無いので、隙間に粘土質の土を詰める。

 作業終了後、久しぶりに本村に買出しに出掛ける。

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写真


写真は和坊流宇宙(http://www.justmystage.com/home/kazubo/)の和坊放浪記:口永良部島part7でご覧ください。


続く・口永良部島編part8


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2009年1月11日 (日)

口永良部島編:part6


和坊放浪記:口永良部島編part6


平成17年・備忘録


 項目

■寝待温泉・湯治小屋
 32日目:10月19日(水) 晴     (屋久島から口永良部島に帰島)
 33日目:10月20日(木) 晴     (道路整備)
 34日目:10月21日(金) 晴     (星空観察・火星)
 星空1、2、3:秋・冬・おひつじ座
 35日目:10月22日(土) 雨のち晴  (メガ崎灯台散策)
 地図:口永良部島東部
 36日目:10月23日(日) 晴     (釣り場・野イ瀬散策)
 37日目:10月24日(月) 曇     (道路整備)
 38日目:10月25日(火) 晴     (水源整備)
 39日目:10月26日(水) 雨     (休養日)
 40日目:10月27日(木) 晴     (本村買出し)
 地図:口永良部島中央北部(寝待~本村)
 41日目:10月28日(金) 雨一時晴  (泉源に異常?)
※本文中赤字は写真あり
写真

________________________________________


■寝待温泉・湯治小屋


32日目:10月19日(水) 晴  (屋久島から口永良部島に帰島)

 昨日は、海楽園キャンプ場に隣接するレストラン・オアシスクラブの助っ人料理人・黒木さんと行動を共にし、夜遅くまで酒を飲む。

 黒木さんは、居候先のレストラン・オアシスクラブオーナー志水さんの住宅には帰らず、レストラン横の牽引式のキャンピングカーで宿泊すると云う。

 このキャンピングカーは、志水さんが、屋久島に来て使用していたが、レストランを開業し現在の市営深川団地に入居後は、レストランの横に置いていた。

 置いたままの状態だったら問題は無かったが、そこに、キャンプ場にやってきた女の子を住まわせたことから、キャンプ場のオーナーの大隅氏の怒りを買い、仲たがいしたと云う曰く付きのキャンピングカー。

 黒木さんも事情が分かっていたらしく、キャンプ手続きをして、宿泊した。

 今朝は、何時もより遅い5時に起床し、朝食後、日課の屋久島大社に参拝し、鳥越川の浜に行くと、機動隊が大勢いた。

 昨日から、ヘリコプターが喧しい位飛び廻っていたが、今日は機動隊。海難事故があったのか?

 海難事故もさることながら、1昨日、泥酔状態で帰宅した、レストラン・オアシスクラブオーナー志水さんも行方不明のまま。

 その志水さんは、昨夜遅く、ぐでんぐでんに酔って帰ってきたことが分かり、取敢えず一安心。

 今日は、口永良部島に帰る予定。天候は晴れだが、波が高いので、欠航丸と揶揄されている、フェリー太陽が出航するかどうか不安があったが、行政防災無線・屋外スピーカーからは何の放送も無いので、11時に宮之浦港に行く。

 乗船手続き迄時間があるので、宮之浦港の堤防を散策して、朝作っておいたおにぎりで昼食を摂る。

 12時から、フェリー太陽の販売窓口が開いたので、旅客運賃¥2,050と自転車運賃¥320を支払い乗船する。

 波が高いので、直ぐに横になり、船酔い対策をして、口永良部島に向かう。

 口永良部島本村港には、公民館長の林さんと寝待集落の住人・前原さん夫婦が居た。

 前原さんは、注文していたラッキョウの種を受け取りに来たらしい。

 公民館長の林さんに寝待温泉・湯治小屋5号室に世話になる事を告げる。

 寝待温泉に着くと、待避壕の床几(しょうぎ)に、矢野と森杉の2人のバッチャンが座っていた。バッチャン達は、温泉に入浴前後にはこの床几で休憩するのが常。

 バッチャン達に、屋久島の話をしてから、湯治小屋・5号室に荷物を入れ、さっそく入浴する。
 これから毎日温泉三昧かと思うと、嬉しくなってくる。

 温泉から上がると、バッチャン達から、バラ寿司、おかず、ビールの差し入れがある。感謝。

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33日目:10月20日(木) 晴  (道路整備)

 5時起床、朝風呂に入ってから朝食。

 午前中は、屋久島出張前日に、寝待集落の簡易水道が断水、水源のゴミや泥を取り除いたが、そこに行く道が荒れはてていたので、道づくりをする。

 昼からは、温泉の上に在る、水神様の祠周に行く道路整備をする。水神様の祠に行くには、温泉の20m程手前から、山側に入り、水路を渡るが、水路に渡されていた板が腐っていたので、新しいもの取り換える。

 取り換えると云っても、材料が売っている訳ではないので、海岸に打ち上げられた材木を拾って来て補修する。

 この水路は、約1m幅だが、奥行き20~30mで垂直の崖になっており、雨が降ると滝になって流れ込むところで、大雨後は迫力があるので、一見の要あり。

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34日目:10月21日(金) 晴  (星空観察・火星)

星空

秋の星座
秋の星座

冬の星座
冬の星座

おひつじ座・月、火星、すばる
おひつじ座・月、火星、すばる

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 昨夜は、6時に就寝したが、9時に目が覚めた。トイレに行く為外に出ると、満天の星空。

 秋の星座ペガススの四辺形や、夏の大三角がハッキリ・クッキリ。

 明け方4時過ぎには、冬の星座オリオン座冬の大三角の他に、すばる(注1)おひつじ座(注2)の端に、火星(注3)が並んで美しく輝いていた。

 自分の誕生星座のおひつじ座を挟んで、満月に近い月と赤く輝く火星が並び、月の後方には、すばるが輝いている。感激する。

 しかし、その感激も1時間余りで、雲がかかり、見えなくなってしまった。

 後日判明した事だが、今月30日は、火星が最も接近する日なのだ。

 今日は、口永良部島の東西に在る、灯台の散策を予定していたが、昨夜から、今朝にかけて見た星空の余韻が消えず、ただひたすら、湯治小屋と温泉を往復する1日を過ごす。

注1:すばる(プレアデス星団)
約410光年のところにある、100~200個の若い星(6000万年前)の集まりで、欧米ではプレアデス星団と呼ばれている。「すばる」とは「集まって1つになる」という意味の「統(す)ばる」と云う古い言葉からきており、清少納言の枕草子(236段)でも「星はすばる。ひこぼし(わし座のアルタイル)。ゆふづつ(金星・宵の明星)。よばひ星、すこしをかし(流れ星も少し趣がある)。尾だになからましかば、まいて(尾を引かなければもっとよいのだけれど)とある。

注2:おひつじ座
88ある星座のうち、太陽が通る道筋(天の黄道)に位置する星座は12(黄道12星座・おひつじ、おうし、ふたご、かに、 しし、おとめ、てんびん、さそり、いて、やぎ、みずがめ、うお)で、その1番目がおひつじ座である。
約2000年前、 ギリシアの天文学者ヒパルコスが、地球の赤道を天に延長した線(天の赤道)と太陽の通り道(黄道)の交点の春分点を黄道12星座の起点とした。現在の春分点は、おひつじ座の隣のうお座にあるが、当時の春分点は、おひつじ座の中にあった為、12星座の第1座になっている。※おひつじ座誕生日: 3月21日~4月20日

注3:火星
火星は、約1年10カ月の周期で太陽の周りを回っており、1年で一周する地球とは、約2年2カ月の間隔で接近するが、火星は軌道が少し歪んでいるため、その接近するときの地球と火星の位置によっては大きく接近したり、あまり接近しなかったりする。
前回の2003年8月は、約6万年ぶりの大接近で、地球から約5,500万kmだったが、今回2005 (平成17)年10月 30日の再接近は、約6900万km。次回の大接近は2018年。

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35日目:10月22日(土) 雨のち晴  (メガ崎灯台散策)

地図

口永良部島東部地図
口永良部島東部地図

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 昨夜は6時に就寝、1度も目を覚ますことなく熟睡し、3時に起床。朝風呂に入る。

 朝食時から降り出した雨は、日の出とともに止んできたので、口永良部島東端に在るメガ崎灯台散策に出掛ける。

 寝待集落から、旧寝待線を通り、一周道路を湯向方面に進む。湯向分岐手前の治山ダムで小休止。

 昨年(2004)11月22日、この治山ダム工事現場で、高さ、幅約30mに亘ってのり面が崩れ、土木作業員4人が土砂に巻き込まれ、一人(54歳)が生き埋めになり死亡した現場と聞いていたので、般若心経を唱え手を合わす。

 1周道路湯向分岐から、湯向方面に行き、湯向集落・湯向温泉とは反対側の道に入り、約2km先の町営・永迫牧場のゲートを潜り、道伝いの歩道・永迫メガ崎線を2km程行った突当りにメガ崎灯台が在った。

 対岸に永田岬の屋久島灯台、九州一の最高峰の山並みを望み、灯台下の海岸付近には岩盤の上に巨大な転石や洞窟なども見られ、水深10m 付近の海底には、多くのサンゴがあると聞くが、本日は波が高く、シュノーケリングは残念する。

 帰途、湯向集落手前の木製3階建ての物見やぐらがあった。

 誰が作ったかは聞いていないが、やぐらの横には、のこぎりを使って演奏する音楽家・大阪の岩忠氏が住んでいたと云うログハウスが在るので、その音楽家が作ったのかと思いながら、急な階段を上って、景観を楽しんでから寝待温泉に帰る。

 夕方、バッチャン達から、ざるそばと山芋の際入れがあり、ビールで食する。

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36日目:10月23日(日) 晴  (釣り場・野イ瀬散策)

 昨夜も6時前に就寝し、3時に起床。朝風呂に入って朝食。2時間程かけ生ゴミの穴掘りをしてから、90歳の田代のジッチャンから聞いていた釣り場の散策に出掛ける。

 寝待集落から新寝待林道を通り、一周道路に出て本村方面に、民宿・くちのえらぶ前三叉路をヘリポート方面に入り、急坂を下った先の杉林の先に、釣り場・野イ瀬に行く入口がある。

 目印の杉林は、周りが竹藪の中の杉林なので間違うことはない。杉林に隣接した竹林に牧場のゲートがあるので、ゲートを潜り、踏み跡に従い進むと海岸に出ることが出来た。

 釣り場の確認をし、竹藪の中をガサガサと音を立てながら道路迄引返すと、目の前に、釣りに来た男女3人組の地元民がいた。

 突然竹藪から現われたので、びっくりしたらしいが、その中の女性が隣の磯に行くので一緒に行こうと誘ってくれたので、同行することにした。

 隣の磯に行くには、牧場のゲートに隣接する杉林に入口がある。鉄条網が張られているが、杉林の中に目立った踏み跡があり、それを伝っていくと海岸に出、急な岩場を下るとその一帯が釣り場であった。

 よくよく考えてみるに、口永良部島全体の海岸線は全て釣り場だが、海岸線に出る道が無いだけと解った。

 寝待に帰ると、畠さん(ガソリンスタンド兼プロパンガス販売兼電気屋さん)がテレビのアンテナを交換していたので手伝う。アンテナは、旧道の途中に2か所支柱がたてられており、種子島方面に向けているらしい。

 アンテナを交換したら、テレビの映りが良くなった。と云っても、以前よりもと云う意味で、相変わらず見難い状態に変わりはない。

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37日目:10月24日(月) 曇  (道路整備)

 昨夜も6時に就寝、4時起床で朝風呂に入って、8時から道路整備開始。

 寝待集落入口の駐車場とトイレ棟前から短い坂を下りた道が水溜りになっており、歩行に支障があるので、道路の嵩上げと水捌け用の水路を作ることにした。

 水捌け用の水路は、海岸から小石を集め作れるが、問題は嵩上げ用の土砂の段取りだが、駐車場のコンクリートの上に雨水と共に流れ落ちてきた砂が堆積し、一部には草も生えているので、この砂を利用する事にする。駐車場の整備と道路整備の一石二鳥。

 森杉のバッチャンから一輪車とスコップを借り、駐車場に堆積している砂を一輪車に入れて道路に撒く。この作業を繰り返す。

 30回迄勘定していたが、思ったより砂の量が多い。道路は何とか格好がついたので、残りの砂は、湯治小屋横の広場に運び、夕方には完了した。

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38日目:10月25日(火) 晴  (水源整備)

 朝晩が寒くなってきた。3日前より、薄手の長袖上下を着て寝ている。過ごしやすくなる季節になったのと、昨日の肉体労働の疲れの為もあって、6時に就寝、4時起床、10時間熟睡した。

 何時ものように朝風呂に入って、朝食を摂り、屋久島で購入したチューブを使用し、筋力トレーニングをしているところに、湯治小屋・1号室の種子島から来た漁師の太田さんが来た。

 用件は、屋久島出張前日簡易水道の断水で、水源の応急処理をしたが、今日は本修理をするので手伝ってほしいとの事。

 自分も種子島の太田さんも湯治客。

 湯治客が、そんな事迄しなくてはならないのかと不審がる人もいるとは思うが、ここ口永良部島では、行政に依頼すれば、何年かかるか分からないので、全て自己完結型で処理するのが普通の事なのである。

 屋久島出張から帰って、水源の道を整備したので、断水当時よりも行き易くなっているので、金網等の材料を持って水源に行く。

 巨石を伝わって流れ落ちる水を集める感じで堰が造られており、その上にゴミ除けの蓋を被せる作業をする。

 竹を組み合わせ、その上に金網を被せる作業、水しぶきで、服は勿論靴の中まで水浸しになりながら昼過ぎに作業が終了した。

 急坂の足場の悪い狭い空間での作業。昨日の土砂運搬に続いて、2日連続の重労働。ばてた。

 今日も6時に就寝する。

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39日目:10月26日(水) 雨  (休養日)

 昨晩から雨が降り続いている。4時に起床、朝風呂に入り、朝食を済ませ、昨日水源整備の為中途で終わったチューブトレーニングを、一からやり直す。

 屋久島出張から帰ってから、2日に1度の割合でチューブによる筋トレを実施している。

 口永良部島に入ってからは、温泉三昧で、行動距離も10キロ未満なので、運動不足を補う意味で、屋久島出張の際トレーニングチューブを購入したのが役立っている。

 トレーニング終了後は、座禅瞑想をしたり般若心経の解釈本を見て過ごす。5時就寝。

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40日目:10月27日(木) 晴  (本村買出し)

地図

中央北部(寝待~本村)地図
中央北部(寝待~本村)地図

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 3時過ぎの空は満天の星空だったが、風呂から上がって暫くして雲がかかって星空は無くなったが、空は晴れ模様。

 午前中、久し振りに自転車で本村に行く。

 自転車の場合、寝待から一周道路手前迄は急坂なので自転車を押し上げるように進んで行かねばならない。

 逆に、帰りは下り坂なので楽と思うなかれ。火山島の口永良部島は、微動地震が毎日200回程ある関係か、垂直に近い山肌から、常に小石がコロコロ落ちてきて、コンクリート舗装の路面に散らばっている。

 その小石に乗り上げると転倒したりバーストする危険性があるので、細心の注意を払う必要があり、また、急坂対策として、ブレーキを掛けっ放しすると、効かなくなるので、前後のブレーキを強く握ったり、離したりを繰り返さなければならず、ゾォとする坂でもある。

 この寝待集落入口から、一周道路手前300mの1,7km間をクリアすれば、本村迄は楽な道程(注4)

 本村集落に着きAコープに行く。今日は奇数日、午後便(フェリー太陽)での入荷なので、生鮮食料品は何もないのでインスタントラーメンを、羽生商店でビールと焼酎・三岳を買って帰る。

 久しぶりに自転車に乗り疲れたので5時に就寝する。

注4:道程(寝待~本村)
ルート1:一周道路・前田分岐経由本村迄は、多少のアップダウンはあるが、往路に自転車を降りなければならない程の急坂は無い。復路に関しては、個人差はあるが、寝待分岐手前に在る電波塔近辺の坂が可成りきつく感じる。
寝待P~(1,7k)~頂上~(0,3)~寝待分岐~(1,7)~民宿・くちのえらぶ前三叉路~(2,4)~西の湯分岐~(0,5)~前田分岐~(0,7)~寝待集落・公民館分岐~(0,25)~本村港
ルート2:一周道路、民宿・くちのえらぶ前三叉路からは急な下りを経て、西の湯から先約5~600mの登りがあるが、左程きつくはないが、復路に急坂がある。自分としては、竹藪の中を走るルート1よりも、海を見ながら走る、ルート2の方が好きである。
民宿・くちのえらぶ前三叉路~(1,7)~ヘリポート~(1,0)~西の湯~(0,15)~新村分岐~(8,3)~寝待集落・公民館分岐
※単位km

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41日目:10月28日(金) 雨一時晴  (泉源に異常?)

 3時に起床、星空観察をする為外に出るが、雨上がりで雲空。残念。

 温泉に行くと、乳白色の湯が透き通っている。泉源に異常が発生したのかと心配するが、何時もは見ることのできない湯船の中を見ることが出来た。

 寝待温泉は、脱衣場から、手摺の付いた階段を降りると、長方形の湯船がある。湯船の底は、小石が敷いてある、敷くと云うよりも、小石の海岸に自然に湧き出していた温泉の上に、建物を建てたので、湯船の底は、海岸の延長でもあった。

 中央部分に人が寝られるように板が渡してあるが、その下の湯船の中に仕切りがあり、その下部に直径100~120mmの塩ビの丸パイプが2本通っている。女風呂に温泉を入れる為の導入管らしい。

 始めての体験もして、朝食後、温泉入浴の為、待避壕の床几に座っているバッチャン連中に聞くと、掃除をした直後は透き通っているが人が入るに従って乳白色に変化していく事が判明した。

 なお、温泉掃除は10日に1度の割合で行われており、当日は入浴不可となっているので注意が必要。

 掃除日は、掃除担当の前原さん(湯治小屋・1号室に1年程居て、つい最近一戸建てに引っ越した人)によって、月初め、浴場入口に、その月の掃除日が張り出される。

 昼までは、雨が降ったり止んだりの天気だったが、昼から晴れてきた。

 その晴れ間を利用して、湯治小屋・1号室の種子島から来た太田さんの奥さんと、先日から寝待集落内に在る自己所有の小屋に湯治に来ている、元口永良部島住人で、鹿児島に在住する竹田さんが、竹田さんが島在住時に住んでいた自宅跡を訪ねる事になった。

 竹田さんの旧自宅跡は、旧寝待線の道沿いにあるらしいが、旧寝待線の道路は、寝待集落から、駐車場までの歩道の整備は完了したが、車道を覆う竹の除去は未整備なのと、その途中に、釣り場・平板(ひらばん)に入る出入口があるので、先導する事にした。

 釣り場・平板の出入口があることは、90歳の田代のジッチャンから聞いてはいたものの、未確認の状態だった。が、元口永良部島住人の竹田さんが知っているとの事だったので、同行して、出入口の現認をする。

 確認後、2人を竹田さんの旧住居跡まで送ってから、寝待に引返す。

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写真は和坊流宇宙(http://www.justmystage.com/home/kazubo/)の和坊放浪記:口永良部島part6でご覧ください。

続く・口永良部島part7 


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2009年1月 1日 (木)

口永良部島part5・屋久島出張編


和坊放浪記:口永良部島part5・屋久島出張編


平成17年・備忘録


 項目

■海楽園キャンプ場
 屋久島1日目:10月10日(月) 曇     (屋久島出張)
 地図1,2:屋久島北東部・キャンプ場周辺略図
 屋久島2日目:10月11日(火) 曇一時雨  (宮之浦散策)
 屋久島3日目:10月12日(水) 曇のち雨  (神社・仏閣巡り)
 地図3,4:屋久島中央東部・安房周辺
 屋久島4日目:10月13日(木) 晴   (神社・仏閣巡り)
                          (鑑真和上上陸之地、椋鳩十文学碑散策)
 地図5:屋久島南西部
 屋久島5日目:10月14日(金) 雨      (炊事棟兼避難小屋でテント泊1日目)
 屋久島6日目:10月15日(土) 雨一時曇  (炊事棟兼避難小屋でテント泊2日目)
 屋久島7日目:10月16日(日) 曇一時雨  (テント防水完了)
 屋久島8日目:10月17日(月) 晴     (飲み会は?)
 屋久島9日目:10月18日(火) 晴     (屋久島出張・最終日)
※本文中赤字は写真あり
写真

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■海楽園キャンプ場


屋久島1日目:10月10日(月) 曇  (屋久島出張)


地図1、2

屋久島北東部
屋久島北東部地図
地図検索サイト;マピオン(http://www.mapion.co.jp/)を加工

海楽園キャンプ場周辺略図

海楽園キャンプ場周辺略図

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 本日は、屋久島出張日。台風が発生し降水確率70%での最悪の状態。フェリー太陽(注1)が欠航の場合は、防災行政無線の屋外スピーカで放送があるが、今日は未だ無い。

 10日間の屋久島出張なので、必要最小限の荷物だけを自転車に積み込み、他は段ボール箱に入れて、部屋に置いて行く。

 8時に寝待を出発。9時過ぎに本村港に到着し、乗船手続きをしてから、港の西側の堤防で昨夜作って於いたおにぎりを食べてから、入港してきたフェリー太陽に乗船。

 寝待湯治小屋2号室の北海道北見から来たハイカーも同じ船で屋久島に向かう。

 波の荒い中、定刻の10時30分に出港した。欠航丸と揶揄されるフェリー太陽は頑張ってくれ、12時過ぎに屋久島の宮之浦港に無事入港。

 宮之浦港は雨上がり。本日の降水確率70%だったので、急いで海楽園キャンプ場に行く。

 キャンプ場の管理をしている、民宿・海楽園の玄関に「御用の方は熊毛レンタカー迄」の張り紙がある。

 キャンプ場の避難小屋兼炊事棟に自転車が2台置いてあり、トイレ・シャワー棟の中にテントが干してあった。7月7日から9月9日迄の2ヶ月間滞在した勝手知った所なので、適当にテントを張ってから、熊毛レンタカーに行く。

 熊毛レンタカーは、キャンプ場入口角にある会社。前回訪問時には挨拶をする程度で親しく話をする事は無かったが、取敢えず、事務所に行く。

 事務所に居た社長に挨拶をして、事情を聞くと、海楽園キャンプ場のオーナー大隅さんは、病気で鹿児島の病院に入院したので、その間、娘が管理をしているとの事だった。

 暫く世間話をして、スーパー「わいわいらんど」で買い物をしてから、キャンプ場に帰ると、若い男性2人組が居た。

 彼らは、昨日から降り続いていた雨が止んだので、これから、島内一周に出掛けると出発準備をしていたので、屋久島の情報を知らせ、出発を見送る。

 夕方までに、キャンプ場に隣接する、レストラン「オアシスクラブ」のマスター黒田さん夫婦やオーナーの志水さん、熊毛レンタカーの娘さんとも会えた。

注1:フェリー太陽
上屋久町営のフェリーで、屋久島(宮之浦港)から口永良部島(本村港)、種子島(島間港)を、偶数日、奇数日でダイヤを変えて運航している。フィンスタビライザー等の減揺装置が無い為か、燃料節約乃至乗員休養の目的なのか、欠航が多く、通称「欠航丸」と揶揄されている。
【詳細】
平成9年就航。
旅客定数 100名
総トン数 499トン
全長 53.02m
幅 10.50m
深さ 3.80m
最大吃水 船首2.40m 船尾3.30m 平均2.85m
航海速力 15.0ノット
最高速力 16.5ノット
積荷 中型バス2台
普通乗用車3台
【時刻表】
(奇数日)
宮之浦13:00発→口永良部14:40着
口永良部15:20発→宮之浦17:00着
(偶数日)
宮之浦08:10発→口永良部09:50着
口永良部10:30発→宮之浦12:10着
運賃 宮之浦~口永良部島 ¥2,050 自転車¥320

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屋久島2日目:10月11日(火) 曇一時雨  (宮之浦散策)

 昨夜は6時にテントに入ったがなかなか寝付かれずウトウトし、深夜2時に目が覚めると雨が降っていた。

 5時の起床時は、雨は上がっていたが、朝食後に降り出す。

 屋久島出張は、キャンプ場のオーナーの大隅さんに会って登山をする事と、買い物だったが、肝心のオーナーの大隅さんは入院。天候は不順。本当に屋久島は雨(注2)が多い。

 林芙美子が小説「浮雲」で月に35日雨の降るところと記しているらしいが実感する。

 昼から、雨の止み間に宮之浦に行って、ライフセンター・ヤクデンで自転車のタイヤチューブとトレーニング用品、弁当を買って、宮之浦港と県道の交差点東側にある、なごりの松原公園(注3)のベンチで弁当を食べてから帰る。
 
注2:屋久島の雨
洋上アルプスと評される、屋久島では、近海からの湿った風が山の斜面を上昇して雲となり多量の雨を降らせ、年間降水量は平地で約4,000mm、山地で約8,000mmにも達し、「ひと月に35日雨が降る」と表現され程の雨が降るが、毎日降っているのでは無い。しかし、1mm以上の降水日数は平地で年間170日もあり、2日に1度は雨が降っていることになる。
なお、全国の主要都市の年間降水量は北海道1,060mm、東京1,466mm、大阪1,306mm、福岡1,632mm、沖縄2,457mm。(1971~2000年の気象庁データによる)

注3:なごりの松原公園
昔砂浜だったところに造られている松林に囲まれた公園で、ここから船を見送ったのでこのような名前がついたと云う。 公園の中には、東屋やトイレの他に「道は雑草の中にあり」と彫られた椋鳩十(むくはとじゅう)の石碑がある。

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屋久島3日目:10月12日(水) 曇のち雨  (神社・仏閣巡り)


地図3、4

屋久島中央東部
屋久島中央東部地図

安房周辺
安房周辺地図
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 昨夜、夜中の3時過ぎから雨が降り始め、降ったり止んだりの天候が、朝食後には安定してきたので、ポタリング(自転車散策)に出掛ける。

 屋久島大社に参拝してから、特に行き先を決めずに屋久島の時計回りに走行し、楠川温泉を過ぎて、椨川(たぶかわ)集落の県道沿いのスクールバス待合所横に鳥居があったので、自転車を待合所に置いて、鳥居を潜り先に進み、苔むした階段を上がり旧道に出て参道を約100m歩いた先の、第2の鳥居の奥に拝殿があったので、般若心経を唱える。

 この椨川(たぶかわ)集落の高台にある神社は、椨川(たぶかわ)神社

 屋久島の神社と云えば、観光案内等では宮之浦の益救(やく)神社が著名で、宮之浦の神社仏閣は巡ったが、それ以外にも、島の一周道路沿いには幾つもの神社があり、それらの神社を素通りしてきたので、本日は、屋久島の神社巡りをする事にした。

 椨川集落を過ぎると、愛子岳をかたどった道標のある「ふれあいパーク屋久島」で小休止。

 「ふれあいパーク屋久島」は小瀬田集落の掛かりに在り、安房方面に行く時は必ず当所に立ち寄るお気に入りの場所である。

 ここから、500m程先で、県道は二股に分かれる。何時もはバイパス側に入り、集落内は通過したことが無かったので左斜めの集落内道路に入る。

 郵便局前を通り、集落の外れ、女川の手前に左に入る道があり、その樹林帯のトンネルを抜けると神社があった。

 小瀬田神社で、拝殿と鳥居が在る。鳥居から海に向かって階段が付いている。階段を降りると海岸に出た。同じ小瀬田集で、屋久島空港(注4)の先、県道沿いに在る長峯(ながみね)神社よりも風情があると感じた。

 その長峯神社に寄って、落ノ川に架かる高見橋を渡り、JA売店兼郵便局の在る永久保集落を通り、枕状熔岩の田代海岸入口先から、船行に入る。

 山間部の県道左手に特別養護老人ホーム・竜天園が見えてくる。

 ここから、約500mで船行(ふなゆき)集落に入る分岐。

 この分岐から、右斜めに入るか、県道の400m程先に船行と記載のある石の区標から、右折した先に船行集落の神社、船行神社が在る。

 船行神社は、お産の神様が祀られている由緒ある神社。境内には平地では珍しく直径1m、樹齢約700年の大杉が何本も並んでいた。

 もともと船行の地名は「船雪」だったらしく、名前の通り屋久島の中で唯一雪が積もる集落と云う。

 この船行の先にある集落が安房。

 安房は、月に35日雨の降るところで有名な、林芙美子(注5)が小説「浮雲」を執筆した地で、逗留場所のホテルは、半世紀以上経過した現在も「林芙美子・浮雲の宿」の看板を出している。

 その他、集落を代表する史跡は如竹廟(じょちくびょう)であるが、他にも神社が点在している。

 如竹廟と盛久神社は参拝済みなので、今回は、集落を一望できる高台に在る若宮(わかみや)神社と粟穂(あわほ)神社、安房漁港近くに在る大山祗(おおやまづみ)神社を参拝することにした。

 粟穂神社は、安房大橋北の安房バス停から、階段を上ると鳥居が、その奥に戦没者慰霊塔と拝殿が在り、法華宗本仏寺(注6)と隣接している。

 若宮神社は、安房川左岸の民宿・水明荘近くの小高い丘に在る。赤い木製の鳥居の上の額束には若宮大明神とあり、苔むした階段を上り詰めた所に、小さな拝殿が在る。

 大山祗神社は、安房漁港向かいの集落奥に位置し、大きなガジュマルの木の下に祠が在るので、ガジュマルが御神木かとも思ったが、昭和30年に当地に移転造営されたらしい。

 安房から先にも神社仏閣は在るが、今日はテントを持って来なかったので、本日の神社・仏閣参りは安房までとして、引き揚げる。

 途中小雨に見舞われたが、無事海楽園キャンプ場に帰り着いた。

 キャンプサイトの避難小屋兼炊事棟で夕食中の5時過ぎから大雨。7時過ぎに止んだので、テントに入り就寝する。

注4:屋久島空港
海岸沿いの丘陵地上に位置し,昭和38年に滑走路長1,100mで供用開始、その後、滑走路長1,500mに拡張され、JALグループの日本エアコミューター(JAC)が、鹿児島~屋久島間を1日5往復運航している。

注5:林芙美子(はやし・ふみこ)明治36(1903)年~昭和26(1951)年
福岡県門司区生れ。大正7(1918)年尾道高女に入学。卒業後愛人を追って上京したが婚約を破棄され、日記をつけることで傷心を慰め、これが「放浪記」の原形となった。昭和3(1928)年「女人芸術」に「放浪記」の副題を付けた「秋が来たんだ」の連載を開始。昭和5(1930)年長編小説「放浪記」が出版されベストセラーとなる。他に昭和6(1931)年「風琴と魚の町」、昭和9(1934)年「泣蟲小僧」、昭和10(1935)年「稲妻」等を発表、日中戦争勃発後は中国・東南アジアの各地に赴き従軍作家として活躍。戦後は昭和22年(1947)「うず潮」を、23(1948)年には「晩菊」、24(1949)年「浮雲」等の作品を発表。昭和26(1951)年過労のために急逝した。享年47歳。
☆放浪記
小説冒頭に、「私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない」と書いているこの小説を、今日知らない人がないくらい有名にしたのは、菊田一夫脚本、森光子主演の「でんぐり返り」がある舞台作品「放浪記」で、昭和36(1961)年に東京の芸術座で初演されて以後、公演回数は1900回を越えている。
☆浮雲
「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」で有名な長編小説。
大東亜戦争下、主人公、幸田ゆき子が仏印(仏領インドシナ)のダラットで知り合った富岡兼吾と終戦後、福井県の敦賀に引揚げて来るところから始まり、焦土と化した東京の非常な現実を体験し、疲れ果てた2人は雨の屋久島に行きつき死んで行くと云う、放浪の作家林芙美子の代表作。
脱稿後まもなく芙美子は亡くなっているにで、この小説が、芙美子の締めくくりの作品と云える。
小説としても昭和文学史に残る傑作だが、映画の名作としても知られ、昭和30(1955)年1月に映画「浮雲」が上演された。
※主演・高峰秀子、森雅之、監督・成瀬巳喜男、助監督・岡本喜八、脚本・水木洋子。出演者・岡田茉莉子、山形勲、加東大介、金子信雄、ロイ・H・ジェームス。

注6:法華宗本仏寺
屋久島の発展に尽力し屋久島聖人の一人とされている、安房生まれの泊如竹(とまり・じょちく)
は5歳にして本仏寺に入門。17歳で本興寺勧学院(兵庫県尼崎市)に入学の為、島から出るが、その後本仏寺の住職となっている。
※屋久島は古来、律宗であったが、京都本能寺の日増上人が長享2(1488)年に来島して以来、京都本能寺、尼崎本興寺から多くの僧侶達が法華経の布教の為に来島。その結果、全集落に法華経の寺院が建立され、江戸期までに全島が法華宗となった。

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屋久島4日目:10月13日(木) 晴  (神社・仏閣巡り)
                        (鑑真和上上陸之地、椋鳩十文学碑散策)


地図5

屋久島南西部
屋久島南西部地図
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 3時過ぎに目覚め、外に出ると多少曇が懸かっているが、美しい星空。久しぶりの屋久島での星空観察をする。

 ご飯を炊いて、おにぎりを作り5時過ぎにキャンプ場を出発。昨日に引続き神社・仏閣巡りに出掛ける。

 何時ものように、屋久島大社で安全祈願をしてから、県道を走り、小瀬田のふれあいパーク、安房の安房大橋南詰の見晴らし台でそれぞれ小休止をしてから、県道を南下。

 県道沿いに「ぽんたん・たんかんの里」の大きな看板を見ると、そろそろ麦生集落に入る。

 集落二股路から県道沿いに150m程の所に在る麦生の神社に行く。アジサイの木が茂る階段を上った先に、杉に囲まれた鳥居と拝殿がある。拝殿には、弓矢八幡神社とあった。

 弓矢八幡神社で般若心経を唱え参拝し、県道を1km程西に走ると、ポンタン館とトローキの滝が在るが素通り、原(はるお)集落の神山に在る、山河(やまんこ)公園と郵便局の間にある、普通のしもたやで無住職寺の法華宗永昌寺と、神山バス停から北に上がったところに在る、原益救(はるおやく)神社に参拝する。

 原益救神社は、宮之浦に在る、延喜式(注7)に出ている格式の高い神社と云われる益救神社の、元神様が祀られており、昔はこの神社から、旧原歩道を通り、モッチョム岳に登っていたと云われる。

 元神様と云われるだけあって、その佇まいは荘厳で、宮之浦の益救神社よりも御利益があるのではと思いつつ、神社南東側の県道沿いの山河(やまんこ)公園で小休止。

 公園の西端に在る日本名水100選・山河湧水の水を沸かし、モッチョム岳を見ながら、コーヒータイム。管理者の許可が出るかどうかは不明だが、絶好のキャンプサイトである。

 山河(やまんこ)公園から、西に1,4km程走ると、尾之間バイパスの二股分岐に出るので、旧道に入り、小さな境川を渡って、モッチョム岳に向かう農道を海側に行くと、釣り場でもある「ミヤカタの浜」に出るが、この浜が、鑑真和上上陸の地(注8)である。

 木製の道標が立っている以外これと云ったものはないが、浜から海を眺め、感慨に浸る。

 ミヤカタの浜から、北西方向に直線距離で約1km先のバイパス沿いに在る、保食(うけもち)神社、そこから、西に800m程の尾之間温泉隣の温泉神社、さらに、西に2km走った、小島集落の掛かりに在る小島神社に参拝する。

 小島神社は天満宮なので菅原神社と呼ぶ人もいたが、鳥居上部中央の額束や、拝殿横の石には小島神社と記載されているので小島神社とした。

 小島集落の隣は平内。その平内集落・上の牧の海岸沿いは、通称関東村と呼ばれるぐらい移住者の多い地域。

 そこを通過し、八幡(はちまん)小学校の先の平内八幡神社に参拝する。

 境内は、フェニックスやあこうの樹に囲まれ、東隣には、赤い鳥居の在るお産の神様が祀られている。

 また、平内集落の県道沿いに在る、まごころ市(季節の野菜や果物を100円均一で売っている無人市)から平内生活館への通路の両側約50メートルは、野生化したカンノンチク(観音竹)の自生地で、屋久町の文化財(天然記念物)に指定され、まごころ市の隣には、カンノンチクの説明が書かれた石碑も在る。

 ここ平内集落は、海中温泉が有名だが、その他にも、集落西端に位置する、西開墾(にしかいこん)の黒葛原(つづらばら)農園内に、大正13(1924)年、台湾から導入した時のポンカンの老木(注9)や、本年4月に開校した、鳥の巣とその巣から飛び立つ鳥を形どったユニークな校舎のおおぞら高等学校(注10)があるが、今回は訪問せずに次に向かう。※屋久島おおぞら高等学校ホームページ→http://www.ohzora.ac.jp/

 平内集落から隣の湯泊集落に入ると、郵便局前から150m程西の県道沿いに鳥居が見える。ここが、湯泊神社で、50~60段の階段を上ると、雑木林に囲まれた拝殿が在ったので、般若心経を唱え参拝を済ます。

 今日の予定は終了。遅くなれば、栗生の青少年旅行村でキャンプを予定していたが、早かったので、海楽園キャンプ場に帰ることにする。

 途中、湯泊集落と平内集落の境を流れる湯川に架かる橋の袂の大きなガジュマルの下に、椋鳩十文学碑入口の道標が目に付いたので、海側に少し入ると、中央に「感動は人生の窓を開く」と刻まれた石碑。右側に「椋鳩十文学碑」と刻まれた石碑。左側に建立する理由を刻まれた、3つの石碑があった。

 椋鳩十(注11)に関しては、宮之浦港のなごりの松原公園内に、「道は雑草の中にあり」と彫られた石碑があったと思い浮かべながら後にする。

 安房の書店で、般若心経と瞑想関連のの本を買ってから、海楽園キャンプ場に帰る。

 元々、キャンプサイトの海沿いにあったカマド周辺の草刈りをし、流木を集めて焚火をして、屋久島名物トビウオ等を焼いているところに、キャンプサイトに隣接する、レストラン・オアシスクラブに助っ人として来たと云う調理人を交えバーベキューパーティーをする。

注7:延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)
927年(延長5年)にまとめられた全国の神社一覧で2861社の神社の記載がある。

注8:鑑真和上(日本律宗の祖:688年~763年)
鑑真55歳の時、日本書紀の撰者でもある舎人(とねり)親王から、高僧の招請の命を受けた、第9次(773年)遣唐使の使者、栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)2人の青年僧に仏法宣布の願いを懇請され、日本への渡航を決意するが、5度失敗。
753年(鑑真65歳)、日本から20年ぶりに第10回遣唐使がやって来た折り、その船に普照(ふしょう)と共に便乗。渡航を決意して11年が経過していた。
754年正月、鹿児島県坊津(ぼうのつ)町の秋目(あきめ)に到着し、悲願の日本の地を踏むことが出来、大和朝廷から、和上という位を与えられ、最高の待遇で迎えられたが、鑑真はすでに失明していた。それにも拘らず、76歳で亡くなるまでの10年間に、日本に正しい仏教の在り方を伝え、唐招提寺を開き戒壇を造ると同時に、興福寺に、仏教の慈悲(慈:楽を与える、悲:苦を抜く)の思想に基づき、貧しい人や孤児を救済する施設、悲田院(ひでんいん)を設立し、貧民救済にも積極的に取り組んだことは、昨今の寺院・僧侶に対する警鐘でもあると云える。
763年6月25日(来日から10年、唐招提寺創建から4年目)、西に向って結跏趺坐(けっかふざ)したまま息を引取ったと云う。享年75歳。
※律宗:仏教徒が遵守すべき戒律を伝え研究する宗派。「戒律」とは、各自が自分で心に誓うものを「戒」、僧侶同士が互いに誓う規則を「律」という。
※唐招提寺(とうしょうだいじ)の招提は、四方の意で、仏教を志す人々が広く四方から集まる寺院と云った意味あいと理解する。
※ミヤカタの浜:鑑真一行は、沖縄、種子島と東シナ海を北上して行く途中、嵐に遭遇し、漂流した先が、屋久島のミヤカタの浜であった。

注9:ポンカンの老木(指定文化財)
平内集落の西端の西開墾バス停から北に1km程の所の、黒葛原(つづらばら)農園内に在る。
そもそも、ポンカンは、当時台湾で教師をしていた後の下屋久村の村長・黒葛原(つづらばら)兼成氏が、大正13年に台湾からポンカンの苗木300本を導入したのが最初で、今や屋久島を代表する果実となっている。その時の苗木が81年経過した現在も沢山の果実をつけており、町の文化財に指定されている。
なお、ポンカンと共に屋久島を代表する果実であるタンカンは、ポンカンとネーブルオレンジの自然交雑で出来た中国原産の果物と云われているが、屋久島には、昭和10年頃ポンカンの苗木に混ざってやって来たと云われている。

注10:屋久島おおぞら高等学校
広域対応の通信制高校(単位制高等学校)で、全国から入学可。運営法人は学校法人KTC学園。設計者:岐阜県中津川、小西昭臣・KALPA建築研究所

注11:椋鳩十(むく・はとじゅう)児童文学者、本名は久保田彦穂(くぼた・ひこほ)。1905(明治38)年~1987(昭和62年)享年82歳。
長野県下伊那郡出身。法政大学卒業後、鹿児島で教員をしながら、1933(昭和8)年、椋鳩十のペンネームで郷里伊那谷付近に戦前多くいたといわれる山窩(さんか)の暮らしぶりを描いた山窩調(さんかちょう)を執筆したが、無頼の民を書いたという理由で発禁処分。
その後少年雑誌・少年倶楽部に児童向け作品を発表後は、動物作家としての地位を確立していった。
屋久島の動物をモデルにした作品には「ヤクザル大王」「片耳の大シカ」等があるが、それらの作品のモチーフになる話題を提供したのが、湯泊の漁師・故佐々木吹義氏だった事から、湯泊に文学碑が作られた。

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屋久島5日目:10月14日(金) 雨  (炊事棟兼避難小屋でテント泊1日目)

 昨夜は、海沿いで焚火をしながら星空観察をしたが、月明かりと雲が多くて見えにくかった。星空観察は明け方に限ると思いながら、8時過ぎにテントに入る。

 夜中、1時過ぎに目覚め、トイレに起きて間もなく大雨が降ってきたものの、6時過ぎまで熟睡する。が、朝目覚めると、テントの中は洪水状態。

 トイレ兼シャワー棟にテントを移動して乾かす。

 起床時止んでいた雨は、8時過ぎから降ってきた。フェリー太陽も昨日に続き今日も欠航しているので、波が高いのだろう。

 雨は相変わらず降り続いている。外出せずに炊事棟兼避難小屋で過ごす。

 昼から、昨夜一緒にバーベキューをした、レストラン・オアシスクラブの助っ人調理人がビールと酒の肴を持ってやって来たので夕方まで宴会をする。

 助っ人調理人は、宮崎は都城出身で、大阪の住吉に住居を構える黒木新二さん41歳で、オアシスクラブのマスター黒田さんからの依頼を受け、年末迄の約束で屋久島にやってきたらしいが、屋久島は何もないので早く大阪に帰りたいと愚痴を漏らしていた。

 屋久島に魅力を感じない人も居る事を知る。

 雨が止まず、ダンロップの山岳テントは防水切れなので、炊事棟兼避難小屋にテントを張って寝る。

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屋久島6日目:10月15日(土) 雨一時曇 (炊事棟兼避難小屋・2日目)

 昨夜は11時前に大雨の音で目が覚めたが、3時の起床時には上がっていた。

 朝食後、チューブトレーニングをしてから、海岸沿いに貝殻集めをしながら宮之浦まで行くが、途中から傘を差しても衣服はずぶ濡れになる程の雨が降り出し、雨宿りを兼ね、宮之浦の環境文化村センターの図書コーナーで星座の勉強をする。

 屋久島に図書館が無い(宮之浦の上屋久町役場に隣接する、屋久島開発総合センターに図書館の看板は架かっているが)ので、ここ環境文化村センターの図書コーナーは重宝している。

 ただし、屋久島関連本と図鑑類しか置いていないので念のため。

 星座の調べ物をしているうちに、雨でぬれた衣服は乾いたが、外は相変わらず雨が降っている。

 何時までも、図書コーナーに居る訳にもいかないので、雨の中を歩いていると、オアシスクラブのマスター黒田さんが車で通りかかったので、キャンプサイトまで乗せてもらう。

 キャンプサイトに帰り、浜で拾い集めたシャコガイを洗っていると、レストラン・オアシスクラブのオーナー志水さんが、店の灰皿にすると云うので、差し上げる。

 夕食後も雨は降り続いているので、昨日同様炊事棟兼避難小屋にテントを張って寝る。

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屋久島7日目:10月16日(日) 曇一時雨  (テント防水完了)

 今朝4時起床時には、星空が見えていたが、朝食時には雨が降ってきた。その雨も暫くして止んで、昼前にはお日さんが出てきたので、屋久島空港近くに在る、ファミリーショップ・サムズに行く。

 ファミリーショップ・サムズは、ホームセンター中心のスーパーなので、キャンプサイトのスーパー・わいわいらんどでは扱っていない防水スプレーと釣り道具を購入。

 防水スプレーは、ダンロップ製山岳テントの防水処理用。釣り道具は、口永良部島に帰り、釣り竿を作る為の釣り針とおもりを購入した。

 キャンプサイトに帰って、購入した防水スプレーで、フライシート(テント本体を覆うシート)に吹き付け作業を行うが1本では足りなかったので、今度は、追加の防水スプレーを買いに、宮之浦のライフセンター・ヤクデンに行く。

 ライフセンター・ヤクデンでは、防水スプレーの他に、登山靴の半額セールをしていたので、運動靴代わりに購入する。5,980円。

 フライシートの防水作業も完了し、キャンプサイトにテントを張り、流木を集めて焚火をしながらビールを飲む。美味い。

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屋久島8日目:10月17日(月) 晴  (飲み会は?)

 今朝も、2時過ぎに雨が降ったが4時起床時には止んでいた。朝食後、日課の屋久島大社に御参り入りしてから、楠川温泉に行く。

 先日から、尾之間、海中、湯泊と各温泉近くに行ってはいるが、入湯はしなかったので、今日が、屋久島に入って、初めての温泉入浴。

 毎日、シャワーを浴びてはいるが、湯船に入ると、何かしらほっとする。日本人を感じる瞬間なのか・・・

 キャンプサイトに帰ると、レストラン・オアシスクラブのオーナー志水氏から、明日は店の定休日なので、今夜、自宅で飲み会をするとのお誘いが在った。

 これまでも、何度か飲み会の誘いを受けては、その都度、夜は苦手なので断っていたが、口永良部島を紹介してもらったこともあって、今回は参加することにした。

 早目の夕食を摂ってから、炊事棟兼避難小屋で、店の終わるのを待っていたが、何時まで経っても誘いが無い。

 レストラン・オアシスクラブが店仕舞いをしてからも誰も来ない。

 狐につままれた感じで、テントに引き揚げる。

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屋久島9日目:10月18日(火) 晴  (屋久島出張・最終日)

 昨夜は、幻の飲み会出席の為、遅くまで起きていたので、目覚めたのは6時過ぎ。朝食後、ストレッチ、屋久島大社参拝の日課をこなし、海岸沿いを散策。

 何時もなら、海岸沿いからオーシャンビューキャンプ場に抜けるが、今日は、途中から、集落に入る新しい道を発見。屋久島高校前の県道に出て、宮之浦集落に行く。

 宮之浦大橋西詰の文具店で、スケッチブックとクレヨンを、Aコープで食料を買ってから、キャンプサイトに帰る。

 キャンプサイトの炊事棟兼避難小屋には、オアシスクラブの助っ人調理人黒木さんがいた。

 黒木さんは、オアシスクラブのオーナー志水さんの自宅の居候で、昨夜は、3人で飲む約束だったが、肝心の志水さんが酔いつぶれてしまって、飲み会をするどころではなかったと弁解に来ていた。

 両人共に朝から酒を好む酒好き人間。昔から、酒好きに悪い人間はいないと云う?ので、弁解を了承し、黒木さんの運転する車で、志水さんの自宅である、深川の市営住宅に行く。

 が、志水さんは不在。

 以降、黒木さんと行動を共にし、夕食後2人して、楠川温泉に入ってから、再度、志水さんの家を訪問するが居ない。どこかで生き倒れになっているのではないかと心配する。

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写真


写真は和坊流宇宙(http://www.justmystage.com/home/kazubo/)の和坊放浪記:口永良部島part6・屋久島編でご覧ください。


続く・口永良部島編part6 


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2008年12月21日 (日)

口永良部島編:part4


和坊放浪記:口永良部島編part4


平成17年備忘録


 項目

■口永良部島・寝待湯治小屋
 24日目:10月2日(日) 曇のち晴   (後境・進入路完成)
 地図1:後境周辺
 25日目:10月3日(月) 雨のち晴   (寝待集落清掃)
 26日目:10月4日(火) 曇のち晴   (新岳登山)
 地図2:口永良部島中央部
 27日目:10月5日(水) 雨のち晴   (部屋内でテント生活開始)
 28日目:10月6日(木) 晴一時小雨 (後境・貝採り)
 29日目:10月7日(金) 晴       (寝待集落清掃)
 30日目:10月8日(土) 雨のち曇   (屋久島出発準備)
 31日目:10月9日(日) 曇のち晴   (水源整備)
本文中赤字は写真あり
写真

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■口永良部島・寝待湯治小屋


24日目:10月2日(日) 曇のち晴  (後境・進入路完成)

地図1:後境周辺
後境周辺地図
地図検索サイト;マピオン(http://www.mapion.co.jp/)を加工

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 寝待の西側の突起部、釣りと貝採取の岩場・後境の進入路造りを始めて今日で3日目。

 昨日は、谷川を渡り直して、その先の谷筋を下る道が判明しなかったので、今日はその続きの作業をする。

 谷川を渡って、川沿いを下ると、谷筋から離れ登りになるところまでの道は完成済み。

 この場所から、20~30cmの岩の間に涸れ沢跡があったので、そこを進むと、谷川上の狭い道に出たので、この道が正解と直感し、竹を掃いがむしゃらに前進すると、突然視界が開け、海が現れた。

 谷川沿いの、腰の高さ程度の竹藪をかき分け進むと、平らな一枚岩と野芝の茂る広場に出た。

 広場の前から左手にかけては、沢山の奇岩が並ぶ海岸で、右下に降りた先にも岩場が続いている。

 やっと海岸に到着した安堵感からか、体から力が抜け、体がだるく、熱中症的な症状が出てきたので、30分程休憩してから、引き揚げる。

 寝待に帰って温泉に入っても体のだるさは消えない。2時過ぎに遅い昼食のざるそばとビールを飲んでやっと元気が出てきた。

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25日目:10月3日(月) 雨のち晴  (寝待集落清掃)

 4時前に起床、温泉に行く時にぽつぽつ降り出した雨が、入浴後に本降りになった。

 6時前に一旦止んだが、午前中は、降ったり止んだりを繰り返す。

 昼から晴れ間が出てきたので、生活水路の整備と、温泉までの道筋と温泉の山側に在る水神を祀る祠に通じる道を清掃する。

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26日目:10月4日(火) 曇のち晴  (新岳登山)

地図2:口永良部島中央部
口永良部島中央部地図
地図検索サイト;マピオン(http://www.mapion.co.jp/)を加工

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 今朝目を覚まし、5時と思って急いで温泉に行って時計を見ると2時30分だった。ゆっくり温泉に入ってから、日課のストレッチをして朝食。

 朝食後、新岳(注1)に登る為7時に出発。

 一周道路を走り、本村集落手前の前田分岐を左折、前田、向江浜集落を通過して、砂防ダムに到着。

 砂防ダムと云っても、コンクリート造りではなく、金網の中に石を入れたもの。ここから、新岳を仰ぎ見ることが出来る。

 登山口から、涸れた沢伝いにひたすら登る。ペンキの目印やテープが付いているので迷うことはなく、直線距離で1,5kmのガレ場(岩石がごろごろしている場所)を登ること約2時間で、新岳火口縁に到着した。

 火口壁の東縁を辿り北に進路を取る。途中右手に深い割れ目が平行して走り不気味な様相を見せている。

 この斜面を通過して、三角点山に到着。眼下に野池の全景を見ながら昼食休憩。

 昼食後、野池から下山しかけるが、砂防ダムに自転車を置いているのに気が付き、来た道を引き返す。

 下山後、本村の羽生商店で焼酎・三岳とビールを買ってから、Aコープに寄るが偶数日なので何もない。玉ねぎがあったので購入し、寝待に帰る。

注1:新岳火山
数1000年前に古岳火山の北西側山腹が崩壊、9世紀あるいは11世紀ごろに相次いで噴出し出現した最も新しい火山である
新岳火山山頂部には1930年代の噴火によって開口した、直径約250mの中央火口が、また、新岳火山体の東側には1945年(昭和20)の噴火による、南北に伸びる延長約500mの割れ目火口が開口している。
新期古岳火山・新岳火山の成長に伴う火山礫や火山灰の噴出物は,北西部を除く口永良部島のほぼ全域に降下、口永良部島東部の湯向から町営牧場地域にかけては、火山礫を含む火山灰層が2~3 mの厚さで堆積し、また新期古岳火山・新岳火山の山頂火口からおよそ3kmの範囲の地表には,直径数10cm以上の投出岩塊が多数みられる。
☆近年の火山活動
1841年(天保3年)には複数回噴火し,現在の前田集落付近に火山礫が降下したとの記録があり、それ以降1931~35年頃と1966~80年にかけて噴火が頻発しているが全て新岳の山頂火口及びその周辺から発生している。
☆1931(昭和6)~35年(昭和10)の噴火
新岳火口およびその周辺で噴火活動が活発化し、しばしば爆発的噴火が発生。火山岩塊は新岳火口から約2km離れた向江浜集落付近まで到達するとともに広範囲に森林火災が発生し、高温のマグマ物質が放出された。
1932(昭和7)年12月25日の噴火では火口から1.7km東麓の七釜集落に高温の火山礫が多数降下し,集落13戸が全焼。死者8名、重軽傷27名を出している。
また、新岳から北西に流下する向江浜川にはたびたび二次的な土石流が発生。主要な活動が終了して約1年後の1935(昭和8)年4月4日には、向江浜川で降雨による大規模な土石流が発生し、硫黄精錬施設が集中していた向江浜集落が被災、死者5名の被害を生じた。
なお、1934~35年にかけて北隣の薩摩硫黄島火山でも海底噴火が発生し、昭和硫黄島が形成された。
☆1945(昭和20)年の噴火
11月3日、新岳山頂東側に開口した側火口および割れ目火口から発生した水蒸気噴火の降灰は屋久島の栗生まで到達した。
☆1966(昭和41)年の噴火
11月22日には新岳山頂火口から爆発的噴火が発生し、島の南部~東部を中心に降灰があったほか、北側山腹の広い範囲に投出岩塊が飛散した。
新岳火口から約3.5km北方に離れた寝待温泉の海上にまで多数の岩塊が到達し、本村~湯向間の道路が寸断された。また、高温の火山岩塊の着地によって北側山麓を中心に広範囲で山林火災が発生した。降灰は屋久島・種子島まで到達した。
1966(昭和41)年噴火以降新岳の噴火活動は活発になった。1970年代にかけて新岳火口から断続的に小噴火が発生し、新岳火口周辺に投出岩塊を飛散させたほか山麓に少量の降灰をもたらした。
☆1980(昭和55)年の噴火
9月28日には,新岳山頂の東側を南北に走る既存の割れ目火口から噴火し、火口列近傍に火山礫が飛散したほか、南西方向に火山灰が飛散した。
※独立行政法人・産総研(AIST)火山地質図 電子試作版より抜粋。

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27日目:10月5日(水) 雨のち晴  (部屋内でテント生活開始)

 3時に起床。朝風呂から上がって暫くしてから雨が降り出した。その雨も7時過ぎには止んだので、8時から、森杉のバッチャン宅の裏山の草刈りをする。

 裏山は、旧道に繋がる竹藪とツワブキ(注2)が茂っている急斜面。

 この急斜面の草刈りを、足の悪い森杉のバッチャンがするのは酷なので、暇な時にしてあげると約束していたので、本日実施する。

 足場の悪い急斜面での作業は、可成りの重労働だったので、本日の作業は午前中で終了し、温泉で疲れを癒す。

 朝起きて温泉。疲れては温泉。汗をかけば温泉。泳いで温泉・・・温泉三昧の毎日は極楽・極楽。

 午後から、部屋の中にテントを張る。

 何故かと云えば、湯治小屋の畳が古く、一部腐っている部分がある関係か、虫刺されが酷く、難儀していたところ、3号室を利用していた神戸の2人組と、2号室の種子島の太田さんが、バルサンを焚いて以来、虫刺されが以前より酷くなり、痒くて寝られない毎日が続いているので、今日からテントの中に寝ることにした。

 テント泊は久しぶり。部屋の中でのテント泊も乙なもの。

注2:ツワブキ
ツワブキとはキク科ツワブキ属の多年草。名前の由来は、「艶のある葉のフキ」から転じたもので、沖縄方言では「ちぃぱっぱ」とも云う。
葉の表面には光沢があり美しく、日陰でもよく育つので古くから庭園の下草として利用され、晩秋に花茎を伸ばして一重の黄色い花を数輪~10輪程度咲き、花後はタンポポのような綿毛ができて風が吹くとタネが飛んでいく。
茎を利用して、醤油などで煮込み保存食としたり、昔は、生葉を冷湿布として、また葉を炙り表皮を除いたものを、腫れ物などの外用薬にし、利用していた。

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28日目:10月6日(木) 晴一時小雨  (後境・貝採り)

 昨日は6時に就寝。テント泊の効果は抜群。湯治小屋に来て初めて痒みの無い夜を過ごすことが出来た。

 しかし、テントの中は暑い。持参のダンロップ製山岳テントの入口の虫よけネットが細かすぎて扇風機の風も入らない。

 虫に刺されるか、暑さを我慢するか・・・

 2時30分に目覚め、星空観察をしてから、温泉入浴。午前中一時雨が降った以外晴れ間が続く。

 湯治小屋2号室から、広めの1号室に移った種子島の太田さん夫婦に、後境の岩場の案内を頼まれたので同行する。

 竹林を抜け、野芝の茂った広場から、右側の海岸に降りて、小休止。

 24日の後境・進入路完成時は体の調子が悪くて、後境の岩場に行けなかったので、今日は種子島の太田さんと2人で、後境の先端に行く。

 種子島の太田さんは漁師だけあって、スパイク付きの磯足袋を履いて用意万端。

 後境の先端に行くには、海岸東の崖を回り込むか、崖越えする2通りのコースがあるが、崖越えは波の高い時用と判断。本日の干潮は14時なので、崖を回り込むコースで岩場に出る。

 この後境の岩場は、昔から魚影が濃く、大量の貝が獲れる地元民羨望の地と云われるだけあって、岩場には貝がビッシリ。

 種子島の太田さんは、波打ち際の岩場に張り付いて、貝の採取に専念している。スパイク付きの磯足袋を履いて為せる技。

 この、スパイク付きの磯足袋は島の人の殆どが使用している。岩場は勿論、竹林に入ったり、急斜面の山肌では威力を発揮する便利な履物である。

 自分の使用する、レッドウイング製のワークブーツは値段だけ高くて役立たず、特に、岩場ではグリップ力はゼロに等しく何度も転倒しそうになる。

 相変わらず種子島の太田さんは、波飛沫を浴びて貝を取っている。特に貝の採取に興味が無いので、近隣を散策する。

 後境の岩場から海岸に戻る。太田さんの奥さんが、ニシンゴと云う小さな巻貝を沢山取っていた。

 砂浜の無い岩だらけの海岸から野芝の茂る広場に行くと、テラスになるような1枚岩が数か所あり、寝そべって昼寝をする事が出来る。

 また、野芝広場の西側に流れ込む谷川を渡った先には、奇岩が立ち並ぶ美しい自然景観が広がる。
 個人的見解であるが、この場所は口永良部島一美しい景色が見られる場所と推奨する。日を改めこの場所でキャンプをしたいと思った。

 太田さん夫婦は、アナゴ貝、ナガラメ(トコブシ)、亀の手等の貝を大量に取り、寝待集落の人に配ってくれた。お裾分けを受ける。

 種子島の太田さんは、島に自生する竹を利用して、手製の銛(ヤス)を作り、素潜りで魚を取る名人で、取った魚を集落の人に配ってくれる。

 ここ、口永良部島では、魚介類だけではなく、旬の野菜等も収穫の際には分け与えるのが当たり前の如くに行われ、昔の日本の良き姿を垣間見ることが出来、その度にお裾分けを受ける今日此の頃である。

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29日目:10月7日(金) 晴  (寝待集落清掃)

 昨夜は6時に就寝し、5時起床。11時間熟睡する。部屋内のテント泊の効果抜群。

 8時から、2日前に草刈りをした森杉のバッチャンの裏山の草刈りの続きをする。午前中に完了。

 午後からは、海岸沿いに打ち上げられているペットボトルと発泡スチロールを拾い集める。人が入れる様なビーニール袋に4袋もあった。

 湯治小屋2号室に北海道の北見からカップルのハイカーがやってきた。少しは賑やかになるかも・・・

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30日目:10月8日(土) 雨のち曇  (屋久島出発準備)

 昨夜11時過ぎに雷の音で目が覚め、雨は本降りになっていた。今朝も雨が降り続いている。

 自転車は、待避壕の中に入れてカバーを掛けているが、海風がまともに当たるので金属部の錆びが顕著。明後日には屋久島に出発するので、分解整備をする。

 屋久島には、自転車の部品調達と登山靴の購入以外に、海楽園キャンプ場のオーナー大隅さんとの約束を果たす為に訪問する。

 約束とは、屋久島に於ける入山時は天候に恵まれず、満足な登山が出来なかった事を知る大隅さんが、「10月に入れば天候が安定する」ので再訪島すればと助言され、大きなテントも預かってもらっている為である。

 午後から雨が止んだので、試運転を兼ね本村の羽生商店迄行き、ビールの買い出しをする。

 夕方、公民館長の林さん夫婦と家族が温泉入浴に来たので、明後日までの湯治小屋使用料を清算すると同時に10日後の湯治小屋の予約も入れる。

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31日目:10月9日(日) 曇のち晴  (水源整備)

 昨夜も6時に就寝。4時に起床して、日課のストレッチをしてから温泉に入り、朝食。

 屋久島の出発準備をしているところに、湯治小屋1号室の種子島の太田さんが、「水道が出なくなったので、原因を探る為水源まで行くので手伝ってほしい」とやってきた。

 種子島の太田さんは毎年口永良部島に来ているので、簡易水道の水源も熟知しているらしい。

 水源は、口永良部島林道寝待線(新道)の駐車場の水路に沿った急斜面の奥にあるらしい。

 トイレと水路の間の斜面を登ると、円形の大きな貯水タンクが設置されている。

 そのタンクにパイプが接続されているが、タンク内に水は流れてこないので、水源からタンク迄の間に問題が発生した様子。

 竹林の中を鎌で払い道を造って前進する。後境の岩場の進入路造りを経験しているので苦にはならないが、急斜面の足場確保に難儀する。

 何かにつかまらなければずり落ちる程の急斜面での道造り。

 水源に辿りつくまでの中間地点に3か所のタンクが設置されていた。

 それぞれのタンクに水が来ていない。

 原因は水源にある事が分かった。水源は、急斜面の突き当たりの巨石の下に在った。

 巨石の上部に湧水があるらしく、滴り落ちる水を集められるようにセメントで囲った堰が造られ、その上に竹を組んだ蓋があり、その上に石の重しが置かれている。

 その蓋を取り除くと、堰の中は、ゴミと泥が詰まっていた。

 ゴミ詰まりが断水の原因と判明する。

 堰の下部には、口径40~50mmの立派な排水用バルブが設置されているが、肝心のハンドルが付いていない。周りを見ると丸くて赤いハンドルが腐って脱落していた。

 仕方なく堰に溜まっているゴミと泥を手で掻き出す。ゴミは完全に取り除いたが、残っている泥は自然に流れ出るだろうと予測し、近くの竹を刈って新しい蓋を作って作業を終了した。

 タンクの中には泥混じりの水が流れこんだが、夕方には綺麗な水が出るようになった。

 夜は、湯治小屋1号室の種子島の太田さんの部屋で、2号室の北海道北見のカップルを交え、酒を飲む。

 明日から10日間の屋久島出張。

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写真


写真は和坊流宇宙(http://www.justmystage.com/home/kazubo/)の和坊放浪記:口永良部島編part4でご覧ください。


続く・口永良部島part5:屋久島出張編


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2008年12月16日 (火)

口永良部島編:part3


和坊放浪記・口永良部島編part3


平成17年・備忘録


 項目

■口永良部島・寝待湯治小屋
 14日目:9月22日(木) 晴     (野池散策)
 地図:野池周辺
 15日目:9月23日(金) 晴     (寝待・温泉情報) 禁酒
 16日目:9月24日(土) 晴     (ゆうパック到着) 禁酒
 17日目:9月25日(日) 晴     (金岳小・中学校運動会)  禁酒
 18日目:9月26日(月) 晴     (後境・進入路探索1回目) 禁酒
 19日目:9月27日(火) 晴     (星空観察)
 星空:冬の星座
 20日目:9月28日(水) 雨のち晴  (寝待住民勢揃い)
 21日目:9月29日(木) 雨     (湯治小屋・漏電?)
 22日目:9月30日(金) 曇のち晴  (欠航丸・面目躍如)
 23日目:10月1日(土) 晴   (後境・進入路探索2回目or引越しパーティー)
※本文中赤字は写真あり
金岳小学校・金岳中学校山海留学実施要項
写真(寝待温泉)

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■口永良部島・寝待湯治小屋


14日目:9月22日(木) 晴  (野池散策)

地図
口永良部島中央部・野池周辺
口永良部島中央部地図・野池周辺
地図検索サイト;マピオン(http://www.mapion.co.jp/)を加工

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 今日は、先日道路整備をした旧寝待線を利用して、湯向方面の散策に出掛ける。

 旧寝待線から一周道路に出て、湯向方面に200m程行くと、谷筋のヘアピンカーブの先に、右に入る砂利道があるので、その緩やかな登りの坂道に入る。

 鹿が走り周る照葉樹林を過ぎ、竹林に至る一部の道はコンクリート舗装が残っている。

 どうも、この道は、元々コンクリート舗装道だったが、台風等でコンクリートが剥がれ、下部の砂利が表面に現われているのではないかと思われる。

 残っているコンクリート舗装も途切れ、竹林から針葉樹林に変化した林道の先(一周道路から約1km)の木々に赤いテープが沢山付いている。

 右手に手書きで野池方面と小さな道標が架かっており、針葉樹林帯の山に入り道を探すと、急な山肌を直線的に登るようなコースに赤いテープが見えた。

 口永良部島は川が無いのに、湧水が豊富で、各集落共に湧水を利用した簡易水道を利用している現実があり、道標の野池とは、山の上に在る池かと勝手に判断。

 赤いテープを頼りに、急な坂を登り切ると、竹林に入る。緩やかな登りの竹林を過ぎると、針葉樹林帯に変わる。

 陽の当たらない林の先に明るい光が見えたと思うと急に展望が開け、林の中に丸い広場が現われた。例えは悪いが頭部の円形ハゲの様な感じを受けた。

 野池(注1)と付いているのに、水は無く、円形広場の中では、無数の鹿がたむろしていた。

 野池からは、新岳に抜けられるが、本日は登山準備をしていないので、野池周辺を散策してから引き返す。
 
 帰る途中、竹林の中で迷い、野池まで戻ることになったが、注意散漫の結果を反省しつつ、一周道路に出て、寝待に3時に到着。シュノーケリングをする。

注1:野池
大昔の火口の底です。野池火山の火口縁が削られて出来た火口底で、昔は魚が住む火口湖があったと伝えられているが、現在は水は無く天然芝生が茂り、鹿のたまり場になっている。
【備考】口永良部島の主要部北半分を構成する火山体の1つが野池火山で、一等三角点口永良部島(600.1m)のピークをふくむ口永良部島中央部の北側を占めている。29,000年前までには野池火山はほぼ現在の大きさまで成長していたと考えられ、野池火山の活動末期(約15,000年前)に野池火砕丘を形成、約13,000年前以降,野池火山の南側で古期古岳火山が成長を開始すると共に野池火山の活動は終了した。※独立行政法人・産総研(AIST)火山地質図 電子試作版より抜粋

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15日目:9月23日(金) 晴  (寝待・温泉情報)  禁酒

 昨夜は6時に寝て、起きたのが5時。よく寝た。寝待温泉に来てから、朝風呂が日課となっている。

 温泉の入口は、台風14号で裏山の崖が崩れ木製の扉が破損、通路内は土石で埋もれ、女風呂の脱衣所窓も破損したままではあるが、寝待温泉の泉源(源泉)に被害はなかったので入浴に支障はない。

 ここで、温泉の状況を説明すると、寝待温泉周辺では、海岸沿いや海底に温泉が湧出しているが、湧出量と温度が最適だった現在の場所に、温泉施設を設置。

 当初は海を見渡せる露天風呂だったが、台風被害の高波を避ける為防波堤と屋根を付け、2001年には、温泉を外見上トイレかと勘違いするコンクリートの建物で囲う現在の形にした。

 建物内は入口を入り左側に男性脱衣場と浴室。右側に女子脱衣所と浴室がある。

 泉源は、男湯の浴室中央洗い場下に在り、浴槽に自然湧出している掛け流し温泉で、通常は、取り外し出来る卍を分解した形(クランク)のパイプを通じて、浴槽上面に流れ出すようになっている他に、浴槽底の玉石の間からも温泉が湧出している。

 温泉は、入口の説明板に、性状・無色透明。効能・皮膚病(アトピー性皮膚炎、あせも他)、神経痛(腰痛、肩こり、関節痛他)とあるが、島民は、皮膚病は勿論、性欲増進や切り傷に抜群の効能があると信じており、人間は勿論、飼育する肉牛が怪我をした時には温泉を汲んで傷に掛けたり、飲泉の為に容器に温泉水を汲んで持ち帰る人達や、目を洗い、歯を磨く人達がいる。

 また、実際の湯船は乳白色の温泉なのに、説明板の無色透明に疑問を抱く人は、温泉清掃日(10日に1度)の終了後、湯船に温泉を張った直後に訪れると透明な温泉を見ることが出来る。

 このことから、泉源(源泉)は無色透明であるが、人間が入ると乳白色に変化する温泉なのだ!

 なお、寝待温泉は男女別の湯船と脱衣所があるが、男湯の浴槽からパイプを通じて、女湯に流れ込む構造から、女湯の温泉温度が低くなるため、通常は男湯での混浴営業になっている。

 ただし、混浴を好まない人は、男湯浴槽仕切り下部にある引き込みパイプの木栓を外すと、女湯に温泉が流れ込むようになっているので、管理者に頼んでみるのも一考である。

 こんな温泉に、1日3回は入浴している今日此の頃である。

 本日も快晴。午前中はシュノーケリング。シュノーケリング終了後は温泉に入るのが、最近の生活習慣になっている、

 今日も海から上がって温泉に行くと、温泉前に単車が止まっており、先客がいるのかと思ったが、単車の主は、防波堤奥に居た。

 背負い籠(注2)に、釣り道具が収められ、仙水ケ鼻(寝待の先端)に釣りに行く準備をしていた。

 この人は、田代集落に居住するジッチャン(田代のジッチャンと命名)。2日後に90歳の誕生日を迎えるとは到底思えない元気はつらつ老人。

 仙水ヶ鼻に行くには、垂直の崖を2か所超えなければならない。16日の散策時は何も持たずに行ったが、それでも大変だったのに、この田代のジッチャンは釣り道具を入れた背負い籠を担ぎ、何無く崖を越え、釣り場に着いた。

 田代のジッチャンから、近くに、野イ瀬、平板、後境と呼ばれる絶好の釣り場があるが、野イ瀬以外は釣り場に通じる道が荒れはて何年も行っていない・・・と云う情報を貰う。

 湯治小屋に帰ると、3号室の神戸の2人組は、26日まで逗留予定だったが、急用が出来たので、明日の便で帰ると、余った食料品を沢山頂いた。

 今週は、島に物資が入荷する奇数日の23、25日はAコープが休みなので、27日迄待たなければならず、天からの贈り物(大袈裟ではなく、島での物資調達は困難を極める)として、有難く頂戴する。

注2:背負い籠
背負い籠は別名「てご」と呼ばれ、釣道具から、弁当、鎌、釣果の魚等々何でも入れれる便利なディバック(リュックサック)。
口永良部島の70~80%は、竹藪なのと、自給自足の島の知恵から竹細工が盛んで、背負い籠の他に、「ざる」や魚の餌を入れる蓋つきの小さな籠も全て自家製である。

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16日目:9月24日(土) 晴  (ゆうパック到着)  禁酒

 昨夜は、久しぶりに9時前まで起きていたが、起床は何時もと同じ4時に目が覚め朝風呂。

 湯治小屋3号室の神戸の2人組が10時20分発のフェリーに乗船するので、本村港迄見送りに行って寝待に帰ると、神戸の姉からゆうパックが届いていた。

 箱を開けると、食料品と衣料の他に現金も入っていた。現金も嬉しいが、それ以上に食料品が入っているのが有難かった。この島ではお金があっても買うものが無いので、何よりのプレゼントである。

 明日は、金岳小・中学校での運動会なので、送ってもらった食料品で何時もより豪華な弁当を作って見学に行くつもり。

 昼からは、湯治小屋2号室の種子島のジッチャンが棚を作る為、流木を集めに行くと云うので手伝うことにした。

 立神岩から、海岸沿いを西側に歩いて行く。海岸には色々なものが流れ着いていた。

 漁に使用するブイや網、イカ漁に使用する引っかけ針や釣糸、発泡スチロールの箱、大小様々なロープ類・・・凄まじい量のゴミが海岸に打ち上げられているのを発見。

 何よりも驚いたのは、大きなコンクリートの長方形(約10m×約2m×約1m)の塊が波打ち際に横たわっており、かなり以前からのものか、表面には貝が一面に張り付いている。

 塊の先の山肌を見ると、寝待線の道路を挟んで上下の山肌に崖崩れ跡が見え、道路の崖側の急斜面崩落防止のコンクリート擁壁の一部が無くなっている。

 海岸のコンクリートの塊の正体が分かった。それにしても、何年も(塊はかなり古かったので)崩落現場を放置しているのは、行政としては如何なものかと思うが、離島の現実を垣間見た感がした。

 とにかく、木材集めで新たな島の状況を見、流木を集めて湯治小屋に持ち帰る。

 その流木で、種子島のジッチャンは2号室前に約2m×1m四方、高さ約1mの棚を作った。

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17日目:9月25日(日) 晴  (金岳小・中学校運動会)  禁酒

 今日は、金岳小・中学校(注3)の運動会。弁当箱が無いので、2個のコッフェルにご飯と、おかずを入れて、学校がある本村に出掛ける。

 学校の入口には、万国旗をあしらった飾り付けがされ、グランド周りにはテントが設営。寝待の2人のバッチャン達を始め、沢山の人が集まっていた。

 金岳小・中学校の全校生徒は7名なので、どんな内容の運動会かと興味があったが、生徒たちの、と云うよりも、島民の運動会だった。

 色々な種目に参加すると、参加賞として生活用品が貰える。島民たちは、子供に支持したり、自身が参加して、必要な生活用品をゲットして喜んでいた。

 また、昼休み前には、新しく島民になった人達の紹介があり、寝待湯治小屋1号室の前原夫婦も挨拶をしていた。

 運動会が終われば、汗を流すため温泉が満員になると予想して、早めに寝待に帰り、温泉に入り、ビールを飲みたいのを我慢して3日目の禁酒をする。

注3:金岳小・中学校
小・中の併設校で、生徒数7名(平成17年)で「南海ひょうたん島留学」を行っている。
小学校は、現在発電所の在る場所から、昭和55年現在地に移転、中学校との併置となる。
平成3年6月、体育館完成。
平成6年5月、中学校新校舎完成。
※校庭に在るヤシの木は、天然記念物のエラブオオコウモリの観察(21~22時頃)ポイント。観察できなかった場合は、学校内に剥製がある。
エラブオオコウモリ:全体は黒いが首の回りに、幅広の白または黄色の首輪がある。口永良部島とトカラ列島に分布。
※備考:オキチモズク(1938年に愛媛県の「お吉泉」で発見され、命名されたた野生水生生物)
学校前の水路が、日本の希少な野生水生生物であるオキチモズクの生育地であることを、小学校の北健二郎教諭が見つけた。

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18日目:9月26日(月) 晴  (後境・進入路探索1回目)  禁酒

 今日は、寝待の西隣に在る、後境の岩場に行く進入路を探索がてら、道造りをする。

 鎌とナタ、それに目印にする、浜に打ち上げられていた漁業用の赤系色ロープの撚りを戻し40~50cmに切った紐縄を20~30本持って出掛ける。

 後境の岩場は、釣りや、貝の採取場として島民が利用していたが、足場が悪いのと高齢化もともなって、利用する人がいなくなり、進入路は荒れ果てている。

 と云う事を聞かされていたため、先日知り合った、90歳の田代のジッチャンからの進入路の状況聴取を元に復元作業にとりかかる。

 進入路の入口は、先日15日に散策したダムだった。ダムは、寝待集落から、寝待線を登って行き、道路陥没箇所を過ぎ、右に入るデコボコ道の先に在る。

 まずデコボコ道に覆いかぶさる竹を、持参の鎌とナタで掃い、歩き易いようにしてダムに到着する。

 ダムの手前に、数か所の踏み跡の1つに入り、足下の草木を掃いながら進行すると、直ぐに荒れ地の急な下りになり、古いロープが下がっている。

 坂を降り、小川沿いの岩場を進むと突き当たりになるので、川を渡り、竹林の中に入る。帰りの目印に竹に赤い紐縄を結んで進む。

 竹林の中は、けもの道(鹿)と思われる筋があちこちにある。取敢えず、川沿いを進むと、左に逸れるようになり、その先は登りなっている。

 登り道を進むと、田代の電波塔下に出たので、引返す。

 田代のジッチャンの情報では、川を2度渡ると云っていたが、この地点で川を渡る事は困難。

 今日の作業はこの地点で中止して、寝待に帰り温泉に入る。

 夕食は、昨日の残りご飯を焼き飯にし、スープを作り食する。今日も禁酒。

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19日目:9月27日(火) 晴  (星空観察)

星空冬の星座
星空:冬の星座

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 4時に起床。空を見上げると、素晴らしい星空。南の島々は其々に美しい星空を仰ぎ見てきたが、ここ、口永良部島・寝待の星空も、それらに負けてはいなかった。

 暗くなって外出しない生活習慣と、寝待は南側には、冬場は太陽の光も届かない切り立った山肌が迫っており、星空を見られる環境には無いと思いこんでいたのが、間違いだった。

 何よりも、邪魔な人工光が皆無。4時を過ぎれば明るくなってくるが、4時前は暗黒世界。稜線に沿って、冬の星座であるオリオン座がクッキリ・ハッキリ間近に見える。

 暫く星空観察をしてから、温泉に入り、贅沢な時間を過ごすことが出来る事に感謝する。

 午前中、本村の羽生商店で焼酎・三岳とビールの買出しに行った。4日間も禁酒をしたので、今夜の酒が楽しみ。

 寝待に帰ると、湯治小屋・2号室の前原さんが、寝待先端(崖の下)で魚釣りをしている。見学に行くと、前原さんは釣りが趣味だが、牛の世話で忙しくて、釣りをする機会が無かったが、今日は、お母ちゃんに牛の世話を押し付け、釣りをしているとの事だった。

 夕方、前原さんの奥さんから、シツ(注4)の刺身とみそ汁の差し入れがあったので、さっそく酒の肴にして、4日間の禁酒を解く。

注4:シツ
シツは口永良部島特有の呼び名で通常は「イスズミ」屋久島ではシツオと呼んでいる。
本州中部以南に分布し、浅海の岩礁域に生息する。沖縄ではきわめて魚影が濃く、メジナ釣りの外道としてうるさいほど釣れる。最大級は体長70㎝に達し、アタリ、引きともにメジナそっくりでその釣趣はなかなかのもの。冬場は褐藻類を食べる為、臭みが少なくなり美味となる。

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20日目:9月28日(水) 雨のち晴  (寝待住民勢揃い)

 早朝久しぶりに雨が降った。午前中、寝待のバッチャン2人が、本村集落で居住する家族を伴って帰ってきて、久しぶりに集落が賑わいを見せている。と云っても5~6人ではあるが。

 湯治小屋・1号室の前原さん夫婦も昼に帰ってきた。

 前原さんは湯向(島の東側集落)出身であるが、土地家屋を売り払って島を離れたので、Uターン後は湯治小屋・1号室で居住していたが、小屋を売る人がいたので、旧道脇の小屋を50万円で購入。

 今日は、購入した小屋内部の補修をする為早く帰って来たらしい。大工仕事を含め、何事も自分でしなくてはならないのが、島の実状である。

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21日目:9月29日(木) 雨  (湯治小屋・漏電?)

 昨夜は一時雨足が強くなり、強風で舞った砂が部屋に入ってきたかと思うと、隣から、ゴソゴソ・ガタガタと音がする。

 隣の3号室は空室なのに。時計を見ると10時。まさかと思うが、年寄りだけの集落内に不審者が侵入すれば大変なので、様子を見る為3号室に行くと、1号室の前原さんが居た。

 事情を聞くと、「雨が降り出したとたんに停電になったので、湯治小屋のブレーカーBOX(注5)が設置されている3号室に来たが、ブレーカーが下がっており、入らない」との事。

 全4室のコンセントを抜くと、ブレーカーが入った。

 思いがけない夜間のハプニングだったが、ブレーカーが3号室に在ることが分かったことが収穫だった。

 4時の起床時は、星空が見えていたが、風呂から出る頃には雲が出て、今日は雨が降ったりやんだりのうっとうしい天気が続く。

 本村港は波が高く、フェリー太陽は欠航しているので、今日の商品の入荷は無いので、買い出しには行けず、1日中部屋で過ごす。

 夕方、バッチャン達から、魚やイモ、ケーキを頂く。
 
注5:ブレーカー
電気のつかいすぎ(過負荷)や、ショート(短絡)により回路に過電流が流れると自動的に電気を遮断する機器を云う

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22日目:9月30日(金) 曇のち晴  (欠航丸・面目躍如)

 8時に買出しの為本村に向かう。入荷日の昨日、フェリー太陽は欠航していたので、期待はしていなかったものの、何か買うものがあるのではと思いAコープに入るが、見事に何もなかった。

 欠航丸と揶揄されるフェリー太陽は本日も欠航。2日連続の欠航で、面目躍如か?

 屋久島の島民が、口永良部島のひなびた温泉地に魅力はあるが、帰りの便が定かでないので、行くに行けない状態とこぼしていた事が脳裏をかすめた。

 食料品の調達は諦めて、羽生商店で、寝待湯治小屋・1号室の前原さんの引っ越し祝い用に焼酎・三岳を買って帰る。

 昼からは、前原さんの引っ越しの手伝いをして過ごす。

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23日目:10月1日(土) 晴  (後境・進入路探索2回目or引越しパーティ)

 今日は、26日に続き2回目の後境・進入路造りに出掛ける。

 前回切り開いた、電波塔に通じる道は、昔の道跡と判ったので、今日は、新たな道づくりをするつもりで、9時から作業を開始。

 年寄達の情報から、小川を1度渡って、渡直して、谷筋の先に後境があるとの事なので、小川を渡り返す地点を数か所チェックし、竹を掃い前進するが、谷筋に通じる道が造れない。何処に行っても途中から登りになってしまう。

 何度も行ったり戻ったりを繰り返すが納得できる道が出来ないので、2回目の作業も途中で断念する。

 夕方から、湯治小屋・1号室から新居に引越した前原さん宅でパーティー。

 バッチャン達が作った料理が並ぶ。豪勢。特に、鹿肉料理が気に入った。料理と云っても、鹿肉を細切れにしてお湯で煮込んだものを、焼肉のタレで食べるだけ。

 鹿肉は、屋久島で食べたが、ただ不味かった体験があったので、びっくりする。

 宴席には、料理を作ったバッチャン2人と前原さんの同級生の国重さん、発電所に勤務する一郎さん、90歳の田代のジッチャン、湯治小屋・2号室の種子島の太田さん夫婦。

 女性人以外は、酒豪揃い。国重さんの三味線で歌う珍しい島歌(注6)を聞いて、早めに引き揚げる。

注6:口永良部島・島歌
1 ここで一生住めたらいいと
  流れ流れて来たけれど
  汗にまみれて生きれども
  竹の子しゃしゃんぼへきんこ釣り
  棒踊りは勇ましく
  口永良部島よいとこ一度はおいで
  人情暑き島だから
2 竿の先にあまめをつけて
  海を見つめてたらすけど
  東に屋久島硫黄島竹島黒島
  西の湯寝待湯向の湯ノ花
  体の芯まで温かく
  口永良部島よいとこ一度はおいで
  人情厚き島だから
3 たとえどんなに離れていても
  たとえどんなに小さくとも
  自然のあふれる口永良部が好き
  俺には口永良部が最高の島
  たとえどんなに台風が来ようとも
  心のふるさと口永良部が好き
  たとえどんなに岳が吠えようとも
  心のふるさと口永良部が好き
しゃしゃんぼ(ブルーベリーの原種)
「小小ん坊」と書き、ブルーベリーの原種で、山に自生。ブルーベリーよりも酸味があり、小粒で1月頃に実る。
へきんこ(魚・オヤビッチャ)背側が黄色く5本の黒色横帯を持つことが大きな特徴。
※島から、屋久島、硫黄島、竹島、黒島は勿論、鹿児島本島の開聞岳、佐多岬が見える

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金岳小学校・金岳中学校山海留学実施要項
緑の火山島『南海ひょうたん島山海留学』
口永良部教育振興推進協議会
1 目的
この制度は,屋久島町立金岳小学校・金岳中学校に入学または転学を希望する児童・生徒に対し,校区内の受け入れ保護者(以下「里親」という)の協力を得て,豊かな自然環境の中で相互の教育効果の向上を図ると共に,教育の振興充実を期することを目的とする。
2 募集基準
この制度により受け入れる児童・生徒は次の通りとし,口永良部教育振興推進協議会が面談の上決定する。
(1) 在籍校の学校長や担任等との相談等を確実に行い,地域の環境を理解し,就学を希望する児童・生徒
(2) 豊かな思い出と創造により第二のふるさとを求める児童・生徒
(3) 口永良部島の大自然の中で伸び伸びと生活しながら,学習や体験を希望する児童・生徒
(4) 小学校1年生から6年生までの児童及び中学校1年生から3年生までの生徒(ただし,小学校低学年および中学校3年生は,発達段階や進学等の関係で受け入れができない場合もある。)
3 留学期間留学期間は原則として当該年度4月から1年間とするが,継続も可能とする。
4 募集期間原則として当該年度4月1日から9月中旬までとする。
5 契約事項
この制度に適合し,受け入れを決定した実親及び児童・生徒は,次の各項を実行するものとする。
(1) 校区内に児童・生徒の住民登録をする。
(2) 健康保険証を持参する。
(3) 口永良部教育振興推進協議会立ち会いの上で,里親との契約を締結する。
(4) 寝具は持参する。
(5) 期間中,なるべく電話の使用を避ける。(携帯電話を持たせない。)
6 経費
物価その他を考慮して,口永良部教育振興推進協議会が額を決定する。
(1) 里親委託料は,小学生月額6万円,中学生月額7万円とする。ただし,募集期間内に契約を締結した場合は一人当たり3万円の助成金があり,その助成金を差し引いた金額を毎前月25日までに口永良部教育振興推進協議会に納入する。
(2) 給食費(現在小学生2900円,中学生3300円)は,実親が毎前月25日までに口永良部教育振興推進協議会に納入する。
(3) PTA会費(現在500円)は,里親が学校に納入する。
(4) 学校教材費,学用品費,宿泊学習・修学旅行費,特別活動費,医療費,衣料費,小遣い等,児童・生徒にかかる経費は実親の負担とする。

振込先屋久島農業協同組合上屋久支所
口座番号普通0000639
名前口永良部教育振興推進協議会長

7 里親とその義務
この制度を理解し積極的に支援する意思のある家庭の中から選定し,口永良部教育振興推進協議会が里親として委嘱する。委嘱された里親は実親と連絡を取り合い,児童・生徒を家庭的に養育し健やかな成長に向かい努力するものとする。なお,親子留学・家族移住等の場合には,里親を置かないことも考えられる。
8 事故発生時の処置
(1) 病気または何らかの事故が発生した場合は,その実情に応じ里親が適切な処置をとる。
(2) 里親は実親に遅滞なく連絡し指示を受けるとともに,口永良部教育振興推進協議会にも連絡する。
(3) 必要に応じて,口永良部教育振興推進協議会が立会い,または協議して善処する。
9 帰省夏休みや冬休み等の長期間の休みには帰省するものとし,実家との往復については,実親の責任において行うものとする。ただし,児童・生徒,実親,里親の話合いによっては,滞在することも可能である。
10 解約
次の事項に該当する場合は,口永良部教育振興推進協議会立会いの上で協議し,解約することができる。
(1) 児童・生徒の問題行動等により,指導監督が困難であると判断したとき。
(2) 里親委託料の不納及び契約違反が生じたとき。
(3) 家庭の事情等により解約希望が出されたとき。
11 その他
この要項に定めるものの外は,実親,里親,口永良部教育振興推進協議会が協議して善処解決を図るものとする。
12 問い合わせ先
屋久島町立金岳小学校(TEL:0997-49-2141)
屋久島町立金岳中学校(TEL:0997-49-2186)
附則
この要項は,平成18年4月1日から適用する。

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写真

写真は和坊流宇宙(http://www.justmystage.com/home/kazubo/)の和坊放浪記:口永良部島編part3でご覧ください。


続く・口永良部島編part4


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2008年12月 9日 (火)

口永良部島編:part2


和坊放浪記・口永良部島編part2


平成17年・備忘録


 項目

■寝待温泉・湯治小屋
  7日目:9月15日(木) 晴  (寝待集落周辺散策)
  8日目:9月16日(金) 晴  (古岳登山)
  地図1:古岳周辺地図
  9日目:9月17日(土) 晴  (口永良部島・初シュノーケリング)
  地図2:寝待集落地図
 10日目:9月18日(日) 晴  (旧道・寝待線整備)
 11日目:9月19日(月) 晴  (ウミガメと遊泳)
 地図3:美浦海岸・西の浜周辺地図
 12日目:9月20日(火) 晴  (西の浜散策) 禁酒
 13日目:9月21日(水) 晴  (徒歩でAコープ買出し)
※本文中赤字は写真あり
写真

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■寝待温泉・湯治小屋


7日目:9月15日(木) 晴  (寝待集落周辺散策)

 フェリー太陽が着岸する本村港から寝待温泉のある寝待集落に行くには、一周道路の田代地区の寝待分岐から、平成12年3月に開通した口永良部島林道・寝待線を利用するが、開通前は、旧道を利用していた。

 旧道は、湯治小屋横の給水塔先(駐車場側)から、山側に入る道がある。

 道路幅1,5m弱のコンクリート舗装道の急登り坂。台風の影響か、道路わきの竹藪が倒れ道を塞いで歩き難い。

 道路を塞ぐ竹を掻き分け、途中岩が崩れ道を塞いでいる場所を通り、約400m登ると、車両が通行できる道路に出た。

 ここが旧道である。車が何台か駐車出来るスペースがある。

 ここからは緩やかな上り坂が続くが、この道路も竹が道を覆っており、道路の一部には苔が生えており、殆ど使用していない様子が窺えた。

 駐車場から、1,2km程歩くと、T字路角にアンテナ施設の在る一周道路に出た。

 この場所は、9月11日に湯向温泉散策に出掛けた時に通過した、旧寝待分岐である。

 この旧道を利用できれば、湯向温泉方面に行く場合、寝待新道を利用するより約4km近道だが、道路を覆う竹の除去をしなくてはならない。

 こんな事を考えながら、一周道路を歩き、湯治小屋・1号室に居住する、田代地区に在る前原さんの牛小屋を訪問したが夫婦ともに不在だったので、田代の寝待分岐から、口永良部島林道・寝待線を散策しながら帰ることにする。

 寝待温泉に行く道の途中には、何年か前の台風被害により、道路が陥没した場所を迂回する応急処理をしたままの場所や、広範囲に渡る崖崩れ跡も見られ、急な下り坂の路面には、小さな石が散乱、自転車での走行は神経を使う道でもある。

 寝待線の中間位に、小さな水路が在り、その水路を跨ぐようなヘアピンカーブ(急カーブ)の先に二股分岐があったので、左側のデコボコ砂利道を入る。

 この道も、竹が道路に覆いかぶさり、跨いだり潜ったりしながら進むと突き当たり、建物跡がある。

 道はL字型に下り坂になり、その先に堰堤と云うか小さなダムで道は途切れていた。

 背丈の低い雑木が茂る中に踏み跡があり、ダムの下の小川に出られそうだが、スリッパ履きなのでこれ以上の散策は残念して引き返す。

 寝待集落に帰り、温泉裏手の岩場の散策。

 温泉横には防波堤が築かれており、その上を歩いて岩場に降り、半島になっている先端方面に行くと、切り立った崖の上からロープが垂れ下がっている。※防波堤は、後日嵩上げ工事が実地された。

 半島の反対側に行くには、このロープ伝いに行く以外廻りこむ道は見当たらないので、ロープを伝って崖の上に行くと、直ぐに下って、海沿いの岩場になっており、50m程先にも崖が横たわっている。

 その崖にもロープが下がり、ふたつ目の崖を超えると、海側の岩場と崖の間が潮溜まりになっており、釣り場の様子なので、引返す。

 湯治小屋に帰ると、3号室に男性2人組の湯治客がやってきて、土産を持って挨拶に来た。

 1人は、尼崎(兵庫県)の製紙会社の役員を退き、神戸の家具会社に勤務していた77歳の男性。他の一人は、神戸在住66歳の椅子の皮張り職人。職人の妻が屋久島一湊出身なので、今回口永良部島にやって来たと、丁寧に自己紹介された。

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8日目:9月16日(金) 晴  (古岳登山)


地図1:古岳周辺地図
古岳周辺地図

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 朝風呂に入ってから、本村港から山頂を見ることのできる古岳(注1)登山に出掛ける。

 一周道路を本村方面に走り、前田集落(注2)方面に左折して、前田集落を通過し、向江浜(むかいはま)集落(注3)の外れに、新岳(旧道)登山口と書かれた小さな看板が目に付き、下車して、道を確認するがあまり利用されていない様子だったので、先に進む。

 ここから、約1,5km南に走ると、左側(山側)の視界が開け砂防ダムが現れた。

 自転車を止め、見上げると、礫石(れきせき)地帯の先に新岳らしい山がみえる。ここから、入山可能と思ったが、本日は確実な登山道・七釜からにする。

 この場所から、約6km弱走って、目的地の七釜集落跡(注4)に到着した。

 七釜集落跡登山口は、口永良部島3日目の湯向集落散策の帰りに寄ったので、これで、一周道路を完走したことになる。

 登山口には、七釜集落跡の説明板が設置されており、看板向かい側が登山口。

 手作りの小さな案内板に従いスダジイを主とする照葉樹林(注5)の中に入り、赤いテープを頼りに進んで行くが、途中からテープが見当たらない。

 不安になって引返すと、入口から5~60mの窪みの山側にテープを発見。ここから、急な登りになっている。

 この登りから、古岳火口手前までは、無数のテープが付けられ迷うことは無いものの、ヒサカキ群落の登山道は足元が見えず、歩き辛い。

 約1時間後、リボンの目印の在る道が途切れ、荒涼とした風景が広がる。ここからは、リボンは勿論、道標は無い。

 取敢えず、少し前進して、後ろを振り返り、リボンの在る下山口の地形をスケッチする。

 帰路を確認して、石積み沿いの道を前進すると、大きな岩が現れたので、その岩を目印に砂礫の中を登って行くと、古岳火口の東の縁にでた。

 眼下には、古岳火口底斜面からもくもくとガスが噴出している様子が見える。

 火口底に降りて、噴出口近くに行くと、シュー・シューと音をたて火山ガスが噴出し、周辺には硫黄臭が漂っている。

 大正年間から昭和初期にかけて硫黄の採掘が行われていた形跡が窺われた。

 町営牧場が見渡せる場所で、持参のおにぎりで昼食をする。

 昼食後、古岳頂上から、新岳方面を見ると、ガレ場に3人の人影が見えた。

 3人の登山者は、ガレ場を登り切り、新岳の火口壁に登頂した様子が窺える。手を大きく振り続けていると、登山者も気が付いたのか手を振ってくれた。

 彼らは、一周道路の向江浜集落からの新岳(旧道)登山口か砂防ダム側から入山したと思われる。

 古岳火口縁から新岳方面の稜線に向かうが、強風で、細い稜線から吹き飛ばされそうになったので、今回は新岳登山を諦め引き返す。

 どちらにしても、七釜登山口以外の登山道のある事が確認できたのは収穫だった。

 帰途、本村のAコープで、チーズとそば麺。羽生商店で、ビール2ケース(6本×2)と焼酎・三岳を買って寝待に帰る。

 夕方、2人のバッチャンと1号室の前原さんから、かき揚げやイモサラダ、焼き芋等の差し入れがある。

注1:古岳
約1万3000~1万1000年前にかけて、野池火山の南側で、現在の古岳火口付近からマグマによる噴火が頻発し、口永良部島最高点(657m地点)はこの時期に形成された。
また、噴気地帯では,大正年間から昭和初期にかけて硫黄の採掘が行われていた。

注2:前田集落
本村集落から南へ1kmほど向かった高台にあり、6世帯が居住している。
集落内に、素泊り民宿・夕景 (ゆうけい)0997-49-2133 3,500円 がある。

注3:向江浜(むかいはま)集落
前田集落から400m程南へ向かったところにあり、1世帯が居住。集落には、2005年5月に閉鎖された採石場跡と本村港の赤い灯台がある。
昔は、硫黄精錬施設が集中していたが、1935(昭和15)年、大規模な土石流が発生し,死者5名の被害を生じたとの記録がある程、新岳の噴火による二次的被害の発生する地域でもあるので、住居地としては適さない集落である。

注4:七釜集落跡
明治末期から昭和9年まで存在した集落で、硫黄精錬で7つの釜があったのが名前に由来。
全盛期は四十戸前後の住人がいたが、昭和8年12月24日の新岳爆発で、死者8名、重軽傷者26名、焼失家屋38戸の被害を受け、昭和9年1月11日の再度の新岳爆発で壊滅した。※七釜集落跡の解説板より

注5:照葉樹林
森林を構成する主要樹種により,広葉樹林,針葉樹林と分類し、両者が分布する混交樹林もあるが、照葉樹林は、広葉樹林のほうに入る。広葉樹林を落葉性のものと常緑性のものに分けると。照葉樹林は広葉樹のうちの、常緑性の樹木である。
広葉樹は、サクラやカエデ、シイ、カシなどのように幅広い葉を持つ木を指し、さらに、カエデのように秋に葉を落とす落葉広葉樹と,シイやカシのように葉を落とさない常緑広葉樹がある。針葉樹は、マツやスギのように細長い葉を持つ木。
また、日本の山林の針葉樹林と広葉樹林の全体面積を比較すると、半々であるが、人工林と天然林の分類では、人工林ではスギ、ヒノキ、カラマツなどの成長の速い、建築材に向いている針葉樹が意図的に植えられているから、針葉樹が主要樹種となり、針葉樹林が9割以上を占める。一方、天然林では、主要樹種は広葉樹となり、広葉樹林が8割以上を占めている。

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9日目:9月17日(土) 晴  (口永良部島・初シュノーケリング)


地図2:寝待集落地図

寝待集落地図

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 寝待集落の矢野・森脇の両バッチャンは、15夜祭、敬老の日、彼岸と続くので本村集落の本宅に帰った。帰り際に、茹で卵や納豆、キャベツ等を貰う。

 午前中は、ゴミ焼却場を作る。

 昼食後、口永良部島に来て初めてのシュノーケリング。

 立神岩の割れ目に入り、コバルトブルーの神秘的な洞窟を通り、集落海岸沿いから、温泉先の岩場を巡る。

 魚影の濃い海中に驚嘆すると同時に、海中に小さな気泡が湧いている場所があり、近づいて行くと海底から何かが噴き出ている。

 その近辺は温かい。海中温泉だった。寝待先(温泉の奥の岩場)から立神岩間に3~4か所の海中温泉噴出個所が確認された。

 2時間程度のシュノーケリングをしてから、温泉に入浴して湯治小屋に帰る。

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10日目:9月18日(日) 晴  (旧道・寝待線整備)

 今日は、湯向方面に行く際の近道である、旧道・寝待線の整備をすることにした。

 旧道は、竹が路面に倒れ通行を妨げているので、竹の除去作業。

 矢野・森杉のバッチャンは不在だが、道具類の使用は事前了解を得ているので、矢野のバッチャン宅からカマを、森杉のバッチャン宅からは、ナタを借りて、除去作業を開始する。

 ナタやカマを持つのは初めての事。9時に作業を開始したが、腕が上がらなくなったので、12時に作業を中断して温泉入浴。

 温泉でマッサージ等を施すも、腕の状態は改善せず、本日の作業は中止。

 でも、9時から3時間の作業で何とか通行出来るようになった。

 夕方、1号室の前原さんから、海ウナギ=エラブウナギ獲りに誘われる。海ウナギと云ったので、ウツボの事かと思ったが、よくよく聞いてみると、エラブウミヘビ(注6)の事と判ってお断りする。蛇は大嫌い。

 エラブウミヘビはこの時期の満月の夜、産卵の為、毎回同じ岩場にやってくるので、穴の中に手を差し入れ捕獲するらしい。産卵場所は湯向集落の岩場との事だった。

注6:エラブウミヘビ
ウミヘビには昼行性と夜行性の種があり、夜行性のものには沖縄でエラブー(イラブーとも云う)と呼ばれるコブラ科の蛇。強い神経毒はコブラの10~20倍と云われるが、顎は他のヘビの様に大きく開けることが出来ないので、指を無理やり口の中に入れない限り咬まれることは無い。
そもそも、エラブー(イラブー)は、不老長寿・回生回春の万病薬として、琉球王朝時代より宮廷料理に用いられ、秦の始皇帝が不老不死の薬としてエラブウミヘビを求めたという説があるぐらい珍重されていた。
現在、エラブー(イラブー)の捕獲地として、最も名高いのが、神の島とも呼ばれる久高島(沖縄県)で、丸ごと一匹を燻製にし、棒状と輪になったものを製造しており、沖縄の国際通りや牧志公設市場等で1~2万円で売られている。また、高級料亭などで、エラブー(イラブー)汁が提供されている。
エラブー(イラブー)汁の作り方(1匹=10人分)
①エラブー(イラブー)に付いたススをタワシで洗い流す。
②大きめの鍋に水とエラブー(イラブー)を入れ、中火で煮て、柔らかくする。
③1時間ぐらいで鍋から出し、長さ5~6cmに切る。
④切り身を昆布で包みタコ糸で結び、鍋に入れ弱火でアクを取りながら3時間煮る。途中、水分が減ったら、水を足すこと。
⑤火を止め、一晩寝かす。
⑥テビチ(豚足煮)・結んだ昆布と一緒に3時間煮込み、最後に醤油・塩で味付けする。

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11日目:9月19日(月) 晴  (ウミガメと遊泳)

 今日は美浦海岸にシュノーケリングに出掛ける。

 美浦海岸は、西の湯から50m程北に位置する小さな漁港で、道路から海岸に入る道には廃船が放置されており、海岸には、船の陸揚げ場(コンクリート道が海の中まで入っている)と船着場がある。

 船着場には、ウェットスーツを着用し首から水中ボード(海の中でメモできる)をぶら下げた、男女数人の若者が居た。

 彼らは、広島大学大学院・海洋研究所の大学院生で、前田集落に民家を借りて集団生活をし、亜熱帯魚類の生態研究をしているとの事で、ここ、美浦海岸周辺を研究ベースにしているらしい。

 彼らと一緒に海に入りシュノーケリングをする。海そのものは、寝待の方が綺麗だが、美浦海岸船着場から、右(北)側に20~30m行った所の岩場付近でウミガメを見た。

 屋久島のいなか浜に産卵に来る様な大きな亀ではなく、小振りの亀が泳いでいる。それも3匹(3頭と云うのか)も・・・自分の後を追うような感じで泳いでいる。

 広島大学大学院・海洋研究所の大学院生曰く、「屋久島のウミガメは、アカウミガメだが、ここの亀はアオウミガメで3匹も同時に見るのは珍しい」との事。

 ウミガメと一緒に泳いだ満足感を持続しつつ寝待に帰る。

 湯治小屋2号室に湯治客が来ていた。種子島の太田さん夫婦。毎年この時期に湯治場に来ているらしい。湯治小屋は満室になった。

 夕食時に、2号室の太田さんからチマキ、3号室の人からソーメンを頂く。

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地図3:美浦海岸・西の浜周辺地図
美浦海岸・西の浜周辺地図

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12日目:9月20日(火) 晴  (西の浜散策) 禁酒

 台風14号以降、口永良部島では、夜間や一時的な降雨があったが、雨らしい雨は無い。

 本日も快晴。昨日の美浦海岸に行くが、波が高いのでシュノーケリングは諦め、西の湯の様子を見に行く。

 西の湯は台風14号で倒壊したままの無残な姿を曝していた。

 その西の湯から、本村方面に4~500m行った道路右手の林の中に、小さな手書きの「西の浜」の看板を発見。

 踏み跡を進んだ先に、口永良部島唯一の砂浜海岸・西の浜があった。西の浜はこの道以外に、車が入る道もあるらしいが未散策。

 西の浜で1時間程過ごしてから、本村のAコープで買い物をしてから寝待に帰る。

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13日目:9月21日(水) 晴  (徒歩でAコープ買出し)

 午前中は、湯治小屋から出たゴミを燃やしたり、温泉に行く道の清掃等をして、湯治客から頂いた、チマキや餅をラーメンに入れて昼食をしてから、徒歩で本村のAコープに買出しに行く。

 寝待から一周道路に出て、田代の民宿・くちのえらぶ前の三叉路を右にとり、ヘリポート前から、西の湯を経て、金岳中・小学校前の道を通って行った。

 Aコープは1番乗り。早めに行き、レジカウンターに空の買い物カゴを置いておくと、その順番通りに清算されるので、混雑しても早く帰る事が出来る。と云う買い物のコツを覚える。

 それにしても今日は、何時もの奇数日よりも人出が多い。

 それもそのはず、25日の日曜日は、島民総出の金岳中・小学校合同の体育大会で、平常より需要が多いにも関わらず、次の商品入荷日の23日と25日は祭日と日曜でAコープの休業日。

 特殊事情等お構いなしに暦通りに休業するのは、この島の良いとろろでもあり悪いところでもある。

 事情は兎も角、Aコープ前には、全島民が集まったのではないかと思えるほどの人だかり。

 3時に荷物を積んだトラックが到着するや否や、商品の奪い合いが始まる。今日は何時もより凄まじい。罵声が飛び交う。

 店舗内で唯唯(ただただ)争奪戦を見守るだけ。その内、Aコープの従業員が商品の入った段ボール箱を店内に運び入れてくれる。

 今日は、寝待湯治小屋2号室の種子島のお母さんから、豆腐を頼まれていたので、豆腐と久しぶりに食パンをゲットし、早々に引き揚げる。

 寝待に帰ると、2号室の太田さんが魚介類を沢山獲ってきた。太田さんは種子島の漁師さんで、竹竿の先にヤスを取り付け素潜りで魚を刺す名人。

 太田さんが獲った獲物の内のアワビを頂いたので、昨日に続き禁酒の予定だったが、アワビを肴に焼酎・三岳を飲む。

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■写真

写真は和坊流宇宙(http://www.justmystage.com/home/kazubo/)の和坊放浪記:口永良部島編part2でご覧ください。


続く・口永良部島編:part3


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2008年12月 1日 (月)

口永良部島編:part1


和坊放浪記・口永良部島編part1


平成17年・備忘録


 項目

■口永良部島
 概要
 地図1、2(地図1:位置、地図2:全島)
■寝待温泉・湯治小屋
 1日目:9月 9日(金) 曇のち雨  (屋久島発口永良部島)
 地図3:中央部(寝待~本村)
 2日目:9月10日(土) 曇一時雨  (島内商店状況)
 地図4:本村集落略図
 3日目:9月11日(日) 晴     (湯向集落散策)
 地図5:口永良部島東北部(寝待~湯向)
 4日目:9月12日(月) 晴     (寝待集落詳細)
 地図6:寝待集落略図
 5日目:9月13日(火) 晴     (口永良部島西部散策)
 地図7:口永良部島西部
 6日目:9月14日(水) 晴一時雨  (大掃除)
※本文中赤字は写真あり
写真

________________________________________


■口永良部島


概要

 口永良部島(くちのえらぶじま)は、行政上では上屋久島町(現屋久島町)に属し、永田から西方約12kmに位置し、面積38.04k㎡、周囲49.67kmのひょうたん型をしている、海上に浮かぶ薩摩最大の活火山の島で、10~20おきに噴火を繰り返している(昭和41年新岳爆発)。
★地勢
最高点:657m(古岳)
人口:169人 (2008年現在)
★集落
島の中心は港のある本村地区で、島の人口の大半が集中している。また、役場出張所や商店、学校、ガソリンスタンド等が立地している。
その他、新村、田代、前田、向江浜、湯向、寝待がある。
★火山
口永良部島は、薩南火山郡島最大の火山島(活火山ランクB、噴火警戒レベル1)である。複数の安山岩質の火山からなり特に東側の火山は新鮮な火山で仁田尾山(526m)・三角点山(600m)・古岳(657m)・新岳(626m)があり、現在活動している新岳には山頂に直径200mの火口がある。記録に残る1841年以降だけでも幾度となく噴火しており、このうち1841年と1933年 - 1934年(数回にわたる)の噴火では死者も発生している。
注意:平成20年10月27日、霧島屋久国立公園に指定されている口永良部島では、噴火警戒レベルが3(入山規制)に引き上げられました。このため、口永良部一周林道の南側(向江浜地区~湯向地区)約11kmが通行止めとなり、新岳火口から半径2Kmの範囲が入山禁止となっています。
新岳及び古岳への登山は禁止されていますので、ご注意ください。なお、寝待地区(2世帯3名)・向江浜地区(1世帯1名)の住民に対し避難準備の呼びかけを行っています。
★行政
上屋久島町(現屋久島町)役場口永良部出張所
住民向けの窓口業務の他、フェリー乗船券の発券業務なども行っている。
★医療機関
口永良部僻地出張診療所
★学校
金岳小・中学校 - 小・中併設。「南海ひょうたん島山海留学制度」を実施している。
★郵便局
口永良部郵便局 - 島で唯一の郵便局。
★宿泊
本村・前田・田代・湯向の各集落に民宿がある。
★温泉
西ノ湯温泉(西ノ浜)、寝待温泉(寝待)―立神海中温泉(寝待)、湯向温泉(湯向)
※現在本村温泉あり。
★その他
町営牧場郵便番号 - 〒891-4208(島全域)
市外局番 - 0997
大隅諸島・奄美諸島は全て0997だが、口永良部島のMA(市内通話地域)は島内及び屋久島に限られるため、これ以外の地域に電話を掛ける際は市外局番を付ける必要がある。なお、鹿児島MAおよび県内離島への通話は隣接MA扱いとなる。
かつては燐の採掘で栄え、一時期は人口が2,000人を超えた頃もあったが、国内産業の変化により、徐々に衰退していった。
ヘリポートが設置されており、救急医療の場合は鹿児島市内の病院へ搬送することができる。
島の発電所は、旧金岳小学校の敷地内にある。
三島村各島との交流も盛んに行われている(主に漁船で移動)。
牛が放牧されており、たまに道端で出会う事がある。私設の牧場のほか、町営牧場も設置されている。
エラブオオコウモリが生息している(オオコウモリの生息北限)。
一般には「くちのえらぶじま」と表記するが、島内や周辺地域では「くちえらぶじま」と言う場合もある。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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地図1,2

地図1:口永良部島位置地図
口永良部島位置地図

地図2:口永良部島全島地図
口永良部島全島地図
地図検索サイト;マピオン(http://www.mapion.co.jp/)を加工

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■寝待温泉・湯治小屋


1日目:9月9日(金) 曇のち雨  (屋久島発口永良部島)


地図3

中央部(寝待~本村)地図
中央部(寝待~本村)地図
地図検索サイト;マピオン(http://www.mapion.co.jp/)を加工

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 台風14号の影響とドック入りの為、長期欠航していた「フェリー太陽」が久しぶりに屋久島・宮之浦港を出港した日の便に乗船。

 2時間弱の船旅で、15時前に口永良部島・本村港に到着した。

 寝待温泉(注1)・湯治小屋の管理者・公民館長の林さんの電話番号以外、口永良部島の事前情報は白紙状態だったので情報収集の為、港の入口に在るフェリー切符売場の建物(2階は役場)に行ったところ、公民館長の林さんは港に居るとの事だったので、引返し林さんに面会する。

 湯治小屋(5号室)の使用料金は600円(入浴料¥200含む)だが、台風14号の被害で温泉の入浴は不能なので、1日400円の計算で使用することで合意。

 滞在期間が未定なので、島を離れる時に、切符売場にて清算することになった。

 また、島内に3か所在る温泉の内、港から1番近い「西の湯」も台風被害で入浴は不可。入用可能なのは、島の東端に在る「湯向(ゆむぎ)温泉」のみとの事だった。

 取敢えず、食料品の調達の為、本村集落のAコープに行く。

 食料・雑貨を扱う小さなスーパーの店内外は女性が群がり、商品を取り合っている。

 このご時世に、食料品を取り合っている状況に我が目を疑う。

 でも、現実。到底この輪の中に入る勇気は無い。

 3日分の非常食は携帯しているので、食料品の調達は残念、公民館長・林さんに教えてもらった道順で寝待温泉に行くことにする。

 Aコープから、郵便局前を通り、東に進むと、左側に酒の看板のある羽生商店が目に入ったので、店内に入ると、少ないが食料品がある。

 ビール1ケース(6本入り)、チーズ、を購入。一安心。

 寝待温泉へは、羽生商店を東に行き、20~30mの坂を登ると、T字路(郵便局から200m弱)に、ここを右方向に約600m直進すると、三叉路に出る。

 この道路が、島東南部の火山帯を一周する林道の通称一周道路(全線コンクリート舗装)で、右折すると、前田集落から湯向温泉方面。

 この三叉路を500m強直進すると、十字路に出る。

 直進は、西の湯方面なので、右折し、曲がりくねった緩やかな上り坂を道なりにひたすら走る。

 途中、羽生商店で買った大事なビールを落として行くハプニングもあったが、民宿・くちのえらぶ前3差路(十字路から2,4km)を通過し、道の左手に大きな電波塔の先の三差路に出た。(寝待分岐・民宿前から1,7km)

 道路標識は、一周道路直進・湯向。左・寝待温泉。

 やっと目的の寝待温泉へ。道路標識に記載の文字であるが、道中、人は勿論、車にもすれ違うことなく走行したことを考えると、何やらホッとする。

 道路標識に従い、約300mの緩い坂を登り切ると、広場になっている場所から視界が開け、海が見える。

 一周道路を含め、笹藪の中を縫うようにコンクリート舗装道路が続いており、同じ場所を走っているような錯覚に駆られていた矢先の海。新鮮。

 小休止後、今度は急な下りが1,7km程続いた先の目の前に大きな岩(立神)が現れ、寝待温泉入口の駐車場に到着した。(本村から約7,5km・1時間)

 駐車場右手に前方にコンクリート造りのトイレと脱衣所(?)、左手に立神を見て、1m強幅の集落内道路を進むと、左手に公衆電話のある建物が現れた。

 建物には看板は無いものの、公衆電話手前の入口に3号室の表記がある。

 これが湯治小屋とあたりをつけ、声のする海側の部屋(1号室)に「湯治小屋に来た者ですが、5号室はどこでしょう」と声を掛けると、60前後の女性が現れ、部屋に案内してくれた。

 部屋は、6畳一間で、畳はささくれており一部腐りかけている部分は見られるが、古いテレビが置かれ、炊事場にはガスレンジと冷蔵庫の他に、古い炊飯器や鍋、フライパン、食器類が揃っていた。

 案内してくれた女性曰く、調理道具は湯治に来た人達が置いて行ったものらしい。また、温泉は、入口が岩で塞がっているが、脱衣場入口から入浴できると聞く。

 公民館長・林さんは入浴不能との事だったが、集落の人達が、湯船に入りこんだ岩や砂利をかきだし、やっと入れるようになったらしい。

 部屋に荷物を入れ、埃まぶれの部屋を掃除してから、集落外れに在る温泉に行くと、入口は崖崩れの岩で塞がれ、木製ドアーも破損していた。

 防波堤沿いに脇に入ると、脱衣場への出入口があった。

 温泉の外観はコンクリートに囲まれた一見トイレかと思うような造りで、脱衣所から引き戸を開け、手摺の付いた5~6段の階段を降りると、乳白色の湯船がある。

 銭湯のような鏡の付いたシャワーやカラン(水道蛇口)の設備は無く、湯船だけのシンプルな造り。これぞ湯治場と納得する。

 10日前後の滞在予定だが、一月位居つきそうな予感がする。

 部屋のテレビは、NHKと民放1局が受信でき、NHKニュースで、台風14号は九州に甚大な被害をもたらしたことを知る。

注1:寝待温泉
・本村から約8km
・磯場の温泉で、海を眺めて1日居れば時を忘れそう。
・乳白色の湯の花が漂う超一級の良質温泉で神経痛・リュウマチ・皮膚病・胃腸病などに効能
があります。
・24時間 休みなし 1回200円
・TEL 0997-49-2255 (月・木午前のみ) 口永良部島公民館
屋久島ポータルサイトより

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2日目:9月10日(土) 曇一時雨  (島内商店状況)


地図4

本村集落略図

本村集落略図

1、民宿・富田:電話0997-49-2234、大人(一泊二食)6,000円 ※瀬渡しあり。
2、民宿・わたなべ:電話0997-49-2113 大人(一泊二食) 6,000円
3、鎌田商店
4、野元旅館:電話0997-49-2288、大人(一泊二食) 6,000円
5、Aコープ(農協)
6、羽生商店
7、なおみ旅館:電話0997-49-2233、大人(一泊二食) 6,000円
8、民宿・信子:電話0997-49-2207、大人(一泊二食) 6,000円
その他の民宿
※前田・夕景 (ゆうけい):電話0997-49-2133、3,500円(素泊まり)
※田代・くちのえらぶ:電話0997-49-2213、大人(一泊二食) 6,000円 港までの送迎あり
※湯向・恵文(えみ):電話0997-49-2277、大人(一泊二食) 6,000円 港までの送迎あり、瀬渡しあり

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 昨夜は、久しぶりのテレビ鑑賞で、9時迄見てから就寝した。

 夜間雨が降って来たが、今朝は止んでおり、朝風呂に入ってから買出しに出掛ける。

 口永良部島には、本村、新村、田代、前田、向江浜、湯向、寝待の7つの集落が在るが、全島民160余人の大部分は、フェリーが到着する本村に集中しており、島の3商店も本村に在る。

 3店の内、昨日買い物ができなかったAコープは日用雑貨と食料品全般。羽生商店は酒類と食料品を取り扱っており、この2店は昨日回ったので、残るは1店。

 その店は、Aコープから本村港に向かった右側に在る鎌田商店。長年神戸は長田区のゴム会社で勤務ていたと云う、妻に先立たれた中年男性が店主で、店内には、これと要ったものが無かったので、トイレットペーパーを買ってお暇する。

 Aコープに寄るが、食料品は売り切れで何もなかった。担当者からは、商品はフェリー太陽の午後の便で運んでいるので、入荷は奇数日の3時頃と云われた。

 帰りに、羽生商店にも顔を出す。離島値段なので屋久島と比べ高い。ビールで例えると、発泡酒・キリン淡麗(350ml)屋久島・スーパーわいわいらんど¥112→羽生商店¥160。今日は冷えていないビールを買ったら¥152だった。

 しかし、この店では、何と・何と、屋久島では並んで一人1本だった焼酎・三岳が、何本でも購入できる。ビール6本パックと焼酎・三岳(¥1,710)を購入する。

 帰途、西の湯(注2)に寄るが、台風14号被害でぺしゃんこになっていた。

 西の湯から、ヘリポートを経由して、田代集落の民宿・くちのえらぶ前に出て、寝待に帰る。

 夕方、寝待集落のバッチャン(老女)から、笹餅の差し入れがあった。

注2:西の湯
・本村から徒歩15分
・フェリーの着く本村に一番近い温泉で海岸沿いにあります。
・大潮の満潮過ぎあたりが湯量も多いようです。
・神経痛・肩こり・あせもなどに効能があります。
・24時間 休みなし 1回200円
屋久島ポータルサイトより

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3日目:9月11日(日) 晴  (湯向集落散策)


地図5

口永良部島東北部(寝待~湯向)地図
口永良部島東北部(寝待~湯向)地図
地図検索サイト;マピオン(http://www.mapion.co.jp/)を加工

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 昨夜もテレビを見たが、7時を過ぎると目がしょぼつき8時に就寝。今朝の朝食は、昨日バッチャンから貰った笹餅。

 笹餅を食べてから、ご飯を炊きおにぎりを作り、湯向集落の散策と古岳登山に出掛ける。

 自転車にレッドウイングのワークブーツと登山用靴下を積んで、寝待からの約1,7kmの急坂を押し上げ、300m下って一周道路に出る。

 一周道路を右に行くと本村方面なので、左に取る。

 曲がりくねった笹藪を突き抜けるようなコンクリート舗装の一周道路を3,6km程走ると、アンテナ施設角の三叉路に、寝待温泉の道標があったので左折をするが、道路両脇の竹が覆いかぶさる様で、路面は所々苔が生い茂り、長年使用していない感じの道なので引返し、一周道路に戻る。

 この三叉路を旧寝待分岐と命名する。

 この旧寝待分岐から、約2、8km先の右手に、大規模な落石防除堰堤工事現場を通過し、50mで3差路の湯向分岐に出る。

 一周道路は右折なので、直進して坂を360m程下った十字路を右折200mで、湯向集落(注3)を見下ろす場所に出た(直進してもUターンして同じ場所に出てくる)。

 この場所も台風14号による崖が崩れていた。

 湯向温泉(注4)も建物奥の天井部に被害個所があったらしいが、温泉そのものは被害は免れたらしい。

 今日は、この後に古岳登山を予定しているので入浴はせずに、集落と港を見てから、古岳登山口の在る七釜に向かう。

 来た道を引き返し、湯向分岐から左折して一周道路に入り七釜集落跡に着き、登山開始とワークブーツに履き替えようとしたところ、靴下の片方が無い。

 靴下を靴の中に入れて、自転車の後部荷台にくくりつけていたので、途中で落ちたらしい。

 本日の登山を断念し引き返す。途中道端に靴下を発見したが、そのまま寝待温泉に帰る。

 寝待到着は14時前、温泉に入って、ビールを飲んで、6時に就寝する。

注3:湯向集落
口永良部島の東端に位置し、屋久島に一番近い集落で、廃屋を含め12軒の家屋と民宿・恵文(えみ)がある。
湯向港は、平成14年に、本村港同様400トン級の船舶の寄港可能港となっている。
なお、集落内には、以前ヤマハリゾートが開発途中で頓挫した飛行場跡もある。
注4:湯向温泉
・本村から約15km
・湯向集落にあり、四六時中澄んだ湯が湧いており、石で作りあげた露天風呂もあります。
・島内3ヵ所の温泉の中で男女別々の浴槽があるのはここだけです。
・神経痛・皮膚病などに効能があります。
・24時間 休みなし 料金1回200円
屋久島ポータルサイトより

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4日目:9月12日(月) 晴  (寝待集落詳細)


地図6

寝待集落略図
寝待集落略図

1、40歳前後男性宅 2、空・本村在住者小屋 3、空・後日前原さん居住 4、矢野宅 5、空・本村在住者小屋 6、森杉宅 7、空・大阪在住者小屋 8、空・本村在住者小屋 9、空・新村牧場小屋 10、空・鹿児島在住者小屋 11、空・元町長小屋 12、空・田代のジッチャンの小屋
※公民館管理の湯治小屋は4室有。海側が1、2号室。通路側は3,5号室。使用料金に差があり1号室¥500、2号室450¥、3・5号室¥400で入浴料が¥200プラスされる。
なお、島内での携帯電話の使用可能機種は、ドコモのみ一部地区で使用可。寝待温泉では1号室海沿いで電波受信が出来る。寝待住民は湯治小屋通路側にある公衆電話を使用している。
※集落入口に在るトイレは、鉄筋コンクリート製の立派すぎる建物だが、3年前の台風被害でトイレに亀裂が入っており、女子用は水洗が詰まり使用不可。なお、トイレ入口には更衣室が在り、避難時に使用できるのではないか。
※立神岩手前に温泉が湧いており、一部観光案内では海中温泉との記載があるが、温度が低く入浴には適していない。

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 朝風呂に入ってから、インスタントラーメンの朝食。

 このインスタントラーメンが最後の食品だったので、今日は本村に買出しに行く予定。

 本村に出掛ける前に公民館長の林さん夫婦が、湯治小屋空室(2、3号室)の掃除にやって来たので、10日間の予定を1か月に延長する。

 部屋代は1日400円。入浴料は1日200だが温泉が正常な状態で無いので、温泉前の料金箱に心付けを入れることになった。

 また、長期滞在者のガス料金は1日100円の定額か使用量に応じて清算する二者択一との事で、後者を選ぶ。

 公民館長・林さんに1か月分の部屋代12、000を支払ってから、本村に向かう。

 本村のAコープの商品入荷は、奇数日の午後3時からなので、今日行っても何もないのは解っているが、奇数日の商品の取り合う現場を眼のあたりにしているので、行く勇気が湧いてこない。

 案の定、Aコープには何もない。

 明日の入荷日に買出しの決心をして、今日は米とラーメン、缶詰類、乾麺等を買って帰る。

 寝待に帰ってから、バッチャンと話をする。

 バッチャンは村人から「ミヨばい(ミヨ婆と云う意味か)」と呼ばれている、矢野ミヨさん。ミヨばいと呼ぶわけにもいかないので、“矢野のバッチャン”と呼ぶことにした。

 “矢野のバッチャン”は、本村には子供や孫が居住し、弟や親せきが岩屋泊の北浦地区で牧場を経営しており、また、大阪の交野市に家や墓もあるが、寝待の温泉が好きなのと、糖尿治療の意味もあって、町から家賃250円(1日)、年間地代4、000円で借りて生活している。

 “矢野のバッチャン”によると、そもそも、寝待集落が出来たのは、寝待温泉に3日も入れば傷が治り、飲むと内臓疾患に効能があると知れ渡っていたが、本村からの道が無く、馬や牛に乗って来なくてはならず、各人が町から土地を借りて、小屋を建築したのが始まりで、現在の公民館管理の湯治小屋は、以前寝待の公民館だった建物を四分割に区切ったものであるらしい。

また、現在、寝待集落の居住者は、バッチャン2人と湯治小屋1号室に居住する前原夫婦とトイレ下の小屋に住む独身男性の計5名。

 もう1人のバッチャンの名は“森杉のバッチャン”で、主人は本村に居住して、時折食料品を持って訪ねてくる。

 湯治小屋1号室に居住する前原さんは、湯向出身で、長年大阪や神戸で建築業に携わっていたが、故郷に帰って来て、田代で牛3頭を飼育している。

 トイレ下の男性は、本村出身者で島の土木建築関係の仕事をしている・・・等々、寝待の詳しい状況を教えてもらう。

 夕方には、“森杉のバッチャン”から、ぼた餅2個の差し入れがあった。

 テレビでは、昨日の自民党が圧勝した衆議院選挙の報道一色。

 選挙と云えば、ここ口永良部島が注目されるらしい。と云うのは、全国一早い繰り上げ投票が行われる場所だから(注5)

注5:新聞記事(2005年9月8日・読売新聞)
 鹿児島県上屋久町の口永良部(くちえらぶ)島で8日、衆院選の繰り上げ投票が行われた。11日の投票日を前に、全国一早い投票となった。
 同島は屋久島の西約12キロに位置し、面積約38平方キロ。当日有権者数は136人。へき地保健福祉館と湯向公民館の2か所を投票所に、午前7時から始まった。投票は午後5時まで。
 町選管によると、天候不良となると投票箱が搬送できなくなる恐れがあるため、国政選挙は毎回繰り上げ投票を行っている。選管職員らは投票終了後、チャーター船で屋久島に戻る。
 台風14号の影響も心配されたが、町選管は「投票前に過ぎ去って良かった」とホッとした様子だった。

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5日目:9月13日(火) 晴  (口永良部島西部散策)


地図7

口永良部島西部地図
口永良部島西部地図
地図検索サイト;マピオン(http://www.mapion.co.jp/)を加工

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 昨夜は7時に就寝して、今朝4時に起床。朝風呂に入り朝食時に一時雨が降ったが暫くして止む。天気予報は晴なので、島の西部の散策に出掛ける。

 集落から、寝待分岐に出て、一周道路を右折、民宿・くちのえらぶ前3差路を右斜めに。下り坂を約1,7キロ走り、ヘリポート横の待避壕で小休止。

 測量をしていた男性2人と話をしてから、約1km先の西の湯の様子を窺がってから、坂を登り切ったところの3差路(西の湯から約700m地点で、左折すれば一周道路に出る)を右にとり、150m程行くと、番屋ヶ峰・岩屋泊の道路標識が架かっているので右折する。

 ここから、1,4km程走ると二股に分かれ、右は、番屋ヶ峰・岩屋泊方面。左は、新村方面。

 一旦右方面に行ったが、途中から引き返し、新村方面に向かう。約1、2km先の新村集落には、掛に新村牧場農家民宿の看板が目に付いた以外これと云ったものはなく、何よりも放し飼いの犬がいたので急いで集落を後にする。

 犬に追いかけられないかと思いつつ走行すると、前方に犬ではなく牛が闊歩している。

 牛も、自転車に乗った人間が珍しいのか、こちらを見つめ動こうとしない。

 引き返せば犬が・・・徐々に距離を詰め、牛の脇をすり抜けることが出来た。

 ほっとしたのも束の間、今度は急坂が待ち受けていた。寝待の坂よりも急坂。その坂を登り切ると、T字路に出た(新村集落から約2,4キロ)。

 右は本村方面なので、左折して、下り坂を2,8km程走ると道路が無くなる。前方が岩屋泊と判るが、道が無い。道端にミニバイクが止まっている。

 草むらの中の小さな沢に丸太の一本橋が架かっている。その先の踏み跡を辿ると、海岸に出た。ここが岩屋泊。

 岩屋泊は、南風時の避難港になっているが、港湾施設は見当たらず、一人の男性がシュノーケリングをしていた。道路脇に止めてあったミニバイクの主なのか、話をしようと近づいて行ったが、沖に行ってしまった。

 海岸沿いを散歩すると、洞窟や建物跡らしい痕跡があった。綺麗な海と、美しい景色の岩屋泊。この場所に集落が無いのは、温泉が湧いていないのか・・・水場が無いのか・・・何故なのかと思えるほどの場所だった。

 小一時間休憩をしてから引き返す。新村分岐3差路を過ぎると、左Uターン気味の道がある。その道の突き当たりが番屋ヶ峰。NTTの電波塔が建っている。

 電波塔前に石川県ナンバーのワンボックスが駐車しており、近くに、パラポナアンテナの様な、おわん形機材が設置されている。車には男性3人が居たので話をする。

 この男性達は、午前中ヘリポートに居た男性と同じ会社の人達で、人口衛星からの電波をキャッチして測量をする仕事で、全国を旅しているらしい。

 暫く話をして、「寝待温泉の湯治場に居るので温泉に来た時は声を掛けて」と云って別れる。

 本村のAコープには、2時前に到着。商品は3時の入荷なので、待ち時間を利用して、金峰神社に行く。(地図4:本村集落略図参照)

 金峰神社はAコープから東に行き、一周道路に出る手前に左にUターンする感じの3差路に小さな看板があったので、坂を登って行くと、二股路があった。右手のデコボコの砂利道に入るが、神社らしい建物は見当たらない。

 二股路迄引返し、前進すると、見慣れた道に出た。口永良部島初日に本村港から、寝待に行く分岐の一周道路だった。

 神社道標から一周道路迄の間、分岐道路は砂利道しか無い。

 引き返し、改めて砂利道を登って行くと、草ぼうぼうの先に建物らしいものが見えたので、草をかき分け中に入ると、小さな祠と、海に向かって鳥居が在り、本村港が一望できた。

 金峰神社で参拝を済ませ、Aコープ前で待機。3時前から、住民が集まって来た。その内、寝待集落のバッチャン達も湯治小屋1号室居住者の前原さん所有の神戸ナンバーのクラウンに乗ってやって来た。

 3時になって、Aコープ男性従業員運転のトラックが店舗前に到着し、車が停止するかしないかの間に、女性達はトラックに群がり、荷台から、商品を取り出し買い物籠に入れる。

 凄まじい光景。日本の中で食料品を我先に取り合う光景が見ることが出来るとは、都会ではまず見ることが出来ない貴重な姿。でもこんな島が気に入っている。

 店舗の中で待っていると、従業員が卵とパンの入った箱を持ってきたので、喜び勇んで籠に入れる。思ってもいなかった収穫に大満足をして、ルンルン気分でAコープを後にする。

 寝待に帰って、温泉に入り最高に美味いビールを飲む。

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6日目:9月14日(水) 晴一時雨  (大掃除)

 昨日、湯治小屋5号室に小さな蟻の大群が部屋に入ってきた。これまでは、寝ていると、あまめ(船虫)や脚の長い蜘蛛が顔や首筋に這いまわることはしょっちゅうで、慣れてきたが、蟻は初めての事。
 それに、朝起きると虫刺され痕が目立ち、体が痒いので、本日は大掃除をすることにした。

 畳の上敷きをめくると、畳の一部が腐っていて青色に変色していた個所があった。小屋そのものは相当古く、3年前の台風では、小屋ごと押し流されると云ったことがあったらしい。その時に畳が濡れて腐ってきたのかなと思いながら掃除をする。

 寝待集落ではゴミの収集は無い。生ゴミは海に、その他のゴミは燃やしている。

 大掃除で出たゴミは燃やしたが、生ゴミを海に捨てるのは抵抗があるので、旧道の空地に大きな穴を掘り、この場所に生ゴミを捨てることにする。生ゴミを穴に投棄した上にゴミを燃やした灰を掛けることにする。バッチャン達も賛成してくれた。

 これで、長期滞在の準備完了。

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写真


写真は和坊流宇宙(http://www.justmystage.com/home/kazubo/)の和坊放浪記:口永良部島編part1でご覧ください。

続く・口永良部島編:part2


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2008年11月22日 (土)

屋久島編:part8


和坊放浪記


平成17年・備忘録


 項目

■モッチョム岳登山
 地図1:モッチョム・千尋滝ルート
 51日目:8月27日(土) 晴     (千尋の滝展望台下でテント泊)
■海楽園キャンプ場
 52日目:8月28日(日) 曇一時雨  (トンゴの滝散策)
 地図2:トンゴの滝・安房周辺
 53日目:8月29日(月) 晴一時雨  (台風13号発生)
 54日目:8月30日(火) 曇のち一時雨  (白川山集落散策)
 地図3:屋久島北西部
 55日目:8月31日(水) 晴一時雨  (楠川城散策)
 地図4:屋久島北東部
 56日目:9月 1日(木) 晴一時雨  (屋久島脱出準備完了)
 57日目:9月 2日(金) 晴一時雨  (琴岳周辺散歩・口永良部島出発延期)
 地図5:琴岳周辺
 58日目:9月 3日(土) 曇一時雨  (台風14号・屋久島直撃コース)
 59日目:9月 4日(日) 雨     (台風14号上陸に備え避難)
 60日目:9月 5日(日) (台風14号通過・1日目)
 61日目:9月 6日(月) (台風14号通過・2日目)
 62日目:9月 7日(火) 晴     (台風一過)
 63日目:9月 8日(木) 曇のち晴  (屋久島脱出準備)
 最終日: 9月 9日(金) 曇のち雨  (屋久島から口永良部島へ)
※本文中赤字は写真あり
写真

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■モッチョム岳(本富岳)登山


地図1:モッチョム岳・千尋滝ルート
モッチョム岳・千尋滝ルート地図
地図検索サイト;マピオン(http://www.mapion.co.jp/)を加工

所要時間:往路2時間45分 復路2時間20分(休憩時間含まず)
千尋の滝登山口:~(1時間)~万代杉~(40分)~モッチョム太郎~(35分)~神山展望台~(30分)~モッチョム岳~(30分)~神山展望台~(30分)~モッチョム太郎~(30分)~万代杉~(50分)~千尋の滝登山口

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51日目:8月27日(土) 晴  (千尋の滝展望台下でテント泊)

 本日は、モチョム岳(注1)登山予定なので4時30分に起床、ご飯を炊きおにぎりを作って準備をする。

 モチョム岳(本富岳)は、屋久島の南部・原(はるお)集落を流れる鯛之川の「千尋(せんびろ)の滝」展望台に登山道入口が在り、往復に可成りの時間を要するので、早めの6時30分に、キャンプサイトを出発する。

 屋久島大社で安全祈願をしてから、県道77号を走る。

 小瀬田集落のふれあいパーク屋久島や安房大橋見晴らし台等で小休止を繰り返し、屋久島を時計回りに進むに従い、今から登るモッチョム岳の山並みが大きくなってくる頃、右側にポンタン館、左にトローキの滝を見て、鯛之川に架かる橋を渡った300m程先に千尋の滝の道路標識が現れる。

 その三叉路をUターン気味に右折して、案内板に従い緩やかな登り坂を進むと、突き当りに大型バス駐車場とトイレ、展望台が。

 その奥に普通乗用車用駐車場に隣接して「土産物店・げじべえの里」が在る。

 自転車を置かせて貰う為「土産物店・げじべえの里」店内に入り、モッチョム岳に入山する旨を告げると、Tシャツ・半パン姿を見て、「その格好で入山するの?」と怪訝顔だったが、自転車を置くことを快諾してくれた。

 店の裏手に自転車を置かせてもらって、千尋の滝(8月12日屋久島編part5参照)展望台手前の祈願所で参拝してから、モッチョム岳登山道(タナヨケ歩道)に入る。(10時)

 階段を登るとすぐ十字路があり「オダキ山」の標識があり、右に行くと、千尋の滝展望台。左は原集落への旧道か。

 真直ぐ進むと、沢に出る。この沢上方には、沢の水を引き込んでいるタンクが設置されており、千尋の滝駐車場やその下に数戸在る住宅の水道施設であろう。

 この沢を渡り暫く登ると(登山道から約15分)旧原歩道の分岐に出る。※旧原歩道は、尾之間歩道の乃木尾根に連絡する歩道であったが、現在は廃道となっている。

 分岐を左に取ると、ここからが本来のタナヨケ歩道の取り付で、急峻な胸突き八丁の登りになる。

 この急坂を越え、第2の沢を渡渉、木の根っ子だらけの道をひたすら登ること1時間で、万代(ばんだい)(注2)に到着、小休止をする。

 モッチョム岳観光登山の場合は、万代杉折り返しが多いことから分かるように、ここからが本格的な登山コースになるらしい。

 本格的かどうかは個人差があるが万代杉の右を巻いて急登は続き、しばらく登ると尾根を越して右側の谷側に入り、少し下って第3の沢(最後の水場)を渡ると、登山道の10m程右下に屋久杉・モッチョム太郎(注3)を見る。

 ここからも登りが続く。木の根っこを頼りによじ登る。ひたすら登る、時としてロープを伝って登ると神山展望台の尾根に出て、尾根上の神山展望台分岐に達する。

 神山展望台分岐の看板からロープを潜り、右手に廻りこんで杉の大木や枯存木のある露岩の上の展望台に立つ。

 この神山展望台は標高979mでモッチョム岳よりも高い所に位置しており、前方にモッチョム岳や「神山」である耳岳や割石岳を望むことが出来る。

 また、看板には、モッチョム岳迄20分と書かれているが、実際に歩いてみると20分では到達不可。

 ここから樹林の中を直角に急降下して鞍部に着き、大きな一枚岩の横を通過して、木の根っ子がはびこった超急登の登り返し、ロープを伝って這いあがり、稜線に出ると、現在は廃道となっているモッチョム岳正面登山道分岐がある。

 この正面登山道沿いには、モッチョム岳のもう1つの屋久杉「モッチョム花子(注4)」があるらしいが藪で登山道確認不能な状況であった。

 稜線は両側が断崖で、花崗岩の一枚岩のダイナミックな景観を見ながら、細い尾根を縫うように、潅木林を進むと、突然頂上真下の岩のテラスに出た。

 見上げる大岩に太く黒いロープが懸けられている。これにすがって3m程登り、モッチョム岳(940m)山頂に着く。

 山頂は本富(モッチョム)岳と書かれた標識が立ち、意外と広い広場になっており、沢山の蝶が舞っていたが、あいにくの霧で展望が利かない上、無数の虫が飛び交っていたので、岩から降りて、頂上直下の岩テラスで、お湯を沸かしてインスタントみそ汁とおにぎりで昼食。

 昼食後再度頂上に登る。強い風に吹かれて霧が流れて行く。その合間に瞬間的に展望が開け、いわさきホテルから連なる海岸線が浮かび上がってくる。

 展望が開けたのは都合3度、時間にして数十秒間であったが、大満足して岩から降りて、尾之間側に在るに、般若心経を唱えてから下山する。

 千尋の滝登山口に16時45分に到着。10時に入山して、6時間45分(休憩を含む)経過していたが、その間誰にも会わず貸切状態。

 モッチョム岳登山道は、愛子岳同様殆ど人の手が入っていない自然豊かな登山道であるにも関わらず入山者が少ないのは・・・なるほど急な登りの連続で息絶え絶えに登るが、その後の満足感が何とも云えない快感。屋久島登山一押しの山。

 これから、キャンプサイトに帰ると夜間走行になる。幸い千尋の滝駐車場には車がないので、展望台下の空き地でテント泊をする。

注1:モッチョム岳(本富岳)
モッチョム岳は、尾之間方面から眺めると、横から見た男性性器(陽)に、麦生方面から陽射しの中で眺めると、影が入ってリアルな女性性器(陰)に見えることから、「陰陽山」と云われている。また、その名の由来は、種子島側から船で近付くと、「陰」の山肌が見えることから、種子島地方の方言で、「モッチョー(女性性器)」が訛って、モッチョムと呼ぶようになった。また、尾之間方面からの山肌に人面岩が見える。

注2:万代杉
樹高:13.2m、周囲:8.6m、推定樹齢:3000年、標高:800m。
1976(昭和51)年の発見時、根元が大きいため当時は1万年の巨杉発見と騒がれた。登山ルートの尾根沿いに立つ。強い風のためか樹高は低く、裏側は大人2人が入れる大きさの空洞になっている。モッチョム太郎と共に公募により命名された。

注3:モッチョム太郎
樹高:24.5m、周囲:9.4m、標高:820m。
万代杉からさらに20分~30分、登山ルートの谷側にあります。下を向いて歩いていると見逃してしまうかも・・・鋸の跡があり、幹の断面の半分くらいは切られている。

注4:モッチョム花子
樹高:19.5m、周囲:6.3m、標高:680m。 モッチョム岳登山道(正面ル-ト)

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■海楽園キャンプ場


52日目:8月28日(日) 曇一時雨  (トンゴの滝散策)


地図2:トンゴの滝・安房周辺
トンゴの滝・安房周辺地図
地図検索サイト;マピオン(http://www.mapion.co.jp/)を加工

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 4時に起床、雨がぽつぽつ降って来たが8時過ぎに止んだので、帰途、トンゴの滝(注5)を見に行くことにする。

 千尋の滝を出発して安房大橋を渡って、屋久島署北側を左折、体育館を通過した先の、三差路左側の川岸に降りる道を行くと突き当たる。

 そこに、自転車を置いて川に降りると中洲になっており、前方に松峰大橋が見える

 ここから、上流約1.5km先に目的のトンゴの滝が在るが、道は無く川を泳いで行くしか無い。

 先般、松峰大橋訪問時は増水で行けなかったが、今日は水嵩も低く、マスク・足ひれ・シュノーケルを着けて、中洲から安房川に入り上流に向け出発。

 松峰大橋を仰ぎ見て、左右が切り立った深い谷を流れる川を泳いだり川岸を歩いたりして進むと、川が直角に左に曲がっており、その先に滝が在った。たぶんここがトンゴの滝と納得し、小休止をしてから引き返す。

 キャンプサイトに帰ると、女性2人、男性1人の外人3人組がテントを張っていた。

注5:トンゴの滝
安房川の河口から約3㎞上流にある30mほどの滝。
安房川を遡る以外に道はなく幻の滝と云われる。
トンゴ滝の左岸上部は黒色ホルンフェルス(熱による変成作用を受けた黒い岩石)、下部は白色花崗岩で地層の境界を見ることができる。

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53日目:8月29日(月) 晴一時雨  (台風13号発生)

 昨夜の外人3人組は、熊本から来たらしいが、外人にしては無口で殆ど会話の無いまま、8時にテントを張ったまま何処かに行った。

 今日はテントサイトの草刈りと、張りっぱなしにしているテント底生地の数十か所の蟻穴の修理をして1日が過ぎた。

 台風13号が発生しており、沖縄地方に影響が出始めているらしい。

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54日目:8月30日(火) 曇のち一時雨  (白川山集落散策)


地図3:屋久島北西部
屋久島北西部地図
地図検索サイト;マピオン(http://www.mapion.co.jp/)を加工

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 朝4時頃から降り出した雨は、6時には上がったので、今日は、自然志向の若者に人気のある白川山(しらこやま)集落の散策に出掛ける。

 白川山は、屋久島の北端に在る一湊港に流れ込む一湊川沿いを4kmほど辿った山間部に在る、屋久島唯一の内陸集落で、一時廃村になっていたが、詩人の山尾三省(やまおさんせい 注6)が移り住んで以来、現在は17世帯32人が生活すると云われる。

 8時にキャンプサイトを出発。県道を西進して屋久島の北端の一湊集落に到着するが、一湊川に入る道が分からなかったので、屋久島唯一のトンネル(一湊トンネル)手前から入る。

 トンネル手前を左折し暫くすると、一湊川を跨ぐ集落からの三叉路に出たので直進、舗装された川沿い道路を辿って行くと白川橋に出る。(トンネルから約2km)

 ここから先が白川山集落で、入口には、集落略図の案内板が設置されており、それを頼りに、山尾三省の書斎・愚角庵(ぐかくあん)や集会所(公民館)・やまびこ館民宿・平和小館白河(注7)平和道場(注8)や集落入口から約500mの一番奥まった獣道の先に在る、禅寺・芙蓉寺(注9)を確認してから白川橋に戻る。

 白川橋の下には、看板(注10)が立っている。この一湊川の白川橋近辺はヤクシマカワゴロモの生息地らしいので、川に入ったが確認はできなかった。

 地元の人に聞くと、上流の堰堤(えんてい)工事の際、岩ごと白川橋付近に移植されたらしく、白川橋より上流の方が発見されやすいことが判明した。

 帰りは、一湊川沿いの道で一湊集落迄戻り県道に出て、14時過ぎにキャンプサイトに帰る。

 今日の、と云うより今日も天候は安定せず、太陽が出ているのに大雨が降ってきたりする。夜間も大雨で目がさめ、テント入口を閉めて寝る。

注6:山尾三省(やまお さんせい)
詩人。1938年東京神田生まれ。早稲田大学文学部西洋哲学科中退。
1977年、屋久島に一家で移住。詩の創作を中心とする執筆活動と農耕の日々を送る。代表作に聖老人、三光鳥、祈りがある。
2001年8月28日、①産まれ故郷の神田川の水を、もう一度飲める川の水に②原発がすっかりなくなるように③日本国憲法第9条が世界の国の憲法となるように、と云う3つの遺言家族に残し、屋久島にて亡くなる。

注7:民宿・平和小館白河
木造2階建てのペンション風の宿で3部屋、ダイニングキッチン、洗濯機、お風呂があり自炊可。素泊り・一泊3000円。
代表者・吉田明夫 電話09974-4-2660
注8:平和道場
旅人に自炊の宿として開放されている。1泊¥300

注9:禅寺・芙蓉寺
日常座禅の他、一泊座禅会や長期の座禅あり。費用:1泊朝食(おかゆ)付¥2,000。三食付¥3,000住職・守時道林。電話09974-4-2182

注10:白川橋下看板内容
鹿児島県指定文化財(天然記念物) ヤクシマカワゴロモ(カワゴケソウ科)
カワゴケソウ科の植物は、水中で生育する特殊は植物である。水のきれいな急流に生えるために葉も茎も退化してなくなり根だけが岩の表面に固着して広くなり、光合成を行って生長する。
11月から12月にかけて根の表面から短い花茎をだし、急流の中で受粉し、実ができる。種子は粘着性があって、流れて別の岩のくぼみについて繁殖する。この仲間をカワゴケソウ科というが、日本には現在2属7種が知られている。ヤクシマカワゴロモはその中の一種で、地球上で一湊川だけに生える珍しい植物である。

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55日目:8月31日(水) 晴一時雨  (楠川城散策)


地図4:屋久島北東部
屋久島北東部地図
地図検索サイト;マピオン(http://www.mapion.co.jp/)を加工

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 朝食準備の為、避難小屋兼炊事棟に行くと、内部は水浸し。昨夜は雨量があった感じ。こんな状態にも慣れてきて、手際よく朝食を済ませ、楠川温泉に行く。

 楠川温泉に行く途中、ドラえもんの置物が在る楠川歩道登山口を過ぎると、新城之川橋が架かっている。

 その東南角に小高い雑木林在り、楠川城跡の看板が立っている。城跡(注11)はこの小山の中に在ると思うが入口が分からない。

 看板前に在る、楠川城売店(注12)で聞くが要領を得ないので、城跡散策は諦め、道路脇に在る、源平古墳御霊供養塔を見学してから、楠川温泉に行く。

 昼過ぎにキャンプサイトに帰り昼食を摂り、ハンモックで読書中に雨が降って来た。

 そろそろ、屋久島を出なければと思う。

 夕方、キャンプサイトの敷地に在るレストラン・オアシスクラブのオーナー“志水さん”が、避難小屋兼炊事棟にやって来た。

 “志水さん”は東京出身の60歳過ぎの男性で、トレーラーハウスで旅行中、屋久島にやって来て、当地が気に入り永住。現在、宮之浦集落の先に在る町営住宅の深川団地に住んでいる。

 レストラン・オアシスクラブは、大工の“黒田さん”が、知人の海楽園キャンプ場のオーナー“大隅さん”から格安で借地して当地に建築。

 オープン後は、大工の“黒田さん”が、マスター兼調理士、その妻がママ兼ウエイトレスとして店舗の切り盛りをし、忙しい時には、オーナーの“志水さん”が洗い場の担当をしている。

 自分はレストラン・オアシスクラブに入った事が無いが、オーナーの“志水さん”とは、夕方になると“志水さん”が小屋に入って来て、世間話をし、一緒に酒を飲む仲になっている。

 その“志水さん”に「そろそろ屋久島を出ようと思っている」と告げると、屋久島の隣に在る口永良部島の湯治場が良いとを教えてもらう。

注11:楠川城
楠川城は1524年9月、当時屋久島を統治していた種子島十二代忠時が構築した山城で、東側の海を隔てた先には種子島があり、狼煙(のろし)による両島の連絡には好都合の場所であった。
なお、天文12年(西暦1543年)、大隈半島南部の禰寝(ねじめ)氏が、種子島13代恵時(しげとき)の悪政を正すとの名目で種子島に来襲、戦いに勝利し屋久島を手に入れたが、翌年屋久島奪還を企てた種子島14代時尭(ときたか)から攻撃を受け、禰寝氏は城ケ平城(宮之浦)から敗走したが、その際日本で初めて火縄銃が使用されたのが、楠川城と云われている。楠川地区には火縄銃の縄の素材であるチンチク(沈竹、蓬莱竹ともいう)が在る。
種子島14代時尭(ときたか)は、禰寝(ねじめ)氏の戦いに敗れた半年後の天文12(1543)年8月、流れ着いたポルトガル人から二丁の鉄砲を購入、それをもとに種子島銃を完成させた人物である。

注12:楠川城売店
平成17年2月3日にオープンした楠川地区の直売店で、野菜や苗のほか、地元のお茶や健康食品が販売されており、日曜日及び水曜日の午前9時から午後1時まで営業している。

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56日目:9月1日(木) 晴一時雨  (屋久島脱出準備完了)

 口永良部島はフェリー屋久島2と同様、宮之浦港から出港しているが、口永良部島行きの、町営のフェリー太陽は、台風13号の影響で波が高いので昨日から欠航している。

 フェリー太陽は別名「欠航丸」と揶揄され、その運航は不安定であるが、何時でも出立出来るように、今日は、自転車の整備を始め、テント内や冷蔵庫等の整理をする。

 4時頃、オアシスクラブの“志水さん”がやって来て、「口永良部島の湯治場・寝待温泉を管理する公民館長に電話をしたところ、寝待温泉は、3年前の台風被害で修理中の箇所はあるが、使用可能な部屋は3室。ただし、10日から2室は予約が入っているとの回答だったので、3日から2名の予約を入れた」と報告に来た。2名とは、“志水さん”も同行するとの事。

 先日発生した、台風13号は台湾から中国方面に抜けたが、14号が発生。かなり大型との情報。

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57日目:9月2日(金) 晴一時雨  (琴岳周辺散歩・口永良部島出発延期)


地図5:琴岳周辺
琴岳周辺地図
地図検索サイト;マピオン(http://www.mapion.co.jp/)を加工

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 早朝から可成りの雨が降ったが、天気予報は晴。明日は口永良部島に出発するので、洗濯をしてから、暇になったのでキョンプ場近くの憩いの森公園に向かう。

 憩いの森公園は、標高245mの琴岳の麓に在るが、地図を見ると、憩いの森公園分岐から、琴岳山麓の周遊道路が延びているので、その道に入る。

 前線舗装されており、琴岳をほぼ一周する形の、距離にして4km強の歩き易い絶好の散歩道。

 旅荘・美山(民宿)、コンクリートむき出しの状態の病院建設頓挫跡(通称幽霊ビル)を通り、上屋久町陸上競技場に出る。

 同所は、海楽園キャンプ場から県道77号を東進し、屋久島高校前から、宮之浦に向け坂を降りる途中から、左折した小高い丘に在る、上屋久町の総合運動公園。

 公園内には、陸上競技場、野球場、勤労者体育館の他に、戦死者慰霊塔も在る。

 また、県道77号からの導入路途中に階段があったので、それを登ると、その先の草むらの中に、人は入れない小さな釈迦堂(注13)があったので、般若心経を唱え後にする。

 キャンプサイトに帰ってから、オアシスクラブの“志水さん”から電話連絡があった。

 内容は、「口永良部島の公民館長から、本日、欠航中のフェリー太陽は生活物資搬送の為、強硬運行したが、明日から2日間は欠航予定。6日から9日迄はドッグ入りで、その間、漁船での運航はするが、自転車を含む車両は乗船不可で、フェリー太陽の正常運行は10日以降になる旨の連絡があった」との事。

 明日の口永良部島への出発は延期になる。10日迄のキャンプ代金を支払う。

注13:釈迦堂
貞享3年(1686)の春、楠川に釈迦如来像が浮着し、それを機に孫七(島津藩から派遣された町田孫七)が釈迦堂を建て(元禄元年・1688)供養した。
また、道本銘供養塔もあり、平成元年4月1日、町の有形文化財し指定されている。

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58日目:9月3日(土) 曇一時雨  (台風14号・屋久島直撃コース)

 久しぶりに雨が降らない朝を迎えた。昨夜は7時に就寝したのに、起床は6時。寝すぎ。

 日課の屋久島大社に行くと、国旗掲揚ポールが倒れている。折れたのかと思ったが、倒しているのだ。台風対策か。

 そう云えば、街中では、看板や屋根、窓等の補強をしている。

 宮之浦港の環境文化村センターで天気予報の台風情報を見ると、台風14号は屋久島直撃コースに入っている。

 帰りにスーパーによると、生鮮食料品やパンコーナーの陳列台は空っぽ。台風が上陸してフェリーが欠航になれば物資が入らなくなる事を予想しての買いだめか。

 取敢えず、缶詰類やパスタ等を購入してキャンプサイトに帰る。

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59日目:9月4日(日) 雨  (台風14上陸に備え避難)

 昨夜から雨が降り続いていた雨が、朝一時止んだ。

 その間にテント内の荷物を避難小屋兼炊事棟に運び込んだ途端大雨が降って来た。

 大雨は、昼前に止んでので、その止み間を利用して、テントを撤去。シート類を洗って汚れを落とす。

 キャンプサイトのオアシスクラブでもマスター兼大工の“黒田さん”達が店舗の窓にコンパネ(厚手のベニヤ板)を張り台風対策をしている。

 一通り台風対策が終わってから、“黒田さん”夫婦と初めて話をする。

 マスターは、昭和31年生まれの宮崎県西都出身で、10年前に屋久島を訪れて以来島を気に入り、5歳年上の妻を呼び寄せ永住し、口永良部島で大工をしていた時に、オアシスクラブのオーナー“志水さん”と知り合い、3年前にオアシスクラブを建築した。

 来年には、口永良部島の湯向(ゆむぎ)にオアシスクラブを移築し、屋久島の永田から湯向間の海上タクシーを運行して、口永良部島の村おこしをすると夢を語ってくれた・・・

 台風は相変わらず屋久島直撃コースを進んでおり、波浪警報とともに、総雨量は400mmとの情報。避難小屋兼炊事棟内に山岳テントを張り避難完了。

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60日目:9月5日(日) (台風14号通過・1日目)

 昨夜から強い風が吹いているが、東よりの風なので、入口の出入りには特に支障はない。

 6時に起床して、オアシスクラブ裏手に行くと、波が打ち寄せ、波の花が舞っている。2~3mの高波が押し寄せれば、海岸脇に在るオアシスクラブは海の藻屑となる。そうなると、当然避難小屋も同じ運命をたどるだろうと想像する。

 予報では、屋久島は昼過ぎに強風域に入るとの事。胸が躍る。そう、雷と台風が大好き人間なのだ。

 昼頃、上屋久町に崖崩れ警報が発令された。風が強くなってくる。波が岸壁に打ち寄せるたびに、ドドォーンと地鳴りのような音が響く。これから起こるであろう、南の島の台風の体験に期待と興奮が沸き起こる。

 昼過ぎから、三岳を飲みながら読書三昧。時折合羽を着て外に出て様子を窺う。

台風情報(9月5日)
大型で非常に強い台風14号は5日20時現在、屋久島の南140kmにあり、北北西へ時速15kmのゆっくりしたスピードで進んでいます。現在の気圧は935ヘクトパスカル。最大風速45m。25m以上の暴風域は、東側300km、西側260kmとなっている。
今後、奄美大島を通過して屋久島近海を経て、鹿児島に上陸する可能性が高く、その後、九州を縦断して日本海へ抜ける見込み
20時現在、鹿児島も暴風域に入ったようで、風速42.2mを記録しました。

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61日目:9月6日(月) (台風14号通過・2日目)

 昨夜は、風雨が凄かった。相変わらず波の音は、間近で大砲が発射されたような音の「ドーン」が長く響く地鳴りの様な感じの「ドドォーン」音が夜中中響き渡っていた。

 夜間停電になりローソクを灯す。物が飛んでぶつかり割れる音。メリメリと建物が壊れる様な音。色々な音が聞こえてくるが、避難小屋兼炊事棟からは外の様子は見えない。

 ドアーを開けて外の様子を見たい衝動に駆られるが、ドアーを開けて、破損すれが弁償してもらうとキャンプ場オーナーの大隅氏から釘を刺されているので我慢する。

 夜が明けて、風も収まってきたので外に出る。

 昨夜の音の感じから、レストラン・オアシスクラブは吹き飛ばされているのではと思っていたが、無事だった。が、レストランの看板や洗濯機が飛ばされ、トイレドアーのガラスが割れていた程度だった。

 台風は屋久島の西側を通り、昼過ぎに長崎県諫早に上陸したらしい。また、屋久島では瞬間風速50mを記録したらしい。

 台風通過後も携帯電話のアンテナ表示は無かったが夕方には3本になり、神戸から安否確認の電話がかかって来た。

台風情報(9月6日)
台風14号は5日夜屋久島の西海上を通過し、6日には時速10kmのゆっくりした速度で、九州西岸に沿って進み、14時過ぎに、長崎県諌早市付近に上陸しました。その後は佐賀県や福岡県を縦断して日本海に抜けるコースを進んでいます。
この台風は風が強く、屋久島では台風接近前に最大瞬間風速58.1m、種子島では吹き返しの風で最大瞬間風速59.2mを記録しています。
しかしこれまでのところ、この台風は強風よりもむしろ大雨の方が目立っており、宮崎県旧南郷村では降り始めからの雨量が1300mmを超えた地点があり、アメダス観測の降水量記録が軒並み塗りかえられているようです。
この大雨は土砂災害や洪水を各地で引き起こし、人的被害は死者・行方不明20名近くにも達しています。

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62日目:9月7日(火) 晴  (台風一過)

 昨夜も避難小屋兼炊事棟内にテントを張って寝る。小屋内でのテント泊は3日目。

 前2日間は台風通過の為寝られなかったが、昨夜は、夜8時から今朝5時まで熟睡した。

 今日は、台風一過の快晴の感じ。朝食後、屋久島大社に参拝。神社の被害はない様子だったが、神社に行くまでの県道77号沿いの雑木林が広範囲に渡って倒れ、海が見渡される状態になっていた。

 キャンプ場に隣接する「スーパー・わいわいらんど」を始め、宮之浦のスーパーは軒並み陳列台に商品は並んでいない。フェリー欠航による後遺症か。

 台風上陸前に買い占められた理由が分かった。台風が過ぎ去っても、フェリーの運航が再開されない限り、物資は補給されない離島の状況を垣間見る事が出来た。

 スーパーの帰りに、海楽園キャンプ場同様海辺に在る、宮之浦のオーシャンビューキャンプ場に寄る。

 同所は、数年前の台風被害で閉鎖を余儀なくされたものの、本年度から再開されたばかりだったが、波打ち際の真新しい石積みは破壊され、風呂場の建物やトイレのドアーが吹き飛はされており、可成りの被害がある様子だった。

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63日目:9月8日(木) 曇のち晴  (屋久島脱出準備)

 昨夜は、4日振りにキャンプサイトにテントを張って寝る。

 午前中、避難小屋兼炊事棟、トイレ、シャワー室の清掃やキャンプサイトの整備をし、午後から、宮之浦港ターミナルに行く。

 鹿児島便の「フェリー屋久島2」は、本日夜11時に臨時便の運航を予定。口永良部島便の「フェリー太陽」は、明日から運航(出航時間13時)との事。

 口永良部島の台風被害状況が判明しないので、役場の出張所に電話を掛けるが、何度電話をしても留守番電話になっている。

 どちらにしても、明日は屋久島脱出決定。

 夕方、外人男性と日本女性の2人組が、大きなリュックサックを背負って、海岸沿いからキャンプ場にやって来た。

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最終日:9月9日(金) 曇のち雨  (屋久島から口永良部島へ)

 今日は屋久島最終日、屋久島大社にお礼参拝を終え、キャンプサイトに帰り、避難小屋兼炊事棟に入ると、昨夕やって来た2人組が居た。

 男性はドイツ人で、京都出身の日本女性は屋久島来島3度目のベテラン。昨日は、オーシャンビューキャンプ場に行ったが、台風被害で使用不能だったので、海岸線を歩いて海楽園キャンプ場に辿り着いたとの事。

 昨夕、海岸からキャンプサイトに出没した行動が納得できた。

 他に、日本人男女2人組もやって来たが、時間的な問題で、詳しい屋久島情報を伝えることが出来ずにキャンプサイトを後にする。

 宮之浦港ターミナルの発券窓口が開いたのは12時。1番乗りで、乗船手続きをする。

 乗船して間もなく、オアシスクラブの“志水さん”が来る。

“志水さん”は、台風による店舗の後片付け等があり、口永良部島行きはキャンセルしたので、予約している湯治場(寝待温泉)の管理者である、公民館や公民館長(林さん)の自宅電話番号等のメモを持参してくれた。

 13時の定刻に宮之浦港を出港したフェリー太陽の客室で、毛布を被って微睡(まどろむ)。

フェリー太陽(時刻表・運賃)
口永良部 宮之浦 島間(種子島)


09:00発 10:05着
11:50着 10:45発
14:40着 13:00発
15:20発 17:00着


09:50着 08:10発
10:30発 12:10着
13:00発 14:05着
15:50着 14:45発

宮之浦~口永良部島 ¥2,050 自転車¥320
宮野浦~島間 ¥1,400 ¥自転車320

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写真


写真は和坊流宇宙(http://www.justmystage.com/home/kazubo/)の和坊放浪記:屋久島編part8でご覧ください。


続く・口永良部島編 


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2008年11月12日 (水)

屋久島編・part7


和坊放浪記・屋久島編part7


平成17年・備忘録


 項目

■海楽園キャンプ場
 44日目:8月20日(土) 雨      (宮之浦ぶらぶら)
 45日目:8月21日(日) 雨のち晴  (屋久島地方・大雨洪水注意報)
■宮之浦岳縦走
 地図1,2,3,4、5、6、7
 46日目:8月22日(月) 晴      (尾之間歩道から淀川小屋泊)
 47日目:8月23日(火) 晴のち雨  (新高塚小屋泊)
■海楽園キャンプ場
 48日目:8月24日(水) 雨のち晴  (路線バス・バックで爆走)
 49日目:8月25日(木) 雨のち晴  (大雨・洪水・雷・高波注意報発令中)
 地図
 50日目:8月26日(金) 晴      (休養日)
※本文中赤字は写真あり
写真
 尾之間歩道
 宮之浦岳縦走路

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■海楽園キャンプ場


44日目:8月20日(土) 雨  (宮之浦ぶらぶら)

 深夜2時20分過ぎに、雷の轟音で目が覚める。短時間に大雨。

 朝、炊事棟兼避難小屋に行くと、“博多の青年”が寝袋に包まっていた。事情を聞くと、昨夜の大雨でテントの中は水浸しになったので避難したとの事。

 そのうち、英語講師の“外人カップル”も起きてきたので、全員で朝食談義。

 “博多の青年”は明日のフェリーで島を離れるので、出発準備。“外人カップル”は、雨の中白谷雲水峡へ。

 自分は、歴史民俗資料館(注1)に出掛ける。

 歴史民俗資料館は、宮之浦川湖畔の役場等の公的施設が集まる一角に在り、玄関前に木船が置かれている。

 入場料100円を支払館内に入ると、屋久島の歴史と暮しに関わって来た様々なものが所狭しと並べられており、また、縄文時代から現代までの屋久島の歴史と人々の生活史を写真や実物展示物を交え詳しく紹介されており、ビデオも見ることもできる。

 同じような施設の、豪華な建物内で訳のわからない映像を、5年間も流し続けている環境文化村センターに比し、質素な建物ではあるが、展示内容が充実しており、大満足で資料館を後にした。※環境文化村センターでは、天気予報サービスや図書コーナーで世話になってはいるが、敢えて本音を記載した。

 歴史民俗資料館からの帰り、宮之浦のスーパーヤクデンで、山岳用ステッキを購入。明日予定している宮之浦岳縦走に備える。

 雨は相変わらず降り続いている。

 夕方、白谷雲水峡から帰って来た英語講師の“外人カップル”と明日屋久島を去る“博多の青年”の送別会の酒盛り。

注1:上屋久町歴史民俗資料館
開館時間:午前9:00~午後5:00
休館日:毎週月曜日・年末年始(12月28日~1月4日)
入館料:小・中・高校生、50円(団体20名以上30円)大人、100円(団体20名以上70円
電話番号:0997-42-1900

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45日目:8月21日(日) 雨のち晴  (屋久島地方・大雨洪水注意報)

 朝から雨。屋久島地方に大雨洪水注意報が発令されていたので、本日予定していた宮之浦岳縦走は延期する。

 でも、8時過ぎから晴れてきた。

 英語講師の“外人カップル”が青少年旅行村に出発した後、屋久島神社に参拝。

 知合いの巫女さんが、以前「本殿が御神体の在った石塚山に向いていないのは何故」と質問したことに対し、「本殿は北に向いているが、それは神社の習わしで、石塚山に向いていなくとも問題はない」との回答を伝える為出てきてくれ、暫く話をしてから、キャンプサイトに帰り、テント下の整備やハンモックで読書をして過ごす。

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■宮之浦岳縦走


地図

地図1:屋久島南東部
屋久島・東南部地図

地図2:尾之間歩道1
尾之間歩道前半地図

地図3:尾之間歩道2~花之江河
尾之間歩道後半~花之江河周辺地図

地図4:宮之浦岳周辺地
宮之浦岳周辺地図

地図5:縄文杉周辺
縄文杉周辺地図

地図6:トロッコ道~荒川口
トロッコ道~荒川口周辺地図

地図7:屋久島中央東部
屋久島・中央東部地図 地図検索サイト;マピオン(http://www.mapion.co.jp/)を加工

所要時間:尾之間歩道~淀川小屋
尾之間歩道・蛇之口ハイキングコース入口:85m~(1時間20分)~蛇之口滝分岐(尾之間歩道入口):450m~(3時間10分)~乗越:1,200m~(30分)~鯛之川の渡渉点:1,100m~(40分)~乃木尾根:1,340m~(1時間40分)~淀川入口:1,360m~(40分)~淀川小屋:1380m
所要時間:宮之浦岳登山
淀川小屋:1,380m~(1時間15分)~高盤岳展望所:1,600m~(15分)~小花之江河:1,620m~(10分)~花之江河:標高1,600m~(20分)~黒味岳分岐:1,680m~(35分)~投石平:1,680m~(50分)~翁岳下水場:1,710m~(10分)~翁岳分岐:1,680m~(15分)~栗生岳分岐:1,860m~(10分)~宮之浦岳:1,936m~(15分)~焼野三叉路:1,780m~(30分)~平石岩屋:1,700m~(50分)~第2展望台:1,620m~(1時間)~新高塚小屋:1,500m
所要時間:トロッコ道~荒川口
新高塚小屋:1,500m~(1時間)~高塚小屋:1,330m~(10分)~縄文杉:1,310m~(1時間40分)~大株歩道入口:900m~(1時間)~荒川分れ:727m~(30分)~小杉谷休憩舎:660m~(30分)~荒川口:600m
※宮之浦岳山頂は平地に比べ12℃ほど気温が低いので、小屋泊の場合は防寒対策要。

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46日目:8月22日(月) 晴  (尾之間歩道から淀川小屋泊)

 今日から、宮之浦岳縦走に出発する。宮之浦岳縦走は7月23日(屋久島編part3)以来2度目の入山。

 前回は、紀元杉迄バスを利用して、淀川登山口からの登山だったが、今回は、尾之間歩道から入山することにする。

 尾之間歩道は、8月17日(屋久島編part6)の蛇之口滝散策時のハイキングコース途中に登山道の入口が在るので、旭町発8時15分の始発バスに乗車して、尾之間温泉バス停に9時02分着。

 約10分で尾之間温泉に到着。(9時10分)

 尾之間温泉横の温泉神社で安全祈願をしてから、尾之間歩道に入る。

 蛇之口ハイキングコースを歩いて10時30分に蛇之口滝分岐(尾之間歩道登山口・標高450m)に着き、東屋で早めの昼食休憩をしてから、尾之間歩道・登山道に入る。(11時)

 険しい坂道のジグザグの登り、滝の音を聞こえる登山道を歩き、割石岳の西斜面から流れ落ちる幾つの小さな沢に架かる倒木を利用した橋や苔むしの道の急坂を登り終え、鈴岳、割石岳間の標高1,200mの鞍部・乗越(のりこし)に到着した。(14時10分)

 乗越から、支谷を渡り、小さな尾根を越え、急峻な下りを150m程歩くと、鯛之川の渡渉点に出た。(14時40分)

 鯛之川の川幅は8m程あるので雨天増水時には渡れない場合があり、要注意の看板も設置されているが、岩伝いに何とか、鯛之川本流を渡渉し、沢道を辿り、幾つかの沢を渡った先からは急な登りになっている。

 その坂道に横たわる巨木を横切り登り切ると乃木(のんき)岳の尾根上(1,340m)に辿り着いた。(15時20分)

 ここから比較的平坦な尾根上を歩くこと1時間40分程で淀川(よどごう)入口(標高1,360m)に着いた。(17時)

 尾之間歩道は淀川のトイレ横にある。

 話は逸れるが、屋久島のトイレは、ここ淀川入口を始めヤクスギランド、大株歩道入口、荒川口等の山中や、麓に在る休憩所等のトイレは美しく清掃が行き届いているのに比し、登山道小屋のトイレはこれ以上汚いトイレは日本中探しても見当たらない位不潔なのはなぜ・・・

 こんな事を思い浮かべながらトイレ横で10分程小休止をし、道路を隔てた淀川入口から宮之浦岳(注2)縦走路の登山道に入り本日の宿泊地・淀川小屋に向かう。(17時10分)

 尾根を登り淀川の斜面を辿り、湿地帯を抜けるとこと40分で淀川小屋に到着した。(17時50分)淀川小屋(注3)には、明日宮之浦岳に登るメンバーの“京都から来た30歳位の男性”、“東京から来た女性2人・男性1人の大学生グループ”、“東京の男子大学生1人”の計5名と、宮之浦岳から来た男性1人が居た。

注2:宮之浦岳
屋久島には1,500m以上の山が11、1,000mを超える山が45以上ある。
その内、各集落の山岳崇拝の対象となっている1,000m前後の山を「前岳」と呼び、それらの背後にそびえる山を「奥岳」と呼んでいる。
その中の、①宮之浦岳:1,936m②永田岳:1,886m③栗生岳:1,867m④翁岳:1,860m⑤安房岳:1,847m⑥栗生岳:1,831m⑦投石岳:1,830mは、「日本百名山」の山で、九州で1番から7番目に高い山でもある。
その内、宮之浦岳、永田岳、栗生岳(黒味岳の場合もある)の三山を称して「三岳(御岳)」。三岳を含め屋久島の主稜をなす1,800m以上の奥岳の山々が、八重状に広がっている事から、「八重岳」とも呼ばれている。

注3:淀川小屋
標高:1.380m、構造:木造ログハウス、建築:昭和60年、収容人員:40名

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47日目:8月23日(火) 晴のち雨  (新高塚小屋泊)

 “東京から来た女性2人・男性1人の大学生グループ”は、宮之浦岳から永田岳に回るとの事で暗いうちから小屋を出て行った。

“京都から来た30歳位の男性”と“東京の男子大学生”が出発した後の7時に小屋を出発。

 小屋を出るとすぐ淀川に架かる鉄橋を渡ると、直ぐに登り坂。道は侵食され木の根の露出部分を足掛かりに登る。

 暫くして坂も緩くなり、木道や石組みの道を行き、小屋から1時間15分で、展望が開け、登山道左手に高盤岳展望所(標高1600m)に出た。(8時15分)

 展望所からは、山頂にトーフ岩の奇岩が在る高盤岳(標高1711m)を望むことが出来た。

 そこから木の階段を登って、1700mの尾根上の潅木帯を15分程歩き、木製階段を降りると、枯存木などが神秘的な風景を醸し出す、小花之江河(こはなのえごう:注4 標高1620m)に、そして、10分後には花之江河(はなのえごう:注4 標高1600m)に到着した。(8時40分)

 花之江河は小花之江河と同様の庭園風湿原で、淀川登山口と宮之浦岳のほぼ中間地点にあると同時に、各歩道の集合地点でもあり、左側には栗生歩道と湯泊歩道。右側には、宮之浦歩道と花之江河歩道がある。

 また、中央部には、天保15年(1845年 注4-1)、天然痘(注4-2)根絶の為建立された石の祠があり、前方には黒味岳が見渡せる。

 花之江河で小休止してから、右側の宮之浦歩道に入り、黒味岳分岐を通過して、ロープを伝って岩場を登り、木製の階段を上がった先は展望が開け、背後の黒味岳を一望できる投石平(なげしだいら)の花崗岩の露出帯に達する。(9時35分)

 ここは、淀川登山口からシャクナゲを見ることを目的に山に入る登山者が、折り返し地点の一つに設定する場所だそうだが特に興味は湧かない。

 小休止してから、投石岩屋からの急な登り坂を両手を使って登り切ると草原状のヤクシマササ帯となり、屋久島で最初に遭難した高倉氏の遭難碑を見て、安房岳、翁岳の西斜面の裾野の登り下りを繰り返し、急な岩場を過ぎれば、翁岳と宮之浦岳の鞍部に在る宮之浦岳に向かう最後の水場に出る。(10時35分)

 苔の上を流れるせせらぎを見ると水浴びしたい衝動にかられたが、水場なので我慢をして、前方に見える栗生岳の巨石を目当てに前進する。

 翁岳分岐を過ぎ、20分程で、巨岩の裏手に「くりお岳」の看板を見る。(11時)

 栗生岳は屋久島の三岳(御岳)の一峰で、看板の矢印に従い岩場に向かうと、岩の隙間に一品法壽大権現を祀るが安置されていたので、般若心経を唱えてから次に進む。

 ここから、再び急登りになり、一旦平地に出て、さらに登ると宮之浦岳西峰(注5)。ここが、九州最高峰宮之浦岳山頂。(11時20分)

 喜びもつかの間、雨が・・・大雨が降り出した。

 山頂には、淀川小屋で一緒だった、“京都の男性”が先着していた、暫くして、同じく淀川小屋を早朝に出発した“東京から来た女性2人・男性1人の大学生グループ”がやって来た。彼らは、黒味岳に寄ってから来たらしい。

 双方ともに、雨が止む気配が無いと判断してか「お先に」と云って先に進んで行った。

 自分は、山頂で昼食をするつもりであったが、大雨でそれも叶わず、雨合羽に傘を差して食パン2枚だけの食事をし、出発するかどうか迷っている時に、雨が止んで急に展望が開けてきた。

 360度のパノラマを堪能している最中に、淀川小屋を先に出発していた“東京の男子大学生”がややって来た。

“東京の男子大学生”は途中道に迷って遅くなったらしい。

“東京の男子大学生”と話をしている内に、展望が開けたのはつかの間で、霧が出てきて、一瞬にして真白の世界になってしまった。

 暫く山頂に滞在したが、霧は晴れず、出発する。(12時20分)

 ヤクザサの中を下ること15分で、焼野三叉路に到着。(12時35分)

焼野三叉路は、永田岳と新高塚小屋方面への分岐点で、左にとれば、永田岳を経て鹿之沢小屋から、永田歩道と花山歩道方面に行くことが出来る。

 当初、このコースを取る予定だったが、天候不順で雨も降って来たので、踏破実績のある宮之浦歩道に変更する。

 焼野三叉路から宮之浦歩道を下り、宮之浦川源流(大ゴルジュ帯)の稜線を辿ると巨岩石が露出した平石岩屋に着く。(13時05分)

 天気が良ければ、平石岩屋の東側の岩の上に出ると、宮之浦岳、永田岳、翁岳が眼前に見える筈だが、生憎の悪天候なので素通りし、シャクナゲ、ヤクザサが茂る幅の狭い稜線の登り降りを繰り返し、左に宮之浦川、右に安房川の源流を見て歩き、約50分で第二展望台。約30分で第一展望台などの小岩で小休止をし、約30分後にはヒメシャラの目立つ登山道の先に突然新高塚小屋が現れる。(15時)

 新高塚小屋(注6)の入口手前には、赤く艶のあるヒメシャラノの巨木が在り、水場にかけては板張りのテラスになっており、小屋の満員時は絶好のテント場になる。

 小屋には、青年4人と、淀川小屋で一緒だった“京都の男性”が居た。夕方までに、“東京から来た女性2人・男性1人の大学生グループ”と“東京の大学生”が到着した。

 昨夜の淀川小屋に続き2日連続禁酒、早目に就寝する。

注4:小花之江河・花之江河
小花之江河は標高約1620mに、花之江河は標高約1600mに在る日本最南端の高層泥炭湿原。 高層泥炭湿原は、雨水だけで涵養されている湿原で、植物が枯れても完全に分解せずに堆積し泥炭となって、ミズゴケが一面に生育し、ミズゴケの中からはコケスミレ、ヤクシマコオトギリなどの可憐な花が咲く。
注4-1:天保15年
天保15年は、12月1日(1845年1月8日)迄で、次の年号弘化元年は、12月2日(1845年1月9日)に改元される
注4-2:天然痘(疱瘡:ほうそう)
非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱を生じ、治癒しても瘢痕を残すことから、世界中で不治、悪魔の病気と恐れられてきた代表的な感染症
注5:宮之浦岳西峰
屋久島のほぼ中央に位置する九州最高峰。山頂一体はヤクザサに覆われ東西にピークを持つ双耳峰(そうじほう:一つの山で山頂(ピーク)が二つ並んでいる)。西の峰が1等三角点の本峰。
頂上西側の岩下には、一品法壽(宝珠)大権現(いっぽうほうじゅだいごんげん)が祀られ、宮之浦にある益救(やく)神社の奥の院として、周囲の集落から岳参り崇拝の山として崇められている。
注6:新高塚小屋
標高:1.460m、構造:木造、建築:平成3年、収容人員:40名。

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■海楽園キャンプ場


48日目:8月24日(水) 雨のち晴  (路線バス・バックで爆走)

 4時に“東京から来た女性2人・男性1人の大学生グループ”が出発。その後其々が雨の中を出発して行った。

 朝食後の定期便にトイレに行くが、トイレの中は真っ黒。よく見ると小さな虫がトイレの中を占領飛び廻っている。殺虫剤を持参していなかったので、蚊取り線香を焚いてから用便を済ましてから、7時10分に新高塚小屋を立つ。

 出発直前に雨が止んだ。一時間位で高塚山の鞍部に在る高塚小屋(注7)に着くが、前回宿泊したので素通りし、その先に在る休憩舎でコーヒータイム。(8時10分)

 この名も無い休憩舎はお気に入りの場所の1つで、機会があれば、テント泊をしたいと思っている。

 この休憩舎から坂を降りると、縄文杉テラスの下に出る。(8時50分)

 屋久島に入って目的の縄文杉に何度も対面したが、縄文杉は、深夜・早朝の観光客の居ない寂静の中で相対してこそ、その素晴らしさを実感できるのでは・・・本当は、縄文杉に手を触れ、耳を当て、その息遣いを感じたいが、実現不能になった現在、自分の中では以前より魅力が失せているので、今回はテラス脇から垣間見ただけで、テラス下の水場で水を補給してから次に進む。

 ここからが大変。縄文杉を見る為の観光客が団体で登ってくる。その都度脇に避けて、団体客が通り越す迄待つ。この繰り返し。

 やっと大株歩道入口に着いて、ほっとした途端、大雨が降って来た。(10時30分)

 トイレ内の休憩所で雨合羽を着用、暫く休憩してから出発。(10時50分)

 トロッコ道をひたすら歩き、楠川分れに到着。(11時50分)

 ここから、左に入って、白谷雲水峡経由で行こうか迷うが、この時期、荒川口か